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バリにおける人間・時間・行為

文化の分析に関する考察:"Person, time, and conduct in Bali: an essay in cultural analysis", pp. 360-411

池田光穂

Person, time, and conduct in Bali: an essay in cultural analysis. New-Haven/Ct./USA 1966: Yale University Press: ed. by the Department of Southeast Asia Studies (distributor: Cellar Book Shop, Detroit/Mi./USA), (ISBN 0598551581; III, 85 pp.; caption title), in Clifford Geertz: The interpretation of cultures (1973)

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人間の思考はまったく社会的なものである(命題)。
思考とは根底において公の活動である——思考のおこなわれる場所は、屋敷、市場、 町の広場だ

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・文化的装置

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・バリ島人の観念は、西洋人にとって異常に発達している(ギアツにとっ てはそうではない?)

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【文化の研究】
・文化と社会構造、という分析概念。
・マルク・ブロック『歴 史家の仕事(metier d'historien)』——ルネサンスの豪商たちの頭の中を知りたければ、彼らが取り扱う商品のみならず、どのよ うな絵画を見、どのような書物を読んでいたのかを知らねばならない。臣下の君主に対する態度は、彼らの神への態度を知るべきだ。

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・市井の人の文化を知るには、ブロックがみているような人たちではな い、思考=公的活動を知る必要がある。

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・文化のパターンの研究は難しい

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・個々人の性格づけ
・象徴体系の歴史的構築性

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【同輩たち——先行者・同時代者・仲間・後継者】
・シュッツの業績は、シェーラー・ウェーバー・フッサールの知的伝統と、新大陸の、ジェームズ、ミード、デューイの伝統の融合にある。
・同輩たちを、先行者・同時代者・仲間・後継者の4つのカテゴリーにわけて解説していく(なかなかいいが、ジェンダ的区分がなく、男性中心的なのはいただ けない)

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・「仲間」

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・「同時代者」

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・「先行者」「後継者」

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【バリの人間規定に関する秩序】
・人間の標識の6種類:1)個人名、2)出生順位名、3)親族名称、4)テクノニーム、5)地位称号、6)公的称号。

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・個人名

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・出生順位名

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・親族名称

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・「要するに、バリの親族名称の体系は、個々人を直接具体的に接しあう ような関係の名称によってではなく主として分類的な名称によって、社会的相互作用における相手としてではなく社会的状況の諸領域を占めている人びととし て、捉えるのである」(314)

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・テクノニーム

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・「不変の状態」(ベイトソン)

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・地位称号

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・地位称号体系は純粋に威信体系。

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・あらゆる称号は神々に由来する

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・ヴァルナの4体系

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・テクノニームが使われない集落もある

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・公的称号

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・「精神的選定の教義」

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神々の世界は、もうひとつの公的領域

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【力の文化的三角形】
・「人びとが時間の推移について知らされる、あるいはむしろ自らそれについて知るい ろいろな方法が ある。たとえば季節の移り変り、月のみちかけ、植物の成長などを示すことによって時の推移がわか る。また、儀礼、農作業、家事労働などの定期的な周期による方法、特定の活動の準備や計画、すで に行なわれた活動の追憶や評価による方法、系譜を保持し、伝説を伝え、予言を行なうことなどによ る方法がある。なかんずく最も重要な方法の一つは、自分自身や自分の仲間が、生物学的に年をとっ ていく過程を認識することにより、つまり具体的な個々人の出生、成熟、衰弱、死去を認識すること によるものである。したがってこの過程をいかに見るかという見方は、人が時聞を経験する仕方に強 く影響する。人間であることは何かということに関する人びとの観念と、歴史の構造に 関する彼らの 観念との聞はたち切れない強い紳で結ばれている」(338)。

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・分類的暦と点的時間
・暦の概念

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・儀式、おびえ、クライマックスの欠如

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「毎 日接している人びとの(相対的)匿名化を維持し、対面関係に含まれる密接さを弱め、一言でいえば仲間を同時代者にするためには、彼らとの関係をかなり形式 化する必要がある。つまり、毎日接している人びとがそれぞれ誰であるかがわかる程度には緊密ではあるが、抱擁するほどには親しくないような、社会的な中程 度の距離において接しあうことが必要なのである。彼らは、いわば異邦人であると共に 友人でもある」(351)。

