北森 嘉蔵
Kazo Kitamori, 1916-1998
☆ 北森 嘉蔵(きたもり かぞう、1916年 - 1998年9月)は、日本の神学者、牧師、作家、教授、教会関係者。西洋における彼の最も有名な著作は、1946年に日本で、1965年にアメリカで出版 された『神の痛みの神学』である。東京ユニオン神学校の教授を長年務めた。小山耕筰とともに、20世紀日本のプロテスタント・キリスト教神学を代表する貢 献者である。
★神の痛みの神学
『神の痛みの神学』の聖書箇所はエレミヤ書31:20。「主いひたまふエフライムは我愛するところの子悦ぶところの子ならずや我彼にむかひてかたるごとに彼を念はざるを得ず是をもて我膓(はらわた)かれの爲に痛む我必ず彼を恤むべし」(文語訳聖書)。
参考「エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。(新改訳聖書)
北森は、「膓(はらわた)かれの爲に痛む」に注目し、ここに神の痛みがあるとしている。そして、その後に訳された口語訳聖書では、神の痛みが訳出されていないと指摘する。神の痛みの神学はユルゲン・モルトマン(Jürgen Moltmann, b. 1926)にも受け入れられた。
北森はマルティン・ルターの神学、十字架において「神と神とが戦った」を引用する。罪ゆえに人を滅ぼさんとする父なる神と、十字架で人を救わんとする子なるキリストが戦ったという。
Kazoh Kitamori
(北森 嘉蔵, Kitamori Kazō, 1916 – September 1998) was a Japanese
theologian, pastor, author, professor, and churchman. His most famous
work in the West is The Theology of the Pain of God, which was
published in 1946 in Japan and in the United States in 1965. He was a
longtime professor at Tokyo Union Theological Seminary. He was, along
with Kōsuke Koyama, a leading contributor to Protestant Christian
theology from twentieth century Japan.[1] |
北森 嘉蔵(きたもり かぞう、1916年 -
1998年9月)は、日本の神学者、牧師、作家、教授、教会関係者。西洋における彼の最も有名な著作は、1946年に日本で、1965年にアメリカで出版
された『神の痛みの神学』である。東京ユニオン神学校の教授を長年務めた。小山耕筰とともに、20世紀日本のプロテスタント・キリスト教神学を代表する貢
献者である[1]。 |
Life Kitamori was born in Kumamoto in 1916. In high school, he was so impressed by a paper he read about Martin Luther that he made the decision in 1935 to go to Tokyo to attend the Lutheran Theological Seminary there. He graduated in 1938. Having finished his studies at the seminary, he attended Kyoto Imperial University, studying in the literature department under Hajime Tanabe, a disciple of Japanese philosopher Kitarō Nishida. He graduated from the university in 1941, and continued there as an assistant until 1943. In 1943, he moved to the Eastern Japan Theological Seminary, which later became Tokyo Union Theological Seminary. He became a full professor in 1949, and continued to teach systematic (dogmatic) theology there until his retirement from teaching in 1984. He received a Ph.D. in Literature from Kyoto Imperial University in 1962.[1] Kitamori was a major post-war theologian in Japan and this status made him one of the most important players in the re-formation of the Kyodan Church (United Church of Christ in Japan). He served both as a pastor, serving a congregation for forty-six years, and as a churchman, serving in various capacities and helping to draft of the confession of faith of the Kyodan Church. While he is best known for Theology of the Pain of God,[2] Kitamori was a prolific writer in many areas, not only in theology. He published forty-two books and many articles. His theme of the Pain of God remained a central idea in many of these. Theology of the Pain of God has reached a wide audience in Japan, even outside the Christian community. |
人生 1916年、北森は熊本に生まれた。高校時代、マルティン・ルターについての論文を読んで感銘を受け、1935年、東京のルーテル神学校に進学することを 決意。1938年に卒業した。神学校を卒業後、京都帝国大学文学部で西田幾多郎の弟子である田辺肇に師事。1941年に同大学を卒業し、1943年まで助 手を務めた。1943年、東日本神学校(後の東京ユニオン神学校)に移る。1949年に正教授となり、1984年に教職を退くまで同神学校で系統神学(教 義神学)を教えた。1962年に京都帝国大学で文学博士号を取得した[1]。 北森は戦後日本を代表する神学者であり、その地位は京丹波教会(日本基督教団)の再形成における最も重要な人物の一人となった。彼は牧師として46年間信 徒に仕え、また教会人として様々な職務に就き、教団教会の信仰告白の草案作成に貢献した。 『神の痛みの神学』が最もよく知られているが[2]、北森は神学だけでなく、多くの分野で多作であった。彼は42冊の本と多くの論文を出版した。彼のテー マである「神の痛み」は、その多くにおいて中心的な考え方であり続けた。神の痛みの神学』は、日本ではキリスト教界以外でも広く読まれている。 |
The Pain of God Kitamori's most famous work discusses idea of the pain of God.[2] He bases this idea on Jeremiah 31:20: "Is not Ephraim my dear son, the child in whom I delight? Though I often speak against him, I still remember him. Therefore my heart yearns for him; I have great compassion for him," declares the LORD. (NIV) In the Japanese Literary Version (an older translation of the Bible into Japanese), the phrase, "My heart yearns..." can be translated "My heart is pained." Luther matches this idea most closely when he translates it "Darum bricht mir mein Herz" (Therefore, my heart is broken). While modern Japanese versions were moving away from this translation, Kitamori felt that translators like Luther and Calvin gave him scholarly justification for keeping this translation as the basis of his work. Kitamori linked the Japanese concepts of tsutsumu and tsuraso, natural love and self-sacrificial death, with Christian principles.[3][4] Jürgen Moltmann sees Kitamori's theology useful in explaining how the pain of God helps to heal our pain, because in "the suffering of Christ God himself suffers."[5] |
神の痛み 北森氏の最も有名な著作は、神の痛みについての考えを論じている[2]。彼はこの考えをエレミヤ書31章20節に基づいている: 「エフライムはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ子ではないか。エフライムは、わたしの愛する子、わたしの喜びの子ではないか。それゆえ、わたしの心は彼を 慕い、わたしは彼を大いに憐れむ」と主は宣言される。(NIV訳) 日本語文語訳聖書では、「My heart yearns... 」は 「My heart is pained. 」と訳されている。ルターは 「Darum bricht mir mein Herz」(それゆえ、私の心は砕かれる)と訳しているが、この考えに最も近い。現代の日本語訳がこの訳語から離れつつある中で、北森はルターやカルヴァ ンのような翻訳者が、この訳語を基本に据えることに学問的な正当性を与えてくれていると感じていた。 北森は、日本の「つつむ」と「つらさ」、すなわち自然な愛と自己犠牲的な死の概念を、キリスト教の原理と結びつけたのである[3][4]。 ユルゲン・モルトマンは、「キリストの苦しみにおいて神自身が苦しむ」[5]ことから、神の苦しみがいかに私たちの苦しみを癒す助けとなるかを説明する上 で、北森の神学が有用であると考えている。 |
https://en.wikipedia.org/wiki/Kazoh_Kitamori |
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Kazoh Kitamori
(japanisch 北森 嘉蔵 – Kitamori Kazō; * 2. Januar 1916 in Kumamoto; † 29.
