哲学的ゾンビ 2.0
philosophical zombie 2.0
☆ スタンフォード哲学事典のゾンビ(https://plato.stanford.edu/entries/zombies/) 解説。このページは、「哲学的ゾンビ 1.0」からスピンオフしたものである。
哲学におけるゾンビと
は、意識と物理的世界との関係についての問題を明らかにするために作られた想像上の生き物である。映画や魔術に登場するゾンビとは異なり、物理的な点では
私たちとまったく同じだが、意識的な経験を持たない。しかし、ゾンビは私たちと同じように行動し、意識について多くの時間を費やす者さえいる。 ゾンビが実際に存在すると考える人はほとんどいない。しかし、多くの人は、ゾンビは少なくとも考えうる存在であり、可能であると考えている。もしゾンビが 本当に存在するのであれば、物理主義は誤りであり、ある種の二元論が真実となる。多くの哲学者にとって、ゾンビのアイデアは重要である。しかし、意識と心 の他の側面に関するより広い哲学的理論化に刺激と焦点を与えるという点でも、ゾンビのアイデアは価値がある。また、より一般的な形而上学的、認識論的研究 においても、例えば、想像可能性、構想可能性、可能性の関係についての問題を提起したり、「他の心」の問題を再活性化させたりすることで、その重要性を示 している。 |
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1. ゾンビの概念 2. ゾンビと物理主義 3. ゾンビの可能性についての想像可能性の議論 4. ゾンビは考えられるか? 4.1 ゾンビの可能性についての議論
5. 想到可能性は可能性を伴うか?4.2 ゾンビの可能性に対する反論 5.1 事後的必然性に基づく反論
6. その他の問題5.2 現象概念戦略 5.3 ラッセル的一元論 5.4 その他の異論 6.1 精神的因果関係
7. 結論6.2 意識の機能 6.3 他の心 参考文献 学術ツール その他のインターネットリソース 関連項目 |
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1. ゾンビという考え方 デカルトは、人間以外の動物はオートマタであり、その行動は物理的なメカニズムですべて説明できると考えた。しかし、人間の行動はそのようには説明できな いと彼は主張した。人間のように見え、人間のように振舞う機械について考えてみたが、デカルトは2つのことがその仮面を剥ぐと考えた:それは、創造的に言 語を使うことができないことと、任意に様々な状況において適切な非言語的振舞いをすることができないことである(談話V)。つまり、言語を創造的に使うこ とができないこと、そして、さまざまな状況において適切な非言語的行動をとることができないことである(談話V)。17世紀の技術しか知らない彼は、人間 特有の行動を説明するには、物理的なものを超えた何か、つまり脳や身体の他の部分のプロセスと相互作用する非物質的な心が必要だと結論づけた。(重要なこ とは、彼は同じ結論に対するアプリオリな議論も持っていたことで、そのうちのひとつは、後述の第3節で論じる「想到可能性の議論」を先取りしていた)。も し彼が正しければ、物理的には現実の世界と同じであるが、そのような心を欠いた世界は存在しえない。心臓は鼓動を続け、眠っている間に呼吸をし、食べ物を 消化し、無心になって歩いたり歌ったりするかもしれない(彼は『反論IVへの回答』でそう述べている)。しかし、心による寄与がなければ、行動は人間らし い特徴を示すことはできない。そのため、デカルトはゾンビの考えを明文化することはしなかったが、その可能性についての疑問は生じなかった。最も近いもの はオートマタであり、その行動は人間的でないことが容易に認識できた。 19世紀になると、科学者たちは、物理学は説明可能なすべての物理現象を説明できると考えるようになった。すべての物理的結果には物理的原因がある、つま り物理世界は「因果関係のもとに閉じている」と考えたのである。発展途上の神経生理学の科学は、そのような説明を人間の行動にも拡張しようとしていた。し かし、もし人間の行動が物理的に説明できるのであれば、意識はどのように説明できるのだろうか?物理主義(あるいは唯物論)という一つの回答は、意識も物 理的なプロセスしか含まないと主張することである。しかし、意識の現象を物理的に説明することは困難であり、デカルトのように非物理的な何かが関与してい るに違いないと結論づけた思想家もいた。物理的なものの因果的閉鎖性を受け入れた彼らは、意識は物理的な世界には影響を与えないと結論せざるを得なかっ た。この見解では、人間はT.H.ハクスリーが言うように「意識のオートマタ」であり、人間の行動も含めたすべての物理的事象は物理的プロセスで説明可能 であり、意識の現象は因果的に不活性な副産物、つまりエピフェノメナである(ジェイムズ1890年、第5章参照)。やがて、この考え方は、意識がないこと を除けば、私たちとまったく同じ純粋な物理学的生物が存在しうることを意味していることが明らかになった。G.F.スタウトは、もしエピフェノメナリズム (「意識的オートマトン」理論のより馴染み深い呼称)が真実であるならば、それはかなり信憑性があるはずだと主張した、 経験する個体が存在せず、存在したこともなかったとしても、自然の構成と成り行きはまったく同じであったろう。橋や電話や電信を作ったり使ったり、本を書 いたり読んだり、議会で演説したり、唯物論について議論したり、といった動作は、人間の身体でも行われていただろう。これがコモン・センス(Stout 1931: 138f.) スタウトがここで説明し、一面的に信じがたいと考えているのは、ゾンビの世界である。(彼が攻撃していたエピフェノメナリストが主張していたように)物理 的プロセスが因果関係のもとで閉じており、現実世界のものとまったく同じであるが、意識的な体験が存在しない世界全体である。 同様の考えは、1970年代の物理主義の議論でも見られた。心理物理学的同一性理論の反例として、「脳状態が物理化学的特性においてわれわれと完全に類似 している」にもかかわらず、痛みを感じず、色も見えない「模造人間」がいた(Campbell 1970)。