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「そのよさを感ずることは、こういう、社会生活の表面を丹念に磨きあげ ることの中に形を重んずる 繊細さという特色があるためにいっそう困難になる。これはわれわれの予想しなかった特色である。 形を重んずると共に繊細であるために(両者はまざりあっているが)、こういう点を自ら体験したこと のない人に理解させることは大変むずかしい。もし、遊戯性という語を気楽なものではなく、深刻に近い い意味に理解し、演劇性という語を自発的なものでなく、強制されるに近い意味に理解するなら、「遊び 戯的演劇性」という言葉がおそらくこれに最も近いだろう。バリ人の社会関係は、厳粛な遊戯である と共に作られた演劇なのである」(ギアーツ 1987:352)。

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352-353
「このことは、彼らの儀礼的な、また(同じことであるが)芸術的な生活 の中にもっともはっきりと見 られる。こういう生活の多くは、たしかに彼らの社会生活を画きだしていると共に、社会生活に対す るひな型でもある。日常の人間相互関係はたいへん儀礼的で、宗教活動は非常に日常的なので、一方 がどこから始まり、他方がどこで終るかを知ることは困難なくらいである。日常生活と宗教生活はと もに、バリの最も著名な文化の属性である芸術的傾向の表われなのである。念入りな寺院の祭儀の時 の華麗な行列、壮大な音楽劇,曲芸じみた踊り、おおげさな影絵芝居、遠回しの言い方、言いわけじ みた身振りなどはすべて同種のものである。礼儀作法は一種の舞踊であり、舞踊は一種の儀礼であり、 礼拝は一種の礼儀作法なのである。芸術と宗教といんぎんさはすべて表面の、工夫され、巧みに作ら れた状況を促進し、外観の形態を賞讃する。儀式がまるで霞(→他の漢字)のようにパリ人の生活をおおいつくして いる状態は、こういう外観の形態のたゆまない操作によるものであり、これは彼らが「遊び」と呼ん でいるものである」(ギアーツ 1987:352-353)。

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「バリ人の対人関係の型どられた状態、つまり儀式、技能、礼儀の融合状 態から、彼らの特殊な社会 性の最も基本的できわだった特色である徹底した審美主義が認識されるようになる。あらゆる社会的 行為は、何よりもまず神々を喜ばせるために、観衆を喜ばすために、他者を、自己を喜ばせるために 企てられている。それは徳行のためではなく、美しさのためなのである。寺院の供物やガムラン音楽 のように、いんぎんな振舞いは、美的行為であり、それだけで、清廉さ(または清廉さとわれわれが呼 ぶもの)ではなく、感受性を表わし、またそれを表わそうとするものである」(ギアーツ 1987:353)。

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354
「これらすべてのこと——日常生活が非常に儀式的であること、この儀式 性が社会的形態を真摯で、 念入りなほどに「もて遊ぶ」という形をとっていること、宗教、芸術、礼儀は、事物の作りあげた装 いに対する全体の文化的陶酔の方向の異なる表現にすぎないこと、したがって道徳はここでは基本に おいては美的であることから、バリ人の生活の情緒的側面の最も著しい(そして最もよく指摘されて いる)二つの特徴をいっそう正確に理解することができる。その二つの特徴の一つは、対人関係にお いて(まちがって)「恥」と呼ばれてきた特性に関する重要な感情であり、もう一つは、明確な完成を 行なうための宗教的、芸術的、政治的、経済的な集団活動の失敗、つまり(鋭くも)そのクライマックス の欠如」と呼ばれてきた点である。この二者のうちの第一のものは、人間に関する観念に直接た ち戻らせ、第二のものは、やはり直接時間の観念にたち戻らせる。このようにして、われわれの比喩 的な意味の三角形の各頂点は、バリ人の行動様式を、それが中で作動する理念的環境に結びつけるこ とになる」(ギアーツ 1987:354)。

