かならずよんで ね!

解釈的コミュニティあるいは解釈の共同体

Interpretive communities

池田光穂

解釈的コミュニティ(interpretive communities)とは、スタンレー・フィッシュの読者=応答批判(Reader-response criticism)の基幹的な理論で、登場人物(事象)の意味もそれらをどのように解釈するのかということも含まれた文化的前提の外側に、テク スト(=読まれるべき文章)は存在しない、という主張である。私たちが、個人として テキストを解釈するときにも、テキストを読む独特の方法を提供するある解釈的コミュニティ/解釈の共同体( interpretive community)の一部である、はずだとフィッシュは考えるのである。いったい誰が解釈的コミュニティ/解釈の共同体の部分でありそう でないかは分からない;なぜならば、私たちが同一の解釈的コミュニティの一部かどうかを私たち自身が告げるというどんなコミュニケーションも、ひとつの解 釈にすぎない(=解釈されるべきもの)からだ。私たちは解釈の共同性から逃れることはできないが、同時のその境界を知ることもないと、フィッシュはいう。

フィッシュの主張は、ある意味で、物事の認識つまり 物語の解釈おいても、理解の前提には基礎づけとなるような地平の存在が不可欠であるという「基礎づけ主義」に抗して、事物の理解とは解釈にすぎないという 認識論における相対主義あるいは反基礎づけ主義(Anti-foundationalism) の立場をとることになる。

基礎主義に対する極端な反対論をとらなくても、解釈 コミュニティというものの理論的有効性を利用することができないだろうか? そのひとつが解釈コミュニティというもの存在論/あるいは実在を、プラグマ ティックに理解することである。究極の実体として「我々は解釈のコミュニティのメンバー(部分)」でしかないというニヒリズム陥らなくても、解釈の妥当性 や、妥当性をめぐる論争が可能であることを、その理論の有効性として担保する道である。

すくなくとも、解釈の共同体/共同性をめぐっての議論の中で、解釈者はそのメンバーとして自覚をもつことと、自分の主張の無謬性という脅迫観念から自由になることで、真理ではなく妥当性というメタ解釈的有効性を引き出すことは可能である。なぜなら、解釈実践は言語ゲーム(Language game)にほかならないからである。

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Mitzub'ixi Quq Ch'ij, 2018

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