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ナリット・グートマンの公衆衛生倫理について

 On Public Health Ethics by Nurit Guttman (2000)

池田光穂

プライマリヘルスケアが世界的に謳われたアルマアタ 宣言(1978年)から、ヘルスプロモーションのオタワ憲章(1986年)へ、ヘルスコミュニケーションのグローバリゼーションは、確実にすすんできてい る(池田 2006, 2012)。ヘルスコミュニケーションに基づく国際的な公衆衛生施策を、そのプラグマティズムの実践的帰結とみなす立場と、ソフトな社会統制の延長上に位 置づける立場では、その倫理と社会的評価もまた、異なってくるだろう。

ヘルスケアにたずわる人は、人びとの健康のために働 くこと(work for health)は価値自由で中立的であり善行にもとづくよい行為をおこなっているという誘惑にかられる(Seedhouse 1988:57, 2005)。公衆衛生学は集団の疾病学的な振るまいを疫学という価値中立を標榜する科学を利用して、この種の善行を実践すると思われてきた。その倫理的前 提とは次のようなものがあげられる:(a)健康の増進は個人にも社会の福利にも貢献するものである。(b)個人の行動変容を促すにはコミュニケーションへ の介入が不可欠である。(c)コミュニケーションへの介入は、特定の価値観にとらわれない中立的なものを目指すべきである。(d)中立的なアプローチを採 用すれば、かならず個人や社会の受容や賛同を得られるはずである(池上 2004:32)。しかしながら、筆者が本稿の執筆において多大な影響を受けたグートマンによると、これらの前提は非常に怪しいものになる。彼女は以下に 述べる6つの価値(I. 〜 VI. )の領域における10の提案(1〜10)を掲げて、これらの前提を再考するように我々を促している(Guttman 2000:9-31)。

I.  分析の立ち位置

(1)結果を前提とした分析計画:公衆衛生コミュニ ケーションの介入の多くの分析が、すでに与えられたゴールとして受け入れられている。そのような介入は社会的現象であるがゆえに『なぜある特定のゴールが 選ばれたのか』ということに私たちは探究する必要がある(Guttman 2000:9)。HIV/AID予防教育プログラムには、その社会の倫理規範(例:一夫一妻制や異性愛に基づく婚姻)が前提にしているが、そのような価値 観は政策の表面には出てこない。

(2)例外を排除した想定集団の存在:隠された議 論、暗黙の要求、倒錯した代表性が、公衆衛生コミュニケーションの介入のメッセージには含まれている。戦略的なアプローチにみられるようなものがそこには ないのである(Guttman 2000:11)。心疾患予防に適度の運動という介入措置がなされるが、運動機会をとれない就労条件や運動ができない障害者の予防の問題は不問にされる。

II.  問題の定義

(3)問題の狭量化:その介入方法に従えば、保健に 関連する事象(Susser 1974)に枠組みをつける幾つかの方法のうち、ただひとつを問題が定義される方法として代表するだけなものがある(Guttman 2000:12)。若年者の喫煙が問題になっても、当事者のリスク回避よりも社会的コストや未成年のモラル遵守が焦点化されることがある。

(4)価値概念を無視した問題設定:健康関連問題の 原因についての疑問やそれをどのように扱うのかは、価値概念に埋め込まれている(Guttman 2000:17)。高カロリーの清涼飲料水のテレビ広告が購買行動にどのように影響を与えるかという問題はメディア関係者の議論だが、公衆衛生関係者は消 費者たちに高カロリー飲料の摂取を控えるように啓蒙するのか、広告に規制をかけるなどの問題を複合的に考える必要がある。

III.  価値の問題

(5)効率性の優先:ターゲット集団の価値は、効果 的に行動を変えることができるかということに焦点化される。選ばれた介入のゴールや活動が前提としている価値は、十分に研究されてきたわけではないし、ま た介入のスポンサーになったものの価値でもない(Guttman 2000:19)。HIV/AID予防プログラムで、性感染を買売春や婚外性交だけにそのイメージを限定すると、若年者の活発な性活動の予防にはマイナス 効果になる。また社会的コストを低下するものとしてプログラムを誘導すると、個人の福利を追求するステイクホルダーに対して倫理的には背反することにな る。

IV.  介入戦略と行動変容モデル

(6)価値概念を無視した介入:どのような保健問題 であれ、介入戦略は価値負荷している(Guttman 2000:21)。介入者はターゲット集団に対して「予防できる」「予防すべき」であるという価値概念を滑らしてプログラムの中に入れてしまう。ターゲッ ト集団は、その価値観の違いに戸惑い、最悪の場合には離反してしまう危険性をもつ。

(7)最初に戦略ありき:介入に定められたゴールが あるにも関わらず、ある種の戦略的アプローチが介入者に好んで採用されることがある(Guttman 2000:22)。この戦略アプローチにおいて好んで使われるのがソーシャルマーケティングアプローチであるが、これは個人や法人がおこなう利益追求型で はなく社会性のもたせる方法であり、公衆衛生的介入にも使われやすい。ただし、この目標は、個人や集団の行動変容を促すものよりも、ある情報について知識 やその意義を普及する(=啓蒙する)アプローチである。

