ディアスポラ的批判について考えるために:クリフォード「ディアスポラ」ノート
On Diaspora Critique: notes of James Clifford's "Diasporas," 1994
ディアスポラ的批判について考えるために:クリフォード「ディアスポラ」ノート
注釈
- このノートは、クリフォード、J.「ディアスポラ」『ルーツ:20世紀後期の旅と翻訳』毛利嘉孝ほか訳、Pp.277-314、月曜社(James Clifford, 1994. Diasporas. Cultural Anthropology, Vol. 9, No.3, pp. 302-338.:これは後にJames Clifford, 1997. Routes: Travel and translation in the late twentieth century. Cambridge: Harvard University Press.に再掲されたものであり翻訳は同書に準拠している)、からの抜書です。
- 抜書には誤字脱字、加筆、改変などが含まれるので、論文等に引用される際は、必ず原典に当たってください(文責:池田光穂)
関連頁:先住民・エスニックマイノリティのディアスポラとグローバリゼー ション
◎諸問題の設定
-「ディアスポラという用語を今日、用いるとき、何が、政治的、学問的に問題となっているのかを問う」(277)
-「旅する用語」(277)——【コメント】ディアスポラする用語というRogers Brubaker, 2005 の所論との比較
-「ディアスポラの言説は、転地の経験や、故郷から離れた場にホームを構築するという経験を、どのように表象する」か?(277)
-ディアスポラの「言説は、どのような経験を拒絶し、置き換え、周緑化するのだろうか?」(277)
-ディアスポラの「言説は、いくつもの相異なる固有の歴史に根源/経路をもちつつも、どうやって比較の枠組みを獲得するのだろうか?」 (277)
◎課題として:
-「グローバルな歴史の力につねに巻きこまれているディアスポラのヴィジョンの政治的両義性、ユートピア/ディストピアの緊張関係を検討す る」(277)
「ここで主張されるのは現代のディアスポラ的実践は、国民国家やグローバルな資本主義の付随的な現象にとどめておくことはできないというこ と」(277)
「そういった国民国家やグローバルな資本主義の構造に規定され、制限されながらも、ディアスポラ的実践はそれらを乗り越え、批判する」 (277)
「この論考は、極端なかたちで、ときにはユートピア的にディアスポラ研究の領域を地図化し、その問題を定義しようとする」(277)
「北米的バイアス」=「たとえば同化のイデオロギー(そしてその不均等な達成)に依拠する多元主義国家を、ときには前提にしている」 (278)
◎翻訳可能性
「国民国家は、つねにある程度、多様性を統合しなければならないが、そのような条件を前提にする必要はない。したがって、「マイノリティ」 「移民」「民族」などの用語は、ある読者にとってはあきらかにローカルな響きをもつことになるだろう。ローカルだが、それは翻訳しうる」(278)
■ディアスポラを追跡する
◎多義的な、トランスナショナルな移動を指し示す共同体(コミュニティ)としてのディアスポラ 「『ディアスポラ』創刊号の編集者序文で、ハチグ・トーロリャンは、「ディアスポラは、トランスナショナルな契機の範例となる共同体である」と述べてい る。しかし彼は、「トランスナショナル研究」に捧げられるその新たな雑誌のなかで、ディアスポラが特権化されることはないと、つけくわえている。そしてま た「かつてユダヤ人、ギリシャ人、アルメニア人の離散を表していたその用語が、移民、国籍離脱者、難民、出稼ぎ労働者、亡命者コミュニティ、外国人コミュ ニティ、エスニック・コミュニティといった言葉を含む、より広範な意味論上の領域と、いまでは意味を共有している」という(Tololian 1991:4-5)。(278)
Tololian, Khachig. 1991 The Nation State and its Others: In Lieu of a Preface. Diaspora 1 (1 ):3-7.
◎ロジャー・ローズの引用から(279)
「アギリージャの人びとの移住を、明確に異なった社会関係をもつ、まったく別の二つのコミュニティのあいだの移動であると考えることは、適 切ではなくなった。こんにち、アギリージャの人びとが見いだしたのは、彼らのもっとも大事な親族や友人が数百、数千マイル彼方にいながら、自分たちのすぐ そばにいるかのように住んでいるということだ。さらに重要なのは、アギリージャの人びとは、しばしばこのように空間的に拡張された関係を、隣人との関係の ように活発かつ効果的に維持できることである。この点では、電話の普及がとくに重要だった。というのも、それによって人びとは離れた場所からでも定期的に 連絡をとることができるだけでなく、意志決定に貢献したり、家族のイベントに参加することができるからである」(Rouse 1991:13)。
Rouse, Roger. 1991 Mexican Migration and the Social Space of Postmodernism. Diaspora 1 (l): 8-23.
