かならずよんで ね!

ヤポネシア

Japonesia

池田光穂

ヤポネシア(Japonesia)とは作家の島尾敏雄が考案した造語で ある。日本を指すラテン語「Japonia」もしくは現代ギリシア語「Iaponia」に群島を指す古典ギリシア語の語尾「nesia」を追加してカタカ ナ化したもので、日本国ではなく日本列島を意味する。文芸評論やポストコロニアル批評、カルチュラル・スタディーズ、において好んで用いられる表現であ る。

島尾は横浜に生まれ神戸に育ったが、第二次大戦中に奄美大島の属島である加計呂麻島に駐屯し ていた。これが縁となり、島尾は1955年に奄美大島の 名瀬(現在の奄美市名瀬地区)に移住する。その後、島尾は新日本文学会の機関誌『新日本文学』に「名瀬だより」と名付けられたエッセイを連載するが、この 連作エッセイの中で提示されたのが、日本列島を「島々の連なり」として捉える視点である。ヤポネシアとは、そうした視点を解りやすく提示する為に島尾が考 案した語と云える。またこの語は「琉球弧」という概念が文化論上の概念として再定義されるきっかけともなった。

ヤポネシアという語は「琉球弧」とともに 南西諸島住民とその子孫の間に広く受け入れられ、南西諸島が日本列島史において果たした役割や、近世から近代、現代にかけての被収奪・被抑圧の歴史を表現 する際のキーワードとして多用されることとなった。ちなみに沖縄出身の作家、霜多正次には、みずからの戦時中の捕虜体験もからめた、「ヤポネシア」という 小説がある。

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■演題に少し変な題名を掲げましたけれども、ヤポネシアということば は、今までおそらく 誰も使わなかったはずです。というのは、わたしはそれをどこかから借りてきたのではなく て、自分で組み合わせてこしらえたのですから。ヤポネシアと言うと、おそらく、ポリネシ アだとかインドネシア、あるいはミクロネシア、メラネシアなどという名前が頭に浮かぶん じゃないかと思いますが、つまり、それと似たような意味でわたしはヤポネシアということ ばを使いたいのです。太平洋の地図を見る時、たいていわたしたちは、アジア大陸がまん中 になった地図をみるわけですが、それをずらして、太平洋をまん中にしてみますと、まず、 当初は何もみえないほどですが、よくみると、ポリネシアなどはもちろんですが、もう一っ 似たような島の群があり、それに「日本」という名前がついているのです。わたしはいっそ のことそれにヤポネシアという名前をつけてみたらどうだろうかというのが、そもそもこの 発想のはじまりなのです。 

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■日本という名前がついているのに、どうしてヤポネシアで呼びたいのか と言いますと、わ たしは、「もう―つの日本」というようなことを考えたいからです。日本についてのイメー ジはそれぞれにいろいろあると思いますが、わたしのそれはどうしても「日の本」と言う、 どう言ったらいいか、何か強く意識する対象があっての結果で、もとからの言い表わし方で はないような気がするのです。お隣りの大陸も世界の中心の国だという意識があって、自分 の国の名前を「中国」としているようですが、日本という漢字の組み合わせもやはり大陸を 意識し、太陽の中心だという、非常に緊張した状態があって、「日の本」だというふうにつ けているような気がします。

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■そしてこの日本という国の、今までの歴史をふり返ってみますと、どう しても大陸の方に ばかり向いていたのではないかという気がするのです。文字はもちろん学問や宗教も大陸の 方から入ってきています。たとえ日本の中で、また別なかたちになったかもしれませんが、 とにかく大陸の影響のもとにすごしてきたという面は否定することができないと思います。 それではこの大陸から少し離れたところ、あるいは太平洋のまん中の島々の本来のものは何 かということになってくると、どうもはっきりしません。その上さらに、近世と言いますか 徳川時代と言ってもいいと思うのですが、その頃に成立したと思われる武士道的な倫理感や 日常生活等が一緒になって出来上がった日本人の支柱みたいなものがつけ加えられるのです。 そういうものにまぶされたものが、わたしの日本というもののイメージなのです。

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■それと、さきごろ明治百年ということが言われましたが、明治以後の日 本の歩んできた筋 道を一口で言ってしまうことはできないとしても、明治維新は、いわゆる西南雄藩と言われ た日本の西南部分の下級武士たちが中心になって動かされてきたものだと思いますが、そう いう状況がもとになって現在の日本が出来上がってきているというイメージがまたその上に つけ加わってきます。そして、それには何かこう固い画一性があるような気がしてなりませ ん。みんな一色に塗りつぶされてしまうという息づまるような何かがあって、わたしはそこ からどうしても抜け出したいという気持がおさえられないのです。しかし、いくら抜け出し たくても抜け出すことはできないでしょう。外国旅行をしてもだめだと思いますし、またた とえこの日本を逃れてよその国に亡命しても、やはり日本の枠の中から逃れることはできな いんではないか。しかし抜け出したい。