September 1998 in Takasaki) war ein japanischer protestantischer
Theologe und Hochschullehrer der Vereinigten Kirche Christi in Japan. Leben Kitamori wuchs in einer Familie auf, die dem Jōdo-Shinshū-Buddhismus anhing.[1] In seinem ersten Jahr als Student an der Universität Kyōto geriet Kitamori in eine Lebenskrise. 1934 las er ein Werk von Shigehiko Satō über Luthers Römerbriefkommentar.[1] Er empfing daraufhin in der lutherischen Kirche die Taufe und trat direkt danach in das Japan Lutheran Theological Seminary ein. Am Tokyo Union Theological Seminary hatte er den Lehrstuhl für Systematische Theologie (Dogmatik) von 1949 bis zu seiner Emeritierung 1984 inne. Werk Kitamoris Hauptwerk, „Theologie des Schmerzes Gottes“ (神の痛みの神学 Kami no itami no shingaku), wurde bereits 1946 und vor dem Hintergrund des Zweiten Weltkriegs niedergeschrieben. Es gilt als japanische Kreuzestheologie und wurde in den 1960er Jahren in verschiedene westliche Sprachen übersetzt. Kitamori verbindet im Konzept des leidenden Gottes biblische Impulse (zum Beispiel Jer 31,20 LUT, Jes 63,15 LUT) mit dem Gedanken von tsurasa (Tragik, Agonie) aus der klassischen japanischen Literatur.[2] Er schöpft aus einer intensiven Kenntnis japanischer Philosophie und Mahayana-Buddhismus. An der Universität Kyōto wurde er von der Philosophie Nishida Kitarōs geprägt. Außerdem studierte Kitamori das Werk von Karl Barth, mit dem er sich kritisch auseinandersetzte.[2] Wilfried Joest charakterisiert Kitamoris Entwurf als „sehr eigenartig formulierte“ Kreuzestheologie, die in der Sache aber den Entwürfen von Eberhard Jüngel und Jürgen Moltmann nahe stehe. Kitamori verstehe das Kreuz als Übernahme des Leidens durch Gott auf Grund seiner Liebe. „Gott muß die Sünde hassen und kann den Sünder nicht ertragen. Aber nun geschieht es, daß Gott diesen Menschen, der nicht geliebt werden kann, dennoch nicht aufhört zu lieben. Daran wird sein Zorn zum Schmerz um den Menschen, und aus dem Schmerz bricht die Liebe aufs neue hervor.“ Gott leide an der Unannehmbarkeit des Menschen und nehme ihn dennoch an.[3] Veröffentlichungen Theologie des Schmerzes Gottes. Übersetzt aus dem Japanischen von Tsuneaki Kato und Paul Schneiss. Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972. |
北森 嘉蔵(きたもり かぞう、* 1916年1月2日 熊本県 -
† 1998年9月29日 高崎市)は、日本のプロテスタント神学者、日本基督教団の大学教師。 生涯 北森は浄土真宗の家庭に育った[1]。 1934年、北森は京東大学1年の時に人生の危機に陥った。 1934年、佐藤滋彦のルター『ローマ人への手紙』注解を読み、ルーテル教会の洗礼を受け、直ちに日本ルーテル神学校に入学した[1]。1949年から 1984年に退職するまで、東京ユニオン神学校で系統神学(教義学)の講座を担当した。 著作 主著『神の痛みの神学』は、第二次世界大戦を背景に1946年に書かれた。日本の十字神学とされ、1960年代には欧米諸言語に翻訳された。苦悩する神と いう概念において、北森は聖書の衝動(例えば、Jer 31:20 LUT、Isa 63:15 LUT)と日本古典文学の「つらさ」(悲劇、苦悩)の思想を組み合わせている。京東大学では西田幾多郎の哲学に影響を受けた。北森はカール・バルトの著作 も学び、それを批判的に分析した[2]。 ヴィルフリート・ヨーストは、北守の概念を「非常に独特に定式化された」十字架の神学であり、エーバハルト・ユンゲルやユルゲン・モルトマンの概念に近い と評している。北森は十字架を、神がその愛に基づいて苦しみを受け入れることとして理解している。「神は罪を憎み、罪人に耐えられない。しかし今、神は愛 することのできないこの人を愛することをやめない。神の怒りはその人の苦しみとなり、その苦しみから新たに愛が生まれるのです。」 神は人間の受け入れられなさに苦しみながらも、彼を受け入れている[3]。 出版物 神の痛みの神学 加藤常昭、ポール・シュナイス訳。Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972. |
https://de.wikipedia.org/wiki/Kazoh_Kitamori |
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北森 嘉蔵(きたもり かぞう、1916年(大正5年)2月1日 -
1998年(平成10年)9月29日)は、日本の牧師、神学者。東京神学大学の教授。神の痛みの神学の提唱者。 生涯 初期 熊本県熊本市に生まれる。旧制第五高等学校在学中にルーテル教会で盲目の牧師・石松量蔵により洗礼を受ける。卒業後、当時ルター研究の第一人者であった佐 藤繁彦の元で学ぶために1935年(昭和10年)に日本ルーテル神学専門学校に進学したが佐藤は同年4月に死去している。 1938年(昭和13年)3月、同校を卒業後の4月に、前年8月12日支那事変に応召出征した先輩・乾一郎牧師の後任としてルーテル芦屋教会(伝道所)の 牧師となる[1]。乾一郎は板垣退助の孫で、一郎の姉の夫・川瀬徳太郎牧師は、ルーテル神学専門学校の第1期卒業生に当たる[2]。その後、北森嘉蔵は、 1941年(昭和16年)京都帝国大学文学部哲学科卒業、田辺元の元で哲学を学んだ[3]。 教授時代 京大卒業後、日本ルーテル神学専門学校教授を経て、1943年(昭和18年)に日本東部神学校(翌年日本基督教神学専門学校に合流)の教授となり組織神学 を教えた。 終戦直後1946年(昭和21年)に出版した、『神の痛みの神学』は教会内外の人々に広く読まれた。また数か国語に翻訳された。海外でも知られる。 1949年(昭和24年)、日本基督教神学専門学校の後身である東京神学大学の教授になり、名誉教授になる。戦後、日本福音ルーテル教会が日本基督教団を 離脱するが、北森は教団にとどまり、日本基督教団内部における、会派問題の対処、信仰告白制定などに貢献した。 1992年(平成4年)これらの功績が認められ、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける[4]。 神の痛みの神学 神の痛みの神学の聖書箇所はエレミヤ書31:20。「主いひたまふエフライムは我愛するところの子悦ぶところの子ならずや我彼にむかひてかたるごとに彼を 念はざるを得ず是をもて我膓(はらわた)かれの爲に痛む我必ず彼を恤むべし」(文語訳聖書)。 参考「エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。そ れゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。(新改訳聖書) 北森は、「膓(はらわた)かれの爲に痛む」に注目し、ここに神の痛みがあるとしている。そして、その後に訳された口語訳聖書では、神の痛みが訳出されてい ないと指摘する。神の痛みの神学はユルゲン・モルトマンにも受け入れられた。 北森はマルティン・ルターの神学、十字架において「神と神とが戦った」を引用する。罪ゆえに人を滅ぼさんとする父なる神と、十字架で人を救わんとする子な るキリストが戦ったという。 日本基督教団 日本基督教団信仰告白を起草し、その解説を書いている。 |
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Jürgen
Moltmann (born 8 April 1926) is a German Reformed theologian who is
Professor Emeritus of Systematic Theology at the University of
Tübingen[4] and is known for his books such as the Theology of Hope,
The Crucified God, God in Creation and other contributions to