◎トランスナショナルなパラダイム
「カリフォルニアとミチョアカンのあいだを移動するアギリージャの人びとは、ディアスポラの状態にはない。しかし、彼らの転地の実践や文化 には、ディアスポラ的次元があるだろう。とくにレッドウッド市(米国内の移住先)に長期間、あるいは永続的に居住する人びとにとってはそうである。全般的 にいって、二つボーダーの場所をまたぐアギリージャの人びとは、”境界”、すなわち、規制されながらも転覆的である横断の場に住んでいる。ローズはこのト ランスナショナルなパラダイムを一貫して主張する」(279)
◎ディアスポラの時空間圧縮の現在
「かつて広大な海や政治的障壁によって祖国から引き離され四散した人びとは、現代の輸送・コミュニケーションの技術、労働移住によって交互 往来が可能となったために、自分たちが祖国との境界的な関係にあることを急速に理解しはじめた。飛行機、電話、カセットテープ、小型ビデオカメラ、そして 流動的な労働市場によって、世界中の場所聞の距離は縮小され、合法的、非合法的な相互交通が容易になった」(280)
「トランスナショナルなアイデンティティ形成を説明しようとする私たちの試みにおいては、排他主義的なパラダイムを[もはや]維持すること は困難である」(280)
◎ウィリアム・サフラン批判(280-281)
「ここで重要な比較研究を開始するにあたって、ディアスポラ的現象をひとつの集団にあまりにも密接に同一化する定義を構築することについて の危機感だ。実際に、ユダヤ人の歴史的経験の多く部分は、サフランによる基準の最後の三つ、すなわち、確定した領土をもつ祖国との強い結びつきや、文字通 りの帰還への欲望にはあてはまらない。サフラン自身、ユダヤ人にとっての「帰郷」の概念はしばしば現在のディストピアに対する終末論的、あるいはユートピ ア的投影であることを後に述べている」(281)
Safran, William. 1991 Diasporas in Modem Societies: Myths of Homeland and Return. Diaspora 1(1):83-99.
◎ディアスポラ概念の理念型化への警戒
「「理念型」に訴えることによって「ディアスポラ」のような用語の実際的な定義を構築することについては慎重であるべきだろう。なぜならそ の結果、基本の六つの特徴の二つしかもたない、あるいは三つ、あるいは四つもっているなどということで、ある集団がどの程度ディスポラ的であるかを計るこ とになるからだ」(282)
【コメント】クリフォードはリサ・ロウが批判する、ディアスポラの比較研究=M・ウェーバー=アイデンティティの固定化という見方から距離 をおいているようだ。あるいは「帰郷」の概念はさまざまな希望と失望の投影であり、(類型的比較の前に)具体的な事象の分析が必要であることを示唆してい る。
◎継承ではなく共鳴のメタファー
「ジョナサン・ボーヤリンが指摘するように、ユダヤ人の経験はしばしば、「多極的な再ディアスポラ化の経験、歴史的な記憶のなかで必ずしも 相互に継承されるとはかぎらないが、前後に共鳴するもの」をともなうという(ジョナサン・ボーヤリンとの一九九三年一O月三日の個人的対話から)」 (282)
◎ではどうすればよいのか?
「ユダヤ人の(そしてギリシャ人、アルメニア人の)ディアスポラは、新たなグローバルな条件のなかで旅をし、異種混滑化するひとつの言説の ためのゆるやかな出発点だと考えることができる。良かれ悪しかれ、ディアスポラ言説は広く流用されている。それは世界に解き放たれている。なぜならそれは 脱植民地化や移住の増加、グローバルなコミュニケーション、輸送などと連関しているからだ——それらは、国家内部、あるいは国境を越えた多地域的な所属や 居住、旅をうながす一連の現象にともなっている。サフランよりも多元的な定義(Needham 1975)であれば、彼の六つの特徴を保持しながら、他の特徴をくわえられるかもしれない」(283)
Needham, Rodney. 1975. Polythetic Classification. Man 10:349-369.