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■さて、この抜け出せない日本からどうしても抜け出そうとするなら、日 本の中にいながら 日本の多様性というものを見つけていくより仕方がないんではないか。その日本の多様性と いうのは、ちょっと片寄った考え方かもしれませんが、今申し上げたようなイメージの日本 とはちがった、もう―つの日本、つまりヤポネシアの発想の中で日本の多様性を見つけると いうことです。そういう気持でみますと、日本というところもかなり多様性を持っている国 ではないか。通りいっぺんの旅行などでは、日本国中どこに行っても同じ感じがするかもし れませんが、よく見れば、たとえば方言一っとってみても、日本というところはたいへん多 様性を持った国だということに気づくはずです。仮名というのは、われわれがしゃる日本語を書き表わすことができるはずのものですが、いわゆる共通語と言わ れる可能であっても、方言ということになると、とても片仮名や平仮名では書き表わすきません。これは、何も沖縄や奄美のことばだけではなく、方言をそのま ま書き表いうことになると、どの地方のものでもたいへん困難だと思います。また、わたしはテなどでいろいろの地方の人たちの顔を見ていて、時々おかしな気 持になってしまうことります。これが果たしてみんな日本人なんだろうか、一体日本という国は、どういうだろう、どういう人たちが住んでいるんだろうという 気持になってくるのです。

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■さて、その多様性を言うとしても、ある地方は他の地方よりそれが非常 に強い。強く匂わせているんじゃないか。そういうことを思います。それは東北と琉球 弧と思うのです。もうひとつの日本であるヤポネシアの探検には、この東北と琉球弧ずく琉球弧に重要な手がかりがあるのだと思えてならないのです。

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■ 琉球弧ということばは、地理学上使われていることばで、日本の地図をごらんにかりますが、日本列島は、大きな一二つばかりの弓なりのかたちをしております が、弓なりになった島々のかたちを弧と言っているようで、ことに日本の島のかたちと本州弧と琉球弧の三つの部分から成る典型的な弧状を示しております。琉 球南西諸島、琉球列島、または琉球などと呼ばれ、それぞれにニュアンスが、わ たしにはどうも琉球弧という言い方をするといちばん落ちつくのです。つまり奄美諸島と沖 縄島を中心にした沖縄諸島、宮古諸島、それに石垣島を主島にした八重山諸島などをひっく るめてわたしは琉球弧と言いたいのです。沖縄と言うと、どうも奄美が落ちてしまうし、宮 古や八重山も、時によっては含まれてきません。琉球とだけ言った場合には、奄美を含める かどうかに難点が出てくるので、地理学上での琉球弧ということばが包括的でもあり適切だ と思うのです。

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■ところで多様性を持ったいろいろな地方の中でもことに強く独自性を 持った地方が琉球弧 であり東北ではないかというのがわたしの考えですが、それはわたしがその琉球弧の中の奄 美の―つの島に十五年ほど住んで生活してきた挙句に考えだせたことでしばう。まあ最初に 言いましたような、日本を抜け出したいという気持もその中で強くなってきたわけですが、 どうも琉球弧と東北というところは、一般的な日本のイメージの中に素直に入らないのでは ないかという気持がでてきたのです。それで、大雑把なやり方ではありますが、少し歴史を 調べてみました。そうすると、日本という国は三つの弧を合わせたところの上に成り立って、 そこに住む人たちは、同じことばを使い、同じ生活文化を持ち、いわばひとつの民族と言っ てもいいようなものになっていると思うんですけれども、その歴史の展開の仕方に、ある片 寄りを持っていたのではないかということに気づいたのです。つまり日本という国の、国は じめから現在に至るまで、政治の中心的な舞台になったところは九州から関東までではないかと言うことです。
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■考えてみますと、まず神話が日本の国はじめをした人たちを九州のあたりに発祥させ、そ して中央部の大和地方に移動させていますし、最初の文献資料にたよるとすると、三世紀頃 の日本の状態を記録したといわれる中国の「魏志倭人伝」ですが、その中に出てくる国々が 九州地方か大和地方かという論争が今もつづいていることは周知の通りです。ですから、神 話にしてもそういう文献資料によっても、九州から近畿地方あたりまでがまず国はじめの舞 台になっていて、その後もずっと、これはもうわたしがいろいろなことを言うまでもなく、 九州から関東までの地域が日本の国の歴史の舞台になってきたんではないでしょうか。です から、日本という国についての従来の一般的なイメージは、そういう地域を背景にして出来 上がってきているような気がするのです。ことに、明治以後の百年間というものは、再び九 州が大きな中心勢力となった西南の部分が、今の日本の方向づけをやってきたということが あると思うのです。で、琉球弧と東北はその地域の圏外にあって一般的な日本のイメージの 外がわに置かれているのではないかと思われるのです。