ゾンビは一般的な物理主義への反例として提唱され、それが可能であるという直観を裏付ける議論が考案された(Kirk 1974a, 1974b)。しかし、これらの議論は、当初の考えとほぼ同じ直観群に依存していたため、その目標を達成することはできなかった。 通常の人間のように振る舞い、あるいは機能的には人間のようであっても、我々が持っている「クオリア」を持たない他の種類のシステムが想定された(ブロッ ク1980a, 1980b, 1981; シューメイカー1975, 1981)。(大雑把に言えば、クオリアとは、私たちが経験を「どのようなものであるか」によって分類するための性質である。物理学者でさえこの表現を使 うことができるが、二元論者とは違って、彼らはクオリアを物理的なものだと考えている)。物理主義に対してゾンビの考えを最も体系的に使っているのは、デ イヴィッド・チャルマーズ1996年である。 もしゾンビが物理主義の反例となるのであれば、ゾンビが行動的・機能的に普通の人間と同じであるだけでは不十分である。物理主義者の多くは、単に行動的あ るいは機能的な私たちの複製にはクオリアが欠如している可能性があることを認めている。ゾンビは、すべての物理的な点において普通の人間と同じでなければ ならず、物理主義者が私たちが持っていると仮定する物理的特性を備えていなければならない。このことは、ゾンビが物理的な因果的閉鎖に従うことを必要と し、だからこそゾンビが意識を持たないことが物理主義への挑戦なのである。その代わりに、彼らの振る舞いを物理的に説明することができない生き物として考 えるのであれば、物理主義者はその考えに悩まされる理由はないだろう。エピフェノメナリストが主張するように、私たちの動きが実際に物理的な用語で説明可 能であるという証拠はたくさんある(例えば、Papineau 2002を参照)。 私たちの誰も実際にはゾンビではなく、ゾンビは私たちの世界には存在しないというのが通常の仮定である。しかし、中心的な問題は、ゾンビが我々の世界に存 在できるかどうかではなく、ゾンビ、あるいはゾンビの世界全体(これは時に、より適切な考え方である)が、より広い意味で可能かどうかである。 |
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2. ゾンビと物理主義 ソール・クリプキの比喩は、ゾンビの考えがいかに物理主義を脅かすかを示すのに役立つ(Kripke 1972/80, 153f.)。神が世界を創造し、純粋に物理的な宇宙全体を存在させると決めたとしよう。この物理的宇宙を創造した神は、意識を提供するためにさらに何か 仕事をする必要があったのだろうか?この質問にイエスと答えるということは、意識には物理的事実だけでは補いきれないものがあるということだ。何もなけれ ば、意識は少なくとも部分的には非物理的な性質に依存しており、純粋に物理的な世界では存在しないもの、つまりゾンビの世界であることを意味する。一方、 物理主義者は「ノー」と答える。彼らは、純粋に物理的な事実を固定することによって、神はそれによって創造された生物の思考、感情、感情、経験を含む精神 的な事実を固定するために必要なすべてを行ったと言わなければならない。言い換えれば、物理主義者は、ある意味で純粋に物理的な真理が精神的な真理を内包 していると言わなければならないようだ(Kirk 1974a, 1974bは、物理主義にはその旨の「内包のテーゼ」が必要だと主張した)。もし本当に物理的事実だけを修正すれば、精神的事実を修正するのに十分なので あれば、ゾンビの世界は不可能である。 物理主義がゾンビの不可能性を含意していることに誰もが同意しているわけではない。一つの提案として、物理主義者は、純粋に物理的な点では我々の世界と全 く同じであるが、我々の世界で意識を生み出す物理的特性が、意識を妨げる非物理的なものによって妨げられている可能性のある世界があることを認めることが できる。そうなれば、物理学者は一貫してゾンビ世界の可能性を認めることになる(Leuenberger 2008. このような「ブロッカー」については、Hawthorne 2002b; Chalmers 2010, 163-165を参照のこと)。しかし、このアプローチは、実際の意識状態が物理的状態や機能的状態と同一であるか、あるいは物理的状態や機能的状態に よって構成されていると主張することと矛盾する。もし私の意識状態が物理的状態と同一であるか、物理的状態によって構成されているのであれば、前者なしに 後者が存在する世界はありえない。したがって、物理主義者が一貫して意識遮断の可能性を認めることができるかどうかは明らかではない。Lei Zhong 2021は、物理主義は物理的なものに対する精神的なものの超越性にコミットするという広く知られている見解に挑戦し、非常に異なるアプローチをとってい る。 しかし、ここで言う不可能性とはどのようなものだろうか?物理主義者は、ゾンビが自然法則によって排除されていると言うことはできない。二元論者でさえ、 その意味でゾンビが不可能であることに同意できるからだ。したがって、物理主義はより強力なものを必要とする。 論理的必然性と形而上学的必然性である。さて、多くの哲学者(主にゾンビの考えに影響されている)は、物理的事実から意識へのつながりは、広い意味でも論 理的ではあり得ないと考えている。そして確かに、物理学の概念スキームは、物理的なものから現象的なものへの論理的な結びつきの余地を残していないように 見える(Kriegel 2011; Stoljar 2006など参照)。しかし、それにもかかわらず、ゾンビは実際にはまったく考えられないと主張する人もいる(Kirk 2005, 2008, 2013; Tye 2006)。Kirk 2013はまた、物理的事実は先験的に意識的経験についての真理を含意しないが、それにもかかわらず、論理的必然性によってそれを含意すると主張してい る。 それでも、多くの物理学者は、ゾンビの不可能性を保証するものは「形而上学的」必然性であると主張する。典型的には、現象的な意識の状態は物理的な状態と 同一であり、クリプキが主張したように、これらの同一性は事後的に必要であると主張する(McLaughlin 2005、批判についてはStoljar 2000などを参照)。しかし、可能性と必然性の語彙は微妙である。