systematic theology.[5] Moltmann is the husband of Elisabeth Moltmann-Wendel, a notable feminist theologian. Moltmann described his own theology as an extension of Karl Barth's theological works, especially the Church Dogmatics, and he has described his own work as Post-Barthian. He has received honorary doctorates from a number of institutions, such as Duke University (1973),[6] the University of Louvain in Belgium (1995),[7] the Alexandru Ioan Cuza University in Romania (1996),[8] the Chung Yuan Christian University in Taiwan (2002),[9] the Nicaraguan Evangelical University (2002),[10] and the University of Pretoria in South Africa (2017).[11] Moltmann was selected to deliver the prestigious Gifford Lectures in 1984–85,[12] and was also the recipient of the 2000 University of Louisville and Louisville Presbyterian Theological Seminary Grawemeyer Award in Religion.[13] Moltmann developed a form of liberation theology predicated on the view that God suffers with humanity, while also promising humanity a better future through the hope of the Resurrection, which he has labelled a 'theology of hope'.[14] Much of Moltmann's work has been to develop the implications of these ideas for various areas of theology. Moltmann has become known for developing a form of social trinitarianism.[15] His two most famous works are Theology of Hope and The Crucified God.[16] Moltmann also served as a mentor to Miroslav Volf.[17] Life and career Youth Moltmann was born in Hamburg on 8 April 1926. He described his German upbringing as thoroughly secular. His grandfather was a grand master of the Freemasons. At sixteen, Moltmann idolized Albert Einstein, and anticipated studying mathematics at university.[citation needed] World War II He took his entrance exam to proceed with his education but instead went to war as an Air Force auxiliary in the German army. "The 'iron rations' in the way of reading matter which he took with him into the miseries of war were Goethe's poems and the works of Nietzsche."[18][19] He was drafted into military service in 1943 at the age of 16[20] and became a soldier in the German army. He worked in an anti-aircraft battery during the RAF bombing of his hometown of Hamburg, an attack that killed 40,000 people including a friend standing next to him.[21] Ordered to the Klever Reichswald, a German forest at the front lines, he surrendered in 1945 in the dark to the first British soldier he met. For the next few years (1945–48), he was confined as a prisoner of war and moved from camp to camp. He was first confined in Belgium. In the camp at Belgium, the prisoners were given little to do. Moltmann and his fellow prisoners were tormented by "memories and gnawing thoughts"—Moltmann claimed to have lost all hope and confidence in German culture because of the atrocities at Auschwitz and Buchenwald concentration camps. They also glimpsed photographs nailed up confrontationally in their huts, bare photographs of Buchenwald and Bergen-Belsen concentration camp.[22] Moltmann met a group of Christians in the camp, and was given a small copy of the New Testament and Psalms by an American chaplain. He gradually felt more and more identification with and reliance on the Christian faith. Moltmann later claimed, "I didn't find Christ, he found me." After Belgium, he was transferred to a POW camp in Kilmarnock, Scotland, where he worked with other Germans to rebuild areas damaged in the bombing. The hospitality of the Scottish residents toward the prisoners left a great impression upon him. In July 1946, he was transferred for the last time to Norton Camp, a British prison located in the village of Cuckney near Nottingham, UK. The camp was operated by the YMCA and here Moltmann met many students of theology. At Norton Camp, he discovered Reinhold Niebuhr's The Nature and Destiny of Man—it was the first book of theology he had ever read, and Moltmann claimed it had a huge impact on his life. His experience as a POW gave him a great understanding of how suffering and hope reinforce each other, leaving a lasting impression on his theology. After the war Moltmann returned home at 22 years of age to find his hometown of Hamburg (in fact, much of his country) in ruins from Allied bombing in World War II. Moltmann immediately went to work in an attempt to express a theology that would reach what he called "the survivors of [his] generation". Moltmann had hope that the example of the "Confessing Church" during the war would be repeated in new ecclesiastical structures. He and many others were disappointed to see, instead, a rebuilding on pre-war models in a cultural attempt to forget entirely the recent period of deadly hardship. In 1947, he and four others were invited to attend the first postwar Student Christian Movement in Swanwick, a conference center near Derby, England. What happened there affected him very deeply. Moltmann returned to Germany to study at the University of Göttingen, an institution whose professors were followers of Karl Barth and theologians who were engaged with the confessing [non-state] church in Germany. He received his doctorate from the University of Göttingen, under the direction of Otto Weber in 1952. From 1952 to 1957, Moltmann was the pastor of the Evangelical Church of Bremen-Wasserhorst. In 1958 Moltmann became a theology