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354-355
「「恥」の概念は、道徳的、感情的に隣接した「罪」の概念と共に文献で はよく論じられており、文 化全体が時には「恥の文化」として捉えられたりした。これはいくつかの文化に、「名誉」、「評判」 などといったことに強い関心が存在すると思われたからである。こういう文化には、「罪」とか「内的 価値」どというものへの関心——これは「罪の文化」に顕著であるとされている——が欠けている とされる。こういう一般的な分類の有効性は別として、また比較心理学的動態の複雑な問題がこれに 含まれていることはさておき、こういう考察で、「恥」という語から、この語が英語でもっている結 局最も普通の意味——「罪の意識」——を取り去って、この語を罪という意味l——「何か非難すべき ことを行なったという事実または感情」——から完全に分離させることはむずかしいことは明らかで ある。普通、両者の対比は、「恥」はあやまちが一般に知られたような状態に(もっとも、もっぱらと はいえないが)適用される傾向があるという事実に、また「罪」はあやまちが知られていない状態に (同じようにもっぱらとはいえないが)適用される傾向があるという事実に依拠している。恥はあやま ちがみつかった後の恥辱と不面目の感情であり、罪はまだみつからないあやまちに伴う秘密の悪行の 感情である。このように、恥と罪は、われわれの倫理的、心理的語棄の中で決してまったく同じでは ないが、両者はともに同じ種類の語であり、恥は罪の表面にあり、罪は恥の内面にあるといった関係 である」(ギアーツ 1987:354-355)。

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355
「しかしバリ人の「恥」——つまり恥と訳されているもの(レク lek)は、表面に表われるまたは 表われないあやまちとは関係がない。また、自白され、あるいは隠されたあやまちとも、単に想像さ れ、あるいは実際に犯したあやまちとも関係がない。そのことは、バリ人が罪も恥も感じないという のではないし、彼らは時聞が経過し、人びとが固有の個々人であることを知らないのではないように、 良心も誇りももたないというわけでもない。そのことは、罪も恥も、バリ人の対人行動の情意的規制 要因としてはそれほど重要でないということ、そういう規制要因の中ではるかに最も重要な、しかも/ バリの文化の中で最も強調されるレクというものはしたがって「恥」と訳すべきではなく、われわれ の演劇の概念にしたがうなら、「舞台に出る前のおびえ」と訳すべきであるということなのである。バリ 人の対面関係の中で支配的な感情をなすものはあやまちを犯したという感情でも、あやまちが発覚 した後の屈辱感でもない。それは、まったく逆に、社会的相互関係を予想する時の(そして相互関係を 実際に行なう前の)、ある揚合にはほとんどからだが麻痔してしまうほどになるが、漠然とした、普通 は弱い心配である。この心配な気持は、必要とされる優雅さでやりとげることができないのではない かという、常に持続しているが、たいていは、わずかないらいらの感情である」(ギアーツ 1987:355-356)。

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「バリ人の社会的行動の中でもう一つの顕著な性格である「クライマック スの欠如」は、非常にきわ だっており、たいへん奇妙であるため、具体的な現象について詳述しないとよく分らないと思われる。 これは、社会的活動が明確な達成を行なわないし、または、達成をするように許されていないという ことである。たしかに喧嘩がおこり、和解し、ときには喧嘩が長びいたりするが、絶交するような状 態にまで発展することは稀である。もめごとは決断が迫られるほどに悪化せず、まわりの状況の発展 だけで解決するだろうとか、うまくいけば簡単に消滅してしまうだろうと期待しながら、争いをなだ め、やわらげるのである。個々の出会いからなっている。日常生活は、それだけで完結した、こうい う個々の出会いにおいては何かが起こったり、起こらなかったり、意図が実現したり、実現しなかっ たり、仕事ができあがったり、仕上がらなかったりする。何かが起こらない時、つまり何かをやろう とする意図がおさえられたり、仕事ができなかったりした時は、初めからあらためて別の機会にやり なおす揚合もあり、あるいはやめてしまうこともある。美的な演技が始まり、進行し(人が続けて見る ことなく、立ち去ったり、戻つできたり、一時しキべったり、しばらくの間眠ったり、またしばらく 我を忘れて見たりする問、しばしば非常に長いあいだ続けられてそして止まる。こういうもよおしも のは、パレードのように中心がなく、祭りの行列のように方向がない。儀礼は、寺院の祝祭における ように、主として、準備をし、あとかたづけをするということからなっているように思われる。儀式 の中心は祭壇に降臨する神々への礼拝であるが、それは意図的にぽかされ、結局は物理的に非常に密 接であるが社会的にはきわめて遠い名の知れない故人の追想であり、彼らの束の間のためらいがちな 対面であるように時には思われるほどである。儀式の中心はまた、迎えと別れを告げることにあり、 前の準備を楽しみ、また後の余韻を楽しむことでもある。それは最も儀式的に緩和され、儀礼的にか こまれた、彼ら自身の聖なる存在との道過がともなう。ランダとバロンのように劇的性格がいっそう 強い儀式においても、恐ろしい魔女(ランダ)とおどけた獅子(バロン)との戦いはまったく未解決の状態 で終る。それは神秘的な、形而上の、精神的な引分けに終り、すべてが以前のままで何も変らないの である。そしてこれを見る者——とにかく外国人の観察者——は、何か決定的なことが起こりそうだ が決して何も起こらなかったという感情に包まれるのである」(ギアーツ 1987:357-359)。