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■まず東北という地方について少し考えてみますと、あそこは国はじめの時から征伐ばかり されてきた地方です。たびたびの蝦夷征伐、それに「前九年の役」「後三年の役」。それか ら、平泉の藤原氏が何か中央をまねした文化をこしらえかけたところ、それも亡ぼされてし まうし、伊達政宗が出かかってもうまくいかずに挫折してしまい、明治維新をむかえるので すが、新政府ができる後先に見舞われたあの「戊辰の役」にしてもやはり一種の東北征伐と 見ることができるでしょう。


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■二、三の挿話をつけ加えますと、昔の長州藩にあたる山口県の或る青年会議所から、会津 の青年会議所に事業の提携が申しこまれてきたところ、会津からは拒否の返事が返されたと いうことを或る書物で読んだことがあります。それは百年前の「戊辰の役」のときのしこり がまだとけないからだと説明されていました。また或るテレビ番組に出て来たおなじ会津の 町の人たちは、戦争の傷は百年ぐらいで消えるものではないと力をこめて語っていましたが、 その戦争というのも、このあいだの世界戦争ではなく「戊辰の役」のことなのです。また 「平民宰相しと言われた岩手県の原敬は、旧南部藩の上級武士の出身でしたが、薩長の藩閥 政府に反撥して、爵位を受けなかったからそう仇名されたということです。それらのことは 東北の人の気持の片よりと言えなくもないのですが、まあ、何といいますか、正統かどうか わかりませんが表通りを歩いている日本の中で、異端のような部分が、この東北に―つある という気がするのです。そこから出ている思想家とか文学者にはかなり毛色のかわった人た ちもいるという気がします。それともう一っ、この琉球弧が、やはり一種の異端の立場に立 たされていると思えるのです。これまで中央の本流に流れこんだことはないし、本土からも 何となくちがう場所だという待遇を受け、そういう考えられ方をし続けてきています。いわ ばまん中の日本をはさんで、はじっこの東北と、それから琉球弧が、全体の日本の中で、そ ういう位置を持っているということは、わたしにはなかなか興味深いのです。そのつもりで 見ると、この両地域はいろいろな点で似ているところがあるような気がしてくるのも面白い ことです。これが似ているあれが似ているということを言い出しますと、おかしなことにな ってしまいますが、相対的な感じとして、まん中の部分の日本とよりは、両端の2つの地方 が似ているというわけです。

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■刳船(くりぶね)は、日本全国に分布しているということですが、奄美 の剖舟について言えば 森県の剖舟にいちばん似ているということを、剖舟の全国調査のために奄美に来た人が言っ ておりました。また奄美では、民謡に裏声をよく使いますが、本土の方では青森県のものに 裏声のはいったそれを聞いたことがあります。そういえば、容貌も東北と琉球弧には中央日 本にはない或る共通の情緒が感受されるような気がします。

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■そこで思い出されるのがアイヌのことです。本来のアイヌは日本人では ないと言われます が、かつてかれらは日本列島をずっと南下して琉球弧の南端まで行ったけれども、その後本 土の方のアイヌは何かの事情で北方に引きあげ、琉球弧では残されたままになったのだという う学説を読んだことがあります。現在ではそういう考えは俗説とみなされ、学問的には否定 的であるようですが、しかしわたしには、どうも、何か似ているものがあるような気がして 仕方がないのです。アイヌは日本人ではないので、基本的にはちがうんでしょうが、はやく から日本列島に住みこんでいて、日本といろいろな関係を持ってきたと考えないわけにはい かないのです。特に東北では、接触する機会が多かったということが考えられます。学説と しては否定されておりますが、何かまだ解明されない関係があって、北と南とが、ある近似 を持っているのじゃないかという気がしてなりません。現実のアイヌは北海道にいるのです が、わたしは日本人の中にとけこんだ幻のアイヌがいて、東北と琉球弧により濃く入りこん でしまったのではないか、これはまったく学問的な根拠のない話かもしれませんが、そうい うことさえ考えたくなるのです。というのも、両方の地方が、日本の歴史の中で果たした役 割みたいなものが、非常に似ている気がして仕方がないからです。