例えば、論理的な可能性と形而上学的な可能性が異なるかどうかについては意見の相違が ある(後述の3.1節)。クリプキ(1972/80)が「論理的」な可能性と「形而上学的」な可能性について書いているとき、彼はこれらの言葉を互換的に 使っているように見える(Yablo 1999: 457n.)。 物理的事実が形而上学的必然性によって意識を伴うのであれば、物理主義者はゾンビが形而上学的に不可能であっても、それでもなお考えられると主張できると 考える者も多い(Balog 2012; Loar 1990/97; McLaughlin 2005; 以下5.1、5.2節)。それとは逆に、チャルマーズは、考え得るということは実際には形而上学的な可能性を伴うと主張している。もしチャルマーズの主張 が正しければ、一般的な物理主義は間違っていることになる。ゾンビの可能性に関するいわゆる「想到可能性の議論」は、ゾンビのアイデアによって提起された 主な問題のいくつかを議論するための焦点を提供する。 |
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3. ゾンビの可能性に関する想像可能性の議論 この議論の最も単純なバージョンはこうである: 1. ゾンビは考えられる。 2. 考えられるものは何でも可能である。 3. したがってゾンビは可能である。 (クリプキも1972/80で同様の議論をしている)。そのバージョンについては、Chalmers 1996, 93-171; 2010, 141-205; Levine 2001; Nagel 1974; Stoljar 2001を参照のこと。Michael Pelczar (2021) は、発想可能性に訴えることなく、同じ結論を論じている)。想到可能性の議論は明らかに妥当である。しかし、その前提には問題がある。それらは明言されて いないため不明確であり、明言されたとしても議論の余地がある。重要な問題は、この文脈で「考えられる」をどのように理解すべきかである。 多くの哲学者は、ゾンビが何らかの意味で考えられることを認めている(Hill 1997; Hill and McLaughlin 1999; Loar 1999; Yablo 1999など)。しかし、その感覚は時に非常に広い。例えば、「痛みの概念とC線維刺激の概念の間には、先験的な実質的結びつきはない」という主張は、 「原理的には、もう一方の概念をマスターすることなく、どちらかの概念を完全にマスターすることは可能である」(Hill 1997, 76)という指摘によって裏付けられている。しかし、その基準に従えば、円の円周と直径の比が有理数でないにもかかわらず、有理数であると考えられること になる。もしそのような意味での想到可能性が可能性を伴うとすれば、比が有理数であることは可能でもあり不可能でもあることになり、そのような想到可能性 は想到可能性の議論の目的には役に立たないことになる。そう理解すれば、前提(1)は容易に理解できるが、前提(2)は否定されなければならない。明らか に、想到可能性の閾値が低ければ低いほど、(1)を受け入れるのは簡単だが、(2)を受け入れるのは難しくなる。したがって、前提(1)および(2)で呼 び出される「思いつきやすさ」の種類は、強く制約される必要がある。一般的で有用な定義は、「先験的に否定できない場合にのみ、考えられる」というもので ある。(これらと関連する考え方の洗練度については、Chalmers 1999, 477; 2002; 2007; 2010; および以下の5.1を参照のこと)。 Joseph Levineは、ゾンビの想像可能性を「説明のギャップの主な現れ」(2001: 79)と見なし、この想像可能性の議論を論じている。彼の見解では、このギャップを生み出しているのは、現象的なものが物理的なものとどのように関連して いるかを説明するという認識論的な問題である。彼はこの問題を解決する方法はないと考えており、ゾンビが不可能であってもこの問題は残ると考えている。 Campbell, Copeland and Deng 2017は、ごく一般的に、どのような想到可能性の議論にも、対応する「鏡の議論」が存在し、それは本論を弱体化させる代償としてのみ否定できると主張 し、すべての想到可能性の議論は「論理的に破綻している」と結論づけている。 私たちは今、2つの重要な問題に直面している: ゾンビは説明されたような意味で考えられるのか?ゾンビは説明された意味で考えられるのか?この2つの質問に対する答えが「イエス」である場合のみ、可能 性の議論は成功する。私たちは、この2つの問いを順番に考えることができる。 |
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4. ゾンビは可能か? 1970年代にゾンビのアイデアを利用した人々は、一般的にゾンビは考えられるだけでなく、可能であると仮定した(例えば、Campbell 1970、Nagel 1970)。チャルマーズがこの考えを再活性化させたとき、彼はゾンビの可能性を「明白」だと考え、「確かに首尾一貫した状況が記述されているようだ。し かし、彼はこの直感が当てにならないことも認識していた。意識経験の本質を理解するのは結局のところ難しい。明らかに可能だと思うことが、隠れた矛盾を含 んでいることが判明することもあるのだ(Nagel 1998; Stoljar 2001)。明らかに、ゾンビは考えられると主張する人々は、我々の認識能力に依存する認識論的主張であるため、否定可能であることを認識した上で、正当 性を示さなければならない。 |