◎ディアスポラ研究の方向性と多元的フィールドのすすめ
「ディアスポラ的特徴の実際的な定義がどうあれ、すべての点でその歴史全体にわたって合致するような社会はありえないだろう。そして、ディ アスポラ言説は、翻訳され採用されるとき必然的に修正されるだろう。…こうした歴史、すなわち、旅や故郷、記憶、そしてトランスナショナルな結びつきのこ うした節合形態は、いかにしてデイアスポラ言説を流用し、ズラするのだろうか?転地や結びつきについての異なったディアスポラ的地図は、家族的類似、つま り共有される要素にもとづいて比較されうる。しかし、それらの要素のいかなる一部分も、ディアスポラ言説にとって本質的なものとして定義されることはな い。多元的フィールドこそ、現代のディアスポラ的形態の範囲を(管理するよりも)追跡するためには、もっとも先導的な役割をはたすように思われる」 (283)
■ディアスポラの境界
◎先住民研究との関連付け
「強調すべきは、ここで問題となる関係論的な位置づけとは、ディアスポラを他と完全に区別するのではなく、むしろ絡みあう緊張関係のプロセ スとして見るということだ。そこでディアスポラは、(1)国民国家の規範と、(2)「部族の」人びとによる土着的主張、とくに先住民権などオートクサナス の土地に根ざす主張と絡みあうと同時に、それらとは異なるものとして定義される」(p.284)
◎国民国家と対比するディアスポラ
「領土と時間を共有する国民国家は、ディアスポラ的な帰属感によって横断され、程度の差はあれ転覆される」(284)
「転地と暴力的な喪失という集団の歴史が中心となってアイデンティティ感覚が形成された人びとは、新たな国民的コミュニティヘ溶けこむこと によっては「癒され」ないのである。また、そうした人びとがいまもつづく構造的な偏見の犠牲者である場合には、なおさらそうである。ディアスポラ・アイデ ンティティの肯定的な節合は、国民国家の規範的な領土や時間(の外部へと拡がっていくのである」(284)
◎政治的編制としての国民形成
「ディアスポラ文化はつねに反ナショナリズム的なのだろうか?それ自体もまた国家形成への熱望をもつのではないだろうか?同化への抵抗が別 の国民を再生させるということもありうる。それは、あるときどこかで失われたが、まさにこの瞬間の政治的編成としては強力な国民である」(284)
◎ディアスポラ経験が「公共圏」を生む可能性
「その純血性のイデオロギーがどのようなものであろうと、ディアスポラ的な文化はけっして実際には、排他的なナショナリズムに陥ることはな い。ディアスポラ的な文化形態は、多元的な帰属感から構築されるトランスナショナルなネットワークのなかに配され、また、ホスト固とその規範に適応し、同 時に抵抗するような実践をコード化する。……ディアスポラ言説は、ギルロイ(Gilroy 1987)が描くところのもうひとつの公共圏を構築するために、根源 roots と経路 routes をともに分節化し、あるいはそれらに折り合いをつけさせる。このもうひとつの公共圏とは、国民的な時間/空間の内部において差異を保持しながら生きていく ために、その外部でアイデンティティを形成しつづけるような共同体意識と結束の形態である。ディアスポラ文化は分離主義的ではないが、分離主義的、民族統 一主義的な契機をはらんでいるかもしれない」(285)。
Gilroy, Paul. 1987 There Ain't No Black in the Union Jack: The Cultural Politics of Race and Nation. London: Hutchinson.