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■ところで、その琉球弧のことですが、琉球弧の歴史と本土のそれとの間 に―つの断絶みた いなものが—|'断絶と言っていいかどうか—~みぞができているわけですが、どうしてそう いうことになったかということが、わたしにはよく納得がいきません。と言いますのは、も し琉球弧が日本全体に何の影響も与えなかったような位置をもっているのなら、それはそれ で仕方がないかもしれませんが、実際には非常に深い関係を持っていながら、なおかつ遮断 されているものが感じられるからなのです。大雑把な言い方をしますと、日本の歴史の曲り 角では、必ずこの琉球弧の方が騒がしくなると言いますか、琉球弧の方からあるサインが本 土の方に送られてくるのです。そしてそのために日本全体がざわめきます。それなのに、そ のざわめきがおさまってしまうと、また琉球弧は本土から切り離された状態になってしまう という、何かそんな感じがして仕方がありません。





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■22 また国はじめのことにもどりますが、日本書紀などによりますと、大和を中心に中央集権 ができた時に、琉球弧との交渉の事がいくつか記録されていて、かなり具体的な島々の名前 があがっています。しかし、そういう南島人の来朝があったということだけで、その背後に どんな関係があったかについては、記録は非常に曖昧で、具体的なことはなにもわかりませ ん。しかし、交渉があったことは確かです。つまり、奄美人が何人やって来たとか、久米島 や石垣島の人がやって来たとかという個々の記事があるわけですから、何か背景になる事実 があったにはちがいないのですが、詳しいことがわからないままに、南島経営という項目で ひとまとめにして、その当時、琉球弧とのあいだに行き来のあったことを記録しているにす ぎないのです。しかしわたしは、その背後に、もっと何か親密な関係というか、琉球弧に何 か歴史のざわめきがあったと思わないわけにはいかないのです。民俗学者たちが日本あるい は日本人というものが出来上がるについて、琉球弧の島々が果たした役割を評価しているよ うに、そういうものは有史以前から、ずっと続いてきていると思われるので、国づくりの時 にもそういうものを背景にした―つの大きな動きがあったんじゃないかという気がしてなり ません。 
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■次に、日本の歴史の大きな曲り角と言いますと、中世から近世への移り かわりの時期、つ まり戦国末期から徳川はじめにかけての頃じゃなかったかと考えますが、その時も、やはり 琉球弧の島々が騒いでいるはずです。その時代に琉球弧を通って、物質的あるいは精神的な ョーロッパの文明というものが日本に入りこんできたのですから。今までの日本の歴史では、 ヨーロッパ人が鹿児島や屋久島に上陸したことでも、また種子島に鉄砲が伝来したことでも、 すべて唐突にその上陸や漂着の時点から事が始まったように書かれていますから、その後の 影響が非常に大きいにもかかわらず、そのはじめのところが何か偶然のおとぎ話みたいな書 ぎ出しになっています。それは日本の歴史家の目の位置が、種子、屋久あたりで切れてその 先に延びていないので世界からの日本へのはたらきかけは、すべていきなりそのへんからは じまるように見えているのではないかと思います。しかし、そこにくるまでの道筋というも のが厳然としてあって、それはいわば琉球弧の境域に属し、すでに中世のころから中山王国 を中心にした世界との交易圏が出来上がっていたわけですから、それを視野にしていれば、 寝耳に水のような表現にはならないと思うのです。
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■開国のことにしても、浦賀の沖にアメリカの黒船が突然やって来て、と 言うようなとらえ 方でなくなってくるでしょう。なぜならアメリカはまず那覇に根拠地をこしらえておいて、 それから浦賀に来ているのですから。奄美の古老の言い伝えや民謡などにも、「ワランダの 黒船がきて測量をした」とか、「ワランダの朝廷から大島を貸してくれという相談がかかっ た」という伝承もありますから、那覇を中心に、測量なども行なわれた模様です。しかしな がら、実際はどうもそういうように、琉球弧を視野に入れてのつかまえ方に気づくこと きなかったようです。またたとえばキリシタンの禁制が解かれたあとさきの事情にしても、 カトリックの司祭たちが、長崎や横浜、函館に、直接やって来たように受けとられているわ けですが、彼らは、本土にやって来るまえに首里のどっかのお寺に十五年ばかり閉じ込め られていて、そこで日本語を習っていたのです。それですから長崎や横浜にやって来てもす ぐに日本語で布教を開始することができたのです。これらのことがどういうことなのかとい うことが、どうもわたしにはわからないのです。日本の歴史を見る時に目の位置をもう少し 高くして、琉球弧もすっかり入るようなところから見てもらうのでなければ、日本の全体像 はつかめないのではないかという気がしきりにするのです。