teacher at an academy in Wuppertal that was operated by the Confessing Church and in 1963 he joined the theological faculty at the University of Bonn. He was appointed Professor of Systematic Theology at the University of Tübingen in 1967 and remained there until his retirement in 1994. From 1963 to 1983, Moltmann was a member of the Faith and Order Committee of the World Council of Churches. From 1983 to 1993, Moltmann was the Robert W. Woodruff Distinguished Visiting Professor of Systematic Theology at Candler School of Theology at Emory University in Atlanta, Georgia. He delivered the Gifford Lectures at the University of Edinburgh in 1984–1985. Moltmann won the 2000 Louisville Grawemeyer Award in Religion for his book The Coming of God: Christian Eschatology.[23] In April 2017, Moltmann was awarded an Honorary Doctor of Theology degree (Doctor Divinitatis Honoris Causa) by the University of Pretoria, South Africa. Theological views The early Moltmann can be seen in his trilogy, Theology of Hope (1964), The Crucified God (1972), and The Church in the Power of the Spirit (1975): Theology of Hope was strongly influenced by the eschatological orientation of the Marxist philosopher Ernst Bloch's The Principle of Hope. The Crucified God posited that God died on the Cross, raising the question of the impassibility of God. The Church in the Power of the Spirit explores the implications of these explorations for the church in its own life and in the world. The later Moltmann took a less systematic approach to theology, leading to what he called his "systematic contributions to theology"[24] that sought to provoke and engage more than develop some kind of set Moltmannian theology. Moltmann corroborates his ideas with those of Roman Catholics, Orthodox Christians, and Jews in an attempt to reach a greater understanding of Christian theology, which he believes should be developed ecumenically. Moltmann has a passion for the Kingdom of God as it exists both in the future, and in the God of the present. His theology is often referred to as "Kingdom of God" Theology. His theology is built on eschatology, and the hope found in the resurrected Christ. This theology is most clearly explained in his book Theology of Hope. Moltmann's theology is also seen as a theology of liberation, though not in the sense that the term is most understood. Moltmann not only views salvation as Christ's "preferential option for the poor," but also as offering the hope of reconciliation to the oppressors of the poor. If it were not as such, divine reconciliation would be insufficient. Systematic contributions Jürgen Moltmann's most significant works consist of two sets of theological work: the first is his Contributions to Systematic Theology and the second is his Original Trinity.[5] Jürgen Moltmann's original trinity Theology of Hope (1967); Theologie der Hoffnung (1964);[5] The Crucified God (1974); Der gekreuzigte Gott (1972)[5] The Church in the Power of the Spirit (1975); Kirche in der Kraft des Geistes (1975)[5] Jürgen Moltmann's systematic contributions The Trinity and the Kingdom: The Doctrine of God (1981); Trinität und Reich Gottes. Zur Gotteslehre (1980)[5] God in Creation: An Ecological Doctrine of Creation (1985); Gott in der Schöpfung. Ökologische Schöpfungslehre (1985)[5] The Way of Jesus Christ: Christology in Messianic Dimensions (1990); Der Weg Jesu Christi. Christologie in messianischen Dimensionen (1989)[5] The Spirit of Life: A Universal Affirmation (1992); Der Geist des Lebens. Eine ganzheitliche Pneumatologie (1991)[5] The Coming of God: Christian Eschatology (1996) Das Kommen Gottes. Christliche Eschatologie (1995)[5] Experiences in Theology: Ways and Forms of Christian Theology (2000); Erfahrungen theologisen Denkens (2000) [5] Ethics of Hope (2012); Ethik der Hoffnung (2010)[5] Eschatology: theology of hope Moltmann's theology of hope is a theological perspective with an eschatological foundation and focuses on the hope that the resurrection brings. Through faith we are bound to Christ, and as such have the hope of the resurrected Christ ("Praise be to the God and Father of our Lord Jesus Christ! In his great mercy he has given us new birth into a living hope through the resurrection of Jesus Christ from the dead" (1 Peter 1:3, NIV)), and knowledge of his return. For Moltmann, the hope of the Christian faith is hope in the resurrection of Christ crucified. Hope and faith depend on each other to remain true and substantial; and only with both may one find "not only a consolation in suffering, but also the protest of the divine promise against suffering".[25] However, because of this hope we hold, we may never exist harmoniously in a society such as ours which is based on sin. When following the theology of hope, a Christian should find hope in the future but also experience much discontentment with the way the world is now, corrupt and full of sin. Sin bases itself in hopelessness, which can take on two forms: presumption and despair. "Presumption is a premature, selfwilled anticipation of the fulfillment of what we hope for from God. Despair is the premature, arbitrary anticipation of the non-fulfillment of what we hope for from God."