◎近代国家言説に対峙する
「ディアスポラ言説によって節合されたそれぞれ独自のコスモポリタニズムは、このような国民国家/同化主義的イデオロギーと構成的な緊張関 係にあるが、それは他方で、土着的な主張、とりわけ土地に根ざした主張とも緊張関係をもつ。/これらの土着的な主張・土地に根ざした主張は、近代の国民国 家のヘゲモニーに別の方法で異議を唱える。主権と「先住民族性」をめぐる部族の主張や第四世界の主張は、さまざまな旅や移住の歴史を前面に出すことはな い。しかし、旅や移住の歴史もまた、土着的な歴史的経験の一部であるかもしれない。先住権をめぐるこうした主張は、居住の継続性、土着性、またしばしばそ の土地との「自然な」つながりを強調する。したがって、転地によって構成されているディアスポラ文化は、政治的原理に関してそうした主張に抵抗するかもし れない——たとえば、反シオニズム的なユダヤ人の著述におけるように。あるいは、「立ち上がれ」そして「パビロンのもとで歌え」という黒人の訓令のよう に」(285-286)
◎土着化のための時間性
「ディアスポラは、土着主義的なアイデンティティ編成と、現実的で、ときには原理的な緊張関係にある」(286)
「「土着」になるためには、どれほどの時聞が必要なのだろうか?「原初的な」居住者(そういった人びと自身、しばしば先行する集団にとって 代わっているのだが)と、後の移民とのあいだにあまりにも厳密な線を引くことは、非歴史主義という危険を冒すことになる。しかし、こうした条件すべてがそ ろったとしても、記録に残された歴史以前からの、ある領域に居住してきた人びとによる政治的正統性の主張と、蒸気船や飛行機でやってきた人びとによる主張 とがまったく異なった原理から成り立っていることは明らかである」(286)
◎先住民のトランスナショナルな同盟について
「「部族の」窮状とは、ある歴史的状況のもとではディアスポラ的である。たとえば、ディアスポラが剥奪、転地、適応などの歴史的経験を共有 する人びとの分散されたネットワークである以上、第四世界の諸民族によって現在形成されつつあるトランスナショナルな同盟にはディアスポラ的要素が含まれ ていることになる。土地への「先住性」の主張、殺裁や周縁性といった共通の歴史によって結びつけられることで、これらの同盟はしばしば根源的な場所への帰 還というディアスポラ主義的ヴィジョンを展開する。その根源的な場所とは、一般に、自然や神性、母なる大地、祖先というヴィジョンのなかで節合される土地 である」(286)
◎部族(トライブ)というカテゴリー化
「「部族(トライブ)」というカテゴリーは、そもそも略奪をおこなう危険な「群れ(バンド)」から定住インディアンを区別するために法のな かで生みだされたが、それはローカル主義や土地に根づいていることに高い価値を与える。したがって、祖国から離れて暮らす成員があまりにも多い部族は、そ の政治的/文化的地位を主張することが困難な場合がある。たとえば、一九七八年、裁判において、継続的な「部族的」アイデンティティを確立することができ なかったマシュピーがそうである(Clifford 1988:277-346)」(287)
Clifford, James. 1988 The Predicament of Culture. Cambridge: Harvard University Press.
◎すべてのコミュニティには構造化された旅の回路がある
「ひとつの離散した民族の存在を主張することが重要になるとき、ディアスポラという言葉が部族の生活のひとつの契機、あるいはひとつの次元 として機能しはじめるのだ。すべてのコミュニティは、もっとも地域に根ざしているものでさえ、「故郷にいる」成員と「離れた」成員とを結びつけるような構 造化された旅の回路を保持している。マスコミュニケーション、グローバリゼーション、ポストコロニアリズムそしてネオコロニアリズムといった変わりゆく条 件のもと、これらの回路は内的・外的なダイナミクスにしたがって選択的に再構築され、再経路化されるのである」(287)
「グローバルな力が土着的な帰属感を破壊することは避けられないということと近代化を同一視する考え方が、この対立の根底にある。部族集団 は、もちろん、たんに「ローカル」だったのではけっしてない。つねにそれらは特定の風景に、つまり地域的・間地域的なネットワークに根源と経路をもってい たのである。しかし、おそらく”近代”に特徴的なことは、植民地勢力やトランスナショナルな資本、新たな国民国家による土着的主権への容赦ない暴力であ る」(288)
◎先住民と時間