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4.1 ゾンビの可能性に関する議論 Chalmers (1996)は、物理的事実から精神的事実へのアプリオリな含意があるという見解に反対する5つの論拠を示した。それぞれの議論は直接的または間接的にゾ ンビの考えの直感的な魅力を補強するものである。他の4つはそれぞれ、物理的な差異がない「逆スペクトル」の可能性、純粋に物理的な情報に基づいて意識的 な経験を学習することの不可能性、ジャクソン(1982)の「知識論証」(最後の論証と関連している)、そしてチャルマーズが「分析の不在」と呼ぶもので ある: 他の論証が機能すると仮定して)「そのような付随性を実証しようとする試みは失敗する運命にある」(1996, p. 104)のである。104). 彼の最初の議論は次のようなものである。小さな人間の集団が、あなたの脳を機能停止させ、その機能を自分たちで複製する一方で、あなたの身体の他の部分は 正常に動作するとする(ブロック1980aを参照)。このようなシステムに意識はあるだろうか?直感的にはそうではないと言いたくなるかもしれない。機能 主義者を中心に、「イエス」と答える人もいる。しかし、この議論は、ホムンクルス・ヘッドが意識を持たないという仮定に依存しているわけではない。それ は、ホムンクルスが意識を持たないということが考えられるという仮定に依存しているだけである。チャルマーズの言葉を借りれば、ここで重要なのは、システ ムに意識が欠けているかもしれないと言うとき、「意味のある可能性が表現されているのであって、意識が生じるかどうかは未解決の問題である」(1996 年、p.97)ということである。もし彼の言う通りなら、システムが意識を持たないことも考えられる。その場合、システムはすでにゾンビのようなものであ り、唯一の違いは、ゾンビがニューロンを持っているのに対し、小さな人間を持っているということである。そして、その状況が考えられるかどうかということ に、なぜ違いがあるのだろうか?ホムンクルスからニューロンに切り替えたからといって、なぜ意識の灯がともるのだろうか?(ホムンクルス・ヘッドに意識が ないことが考えられるという仮定に対する疑問については、例えばLoar 1990/1997, pp.613f.を参照)。 その他、ブロック 1995, 2002; レヴァイン 2001; サール 1992にもゾンビの可能性を支持する考察がある。Chalmers 2010は彼の擁護をさらに発展させている。Brian Cutter 2020は、物理的真理が意識の不在と両立するという仮定に頼らない、反物質主義的な様相論を提示している。 |
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4.2 ゾンビの可能性に対する反論 かつてはゾンビが存在することは広く受け入れられていたが、現在では懐疑的な意見も増えている。この考えに対する直接的な攻撃を検討する前に、二元論が誤 りであることを先験的に知ることができるという主張を支持する3つの見解を簡単に思い出してみよう。 一つ目は検証主義で、(宣言的な)文はその真偽が検証できる場合にのみ意味があるとする。これは、検証不可能な文は文字通り無意味であり、観察不可能な非 物理的なものが存在するという形而上学的な主張は成り立たないということを意味する。しかし、私たちが自分の経験について考えたり話したりすること自体が 検証主義にとって問題であるため、ゾンビの考えを攻撃する際にこの見解を前提とすることは、問題を提起することになる。第二の見解は、ウィトゲンシュタイ ンの私的言語論に訴えるものである。検証主義的とは言えないが、この議論は、言葉が意味を持つためには、その使用が公にチェックされなければならないとい う仮定に依存している。しかし、この検証可能性の仮定が正しいとすれば、ゾンビの可能性を擁護する人たちが考えるような方法でクオリアについて語ることは できないことを証明することになるため、現在の文脈では疑問符がつく。第三の見解である行動主義によれば、精神状態を持つということは、ある特定の行動を とるように仕向けられること以上のことはない。ゾンビの考えを攻撃する根拠として、行動主義は検証主義や私的言語論と似たような状況にある。ゾンビは完全 な意識を持つための行動条件をすべて満たすので、行動主義が正しいと先験的に知ることができれば、ゾンビの世界はその理由で考えられないことになる。しか し、行動主義が正しいことを示すことはできそうにない。(デネット1991は行動主義に強い親和性を持つ立場を擁護しているが、機能主義の一種として分類 した方がいいかもしれない)。 機能主義は、より広く支持されている精神へのアプローチである。それによれば、精神状態は単に行動や気質の問題ではなく、感覚入力、内的状態、行動出力の 間の因果関係やその他の機能的関係の問題である。(必ずしも行動特性に反映されない内部機能を考慮することが重要であり、そうでなければ機能主義は、前節 で述べた「ホムンクルス・ヘッド」のような行動主義に対する通常の反論に陥る(Kirk 2005, 2013, 2017)。) さて、ゾンビは完全な意識の機能的条件をすべて満たすので、機能主義はゾンビが不可能であることを意味する。しかし、機能主義はますます洗練されてきてお り、機能主義を支持する議論は、ゾンビの可能性を否定するものである。(ゾンビに対する機能主義の擁護については、Dennett 1991; 1995; 1999; Kirk 2017; Shoemaker 1999; Tye 2006; 2008を参照のこと。ゾンビに対処する機能主義の能力についての疑問については、例えばHarnad 1995を参照のこと)。 広範な精神機能主義理論とは別に、ゾンビの想像可能性に対してより焦点を絞った攻撃もある。 私たちは本当にゾンビを想像できるのか?ダニエル・デネットは、ゾンビの想起可能性を認める人々は、ゾンビを十分に想像できていないと考えている。「彼ら は必ず、想起(あるいは想像)の仕事を過小評価し、自分自身の定義に反するものを想像してしまう」(1995年、322頁。) 意識の広範な機能主義的モデルを考えれば、「ゾンビと意識のある存在との間の仮定の対比が幻想的である」(325。) 意識は「単一の素晴らしい分離可能なものではなく......多くの異なる情報能力の巨大な複合体」なのである(1995, 324。コットレル1999はこのアプローチを支持している)。 認識論的アプローチ」。Stoljar (2006, 2020)は、我々が関連する物理的事実について完全な知識を持っていない可能性が高いにもかかわらず、想到可能性の議論は我々が関連する物理的事実につ いて完全な知識を持っていることを前提としていることを強調している。もしそれが正しければ、我々は問題の可能性を正しく発想することができず、その場 合、発想可能性議論の前提(1)は偽となる。