[26] In Moltmann's opinion, all should be seen from an eschatological perspective, looking toward the days when Christ will make all things new. "A proper theology would therefore have to be constructed in the light of its future goal. Eschatology should not be its end, but its beginning."[27] This does not, as many fear, 'remove happiness from the present' by focusing all ones attention toward the hope for Christ's return. Moltmann addresses this concern as such: "Does this hope cheat man of the happiness of the present? How could it do so! For it is itself the happiness of the present."[28] The importance of the current times is necessary for the theology of hope because it brings the future events to the here and now. This theological perspective of eschatology makes the hope of the future, the hope of today. Hope strengthens faith and aids a believer into living a life of love, and directing them toward a new creation of all things. It creates in a believer a "passion for the possible" [29] "For our knowledge and comprehension of reality, and our reflections on it, that means at least this: that in the medium of hope our theological concepts become not judgments which nail reality down to what it is, but anticipations which show reality its prospects and its future possibilities."[29] This passion is one that is centered around the hope of the resurrected and the returning Christ, creating a change within a believer and drives the change that a believer seeks make on the world. For Moltmann, creation and eschatology depend on one another. There exists an ongoing process of creation, continuing creation, alongside creatio ex nihilo and the consummation of creation. The consummation of creation will consist of the eschatological transformation of this creation into the new creation.[30] The apocalypse will include the purging of sin from our finite world so that a transformed humanity can participate in the new creation. Liberation theology Moltmann's liberation theology includes an understanding of both the oppressed and the oppressor as needing reconciliation. "Oppression has two sides: on one side there is the master, on the other side the slave... Oppression destroys humanity on both sides."[31] The goal is one of mutual liberation. God's 'preferential option for the poor' should not be exclusive, but rather include the rich; insofar as God holds judgment over them also. The sufferings of the poor should not be seen as equal to or a representation of the sufferings of Jesus. Our suffering is not an offering to God, it is not required of us to suffer. The point of the crucified Christ was to present an alternative to human suffering. Human suffering is not a quality of salvation, and should not be viewed as such. This is not to say that the sufferings of humans is of no importance to God. This "mutual liberation" necessarily involves a "liberation of oppressors from the evil they commit; otherwise there can be no liberation for a new community in justice and freedom."[32] However, the liberation of the oppressed takes priority and must involve their own agency in order for true justice and reconciliation to be enacted: "In order to achieve this goal, the oppressed will have to free themselves from the constraints of oppression and cut themselves off from their oppressors, so as to find themselves and their own humanity. It is only after that that they can try to find a truly humane community with their previous oppressors."[32] This seeks to avoid either the dependency of the oppressed or the co-optation of the struggles of the oppressed by the oppressor. It is with this sensibility that Moltmann explores, in his Experiences in Theology, what various liberation theologies might mean for the oppressor: Black theology for whites, Latin American liberation theology for the First World, feminist theology for men, etc. He also moves beyond oppression as a mere personal sin and instead calls for oppressors to withdraw from the "structures of violence" that destroy the lives of the oppressed.[33] Trinitarian theology Moltmann stresses the perichoresis of the Father, Son, and Holy Spirit. This is to say that he believes the three dwell in one another. The three persons are differentiated in their characteristics, but related in their original exchange.[34] Moltmann seeks to defeat a monotheistic Christianity that is being used as a tool for political and clerical absolute monarchism. He believes the doctrine of the Trinity should be developed as the "true theological doctrine of freedom."[35] He suggests that we "cease to understand God monotheistically as the one, absolute subject, but instead see him in a trinitarian sense as the unity of the Father, the Son, and the Spirit."