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359
「要するに、出来事は祭日がめぐってくるように起こる。つまりそれは表 われ、消え、また現われる。 それぞれが別個のもので、それ自体で自足し、事物の固定した秩序の特定の現われである。社会活動 は非連続的な演技であり、ある方向に向つてなされるものではなく、解決に向って行なわれるもので もない。時間が点的であるように、生活も点に基づいているのだ。それは秩序がないのではなく、ち ょうど日々のように、一定の質に整序されている。バリ人の社会生活にクライマックスが欠けている のは、それが動きのない現在、方向のない現在に起こるからである。あるいは、バリ人の時間に動き が欠けているのは、バリ人の社会生活にクライマックスが欠けているからだということも同時に正し いのである。両者の一方は他方を暗示し、両者とも、バリ人の人間の現在化を暗示し、人間の現在化 によって暗示される。仲間に関する認知、歴史の経験、集団生活の性格ll 時にはエトスと呼ばれて きたもの——は明確な論理によってつながれている。しかしその論理は三段論法的ではなく、社会的 なのである」(ギアーツ 1987:359)。

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359
・文化の統合、葛藤、変化
「形式的な推論の原理について、また諸事実間および出来事間の納得のいく関連についていう場合、 「論理」という語はそぐわない言葉である。文化の分析の揚合ほどこの語が不適当な場合はない。意 味のある諸形態を扱うさいには、形態間の関係を内在的なものとみて、たがいにある種の内的な関係 (または無関係)からなっているとみる誘惑にかられる。したがって、文化の統合は意 味の調和として、 文化の変化は意味の不安定性として、文化の葛藤は意味の不適合として論じられる。この場合、たと えば、甘さが砂糖の属性であり、こわれやすさがガラスの属性であるように、調和、不安定、不適合 が意味そのものの属性であるということが合意されている」(ギアーツ 1987:359-360)。
・文化を「論理的に説明すること」の不可能性。
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360
「ところが、こういう属性を、甘さとかこわれやすさと同じように捉えよ うとすると、それは期待さ れるように「論理的に」は作用しない。調和、不安定、不適合の構成要素をさぐってみると、それら が属性であるものの中には見出されない。象徴的形態の調和内容、安定性の度合い、不適合の指標を 発見するために、象徴形態に何らかの文化的分析を試みてみることはできないのだ。われわれは、い くつかの象徴形態が、事実何らかの形で共存し、変化し、あるいはたがいに妨げあっているかどうか を知ることができるに過ぎないのである。これは砂糖が甘いかどうかを知るために砂糖を味わってみ ることに似ており、また、ガラスがこわれやすいかどうかを知るためにこれを落としてみるようなもの である。これは、砂糖の化学構成や、ガラスの物理構造を研究するのとは異なるのである。その理由 は、いうまでもなく、意味というものは、それをそなえている物体、行為、過程などに本来含まれて いるものではなく、デュルケム、ウェーバーその他の人たちが力説したように、それらに与えらた ものであるということにある。したがって、その属性の説明は、意味を与えるもの、つまり社会に生 活している人びとに求めなければならない。ジョゼフ・レヴェンソン(Joseph Levenson)の言葉を借 りれば、思考の研究は、考える人びとの研究である。人びとは彼らの何か特別な揚所で 考えるのでは なく、他のすべてのことも行なう同じ揚所—— 社会的世界——において考える。このために、文化の 統合、変化、葛藤の性質はその中に探求されるべきである。つまり象徴の示す通りに人びとが知覚し、 感じ、考え、判断し、行なうときの個々人とその集団の経験の中に求めるべきなのである」(ギアーツ 1987:360-361)。

