メンデルスゾーン三代
Mendelssohn, three generations
Kupferstich von Daniel Chodowiecki: Moses
Mendelssohn wird am Berliner Tor zu Potsdam examiniert, 1792. Mitte
Mendelssohn, der dem preußischen Offizier seine Papiere zur Kontrolle
überreicht./ Abraham Mendelssohn Bartholdy, 1884. author Sebastian
Hensel d. c. 1900./ Felix Mendelssohn Bartholdy im Alter von 12 Jahren,
Ölskizze von Carl Joseph Begas, 1821
★モーゼス・メンデルスゾーン(1729-1786)、アブラハム・メンデルスゾーン(1776-1835)、フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)の三代にわたり、年譜を作成し、この三代と当時のユダヤ思想/反ユダヤ思想についての位相を測量する(→「ユダヤ人問題について」)。
モーゼス・メンデルスゾーン(1729-1786) | アブラハム・メンデルスゾーン(1776-1835) | フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847) | |
1729 |
・
貧しいソーフェル(聖書筆写師)の子としてドイツのデッサウに生まれた。母語は西方イディッシュ語であった。父は名をメンデル・ハイマン
(Mendel Heymann)
といい、「デッサウのメンデル」という意味でメンデル・デッサウと呼ばれていた。モーゼスもモーゼス・メンデル・デッサウなどと呼ばれていたが、後に「メ
ンデルの息子」という意味でドイツ語風にメンデルスゾーン姓を名乗るようになった。 ・https://de.wikipedia.org/wiki/Moses_Mendelssohn | ||
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・ユダヤ人の貧困階層のため就学できず、父親とラビのダーフィト・フレ
ンケル(英語版)(David ben Naphtali Fränkel (1704 - 1762)
[1])から聖書やマイモニデスの哲学、タルムードなどの(すぐれてユダヤ的な)教育を施される。このフレンケルがベルリンへ移住したため、後を追って同
地へ移り住んだ。同地で貧困と戦いながら、ほぼ独学で哲学等を修得した。その他、ラテン語、英語、フランス語なども修めた。また、ジョン・ロック、ヴォル
フ、ライプニッツ、スピノザなどの哲学に親しみ、これらの教養がかれの哲学の下地となった。 |
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・21歳の時、裕福なユダヤ商人イサーク・ベルンハルトから子どもたちの家庭教師を依頼され、この任を4年務めた後、ベルンハルトの絹織物工場の簿記係となった(後には社員、そして共同経営者となった)。 |
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1753 |
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1754 |
・ドイツの劇作家レッシングを知る。また、カントとも文通で交流を深め
た。レッシングの数々の劇作において、ユダヤ人は非常に高貴な人物として描かれていた(なお、レッシングの代表作「賢者ナータン」のモデルはメンデルス
ゾーンである)。これらはメンデルスゾーンに深い感動を与えるとともに、メンデルスゾーンを啓蒙思想へと導き、信仰の自由を確信せしめた。その後、処女作
としてレッシングを賞賛する著作を書き、レッシングもメンデルスゾーンに対する哲学の著作を書き、互いに親交を深めた。 |
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・メンデルスゾーンの名声は高まり、1763年にはベルリン・アカデ
ミー懸賞論文で、数学の証明と形而上学に関する論文でカントに競り勝つ。後にカント哲学を論難する人物とみなされるに至った。晩年には主として神の存在の
証明に関する研究に没頭し、『暁 − 神の現存についての講義』(Morgenstunden oder Vorlesungen über das
Dasein Gottes)
を著した。また、生涯を通じての親友レッシングを巡ってヤコービらと汎神論論争を起こした。その反論書『レッシングの友人たちへ』 (Moses
Mendelssohn an die Freunde Lessings) を刊行中、風邪をこじらせて他界した。 |
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1775 |
★アブラハム・メンデルスゾーン(1776-1835) https://de.wikipedia.org/wiki/Abraham_Mendelssohn_Bartholdy |
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1776 |
アブラハム・メンデルスゾーンとしてベルリンに生まれた。父は哲学者のモーゼス・メンデルスゾーンである。 |
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1786 |
・この年に他界 ・メンデルスゾーンは、当時キリスト教徒から蔑視されていたユダヤ教徒にも人間の権利として市民権が与えられるべきことを訴えるとともに、自由思想や科学 的知識を普及させ、人間としての尊厳を持って生きることが必要であると説いた。そうした目的を成し遂げるためには、信仰の自由を保証することが必要である とした。そしてこうした考えを、体系的でない、いわゆる「通俗哲学」として表現した。ユダヤ教徒の身分的解放という点で、メンデルスゾーンの果たした役割 は大きい。 |
モーゼスが1786年に他界した時には、メンデルスゾーン一家は名のある裕福な家庭となっていた。ドイツ系ユダヤ人は、ユダヤの文化と同時にドイツの文化にも参画しなければならないという父モーゼスの考えに従い、アブラハムは自由主義的な教育を受けた。 |
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1792 |
1792年にはユダヤ自由主義組織「Gesellschaft der Freunde」の創立メンバーとなり |
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1793 |
1793年には合唱団ベルリン・ジングアカデミー[注 1]の設立にも関わっている。 |