[36] Moltmann relates his views on the trinity to three modes of human freedom. The first mode is the political meaning of freedom as supremacy. This mode is rejected by Moltmann, who sees it as corresponding to a God who rules over his creation, which exists merely to serve Him. It is a relation of a subject with an object, where the goal is to enhance the supremacy of the subject. The second mode of human freedom is the socio-historical and Hegelian meaning of freedom as communion, which implies the relation between two subjects. This relationship aims at love and solidarity, and corresponds to the perichoresis of the Father and Son, and through the Son the children of God, or humanity. This relationship is both liberating and loving, and is one Moltmann favors. The third mode of human freedom is the implicitly religious concept of freedom as the passion of the creature for his or her potential. This deals with the relationship between subjects and their common future project. This is the mode favored most by Moltmann, who correlates this relationship with the one humans share with God in the realm of the Holy Spirit. Here, an indwelling of the Spirit allows humans to be friends with God. As you can see, the first mode of freedom is political, and focuses on The Father; the second is communal, focusing on the Son; and the third is religious, focusing on the Spirit.[36] Influences Upon his return to Germany in 1948, Moltmann began his course of study at Göttingen University, where he was strongly influenced by Karl Barth's dialectical theology. Moltmann grew critical of Barth's neglect of the historical nature of reality, and began to study Bonhoeffer. He developed a greater concern for social ethics, and the relationship between church and society. Moltmann also developed an interest in Luther and Hegel, the former of whose doctrine of justification and theology of the cross interested him greatly. His doctoral supervisor, Otto Weber, helped him to develop his eschatological perspective of the church's universal mission. Moltmann cites the English pacifist and anti-capitalist theologian Geoffrey Anketell Studdert Kennedy as being highly regarded. However the inspiration for his first major work, Theology of Hope, was the Marxist philosopher Ernst Bloch's The Principle of Hope. Bloch is concerned to establish hope as the guiding principle of his Marxism and stresses the implied humanism inherent in mystical tradition. Bloch claims to identify an atheism at the core of Christianity, embodied in the notion of the death of God and the continued imperative of seeking the Kingdom. The whole theme of the Theology of Hope was worked out in counterpoint to the theology of Wolfhart Pannenberg, who had worked alongside Moltmann at Wuppertal, and had also undergone a conversion experience during Germany's defeat in World War II. With its slogan of "History as Revelation", Pannenberg's theology has many parallels, but Moltmann was concerned to reject any notion of history as a closed system and to shift the stress from revelation to action: hope as the principle of revolutionary openness to the future. The background influence in all these thinkers is Hegel, who is referenced more times than any other writer in the Theology of Hope. Like the Left Hegelians who immediately succeeded the master, both Moltmann and Pannenberg are determined to retain the sense of history as meaningful and central to Christian discourse, while avoiding the essentially conformist and conservative aspects of his thought. In so doing, they are wrestling with the history of Germany itself. They are also implicitly offering a critique of the Neo-Orthodox theology of Karl Barth and Emil Brunner, which they see as ahistorical in its core. Moltmann writes that Barth's eschatology was at first "not unfriendly towards dynamic and cosmic perspectives" but that he then came under the influence of Plato and Kant and so "set to work in terms of the dialectic of time and eternity and came under the bane of the transcendental eschatology of Kant".[37] The liberalism of Rudolf Bultmann is not sharply distinguished from the other dialectical theologies, since it is still focussed on an event of revelation – albeit as "an event which transposes me into a new state of my self".[38] For Moltmann's second major work, The Crucified God, the philosophical inspiration comes from a different tendency within Marxist philosophy. In "Explanation of the Theme", his introduction to the book, Moltmann acknowledges that the direction of his questioning has shifted to that of existentialist philosophy and the Marxism of the Frankfurt School, particularly Theodor Adorno and Max Horkheimer – close associates of Paul Tillich. An unacknowledged influence, and certainly an important parallel, is probably the Death of God theology that was winning notice in the mid-1960s, particularly the essay collection under that title, edited by William Hamilton and Thomas J. J. Altizer in memory of Paul Tillich. The title of Moltmann's crucial work, however, is derived not from Nietzsche but from Martin Luther, and its use marked a renewed engagement with a specifically Lutheran strain in Protestant theology, as opposed to the more Calvinist tenor of his earlier work. Moltmann's widening interest in theological perspectives from a broad cultural arena is evident in his use of the 1946 book by Kazoh Kitamori, Theology of the Pain of God,[39] which he relates to Bonhoeffer's prison reflections.