ケアのジェンダー
Which gender does become to be "care giver"?
解説:池田光穂
ケアの倫理学とは、「ケアという実践活動の社会的属性(=社会的性格)が、ジェンダーにより不均等配分されているのではないかという議論の学問」のことである。
Mさんへ
チャンブリスという医療社会学者の『ケアの向こう側』(日看協出版会)のジェンダー 概念に言及したところをパラパラと読んでいたら、いつものよ うにギリガンやコールバーグらの所説を引いて〈ケアのジェンダー配分の不均等〉についての話がありました。
つまり、ケアへの配慮やエシックスは〈女性らしさ〉と関連のあるものか?という議論です。この有名な主張の代表格はネル・ノディングス(Nel Noddings, 1929- )『ケアリング』で、ケアと母性の結びつきを強調しているために母性主義としばしば呼ばれます(あるいは、ケア倫理の自然主義的アプローチ)。
フェミニストの抵抗(=ケアエシックスは男性社会が女性に「押し付けてきたもの」)と、ポストフェミ系のジェンダーに関わらず「ケアの倫理」を 称揚しようという二項対立に落とし所があるのでしょうが、なんとなくこれはつまらないと思います。むしろ、現実の社会原則では「ケアの倫理」を(とりわけ 男性が)批判しようとすると、看護業界からバッシングを喰らうということが、社会的事実であり、このことを批判の俎上に載せるべきではないかと思うので す?
だから、未だ議論されていない問題とは(gender of gift の捩りで)「ケアというものにジェンダーはあるのか?」ということなのではないかと思いますね。最初にこの思考実験にひとつの答えを出すとすると……(→ 「労働のジェンダー化」)
「ケアというものにジェンダーなどない、ケア実践する者にジェンダーがある。(ギリガンのように)ケアをみるものに女性の〈本質〉をみる錯認 は、ケアの本質をさぐろうとする時に、ケア実践をする者のジェンダーと関連づける、私たちの〈思考の癖〉に由来するのではないか?」
というものです。しかし、ケアは主体でなく実践ですから、その都度、プロセスとして構成されるものです。ケアは、その対象との関係の中で構成さ れ、その対象の変化や喪失により、その実践もまた変化してゆくわけです。ということは、実はこの議論の一番最初のところに戻って、ケアの倫理を引き出すよ うな、ケアの本質などはない、あるいはケアに本質(=クリニカルリアリティの中核をなすもの)があるとしても、その都度構成されるもので、ジェンダーに帰 着するような所有される属性ではないということです。
ただし、このような推論に至るには、やはり、奇妙な質問(あるいは思考実験)「ケアというものにジェンダーはあるのか?」の助けを借りなければ ならないのではないでしょうか? ターミナルケアの看護の議論に、ジェンダー属性をどのように位置づけるのかというのも重要なテーマであるということの確認のためのメモでした。
続きは「ケアの倫理」で、一緒に考えてみましょう
【練習問題】
次の画像は、衣服にある洗濯の方法のタグにまつわるジョークです。このオリジナルのタグが、なぜ、特定のジェンダーと役割を支持しているのか?なぜ、このような訂正が興味ふかいのか、みんなで解説してみましょう。
リンク
リンク
文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099