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・「文化体系の「論理」をピタゴラス流の「意味の領域」の中に見出す希 望を捨てることは、それをみつける望みを完全に放棄することではない。それは、彼らの生活に象徴を与えているもの、すなわちそれが実際に用いられているこ とにわれわれの注意を向けることなのである」(ギアーツ 1987:361)。

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「人びとを規定するためのバリの象徴構造(名前、親族名称、テクノニー ム、称号など)を、時間を特 色づける象徴構造(順列的な暦など)に結びつけるもの、および両方の象徴構造を、対人行動を整序す るためのバリの象徴構造(芸術、儀礼、優雅さなど)に結びつけるものは、こういう象徴構造がそれを 用いる人びとの知覚に対して与える影響力の相互作用なのである。それは彼らの経験の影響がたがい に作用しあい強化しあう仕方なのである。仲間を「同時代化する」傾向は、生物学的な年をとるとい う感覚を鈍らせる。生物学的な年をとるという感覚の鈍化は、時間の流れの感覚の主な要因の一つを 取り去り、時間の流れの感覚が少なくなることは、対人間のできごとに挿話的性格を与える。儀式的 に色づけられた人間の相互作用は他人を標準的に捉える知覚を持続させ、他人を標準的に捉える知覚 は、社会の「静止状態」という捉え方を助長する。そして社会の静止状態という捉え方は時間の分類 的知覚を助長することになる。このように、時間の観念から出発して次ぎ次ぎに進み、どちらの方向 に行っても同じ円をまわるのである。この円は、とぎれない円であるが、厳密な意味では閉じた円で はない。というのは、上述の経験の様式はいずれも文化の重点としての支配的な傾向以上のものでは ないからである。また、抑圧されている方の側面も、生活の全体的状況の中に同じように存在してい て、その文化的表現がないわけではなく、支配的傾向と共存し、支配的傾向に反発さえするからであ・ る。それでもなお、上述の経験の諸様式は主要なものであり、たがいに強めあうのである。それらは また持続している。永続的でも完全なものでもない、このような状態に対して「文化の統合」という 概念——ウェーバーが「意味連関」と呼んだもの——を正しく用いることができるのである」(ギアーツ 1987:361-362)。

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「こういう見方によれば、文化の統合は、人間の日常生活とは別個のそれ自体の論理的世界の中に 独自の現象としては捉えられないのである。だが、文化の統合は、またすべてを包みこんだ、隅々まで およぶ無限の統合を意味しないことの方がいっそう重要である。まず第一に、前述のように、主要 なパターンに対抗するパターンが二次的なものとして存在するが、それにも拘らず、重要な主題は、 われわれが知るかぎりどんな文化にも存在する。普通の、まったく非へーゲル的な方法で、文化自体 を否定する要素は、多かれ少なかれ、その文化の中に含まれているのである。たとえばバリ人につい てみると、彼らの妖術者に関する信仰(あるいは現象学的にいえば妖術者に関する諸経験)をバリ人 の人格に関する信仰といえるものの転倒として研究し、また、彼らのトランス(脱魂)行動を彼らの礼 儀作法にかなったふるまいを転倒したものとして検討してみることは、この点でたいへん示唆を与え、 当面の考察に深みと多様性を加えることになろう。広く知られた文化の特徴づけに対するよく知られ たいくつかの批判——「調和を愛好する」プエブロ族の中にも猜疑心や派閥があることをあばきだし、 競争のさかんなクワキウトル族に「愛想のよい側面」があることをあきらかにしたこと——は、本質的 に、そういう主題の存在と重要性を指摘したことにあるのである」(ギアーツ 1987:363)。