「彼らは、広大な時間にわたって継続的にひとつの場所を占めていたという事実によって、そこに深く「所属する」人びとなのである。(正確に 言うと、土着となるのにどのぐらいの時間がかかるかは、つねに政治的な問題である)。部族的な文化は、ディアスポラではない——土地に根ざしている部族の 人びとの感覚は、まさしくディアスポラ的諸民族が失ったものである」(288)
■ディアスポラ言説の流通
◎産業化とディアスポラ意識
「ディアスポラ意識は、したがって、否定的であると同時に肯定的に構築される。否定的に構築されるというのは、差別や排除の経験によってで ある。人種化された寄留者が直面する障壁は、しばしば社会経済的な制約によって強化される。とくに——北米においては——ポストフォーデイズム的で労働組 合を組織していない低賃金のセクターが拡大しており、そこでは上昇の機会はひじように限られている。この「フレキシブルな蓄積」の体制は、資本や労働力 の、国家を越えた大量の流動を必要とする。それは、ディアスポラ的な人口に依存すると同時に、それを生みだす。また、労働の臨時化と下請け生産の再生は、 労働人口における女性の割合を増加させている。そして彼女たちの多くは、産業的中心都市へと、最近、移住してきたのである」(290)
◎ディアスポラ美学の選別性
「ピーター・セラーズが大規模に組織した一九九一年のロサンゼルス・フェィパルは、ロサンゼルスの途方もない多様性に、グローバルな観点を 与えることで、均質化しない合州国のメルティング・ポットを称賛した。そのフェスティバルは、タイ人の居住地区とタイ国から連れてこられた、ダンサーとを 結びつけた。……。そこではトランスナショナルな収集され、前衛的に配列され、展示された。……。そのフェスティバルは、日本とアメリカの共同スポンサー による基金を充分に調達しており、その大部分は、毒を抜かれ美化されたトランスナショナリズムを謳っていた。だが、そこで称賛された住民たちの多くが働い ている低賃金の搾取工場(スウエットショップ)が、このディアスポラのフェスティバルで、「アート」や「文化」の場としてとりあげられることはなかった」 (292)
◎ディアスポラ言説のジェンダー化
「ディアスポラ的経験はつねにジェンダー化されている。しかし、さまざまなディ.アスポラやディアスポラ文化の理論的説明は、この事実を隠 蔽する傾向、ジェンダー的に無徴なものとして旅や転地の経験を語る傾向があり、こうして男性の経験を規範化する」(293)
■黒い大西洋
◎ディアスポラ・コミュニティ
「ディアスポラ・コミュニティは転地によって構成され、異種混淆的な歴史情況のなかで維持されている。切迫の程度はさまざまであるにして も、貧困や暴力、管理(ポリシング)、人種主義、政治的・経済的な不平等といった社会的現実と交渉し、抵抗する。そしてディアスポラ・コミュニティは、新 たな別の公共圏、すなわち、批判的な(そして伝統的であると同時に創発的な)代替案が表現されうる解釈共同体を節合するのである」(295)
◎ディアスポラの時間性がもつ断絶や両義性
「ホミ・バーバは、国民という想像の共同体の均質的時間性は、マイノリティやディアスポラの時間性から沸き上がってくるさまざまな断絶や両 義性を消去することはできないと論じている(Bahba 1990)。彼はつぎの三つの反進歩主義的プロセスを指摘する。ひとつは反復のプロセス(奴隷制や移住、植民地化の記憶。それは管理や規範的教育という現 在の文脈のなかで更新されている)。つぎに代補性のプロセス(「遅れて」おり、過剰であり、同時性の外部にある経験)。そして離心性のプロセスである(国 家的時間/空間がその構成的な外部へと漏出すること。たとえば、「イギリス人につきまとう問題は、彼らの歴史が海外で起こっていて、それゆえそれが意味す るところを知らないということである」とサルマン・ラシュディは『悪魔の詩』で述べている(Rushdie 1989))。バーバのヴィジョンでは、ディアスポラ的な「ポストコロニアル」はこういった歴史的現実を、複数の相異なる批判的な近代として生き、もの語 るのである。彼は、グローバルな都市に集まる「四散した」住民たちを呼び起こし、コミュニティの新たな想像力点制リティクスが現れる”デイアスポラ”を呼 び起こすのである」(298)
Bhabha, Homi K.,1990. Dissemination: Time, Narrative, and the Margins of the Modern Nation. In Nation and Narration. Homi K. Bhabha, ed. Pp. 291-322. London: Routledge.
Rushdie, Salman. 1989 The Satanic Verses. New York: Viking.