この見解の利点は、意識の還元的説明、つまり、物理的事実が、その事実が得られるすべての可能性のある世界に おいて意識が存在するようなものである、と仮定する自由を私たちに残してくれることである。 ゾンビの発言 私がコーヒー豆の焙煎の匂いを嗅いでこう言ったとしよう!いい匂いだ!』と言ったとする。誰もが当然、私が自分の経験について話していると思うだろう。し かし今、私のゾンビの双子が同じ発話をしたとしよう。彼もまた経験について話しているように見えるが、実際はただのゾンビなのでそうではない。彼は勘違い しているのだろうか?嘘をついているのだろうか?彼の発話はどうにかして真実と解釈できるのだろうか、それともまったく真実味がないのだろうか? Nigel Thomas (1996)は、「ゾンビ愛好家がこれらの質問に対して取るどのような線も、彼らを深刻な問題に巻き込むだろう」と論じている。 クオリアについて知ること、クオリアを参照すること。定義上、ゾンビの世界は物理主義者が仮定する私たちの世界と同じであるが、意識はない。このことは、 意識は非物理的なものに依存していることを意味するので、ゾンビは(そもそもゾンビが可能であるとして)非物理的なものを加えることで意識を持つことがで きることになる。そして、ゾンビの世界は因果的に閉じていることを考えると、これらのクオリアは因果的に不活性でなければならない。したがって、ゾンビの 世界が考えられるなら、エピフェノメナリズムも考えられるということになる。(もちろん、これはエピフェノメナリズムが考えられるだけでなく、実際に真実 である必要はない)。もしそれが正しければ、エピフェノメナリズムの実現可能性に対する異論は、ゾンビの実現可能性に対する異論でもある。あまり明白では ない反論は、私たちが意識的な経験に言及し、それについて知っているという事実から始まる。この反論は、私たちが知ることができるもの、言及することがで きるものは何でも、間接的にせよ、私たちに影響を与えるに違いないという広く信じられている見解に訴えるものである(Kripke 1972/80)。それにもとづいて、われわれの相手である超現象的世界ではクオリアについて知ることも言及することもできず、その結果、(上記の推論か らすれば)超現象的世界もゾンビ世界も考えられないことになる。 この攻撃に対してチャルマーズは、重要なのは私たちが自分の経験を「知っている」ことだと答える。この "親密な認識論的関係 "は、私たちが経験に言及できることを保証し、また経験について知っているという主張を正当化する。対照的に、ゾンビの双子には経験がないため、経験につ いての判断は正当化されない。チャルマーズは、たとえクオリアが私たちの判断に因果的な影響を及ぼさないとしても、適切な物理的文脈の中にクオリアが存在 するだけで、私たちの思考がそのクオリアに関するものであることが保証されると提案している。彼はまた、たとえ経験が問題の判断を下すことに説明的に関連 していないとしても、それが我々の知識主張の正当性を構成すると考えている(Chalmers 1996, 172-209; 1999, 493f; 2003, 2010も参照)。 認識論的接触の問題 先ほど、ゾンビが考えられるなら、エピフェノメナリストやパラレリストの世界も考えられると思われた。その場合、ゾンビの友人たちは、そのような世界にお けるエピフェノメンタルなクオリアが、どのようにして知り合いの対象となりうるのか、あるいは実際に人々の生活に何らかの親密な貢献をしうるのかを説明し なければならない。ここでカーク(2005;2008)は、ゾンビの考えがさらなる困難に直面していることを示唆している。ここでカーク(2005; 2008)は、ゾンビという考えがさらなる困難に直面していることを示唆している。これらの活動は、私たちに「認識論的接触」をもたらし、認知的処理を伴 う。だから、(エピフェノメナリズムとパラレリズムが示唆するように)エピフェノメナリー・クオリアが実際に私たちの経験を構成するのであれば、必要な処 理は純粋に物理的なものでなければならない。問題は、ゾンビの物語では、そのような処理によって私たちがエピフェノメナリー・クオリアと認識的に接触する ことは不可能だということだ。というのも、そのために訴えることができる唯一のリソースは、神経プロセスによるクオリアの因果関係と、それとの同型性だけ だからである。もしそれが正しければ、エピフェノメナリー・クオリアとゾンビという概念は矛盾を引き起こす。それらは、人が自分のクオリアと認識論的に接 触することを要求する意識の概念を暗示しているが、同時にそのような接触の可能性を排除している。 強力な資質」。ゾンビの考えに対するもう一つの興味深い反論は、「強力な性質」という(論争の的となる)考えに基づいている。つまり、すべての性質は性質 と質的なものであり、実際、ものの性質はその性質と同一であるという見方である。例えば、Alexander Carruth (2016)は、想起可能性の議論は、物理的性質が処分的である一方で、現象的性質は質的であることを前提としていると主張している。それに基づいて、私 たちの世界のゾンビの複製は、私たちの世界の性質的特性をインスタンス化するが、現象的特性はインスタンス化しない。強力な資質観は、それを先験的に除外 し、考えることすら不可能にする。というのも、もしあるものの性質がその性質と同一であるならば、それと同一であるとされるすべての性質をインスタンス化 することなしに、ある特定の性質の性質をインスタンス化することはできないからである。ヘンリー・テイラー(Henry Taylor, 2017)はこの論法に対抗して、物理的なものと現象的なものとの区別に関するあり得ない説明に依存していると主張し、特に物理的なものは処分的なものに 限定されることはあり得ないと論じている。 その他、ゾンビの概念可能性に関する攻撃については、Balog 1999; Cottrell 1999; Harnad 1995; Kirk 2005, 2008, 2013; Marcus 2004; Shoemaker 1999; Stoljar 2001; Tye 2006を参照のこと。 |