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1794 |
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1796 |
ダニエル・イッツィッヒ(英語版)[注 2]の孫娘で、後に伴侶となるレア・ザロモン(ドイツ語版)がアカデミーに入団したが、2人はおそらくそれ以前に出会っていたものと思われる。 |
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1797 |
アブラハムは兄のヨーゼフの命に従い、銀行経営を学びにパリへと赴い
た。ヨーゼフはダニエル・イツィッヒの孫であるモーゼス・フリートランダー(Moses
Friedlander)と共同で、メンデルスゾーン・フリートランダー金融会社を設立していた。フランスでの生活はアブラハムには魅力のないものだっ
た。 |
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1798 |
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1799 |
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1800 |
・カール・フリードリヒ・ツェルターはジングアカデミーの責任者となる。 |
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1801 |
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1803 |
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1804 |
・アブラハムはレアとハンブルクで結婚し、その地で一家の銀行の事務所
を運営した。この時期のどこかの時点で、彼はレアの知り合いであったゲオルク・ペルヒャウ(ドイツ語版)[注
3]と出会っている。ペルヒャウはC.P.E.バッハの遺言実行人であり、その多くの草稿をおばで音楽家のザラ・レヴィ(Sara
Levy)に譲ったが、レヴィがこれらをジングアカデミーに寄贈している。 ・アブラハムは兄ヨーゼフの銀行会社の協力者となった。この協力関係は1822年まで続くことになる。のちにMendelssohn & Co.として知られるようになるこの私的な銀行は、ベルリンのイェーゲルシュトラーセ(Jägerstraße)に1815年から1938年まで営業し た。 |
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1808 |
★フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847) https://de.wikipedia.org/wiki/Felix_Mendelssohn_Bartholdy |
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1809 |
●ユダヤ教に対する態度: アブラハムは自分のユダヤの出自に対しては断固とした態度を取った。彼はユダヤ教の時代は終わっており、ドイツ社会の一部となるべく実践的な第一歩を踏み 出すことが必要であると考えていた。この目的のために彼とレアは1809年、1812年にそれぞれ生まれたフェリックスとパウルの兄弟には、あえて割礼を 受けさせないという決断をしたが、これはレアの母との間で議論を引き起こした。彼の父モーゼスは、姓を変えてはどうかという、レアの弟のヤコプ・ザロモ ン・バルトルディ(英語版)[注 5]の助言を受け入れた。ヤコプはルイーゼン広場(英語版)[注 6]にあった土地を相続し、その名前にちなんでバルトルディと名乗っており、アブラハムも彼に倣ってこの名前を採用した。著名人であった父のモーゼスは 「ユダヤ教の孔子などいないのと同様に、クリスチャンのメンデルスゾーンなどもまた存在し得ないのだ。」と述べており、アブラハムは後にフェリックスに対 し書簡を送り「メンデルスゾーンを名乗るのを止め、バルトルディ姓のみを用いるように」と急かしている。しかしフェリックスは両方の姓を使い続け、聴衆は 単に彼を"メンデルスゾーン"と呼ぶようになった。アブラハムは当初、子ども達を宗教教育を受けさせずに育て |
ドイツのハンブルクで生まれる。 |
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1810 |
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1811 |
フランスがハンブルクを占領、貿易を制限したためアブラハムと一家はベ
ルリンへと戻った。フェリックスと姉ファニーが誕生して音楽に顕著な才能を見せ始めたため、2人にはその才能を伸ばす教育を受けさせた。しかしながら、ア
ブラハムは音楽がフェリックスにはキャリアを切り開くかもしれないが、ファニーにとっては時間の無駄になるだけだと型に嵌った考え方をしていた。 ・アブラハムは1801年にジングアカデミーの責任者となっていたカール・フリードリヒ・ツェルターにフェリックスの指導を任せた。後に、アブラハムはピ アニストのイグナーツ・モシェレスを雇って子ども達にレッスンを頼み、これがきっかけでメンデルスゾーン一家とモシェレスの交際が続くことになる。 ・レベッカ・ヘンリエッテ・ディリクレ(フェリックスの妹) |
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1812 |
・後に銀行家となる、パウル(Paul 1812年生)が生まれる。 |
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1813 |
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1814 |
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1815 |
・Mendelssohn & Co.銀行として知られるようになるこの私的な銀行は、ベルリンのイェーゲルシュトラーセ(Jägerstraße)に営業を開始する。 |
母からピアノを学ぶ。 | |
1816 |
・フェリックスとパウルに、洗礼をうけさせる |
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1817 |
父親がパリに赴任した際に同行して、マリー・ビゴーのレッスンを受ける。子供の頃から、音楽に限らずフェリックス少年の才能を伸ばそうという親の配慮が常に見られた。この年からベルリンでカール・フリードリヒ・ツェルターに作曲を学ぶ。 |
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1818 |