V.  プログラム評価

(8)評価における価値概念:評価基準の選択は価値 が介入する(Guttman 2000:25)。乳がん発見のためのマンモグラフィー普及活動の公的な理由は、乳がんの早期発見早期治療をもたらすことでの女性の福利である。しかし、 このことが大きな社会的プログラムに発展すると、その便益者はすべての女性というわけではななく、マンモグラフィーに自由にアクセスできる社会階層の集団 や、マンモグラフィー診断にたずさわる医療機関、あるいはその機器メーカーもまた恩恵を受けていることがわかる。公衆衛生における介入コミュニケーション は、このことを正確に客観的に伝えているというわけではない。

(9)介入の対象集団選択の恣意性:介入戦略は、そ の潜在的な効果性にもとづいて選ばれるわけではない(Guttman 2000:27)。HIV/AID予防介入では、ターゲット集団への教育的介入が優先して使われる。しかし、実際には若年青少年にはコンドームの使用法に なじませる方法が有効であるにも関わらず性道徳のほうが優先されることがある。また途上国での感染予防のためには、注射針の無料配布のほうがよいにも関わ らず、初期においてはその導入は行政には躊躇された。これも私たちがプラグマティックな成果より、既存の価値に縛られてそちらを優先してしまうことの弊害 が現れている。

VI.  倫理的関与

(10)ジレンマの産出:個人や集団に対して変化を もたらすように設計された介入ゆえに、その対象になった個人や集団は対立する価値の葛藤や、倫理的ジレンマをもたらすことになる(Guttman 2000:29)。介入は、当事者たちの保健信条モデル(Health Belief Model, HBM)に介入することになる。通常は、介入を通して行動変容が当事者の保健信条を変容させることに成功すればよいわけだが、当事者がその失敗を自分の責 任に帰すると、自分自身を「弱い性格」とみなし、社会の犠牲者非難——例えばHIVに感染するのは当人に責任がある——というスティグマ付与などと相まっ て、自分の存在を自己犯罪化(self-incriminalization)して、介入へのアクセスから離脱するという問題が生じる。

このように公衆衛生におけるコミュニケーション的介 入はつねに価値負荷の状態にある(=「価値概念にまみれている」)ということについて自覚することが、今後のコミュニケーション行為にまつわる倫理的課題 を照射することになる。それは例えば、公衆衛生の倫理的教育におけるタスキーギ梅毒研究(1932-1972年)を「倫理的に不公正で」あり「人種的マイ ノリティへの差別」とみなすのみならず、コミュニケーションにおける倫理上の問題と考え直すことを、私たちに促す。この事件は、約300名の黒人の梅毒検 査陽性者を、その病名を告知せず(「悪い血」だと言われたのみ)、福利サービス(無料医療検査、食事提供、埋葬保険への加入)を受ける代わりに、1943 年にペニシリン治療が可能になっても治療的介入をせずに医療観察をつづけたことである(サヴィット 2007:2505)。

そして、時代を現在に戻そう。アメリカにおける黒人と白人の間における臨床コミュニケーションの差異は、文化的民族的差異よりも両者が置かれている権力構造の差異であることを、アネット・デュラ(2007)は雄弁に次のように主張している。

「コモンウェルス財団(Commonwealth Fund)が報告したところによれば、アフリカ系アメリカ人は,医師とコミュニケーションをとることが、白人よりもずっと難しくなりがちで、保健医療を受 ける際に軽蔑されながら治療されているとすら感じるということを報告している。医師と患者との関係は、コミュニケーションの質や、健康上の成果に影響を及 ぼす。医師と患者とのコミュニケーションは、1つの重要な生命倫理の問題であり、情報が集積された分厚い本を何冊も生み出してきた。アフリカ系アメリカ人 の患者の場合、保健医療へのアクセスが乏しければ乏しいほど、自分の主治医との議論が乏しいものとなり、診療にも参加しなくなる。多くの場合において、定 まった主治医をもたない黒人は白人よりも多いため、意味のあるコミュニケーションは全くない」(デュラ 2007:1926)。

彼女の主張は医療社会学者ではなく、生命倫理学者や コミュニケーションの専門家に向けられたものである。しかしだからと言って医療社会学者は、彼女の審問に応答する必要はないだろうか。本稿の読者におかれ ては、もはや誰もそう思う者はいまい。ここにおけるコミュニケーション上の問題は、医療サービスをめぐる資源配分の人種・民族的不均衡に由来するものであ る。そして、彼女の文章は、黒人の臨床コミュニケーションを成り立たせる背景にある社会経済政治的問題について、何らかの解決を求める問題提起である。そ してこの記述は、研究者間に道徳的覚醒(standing up for justice)をうながすコミュニケーション行為である。医療社会学者は、社会と人びとが取りむすぶヘルスコミュニケーション介入の場面に立ち合う際に おいても、そのコミュニケーション過程が内包する社会的問題について道徳的にも考えることを要求されていると言っても過言ではない。

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