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5. 想像可能性は可能性を意味するのか? 想像可能性の議論の前提(2)は、「想像できることはすべて可能である」というものである。これは、以下のように、いくつかの角度から攻撃されている。 |
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5.1 ア・ポステリオリな必然性に基づく異論 多くの哲学者が、ア・ポステリオリな必然的真理に関するクリプキの考えは、物理主義の擁護を容易にする、と主張している。彼らは、たとえゾンビの世界が想 像できるとしても、それが重要な意味で可能であることを証明するものではないと主張する。彼らは、想像可能性は認識論的概念であるが、可能性は形而上学的 な概念であると主張する。「Pを原理的に想像できるからといって、論理的にPが可能であるとは限らない。心理物理学的同一性が存在することを前提とすれ ば、感覚状態に関する肯定的事実に関して、我々の世界の物理的な複製が我々の世界とまったく同じであることは、ア・ポステリオリな事実である」(Hill and McLaughlin 1999, 446. Hill 1997; Loar 1990/1997; 1999; McLaughlin 2005; Webster 2006も参照)。一部の哲学者は、実現可能性が可能性の指針となるという前提さえも否定しており、ゾンビの可能性を否定する側に立証責任があるという見 解に異議を唱えている(Block and Stalnaker 1999; Hill and McLaughlin 1999; Yablo 1993)。 チャルマーズはいくつかの場所でこれに回答している(1996年、131-134ページ、1999年、476-7ページ、2010年、141-205ペー ジ)。彼の考え得るという議論の最も詳細なバージョン(2010年)では、2次元の意味論の枠組みが用いられている。これにより、彼は2種類の可能性と、 それに対応する2種類の考え得るという可能性を区別することが可能になる。「第一義的」な意味での「あり得ること」は「可能であること」を必然的に伴う。 例えば、水がH2Oとは化学的に異なる物質であった可能性はあり得る。もう一方の「第二義的」な意味では、水が化学的に異なる物質であったことはあり得 ず、また可能でもない。想像可能性の議論における難点は、ゾンビ世界が主に想像可能であり、したがって主に可能であるとしても、それが二次的に可能である ことにはならない、という言い方で表現できる。そして、ア・ポステリオリな物理主義者は、ゾンビ世界の二次的可能性のみが物理主義の誤りを必然的に伴うと いう理由で、それが必然的であることを否定するのが一般的である。この時点で、チャルマーズは実質的に、ゾンビの一次的想像可能性は結局二次的可能性を必 然的に伴うという、彼の結論を大まかに要約したジレンマを反対派に突きつけている。その場合、想像可能性の議論は有効であり、唯物論は誤りである。あるい は、以下第5.3節で簡単に検討する「ラッセル的単一論」が真実である。(ジャクソン1998年、および議論については、ブルックナー 2002年、Loar 1999年、Hill and McLaughlin 1999年、Piccinini 2017年、Sebastián 2017年、Shoemaker 1999年、Soames 2005年、Yablo 1999年を参照。 |
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5.2 現象的概念の概念戦略 多くの物理主義者は、ゾンビの考えとフランク・ジャクソンの知識論証の両方を、現象的概念(おおよそ、私たちが経験の性格を伝える際に使用する概念:例え ば「甘い」、「青を私が見る方法」)の本質を適切に理解することで対処できると主張している。想定可能性論の支持者たちは、ゾンビが想像できるという考え に表現されているような、物理的現象と想定可能な現象の間の「説明のギャップ」は、存在論的ギャップをもたらすと考えている。現象的概念戦略 (Stoljar 2005)によると、実際には概念上のギャップがあるだけである。現象的概念には、認識論的なギャップに加えて存在論的なギャップがあるかのように思わせ る特徴があるが、実際には存在しない。 したがって、ゾンビの世界が想像できるとしても、それがこの世界に非物理的特性が存在することを意味するわけではないと主張されている。もしその主張が正 しいのであれば、物理主義者はゾンビの想像可能性を認める一方で、現象的概念の観点から我々が選んだ特性は物理的特性であると主張することができる。「特 性は世界によって構成され、我々の概念によって構成されるのではない」という前提を踏まえた上で、ブライアン・ローアは次のように述べている。「概念的に 異なる概念は、形而上学的に異なる特性を表現しなければならないという仮定の正当性を物理主義者が要求するのは妥当である」(Loar 1999, 467; 1997年も参照)。また、現象的概念は「認識論的」であり、物理的概念は「理論的」であると論じている。現象的概念は、クリプキが「痛み」の例で指摘し たように、「まさにそれらが選ぶ性質を表現する」とローアは述べている(1999年、468ページ)。これらの論点によって、ゾンビの世界の想像可能性が 説明されるが、意識とは異なる物理的特性を持つ世界はあり得ない、と彼は考えている。チャルマーズは、ローアの説明は物理的概念が現象的特性を参照すると いう見解を正当化するものではないと反論している(1999年、488ページ)。さらに彼は(2007年)、このアプローチの提唱者はジレンマに直面して いると主張している。Cを、私たちにはあるがゾンビにはない心理的な「主要な特徴」としよう。そして、私たちに関する純粋に物理的な事実がCなしでも成り 立つと想像できるのであれば、Cは物理主義的に説明できない。一方、それが考えられないのであれば、彼の考えでは、Cはゾンビとは対照的に、我々の認識状 況を説明できないことになる。つまり、Cは物理主義的に説明できないか、我々の認識状況を説明できないかのどちらかである。(議論については、Ball 2009; Balog 2012; Carruthers 2005; Chalmers 1999; 2007; 2010; Crane 2005; Loar 1990/97; Papineau 2002; Pereboom 2011; Stoljar 2000; Tye 2008を参照のこと。) |