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1819 |
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1820 |
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1821 |
ツェルターの紹介でヴァイマルに住む72歳のゲーテを訪問して2週間ほど滞在。 |
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1822 |
・自身とレアも1822年10月4日にフランクフルトで洗礼を受けた(ベルリンの親族たちを避けて) |
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1823 |
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1824 |
バッハの「マタイ受難曲」の写筆スコアを母方の祖母よりクリスマス・プレゼントとして贈られる。 |
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1825 |
・アブラハムはベルリンの市議に選出 |
父と共にパリに行き、パリ音楽院の院長ケルビーニや、フンメル、モシェレス、ロッシーニ、マイヤベーヤの知遇を得る。 |
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1826 |
シェイクスピアの戯曲を題材とした「夏の夜の夢 序曲」を作曲。 |
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1827 |
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1828 |
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1829 |
・アブラハムはフェリックスが1829年に初めてイングランドに赴いた
際には息子にモシェレスへの挨拶を頼み、またその後に彼自身がロンドンを訪れた時にはモシェレスの元に滞在している。ベルリンのメンデルスゾーン家の邸宅
ではしばしば演奏会が開かれており、これら内輪の機会の多くがフェリックスの初期作品を披露し、フェリックスとファニーら自身が演奏する場となったのであ
る。 |
3月11日、自らの監督により、「マタイ受難曲」の公開演奏をバッハの
死後初めて行う。会場はベルリン・ジングアカデミーのホールで、ピアノで通奏低音を担当しながら指揮した。この日は、パガニーニのベルリンでの初リサイタ
ルと重なっていたが、会場には入りきれない人が千人も出たと言う。公演は大成功で、更に10日後の3月21日(バッハの誕生日)に第2回の演奏会を行っ
た。作品の素晴らしさを印象づける事を意図した為に大胆な削除も行い、テンポや強弱の変化を駆使している。演奏会場には、ベートーヴェンが第9交響曲を献
呈した国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世や哲学者ヘーゲル、思想家フリードリヒ・シュライアマハー、詩人ハイネ等がいた。 |
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1835 |
・アブラハム死去 |
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となる。 |
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1841 |
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に招かれ、ベルリンの宮廷礼拝堂楽長に就任する。 |
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1842 |
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1843 |
自ら奔走して設立資金を集め、ライプツィヒ音楽院を開校し、院長となる。作曲とピアノの教授にはロベルト・シューマンが招聘された。 |
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1844 |
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1845 |
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1846 |
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1847 |
5月訪英の途上、姉ファニーの死の報に接し、悲嘆の余り神経障害を起こ
す。一時回復したが、11月3日には意識を失い、翌日ライプツィヒにて没した。生前は特に病弱という事も無く、登山等もしていた事、父アブラハムも姉ファ
ニーも似たように若くして突然逝去している事等から、何か遺伝的な要因があったのではないかとする説もある。 |
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1850 |
ワーグナー著の論文「音楽におけるユダヤ性」で芸術性を否定される。 |
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1892 |
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス前にメンデルスゾーン記念像が建造される。 |
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1933 |
11月 ナチス・ドイツにより、ユダヤ人作曲家の音楽の公演をすべて禁止する指令が発布される(しかしその後もしばしばメンデルスゾーンの音楽は演奏されており、1935年にはベルリンでヴァイオリン協奏曲ホ短調が録音されている)。 |
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1936 |
ライプツィヒ市長カール・ゲルデラーがフィンランド出張中に、ナチスの将校がゲヴァントハウス前のメンデルスゾーンの銅像を引き降ろし、スクラップにするよう命令を下した。ライプツィヒへ戻ったゲルデラーは抗議の後銅像再建を進め、翌年3月ライプツィヒ市長職を辞職。 |
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1938 |
Mendelssohn & Co.銀行がナチスより消滅する。 |
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