◎近代は奴隷制とともにはじまる(トニ・モリソン)
「奴隷制の記憶によって、そしていまなおつづく人種テロの経験のなかでふたたび開かれた「死の空間」は、すべての近代的進歩主義に批判的な 影を投げかける。ギルロイは、ジークムント・バウマン(Bauman 1989)やマイケル・タウシグ(Taussig 1986)による、合理性と人種テロとの共犯関係に関する分析を補足する。決定的な契機には、死を選択することや死の危険を冒すことが、抑圧的システムの なかで何の未来ももてない人びとにとって唯一の可能性となる」(299)。
Bauman, Zygmunt. 1989 Modernity and the Holocaust. Ithaca, NY: Cornell University Press.
Taussig, Michael. 1986 Shamanism, Colonialism and the Wild Man: A Study in Terror and Healing. Chicago: University of Chicago Press.
◎ポール・ギルロイ(Paul Gilroy, 1956- )による「伝統」の再定義
-伝統は「目標としてよりもむしろプロセスとして理解されるのであり、またここでは喪失された過去を定義するために用いられるのでも、それ への接近を回復しようとするような補償の文化を名づけるために用いられるのでもない。さらにまた、それは近代と対立しているのでもなく、また、アメリカ諸 国や広くカリブ海諸地域の奴隷以後の歴史の腐食性の、失語症的な権力と対照されうるような、アフリカの健全で牧歌的なイメージを出現させるものでもない。 伝統はいまや、ディアスポラ・アイデンティティではなくディアスポラ・アイデンティフィケーションの基礎となる、時間と空間を越えた壊れやすいコミュニカ ティヴな関係を概念化するひとつの方法となるのである。このように再定義されるならば、[伝統は]ディアスポラ文化にとっての共通の内容を示すのではな く、それらのあいだの、間文化的でトランスナショナルなディアスポラの対話を可能にする、とらえがたい性質を示すのである(Gilroy 1993a:276)」(303)。
Gilroy, Paul. 1993a The Black Atlantic: Double Consciousness and Modernity. Cambridge: Harvard University Press.
■ユダヤ的結びつき
◎ボーヤリン兄弟のユダヤ文化の混淆性(引用)
「ディアスポラ的文化的アイデンティティは、私たちに、文化が「混合」から守られることで保たれているのではなく、おそらくそういった混合 の産物としてのみ存在しつづけることができるということを教えてくれる。文化は、アイデンティティと同様に、たえずつくり直されている。すべての文化につ いてこれは真実であるが、デイアスポラ的ユダヤ文化はそれをあからさまに見せてくれる。というのも、この民族とある特定の土地との自然なつながりを認識す ることは不可能だからーーしたがって、ユダヤ文化を自己完結的で境界に区切られた現象として理解することは不可能である。民族・言語・文化・土地のこのよ うな分離がもっ批判的な力は、文化的土着主義や文化的保全主義に対して多大な脅威となってきた。そしてその脅威は、反ユダヤ主義の源泉のひとつであり、お そらく、ヨーロッパが中東よりも、はるかに、この反ユダヤ主義という悪にとらわれてきた理由のひとつなのである。言い換えれば、ディアスポラ的アイデン ティティは、ばらばらに分解されたアイデンティティなのだ。ユダヤ人であることは、まさにアイデンティティというカテゴリーを崩壊させる。なぜならそれは 国民的ではなく、また系譜学的、宗教的でもなくて、むしろそれらすべてが互いに弁証法的緊張関係にあるからだ。(Boyarin and Boyarin 1993:721)」(306)。
Boyarin, Daniel, and Jonathan Boyarin. 1993 Diaspora: Generational Ground of Jewish Identity. Critical Inquiry 19(4):693-725.