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5.3 ラッセル流の一元論 ラッセル(1927年)に続き、一部の哲学者は、物理学は物事の「構造的」特性、すなわちそれらの性向や法則的関係についてのみを語っており、それらの構 造的特性の根底にあり、それを説明するはずの「本質的」特性については語っていないと主張している。したがって、ダニエル・ストルジャー(2001年) は、物理学が提供するもののみに依拠するか、あるいは物理的対象の本質的特性にも依拠するかによって、物理学および物理主義には2つの異なる概念がある、 と主張している。彼は、考えられる2つのバージョンのうちの1つが正しくても、もう1つは正しくないことを示唆している。なぜなら、(おおよそ)物理主義 者は、物理的世界(特に、その本質的特性)について十分に知らないため、ゾンビの可能性を「強く」想像することはできないと常に反論できるからだ。 これらの考え方は、チャルマーズが「ラッセル的一元論」(中立一元論の一種)と呼ぶものに利用されている。チャルマーズは、我々の世界では、本質的特性は 「現象的特性、あるいは現象的特性の素となる特性、すなわち、適切な方法で組織化された際に現象的特性を構成する特性」である可能性があると示唆している (2010: p. 151)。一方で、他のいくつかの世界では、対応する本質的な物理的特性が意識を提供していない。仮に、我々の意識を形作っていると考えられる本質的特性 が、それでもなお物理的特性として分類されるのであれば、ゾンビが我々の「完全な」物理的複製であると理解されるのであれば、ゾンビの可能性を否定するこ とができる。同時に、構造的特性のみが私たちと同一であるゾンビの可能性は認めることができる。彼が指摘するように、この見解は「特性二元論と多くの点で 共通する、非常に特徴的な形の物理主義であり、多くの物理主義者はこれを拒絶するだろう」(Chalmers 2010, p. 152; また、Pereboom 2011も参照)。それを物理主義として数えることへの一つの障害は、なぜ我々の世界における特別な本質的特性が意識を提供すべきなのか、それらの他の世 界で同じ機能を果たすものがそうしないのかを説明できないように見えることである。これは、受け入れざるを得ない事実である。 フィリップ・ゴフ(2010年、2017年も参照)は、ラッセル版物理主義のこの抜け穴がゾンビ論を弱体化させると示唆している。その代わりに、ゴースト (幽霊)に関する議論を推奨している。ゴーストとは、物理的な性質を持たない純粋な経験主体である。ゴーストは想像可能であり、存在しうるものであり、 ラッセルの一元論に抜け穴を残さない物理主義に対する反論を提供すると彼は主張している。(物理主義者は、ゾンビの想像可能性に対する反論をゴーストにも 適用できると反論する可能性が高い。) |
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5.4 その他の異論 特別な要因。心理物理学的ケースには、私たちを欺く強い傾向を持つ特別な要因が作用しているという指摘がある。例えば、意識の状態を想像したり構想したり することを可能にするものは、物理的事実を構想することを可能にするものとは異なる認知能力であると主張されている。「デカルト主義的直観(ゾンビに関す るものなど)と、その他の多種多様な様相的直観を司る認知要因の間には、重大な違いがある」(Hill and McLaughlin 1999, p. 449. Hill 1997も参照)。これらの相違が、ゾンビを容易に想像できる一方で、ゾンビはありえないという主張を理解するのが難しい理由を説明しているという指摘で ある。 条件分析。 もう一つの異論は、クオリアの概念の条件分析に基づいている。 概略的には、もしもクオリアの概念に適合する非物理的特性が実際に存在するならば、それがクオリアである。その場合、ゾンビは想像できる。しかし、もしも そのような非物理的特性が存在しないならば、クオリアとは、適切な機能を発揮する物理的特性のどれかであり、ゾンビは想像できない。このアプローチによ り、物理主義者はゾンビの可能性は考えられると認める一方で、ゾンビは考えられないと否定できると主張されている(Hawthorne 2002a; Braddon-Mitchell 2003. 批判については、Alter 2007; Chalmers 2010, pp. 159–59を参照)。 因果本質論。因果本質論によれば、物理的特性の因果的特性は本質的なものである。ブライアン・ギャレット(2009)は、この理論を援用して、物理実在論 に対するゾンビの反論は、因果本質論の誤りを前提とする、自然法則と特性同一性に関する広義のヒューム的仮定に依存していると論じている。もし我々がこれ らの仮定を否定し、いくつかの物理的特性が本質的に意識を生み出す能力を持っていることを受け入れるならば、たとえそのような世界が想像可能であったとし ても、「ゾンビ世界の真の可能性」を受け入れることはできない(Aranyosi 2010も参照)。 ゾンビの言語表現についてさらに詳しく。我々の世界と物理的にまったく同じであり、想像可能性の議論を主張する者も含むすべての哲学者のゾンビの双子が存 在するゾンビ世界を考えてみよう。カタリン・バログ(1999年)は、彼らの発話は意味を持つが、彼らの文章は常に私たちの口で話す意味とは異なる、と主 張している。さらに彼女は、単純化しすぎかもしれないが、想像可能性論が実際の哲学者たちの口で正しかった場合、ゾンビの哲学者たちの口でも正しくなるだ ろうと主張している。しかし、仮説上、彼らの世界では物理主義が正しいので、彼らの主張は正しくない。したがって、実際の哲学者たちが用いた想像可能性の 議論も正しくない。この議論が有効であるとすれば、「反物理主義者が最終的に可能であると考えるゾンビが、その可能性を立証する主張を弱体化させる」とい う興味深い特徴がある(502. チャルマーズは2003年と2010年の著作の159~60ページで簡潔な回答を提示している)。 