[40] However, he footnotes Kitamori's very conservative, individualist conclusions, which he does not share. Moltmann continued to see Christ as dying in solidarity with movements of liberation, God choosing to die with the oppressed. This work and its footnotes are full of references, direct and implied, to the New Left and the uprisings of 1968, the Prague Spring the French May and, closest to home, the German APO, and their aftermath. In the Spring 2004 Pneuma, Moltmann cites Johann and Christoph Blumhardt as being major contributors to his thought. |
ユルゲン・モルトマン(1926年4月8日生まれ)は、ドイツの改革派神学者で、テュービンゲン大学の体系神学名誉教授[4]であり、『希望の神学』、『十字架につけられた神』、『創造の中の神』などの著書や体系神学への貢献で知られている[5]。 モルトマンは、著名なフェミニスト神学者であるエリザベート・モルトマン・ウェンデルの夫である。モルトマンは、自身の神学をカール・バルトの神学著作、 特に『教会教義学』の延長線上にあるとし、自身の著作をポスト・バルト的であると述べている。デューク大学(1973年)、[6] ベルギーのルーヴァン大学(1995年)、[7] ルーマニアのアレクサンドル・イオアン・クーザ大学(1996年)、[8] 台湾の中原基督教大学(2002年)、[9] ニカラグア福音主義大学(2002年)、[10] 南アフリカのプレトリア大学(2017年)など、多くの機関から名誉博士号を授与されている。 [11] モルトマンは、1984年から85年にかけて権威あるギフォード講義の講師に選ばれ[12]、2000年にはルイビル大学およびルイビル長老神学校の宗教 学におけるグロウメイヤー賞を受賞している[13]。 モルトマンは、神が人間とともに苦悩する一方、復活の希望を通して人類により良い未来を約束するという見解を前提とした解放の神学の形態を発展させ、これ を「希望の神学」と名付けている[14]。モルトマンは社会的三神論を展開したことで知られるようになった[15]。モルトマンの代表的な著作は『希望の 神学』と『十字架につけられた神』である[16]。 生涯とキャリア 青年期 モルトマンは1926年4月8日にハンブルグで生まれた。彼のドイツでの生い立ちは徹底して世俗的であったという。祖父はフリーメイソンのグランドマス ターであった。16歳の時、モルトマンはアルベルト・アインシュタインに憧れ、大学で数学を学ぶことを予期していた[citation needed]。 第二次世界大戦 モルトマンは、進学のための入学試験を受けたが、その代わりにドイツ軍の空軍補助要員として出征した。「1943年、16歳で徴兵され[20]、ドイツ軍 の兵士となる。1945年、最前線にあるドイツの森、クレーバー・ライヒスヴァルトに送られ、暗闇の中、最初に出会ったイギリス兵に投降。その後数年間 (1945-48年)、捕虜として収容され、収容所を転々とした。 最初に収容されたのはベルギーだった。ベルギーの収容所では、囚人たちはほとんどすることを与えられなかった。アウシュビッツとブッヘンヴァルトの強制収 容所での残虐行為のせいで、ドイツ文化に対する希望と自信を失ったとモルトマンは主張した。彼らはまた、小屋に対立するように釘付けされた写真、ブッヘン ヴァルトとベルゲン・ベルゼン強制収容所の剥き出しの写真を垣間見た[22]。 モルトマンは収容所でクリスチャンのグループに出会い、アメリカ人の牧師から新約聖書と詩篇の小さなコピーを与えられた。モルトマンは次第にキリスト教の 信仰に共感し、頼るようになった。モルトマンは後に、「私がキリストを見つけたのではなく、キリストが私を見つけたのだ 」と主張した。ベルギーの後、彼はスコットランドのキルマーノックにある捕虜収容所に移され、そこで他のドイツ人とともに爆撃で被害を受けた地域の再建に 取り組んだ。捕虜に対するスコットランド住民の歓待は、彼に大きな印象を残した。1946年7月、彼はイギリスのノッティンガム近郊のカックニー村にある イギリスの刑務所、ノートン・キャンプに最後に移送された。このキャンプはYMCAによって運営されており、モルトマンはここで多くの神学生と出会った。 モルトマンはノートン・キャンプでラインホルド・ニーバーの『人間の本性と運命』に出会い、それが彼が初めて読んだ神学の本であり、彼の人生に大きな影響 を与えたと述べている。捕虜としての体験は、苦悩と希望がいかに互いを補強し合うかについて大きな理解を与え、彼の神学に永続的な印象を残した。 戦後 22歳で帰国したモルトマンは、第二次世界大戦の連合軍の爆撃で故郷ハンブルク(実際には彼の国の大部分)が廃墟と化しているのを目の当たりにした。モル トマンは直ちに、彼が「(自分の)世代の生存者たち」と呼ぶ人たちに届く神学を表現する試みに取りかかった。モルトマンは、戦時中の「告白教会」の模範が 新しい教会構造の中で繰り返されることを期待していた。しかし、モルトマンや他の多くの人々は、戦前を模範とした再建を目の当たりにし、最近の苦難の時代 を完全に忘れようとする文化的な試みに失望した。 1947年、彼と他の4人は、イギリスのダービー近郊の会議場スワンウィックで開催された戦後初の学生キリスト教運動に招待された。そこで起こったこと は、彼に非常に深い影響を与えた。モルトマンはドイツに戻り、ゲッティンゲン大学で学んだ。ゲッティンゲン大学の教授陣はカール・バルトの信奉者であり、 ドイツの告白教会(非国家教会)と関わっていた神学者たちであった。 1952年、オットー・ウェーバーの指導の下、ゲッティンゲン大学で博士号を取得。1952年から1957年まで、ブレーメン・ヴァッサーホルスト福音教 会の牧師を務める。1958年、モルトマンは告白教会が運営するヴッパータールのアカデミーの神学教師となり、1963年にはボン大学の神学部に加わっ た。1967年にテュービンゲン大学の体系神学教授に任命され、1994年に定年退職するまで同教授を務めた。1963年から1983年まで、世界教会協 議会の信仰と秩序委員会の委員を務める。1983年から1993年まで、モルトマンはジョージア州アトランタのエモリー大学キャンドラー神学大学院のロ バート・W・ウッドラフ特別客員教授(体系神学)を務めた。1984~1985年にはエジンバラ大学でギフォード講義を行った。モルトマンは、著書 『The Coming of God(神の到来)』で2000年度ルイビル・グローエマイヤー賞(宗教部門)を受賞: 2017年4月、モルトマンは南アフリカのプレトリア大学から名誉神学博士号(Doctor Divinitatis Honoris Causa)を授与された。 神学的見解 初期のモルトマンは、『希望の神学』(1964年)、『十字架につけられた神』(1972年)、『聖霊の力による教会』(1975年)の3部作に見ることができる: 『希望の神学』は、マルクス主義哲学者エルンスト・ブロッホの『希望の原理』の終末論的志向に強い影響を受けた。 十字架につけられた神』は、神が十字架上で死なれたことを仮定し、神の不可触性への疑問を提起した。 The Church in the Power of the Spirit(聖霊の力による教会)』は、これらの探求が教会自身の生活と世界において持つ意味を探求している。 後期のモルトマンは神学に対してあまり体系的なアプローチをとらず、彼が「神学への体系的な貢献」[24]と呼ぶ、ある種のモルトマン的神学を発展させることよりも、挑発し、関与させることに努めた。 モルトマンは、キリスト教神学をより深く理解するために、ローマ・カトリック、正統派キリスト者、ユダヤ人の考えと照らし合わせ、エキュメニカルに発展させるべきだと考えている。 モルトマンは、未来にも現在の神にも存在する神の国への情熱を持っている。彼の神学はしばしば「神の国」神学と呼ばれる。彼の神学は終末論と、復活したキリストに見出される希望に基づいている。この神学は、著書『希望の神学』で最も明確に説明されている。 モルトマンの神学はまた、解放の神学と見なされているが、この言葉が最も理解されている意味ではない。モルトマンは、救いをキリストの「貧しい人々への優 先的選択」とみなすだけでなく、貧しい人々を抑圧する者たちに和解の希望を与えるものだとも考えている。もしそうでなければ、神の和解は不十分なものと なってしまうだろう。 体系的な貢献 ユルゲン・モルトマンの最も重要な著作は、2つの神学的著作から成る。1つ目は『体系神学への貢献』、2つ目は『原初の三位一体』である[5]。 ユルゲン・モルトマンの三位一体の原型 希望の神学』(1967年)、『希望の神学』(1964年)、[5]。 十字架につけられた神』(1974年);『Der gekreuzigte Gott』(1972年)[5]。 聖霊の力における教会』(1975年);Kirche in der Kraft des Geistes(1975年)[5]。 ユルゲン・モルトマンの体系的貢献 三位一体と王国 神の教理 (1981); Trinität und Reich Gottes. Zur Gotteslehre』(1980年)[5]。 創造における神: 創造における神:創造の生態学的教義』(1985年);『創造の中の神』(Ökologische Schöpfung. Ökologische Schöpfungslehre』(1985年)[5]。 イエス・キリストの道: メシア的次元におけるキリスト論 (1990); Der Weg Jesu Christi. メシア的次元におけるキリスト論』(1989年)[5] いのちの霊: A Universal Affirmation (1992); Der Geist des Lebens. Eine ganzheitliche Pneumatologie(1991年)[5]。 神の到来: キリスト教終末論 (1996) Das Kommen Gottes. キリスト教終末論(1995年)[5] 神学における経験: キリスト教神学の方法と形式(2000年);Erfahrungen theologisen Denkens(2000 年)[5]。 