Sycopated temporality
シンコペーション(sycopation)とは、同じ音高で強い拍子から弱い拍子へ(あるいは、その逆に)強弱(アクセント)の位置が転移することを意味する。
杉浦勉らは、ポール・ギルロイの『ブラック・アトランティック』の議論をうけて、太平洋をはさんで、黒人音楽が両岸の間の解釈共同体(=演奏を通して音楽経験を創造したり、音楽を聞いたりダンスをして消費したりする人たちの営み) を共有する「オルターナティブな公共圏」を構築していることを指摘している。それがなぜ形容詞のつかない公共圏でないのかというのは、(1)大西洋の両岸 にわかれる空間的分断にもかかわらず、音楽そのものがエージェンシーなり、演奏家の移動、または、近年ではインターネットを経由する音楽やダンス様式の急 速な拡大や消費などがみられること、(2)公共性といっても国民国家のように中央政府や為政者のリーダーのように「公共性の正統性」に関するものが、リア ルな公共性をもちにくいことである。言い方を変えると、ブラック・アトランティックは、演奏家の移動、さまざまな音楽形式の流用や交換、市場の隆盛、ま た、人種の違いを超えた拡散や終焉など、インターネット以前から《ネットワーク的な文化生産と消費》がすでに進んでいたことを示唆する。
ジェームズ・クリフォードの「ディアスポラ」論によると、 自発的/非自発的を問わず、ディアスポラがもつ時間性は(temporality)、そうでない人たちがもつ時間性と異なるという。後者は、「国民国家」 という想像の共同体の住民は、単線的で進歩主義的でかつ「歴史の切断」のない時間性に生きている。それに対して、ディアスポラは、国民国家に包摂されるプ ロセスのなかで、移民元の社会と時間的にも文化的にも「切断」されて、同化プロセスのなかで「期待されるマイノリティ像」を表象することを期待されてい る。もし、同化を拒んだり、期待されないマイノリティになることは、変則(アノマリー)に分類されてしまう。
国民国家の多数派は、シンコペートされない時間性のなかで生きている。シンコペートとは強弱の転移のことをさすわけであるが、まさにディアスポ
ラがもつ歴史性や空間意識は、強弱が転移されたなかで、あるいは、強弱を転移することの中で生きてることになる。ディアスポラは、そのような多数派が知り
得ないこともある、過去の暴力性であったり、未来へのユートピアに繋がっている。
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