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文 化の非連続性と社会の解体——非常に安定した社会においても、文化の非連続性に由来する—— は文化の統合と同様に存在するのである。文化は縫い目のない織物のようなものだという、今なお人 類学に普及している考え方は、文化は断片のよせ集まりのようなものだという古い見解——これは 1930年代のマリノフスキーの革命的見解ののち、やや過度の熱狂によって前者の考え方と入れ代わっ た——と同じように未証明の前提に基づく誤謬(petitio principii; 論点先取)なのである。体系が体系であるた めには、すみずみまで完全に関連しあう必要は必ずしもない。体系は緊密に連関していることもある し、ゆるく関連していることもある。体系がどのように正しく統合しているかということは経験的な 問題である。変数間の関係におけるように、経験の様式の間の関連を確認するためには、単にそれを 想定するのでなしに、それを見出すこと(そしてそれを見出す方法をみつけること)が必要なのである。 複雑であると共に、完全に結合している体系は、どんな文化もそうであるように、機能することがで きないと信じさせる強力な理論的理由がある。このために、文化分析の問題は、体系内の連関性と同 じく自立性を、結びつきと共にへだたりを明らかにしていくことである。文化組織に関する正しい イメージ——もしそのイメージを持たなければならないとすれば——は、クモの巣の網のようなもので もなければ、また砂の堆積といったものでもなく、それはむしろタコのようなものである。タコの足 はだいたい分離しており、その神経系統はそれぞれの足やタコの頭脳とみなされるものとも不充分に しか関連していない。しかもそれにも拘らず、動きまわることができ、自分を生命力のある、いくら かぶざまな存在として少なくとも当分のあいだ維持していくことができる」(ギアーツ 1987:364-365)。

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「文化の分析は「文化の基本的複合体」に対する勇ましい「全体的」な突 撃を目指す のではなく、さりとて、「諸秩序の秩序」——そこからより限界のある複合体が単なる演揮として見ら れるような——を作りだすことでもない。それは意味のある象徴、意味のある象徴の群れ、意味ある 象徴の群れの群れ——知覚と感情と理解の物的媒体——を探り、さらにそれらの形成に内在する人間 の経験の基底にある規則性の内容を探り出すことになるのである。活用できる文化の理論に到達すべ きであるとすれば、それは直接観察しうる思考様式から出発して、まずその明確な種類に向い、さら にいっそう変化に富んだ、それほど緊密に統合されていないが秩序ある「タコのような」思考様式の 体系に向い、部分的な統合と部分的な不適合と部分的自立性との集合体を構成することによって達成 すべきである」(ギアーツ 1987:365-366)。

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「バリ人の人間観、時間経験、あるいはバリ人の礼儀作法の観念などを崩 すようなことが発展すると、 そういう発展はパリ文化の多くを変形させる潜在カを含んでいるように思われる。バリ人の人間観な どは、そういう革命的変化を起こす唯一の領域ではない(バリ人の威信の観念とその基盤を崩すもの も、少なくとも同じように強力である)。しかし人間観その他のものは確かに最も重要なものに属し ている。かりに、バリ人が、相互の匿名化の少ない見解や、いっそう力動的な時間の感覚あるいは社 会的相互作用のよりインフォーマルな様式を発展させるとすれば、バリ人の生活の中で、すべてでは ないにしても非常に多くが、変化を余儀なくされることになるだろう。それは、これらの変化の中の 一つは他の変化をただちに直接意味し、これら三つの要素は、異なる方法と違った脈絡において、 バリ人の生活の形成に本質的な役割を果たしているからにほかならない」(ギアーツ 1987:366-367)。

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「上述のことはすべてたしかに単なる思弁であり(もっとも、独立後の15年間の出来事の出来事を見れば、そ れはまったく根拠のない思弁ではないてバリ人の人問、時間、行為に関する認識が、いつ、どのよう に、どのくらいの速さで、またどんな順序で変っていくかということは、全般的には、まったく予測 できないわけではないにしても、詳細については充分に予測できない。しかしバリ人の上述の認識が 変化するとき——変化はたしかであると思われ、事実すでに開始している——文化の概念を活動力と し、思考を他の公的現象と同様な影響を持つ公的現象としてここで展開した分析は、変化の概要、動 態——より重要なものである——、変化の社会的意味あいを発見する助けになるはずである。この種 の分析は、他の形態や他の成果についても、他の揚所でも、役に立たないとは思われないのである」(ギアーツ 1987:369)。










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