希望の倫理学』(2012年);Ethik der Hoffnung(2010)[5] 終末論:希望の神学 モルトマンの希望の神学は、終末論を基礎とする神学的視点であり、復活がもたらす希望に焦点を当てている。信仰によって私たちはキリストと結ばれ、復活し たキリストの希望を持っている!私たちの主イエス・キリストの父であり、神である神は、その大いなる憐れみによって、死者の中からのイエス・キリストの復 活によって、私たちに生ける希望への新しい誕生をお与えになりました。モルトマンにとって、キリスト教信仰の希望とは、十字架につけられたキリストの復活 への希望である。希望と信仰は、真実であり続けるために互いに依存し合っている。そして、その両方があって初めて、人は「苦しみにおける慰めだけでなく、 苦しみに対する神の約束の抗議」を見出すことができるのである[25]。 しかし、私たちが抱くこの希望のゆえに、私たちのような罪を基盤とする社会では、決して調和的に存在することはできないかもしれない。希望の神学に従え ば、クリスチャンは未来に希望を見出すはずであるが、同時に、腐敗し、罪に満ちた今の世界のあり方に多くの不満を感じるはずである。罪は自らを絶望に基づ かせ、その絶望には2つの形がある。「僭越 」とは、神から望むことが成就されることを、早合点して勝手に期待することである。絶望とは、私たちが神から願うことが成就しないという早合点で勝手な予 想である」[26]。 モルトマンに言わせれば、すべては終末論的な視点から、キリストがすべてを新しくしてくださる日を見据えるべきである。「それゆえ、適切な神学は、将来の 目標に照らして構築されなければならない。終末論はその終わりでなく、始まりであるべきだ」[27]。このことは、多くの人が恐れているように、キリスト の再臨への希望にすべての注意を向けることによって、「現在から幸福を取り除く」ことではない。モルトマンはこの懸念を次のように述べている: 「この希望は、現在の幸福から人間をだますのだろうか。どうしてそんなことができようか!なぜなら、それ自体が現在の幸福だからである」[28]。希望の 神学にとって、現在の時代の重要性は必要である。この終末論の神学的視点は、未来の希望を今日の希望にする。 希望は信仰を強め、信仰者が愛の生活を送り、万物の新しい創造に向かうのを助ける。それは信者の中に「可能性への情熱」[29]を生み出す。「現実に対す る私たちの知識と理解、そしてそれに対する私たちの考察にとって、それは少なくともこのことを意味する。希望という媒介の中で、私たちの神学的概念は、現 実をありのままに釘付けにする判断ではなく、現実にその展望と未来の可能性を示す予期となる」[29]。 モルトマンにとって、創造と終末論は互いに依存している。創造の継続的な過程、すなわち創造の継続が存在し、それと並行して、ニヒロの創造と創造の完成が 存在する。被造物の完成は、この被造物が新しい被造物へと終末論的に変容することからなる[30]。終末には、変容した人類が新しい被造物に参加できるよ うに、有限の世界から罪が浄化されることが含まれる。 解放の神学 モルトマンの解放の神学には、被抑圧者と抑圧者の双方が和解を必要としているという理解が含まれている。「抑圧には2つの側面があり、一方には主人がい て、他方には奴隷がいる。抑圧は双方の人間性を破壊する。神の「貧しい者への優先的な選択」は排他的であってはならず、むしろ富める者も含まれるべきであ る。貧しい人々の苦しみは、イエスの苦しみと同等であると見なすべきではないし、イエスの苦しみの代表であると見なすべきではない。私たちの苦しみは神へ の捧げ物ではなく、私たちに苦しみを要求されるものでもない。十字架につけられたキリストのポイントは、人間の苦しみに代わるものを提示することだった。 人間の苦しみは救いの質ではないし、そのように見なすべきではない。これは、人間の苦しみが神にとって重要でないと言っているのではない。 しかし、真の正義と和解を実現するためには、抑圧された人々の解放が優先され、彼ら自身の主体性を伴うものでなければならない: 「この目標を達成するためには、被抑圧者は抑圧の束縛から自らを解放し、抑圧者から自らを切り離し、自分自身と自分自身の人間性を見出さなければならな い。そうして初めて、それまでの抑圧者と真に人間的な共同体を見出そうとすることができるのだ」[32]。このことは、抑圧者の依存や、抑圧者による抑圧 者の闘争の共同化を避けようとするものである。モルトマンが『神学の経験』の中で、さまざまな解放の神学が抑圧者にとってどのような意味を持つかを探求し ているのは、このような感性に基づくものである: 白人にとっての黒人の神学、第一世界にとってのラテンアメリカの解放の神学、男性にとってのフェミニストの神学などである。彼はまた、単なる個人的な罪と しての抑圧を越えて、抑圧された人々の生活を破壊する「暴力の構造」から退くことを抑圧者に求めている[33]。 三位一体の神学 モルトマンは父、子、聖霊のペリコレシスを強調する。つまり、モルトマンは三者が互いに宿っていると信じているのである。モルトマンは、政治的・聖職的な 絶対君主主義の道具として使われている一神教を打ち破ろうとしている。彼は三位一体の教義を「自由の真の神学的教義」として発展させるべきだと考えており [35]、「神を唯一絶対の主体として一神教的に理解することをやめ、その代わりに父、子、聖霊の一致として三位一体の意味で神を見る」ことを提案してい る[36]。 モルトマンは、三位一体に関する彼の見解を、人間の自由の3つの様式と関連づけている。第一の様式は、自由の政治的な意味での優位性である。この様式はモ ルトマンによって否定され、単に神に仕えるために存在する被造物を支配する神に対応するものと見なされる。それは主体と客体との関係であり、その目的は主 体の優位性を高めることにある。人間の自由の第二の様式は、社会史的かつヘーゲル的な意味での「交わりとしての自由」である。この関係は愛と連帯を目指す ものであり、父と子、そして子を通して神の子、すなわち人類のペリコレシスに相当する。この関係は解放的であると同時に愛に満ちたものであり、モルトマン が好んでいる関係である。人間の自由の第三の態様は、被造物の可能性への情熱としての自由という暗黙の宗教的概念である。これは、主体間の関係と、彼らに 共通する未来のプロジェクトを扱うものである。これはモルトマンが最も好む様式であり、彼はこの関係を、聖霊の領域において人間が神と共有する関係と関連 付けている。ここでは、聖霊の内住によって、人間は神と友達になることができる。お分かりのように、自由の第一の様式は政治的なものであり、父に焦点を当 て、第二は共同体的なものであり、子に焦点を当て、第三は宗教的なものであり、聖霊に焦点を当てる[36]。 影響 1948年にドイツに戻ったモルトマンは、ゲッティンゲン大学で学び始め、カール・バルトの弁証法神学の影響を強く受ける。モルトマンは、バルトが現実の 歴史的本質を軽視していることに批判的になり、ボンヘッファーの研究を始めた。社会倫理、教会と社会の関係により大きな関心を抱くようになった。ルターと ヘーゲルにも関心を持ち、ルターの義認の教義と十字架の神学に大きな関心を抱いた。博士課程の指導教官であったオットー・ウェーバーは、モルトマンが教会 の普遍的使命に関する終末論的視点を発展させるのに役立った。 モルトマンは、イギリスの平和主義者で反資本主義の神学者ジェフリー・アンケテル・スタッダート・ケネディを高く評価している。しかし、彼の最初の主要著 作『希望の神学』にインスピレーションを与えたのは、マルクス主義哲学者エルンスト・ブロッホの『希望の原理』であった。ブロッホは、彼のマルクス主義の 指導原理として希望を確立することに関心を持ち、神秘主義の伝統に内在する暗黙のヒューマニズムを強調している。ブロッホは、キリスト教の核心にある無神 論を特定することを主張しており、それは神の死という概念と、御国を求め続けるという命令によって具体化されている。希望の神学』の全テーマは、ヴッパー タールでモルトマンとともに働き、第二次世界大戦でドイツが敗戦した際に回心を経験したヴォルフハルト・パンネンベルクの神学と対置される形で展開され た。啓示としての歴史」というスローガンを掲げたパンネンベルクの神学には類似点が多いが、モルトマンは、歴史を閉じたシステムとして捉える考え方を否定 し、啓示から行動へと重点を移すことに関心を寄せていた。 これらすべての思想家の背景には、『希望の神学』で最も多く言及されているヘーゲルの影響がある。ヘーゲルの後を継いだ左翼ヘーゲル主義者たちのように、 モルトマンもパンネンベルクも、ヘーゲルの思想の本質的に適合主義的で保守的な側面を避けつつも、キリスト教的言説の意義深く中心的なものとしての歴史認 識を保持しようと決意している。そうすることで、彼らはドイツの歴史そのものと格闘しているのである。彼らはまた、カール・バルトとエミール・ブルンナー の新正統派神学に対する批判を暗に提示している。モルトマンは、バルトの終末論は最初は「動的で宇宙的な視点に対して不親切ではなかった」が、その後プラ トンとカントの影響を受けるようになり、「時間と永遠の弁証法の観点から取り組むようになり、カントの超越論的終末論の弊害を受けるようになった」と書い ている[37]。 [ルドルフ・ブルトマンの自由主義は、他の弁証法的神学と明確に区別されることはないが、それは依然として啓示の出来事に焦点を当てているからである。 モルトマンの2番目の主要著作である『十字架につけられた神』では、マルクス主義哲学の中の異なる傾向から哲学的なインスピレーションを得ている。本書へ の序論である「テーマの説明」の中で、モルトマンは、自分の問いかけの方向性が、実存主義哲学とフランクフルト学派のマルクス主義、特にパウル・ティリッ ヒの側近であったテオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーにシフトしたことを認めている。1960年代半ばに注目されるようになった「神の死」神 学、特にウィリアム・ハミルトンとトーマス・J・J・アルタイザーがパウル・ティリッヒを追悼して編集したこのタイトルのエッセイ集は、知られざる影響で あり、重要な並行関係であることは間違いない。 しかし、モルトマンの重要な著作のタイトルは、ニーチェではなくマルティン・ルターに由来するものであり、このタイトルの使用は、モルトマン以前の著作が よりカルヴァン主義的な色彩を帯びていたのとは対照的に、プロテスタント神学において特にルター派の系統と再び関わりを持つようになったことを示すもので あった。モルトマンが幅広い文化的領域からの神学的視点に関心を持つようになったことは、彼が1946年に北森一穂の著書『神の痛みの神学』[39]を用 いて、ボンヘッファーの獄中での考察と関連付けていることからも明らかである[40]。しかし、彼は北森の非常に保守的で個人主義的な結論に脚注してお り、それは彼自身は共有していない。モルトマンは、キリストは解放運動と連帯して死ぬ、神は抑圧された者と共に死ぬことを選ぶと考え続けた。この著作とそ の脚注は、新左翼と1968年の蜂起、プラハの春、フランスの5月、そして最も身近なところではドイツのAPOとその余波への直接的、暗示的な言及に満ち ている。 2004年春の『プネウマ』で、モルトマンはヨハンとクリストフ・ブルムハルトを彼の思想に大きく貢献した人物として挙げている。 |
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