◎ディアスポラ状況における身体(またはアイデンティティ)
「人類は何らかの目的があって男と女に分けられているが、だからといってそれが身体的アイデンティティについてすべてを説明するわけではな い。ジェンダー化された身体と普遍的な精神という二元論——西洋の伝統がもたらす二元論——ではなくて、私たちは部分的にユダヤ人の、部分的にギリシャ人 の身体を、またときにはジェンダー化され、ときにそうではないような身体を考えうるのである。この概念こそ、私たちがディアスポラ化されたアイデンティ ティと呼ぶものである」(Boyarin and Boyarin 1993:721)」(307)。
◎これに関するクリフォードのコメンタリー
「「ディアスポラ化」されたジェンダー・アイデンティティに自己同一化するとき、一連の歴史的種別性がぬぐいとられてしまうのである。「人 類はなんらかの目的があって男と女に分けられている」。だれの目的なのか?何が不平等な分割の構造なのか?こういった機能的な「目的」は、ジェンダー分割 のそれぞれの側面からは、どのように見えるのだろうか?私はすでに、ディアスポラ的アイデンティティが、それぞれの要素に分解された位置的で上演的なアイ デンティティ一般の等価物へと横滑りする傾向に抵抗することが重要であると論じた。……現代のディアスポラ言説は、特定の身体や歴史的な転地の経験との結 びつきを保持しているのである。それが比較の緊張関係や部分的な翻訳可能性のなかに保持される必要がある」(308)。
■ディアスポラの過去と未来
◎ディアスポラ的ネットワーク
「20世紀後期においては、西洋の技術産業社会のヘゲモニーによって生じることもなく、そして/あるいは、ヘゲモニーに抵抗することのない 地域横断的ネットワークの具体的イメージを描くことは困難である。もうひとつのコスモポリタニズムやディアスポラ的ネットワークのこうした歴史は、ひじよ うに重要な政治的ヴィジョンとして(べンヤミン的な意味で)救済しうる。それは、ユダヤ人とアラブ人という対立の「後に」、西洋と「その他」の「後に」、 ネイティヴと移民の「後に」訪れる世界である。[改行]こういったヴィジョンや対抗的歴史は、非統一な「下からのグローバリゼーション」のための戦略を支 持するだろう。この表現は、ヘゲモニー化する技術やコミュニケーションに抵抗し、またそれらを利用する地域横断的な諸々の社会運動を名づけるために、ブ レッヒャーら(Brecher et al. 1993) が「上からのグローバリゼーション」と対にして提示したものである。この構成的な絡みあいは、私が論じてきたように、現代のディアスポラ・ネットワークの 特徴である。絡みあいは必ずしも、とりこまれることを意味しない。相異なるコスモポリタンな接触のより古い歴史を想起することによって、ローカルなレベル を越えた新たな「伝統的」あり方に力が与えられるだろう」(313)。
Benjamin, Walter. 1968 Theses on the Philosophy of History. In Illuminations. Hannah Arendt, ed. Harry Zorn, trans. Pp. 253-265. New York: Schocken Books.
Brecher, Jeremy, John Brown Childs, and Jill Cutler, eds. 1993. Global Visions: Beyond the New World Order. Boston: South End Press.
◎ポストコロニアルとディアスポラ
「「ポストコロニアル」という用語は、(アルジュン・アパデュライの「ポストナショナル」と同じく)現在発生しつつある文脈あるいはユート ピア的文脈でしか意味をなさない。ポストコロニアル文化やポストコロニアルな場所は存在しない契機や戦術、言説などがあるにすぎないのだ。「ポスト」はつ ねに「ネオ」につきまとわれている。だが「ポストコロニアル」は、過去の支配の構造、現在の闘争の場、想像される未来、現実的な断絶を、不完全かもしれな いが描写している。……。この視点から見たとき、現在流通しているデイアスポラの言説と歴史は、コスモポリタンな生のための非西洋的な、あるいは西洋的な だけではないモデルを、国民国家、グローバル・テクノロジー、市場の内部にありながらそれらに抵抗する非同盟のトランスナショナリティを回復させようとし ているのだ——それは、豊かな共存のための資源なのである」(313-314)。
●収載書籍の紹介
「旅
と遭遇こそ、未完の近代にとって決定的に重要な場である。だれもがいま、移動している。数世紀のあいだ移動しつづけ、「旅のなかに住まう」ことを実践して
きた。移動によって分節化される人間の差異、絡まりあった文化の経験、ますます密接に関連しながら均質ではない世界の構造と可能性について—根源と経路の
経験を描く」https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA56436412.
旅(旅する文化;メラネシア人のなかのゴースト;空間的実践—フィールドワーク、旅、人類学の制度化 ほか)
接触(北西沿岸の四つのミュージアム—旅の反省的考察;パラダイス;接触領域としてのミュージアム ほか)
未来(牡羊の年—ホノルル、一九九一年二月二日;ディアスポラ;移民 ほか)
応用問題
リンク
文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099