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■わたしには沖縄や先島のことはよくわかりませんが、奄美に住んで考え ることは、奄美は どうしても琉球弧の一部分であって、奄美を知るためには、沖縄や、先島のことを知らない とわからないところがありますし、また、沖縄や先島のことも、こちらで亡びてしまって、 奄美に残っているものもあるわけですから、やはり奄美を知らなければわからないようなと ころがあると思います。琉球弧を調べることによって、日本の、もう消えてなくなってしまった部分が 補われるということが言われますが、それと同じことが琉球弧の中自体にも起こっていると 思います。奄美の場合は、複雑な歴史的環境に投げこまれておりましたので、南の方に強い 親近感を持ちながらもなお北の方を向いてしまうという矛盾したような状況にあるのです。
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■23それから、琉球弧に一番近い鹿児島との関係にしても、それにもか かわらずお互いにそっ ぽをむきあっているようなところがあって、鹿児島は琉球弧を知ろうとはせず、琉球弧の方 も鹿児島を感情的に片付け、何となく避けて通りたい気持があるんじゃないかと思います。 一種の空白状態にあった奄美の歴史は最近地元でぼつぼつ研究する人たちが出てきましたが、 その場合でも、まだ土台ができていない感じです。また鹿児島の方でも、奄美にはまったく 手をつけていなかったといってもいい状態なのです。しかし、たとえば薩摩藩自体も経済構 造を明らかにしようと思えば、奄美および沖縄の中山王国との関係をはっきりさせるのでな ければ何事も分らないのではないかと思われますが、そこのところがまだほとんど未開拓で はないかと思われるのです。また沖縄の場合にも、沖縄自体の研究は、いろいろなかたちで たくさんなされていますが、沖縄と薩摩藩との関係の究明は案外見すごされているのではな いでしょうか。それは、表向きの関係ではなかったということもあって、故意にわからなく している部分もあるようですが、乏しい資料しかないかもしれませんが、両方のものをつき あわせておさえていかなければ、やはり沖縄のことも奄美のことも、そして薩摩こともわ からないのではないかという気がして仕方がありません。
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■今までは本土と琉球弧の間には、やはりみぞというものがあったという ことを認めねばなりませ んが、しかし、沖縄が置かれている不幸な現実、それは非常に不幸ではありますが、それが 一つのきっかけとなって、ある面は今埋まりつつあるという気もします。その場合に、わた しは画一的な日本のイメージを描くのではなく、多様性のある、いわばヤポネシアとしての 日本をイメージとしつつ、埋めるべきみぞがあれば埋めなければならないと思っております。 最近ある出版社が企画した日本の思想全集の中に、「おもろさうし」が入っているのを見て、 目の覚める思いをしました。これはまあ、ほんの手がかりかもしれませんが、とにかく日本の の全般的な思想を究明しようとする、そういう叢書の中に、「おもろさうし」を挙げざるを えないようなそういう時代になってきたんだなということなのです。文学の上でも、琉球方 言文学は、いわゆる日本文学の分野では、今までとり扱われていなかったと思います。しか し、そういうことの考えられなくなる時代がやがてやって来るんではないか。方言の中でも 琉球方言だけは特別に言われていますが、わたしは、どうもそういうふうには考えられない ので、わかりにくいのは、日本のどの地方の方言でも同じだとは思いますが、しかもそういう 方言で書かれた完成された文学を持って同いるというのは稀なことだと思います。琉球弧の 「おもろさうし」は、確固として出来上がっていて、それは方言としての難しさはあるかも しれませんが、日本語の表題の変容というかバリエーションなんですから、日本語の表現の 可能性そのものだと思うのです。そういう可能性をもった文学を日本文学の中で処理できな いということは、考えることができません。大げさに言えば、文学者、国文学者の怠慢以外 の何ものでもないという気がいたします。しかし今では、本土の大学の日本文学科の卒業論 文のテーマに琉球の方言文学を選んだとしても教授がうけつけないということはないと思 うのです。昔はそうではなかったということですが、この現状を持続させたいと思います。 琉球弧だとか東北だとかという区切り方は、あるいは正確ではないかもしれませんが、そう いういわば異端のような地方をも深くかかわらせるのでなければわたしの日本のイメージは 浮かんでは来ないのです。(海・昭和四十五年七月)


島尾敏雄「ヤポネシアと琉球弧」『新 編・琉球弧の視点から』東京 : 朝日新聞社 , 1992.8


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