長與專齋(長与専斎)
Sensai NAGAYO, 1838-1902
衛生は、文字通り「生命」を「衛る」こ と。Hygiene の翻訳であるが、長与専斎(長與專齋)が荘子の庚桑楚篇(23)(「」) からあてたものと言われている。『松本順自伝・長与専斎自伝』小川鼎 三・酒井シヅ校注、平凡社〈東洋文庫386〉、1980年; 長與の自伝『松香私志』に「荘子の庚桑楚篇に衛生といへる言あるを憶ひつき、本書の意味とは較々異なれども字面高雅にして呼聲もあしからずとて、遂にこれ を健康保護の事務に適用したりければ、こたひ改めて本局の名に充てられん事を申出て衛生局の称は茲に始めて定まりぬ」と記している(出典:こちら)。
長與專齋(長与 専斎)とは?——日本語ウィキペディアによる(Baron Nagayo Sensai, 1838-1902)
長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8月28日〈1838年10月16日〉 - 明治35年〈1902年〉9月8日)は、日本の医師、医学者、官僚。本姓は藤原氏、号は松香、諱は秉継。
大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854 年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。
文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医 学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医 学教育近代化の必要性を諭される。
明治元年(1868年)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任する。
明治維新により1868年11月30日同館は長崎 府医学校(現長崎大学医学部)となったが、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。長与は学頭に任命 された[1]。
明治4年(1871年)に岩倉使節団の一員として欧米に渡るが、途中から独立して行動し、一 行に先行してヨーロッパに渡り医療制度や医学の実情調査を行っ た[2]。パリでは欧州留学中の長井長義、松本圭太郎、池田謙斎らと日本の医療制度のあり方について議論し、医制のもとになる76条の素案を起案したとさ れる[2]。
明治6年(1873年)に岩倉使節団とともに帰国[2]。帰国後に「医制」の制定作業に着手 したが、相良知安の「医制略則」という草稿を踏襲したともいわ れている[2]。
明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任する。また東京医学校(現在の東京大学医学 部)の校長を兼務する。同年、東京司薬場(国立 医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。
明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任 する。コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、また 衛生思想の普及に尽力した。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。
明治16年(1883年)に内務卿となった山縣 有朋とは肌が合わず、衛生局は業務に支障を来したため、軍医本部次長の石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられ、衛生局内では長與局長に劣らない力を持っ た。
明治16年(1883年石黒の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出して 明治16年(1883年)、衛生局に採用した。
1886年(明治19年)4月27日、元老院議官、
1890年(明治23年)9月29日、貴族院勅選議員に就任する[4]。
明治24年(1891年)に衛 生局長を退いて後も、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任した。
明治25年(1892年)、衛生行政 の後継者として後藤を衛生局長に据えたが、後藤が相馬事件に連座して失脚するとこれを見捨て、以後は石黒が医学界における後藤の後ろ盾となった[3]。
また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現日本公衆衛生
協会)を興し会頭に就任するなど、医学界および衛生行政に重きをなした。また、種痘の普及に甚大な功績があった。
1902年9月8日死去し、12月に「松香私志」が私本として百日忌に配布され、1904年6月普及版として刊行された。墓所は青山霊園(1イ2-2-
6)
衛 生は、文字通り「生命」を「衛る」こ と。Hygiene の翻訳であるが、長与専斎(長與專齋)が荘子の庚桑楚篇(23)(「」) からあてたものと言われている。
『松 本順自伝・長与専斎自伝』小川鼎 三・酒井シヅ校注、平凡社〈東洋文庫386〉、1980年; 長與の自伝『松香私志』に「荘子の庚桑楚篇に衛生といへる言あるを憶ひつき、本書の意味とは較々異なれども字面高雅にして呼聲もあしからずとて、遂にこれ を健康保護の事務に適用したりければ、こたひ改めて本局の名に充てられん事を申出て衛生局の称は茲に始めて定まりぬ」と記している(出典:こちら)。
★
『荘子』庚桑楚篇 https://x.gd/zzrrp
南 榮趎曰:「里人有病,里人問之,病者能言其病,病者猶未病也。若趎之聞大道,譬猶飲藥以加病也,趎願聞衞生之經而已矣。」
老 子曰:「衞生之經,能抱一乎?能勿失 乎?能无卜筮而知吉凶乎?能止乎?能已乎?能舍諸人而求諸己乎?能翛然乎?能侗然乎?能兒子乎?兒子終日嗥而嗌不嗄,和之至也;終日握而手不掜,共其德 也;終日視而目不瞚,偏不在外也。行不知所之,居不知所為,與物委蛇而同其波。是衞生之經已。」
南 榮趎「田舎の人が病気で、そのことを尋ねると、病人は自分の病気について話すことができ、病人はまだ病気でないかのようになる。 もし私が大道のことを聞くとしたら、それは薬を飲んでさらに病人を増やすようなもので、私は『健康の書』のことを聞きたい」。
老 子「同じ衛生原則を持ち続けることがで きるだろうか? 道に迷うことはないのだろうか? 占いなしで、幸運と不運を知ることができるだろうか? 立ち止まることができるか? 立ち止まることができるか? 他人の代わりに自分のものを求めることができるか? 性急さ? 性急さ? 息子は持てるだろうか? 一日中吠えていても喧嘩をしない息子は、調和において最高である。一日中手を握っていても握らない息子は、その徳を分かち合っている。一日中見ていても目 をパチパチさせない息子は、外面がよくない。 自分が何をしているのかわからず、世間とその波に同調する。 これが守護神の道である」
リンク
文献
その他の情報
1931 | 1934 | 1937 | 1940 | 1943 |
1932 | 1935 | 1938 | 1941 | 1944 |
1933 | 1936 | 1939 | 1942 | 1945 |
Both maps were appropriated from A Child’s Guide to Japanese Empire, by Frog in a Well.