物理主義に対するアンチ・ゾンビ論。 物理主義を前提とするとゾンビはありえないという想定に基づく「ありうる」という議論は、ゾンビはありうることを示すことで、それを反証しようとする。 すでに見たように、この議論の最も単純な形は次の通りである。 (1) ゾンビはありうる。 (2) ありうると考えられるものはすべてありうる。 (3) したがって、ゾンビはありうる。しかし、「アンチ・ゾンビ」――純粋に物理的な事実によって意識を持つようになった自分自身の複製(Frankish 2007)――もまた考えられるように思われる。 したがって、次の並列した議論が成り立つ。 (1*) アンチ・ゾンビは考えられる。 (2) 考えられるものはすべて可能である。 (3*) したがって、アンチ・ゾンビは可能である。しかし、(3)と(3*)は両方とも真であることはできない。なぜなら、アンチゾンビに関する純粋に物理的な事 実が彼らに意識をもたらすのであれば、ゾンビに関するまったく同様の物理的事実も彼らに意識をもたらすことになり、結局彼らはゾンビではないからだ (Frankish 2007; Marton 1998; Piccinini 2017; Sturgeon 2000, pp. 114–116)。ひとつの教訓は、想像可能から可能性への推論を拒否すべきであるということだ。(ブラウン 2010 は、アンチゾンビが想像可能であるならば、ゾンビは想像不可能であると論じている。)想像可能論の支持者にとって最も有望な回答は、アンチゾンビが想像可 能であることを否定することであるようだ(チャーマーズ 2010、180)。 |
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6. その他の問題 以下の「関連項目」のリストは、ゾンビ理論によって提起された問題の範囲と深さを示しているが、このエントリで触れられているのはその一部に過ぎない。ゾ ンビが本当にあり得るのであれば、物理主義が問題であるだけでなく、他のトピックに関する広く受け入れられている見解も問題である。以下に3つの顕著な例 を挙げる。 |
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6.1 精神的な因果関係 デカルトは、物理的な出来事が精神的な影響をもたらすだけでなく、精神的な出来事が物理的な影響をもたらすという一般的な想定を受け入れた(例えば、政治 情勢について考えれば手紙を書きたくなる)。彼の二元論の難点は、非物理的なものが物理的なものに影響を及ぼす仕組みを理解することにあると考えられてい た。しかし、ゾンビが存在しうる場合(つまり、物理的世界が因果的に閉じていることが必要である)には、非物理的なクオリアが何かをする余地はない。その 場合、外見とは裏腹に非物理的なものが物理的なものに影響を及ぼすことができない理由を理解することが困難となる。それでもなおゾンビが存在しうるという 前提に立つ場合、並行説や随伴現象説に代わるものは見出しにくくなり、それらの見解が必然的に伴う心的因果に関する一般的な想定の抜本的な修正が必要とな る。確かに、ゾンビ論者の友人たちは、実際の世界について随伴現象論者や平行論者である必要はない。彼らは相互作用論者であり、我々の世界は物理的に閉じ ておらず、実際の事実として非物理的性質が物理的効果を持つと主張するかもしれない。あるいは、汎心論のいくつかのバリエーションを採用するかもしれな い。それによれば、形而上学的には本質的なものは物理的特性ではなく、現象的特性、あるいはおそらく「原現象的特性」である(Chalmers 1991, 297–299; 1999, 492; Goff 2017; Strawson 2008)—この見解は、物理的な因果的閉鎖性と矛盾しない可能性がある。しかし、どちらの選択肢も容易ではない。因果的閉鎖を放棄することは、経験的証 拠と矛盾するように見える。一方で、現象的または準現象的特性が本質的であるという考え方は依然として不明瞭である。 |
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6.2 意識の機能 ゾンビの可能性が明らかになったことは、進化論にとっても問題となるようだ。クオリアを持つ生物が生き残ったのは、ゾンビとなった生物ではなく、なぜなの か?ゾンビが生き残ることが可能であるなら、意識に何の意味があるのか?オーウェン・フラナガンとトーマス・ポルガーは、ゾンビの可能性を支持する主張と して、「経験の対象がなぜ現れたのか、なぜ進化の過程で非常に知能の高いゾンビのような情報に敏感な生物との戦いに勝ったのか、あるいは勝つはずだったの か、という説得力のある説明はまだない」(1995年、321ページ)という主張を展開している。これは、ゾンビの可能性を否定する人々には直面しない問 題である。それを受け入れる人々の立場からの一つの回答は、現象と物理を結びつける根本的な法則があるかもしれないというものである。そのような法則は、 意識を持つ生物がたまたま進化するかどうかには依存しない。その場合、進化は特別な問題を引き起こさないだろう(チャルマーズ、1996年、171ペー ジ)。ただし、そのような法則が存在する場合には、それ自体が問題を引き起こすだろう。 |
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6.3 他者の心 クオリアが物理的な効果を持たないのなら、誰かが他者のクオリアを実際に持っていることを誰かが確実に証明できるものは何もない。他者の心に関する懐疑論 に確固とした回答を持っていると考える哲学者は、したがって、ゾンビ理論の帰結はそれを否定するのに十分であると結論づけるかもしれない。他方、反対の結 論を導き、懐疑的な帰結を「確認」と捉える者もいる。その理由は、他者の心について本当に無知であるからだ(Campbell 1970, 120)。(もちろん、他者の心に対する懐疑論へのすべての反応がゾンビはあり得ないことを意味するわけではない。) |
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7. 結論 ゾンビというアイデアの直感的な魅力は圧倒的である。しかし、地球は静止しているという考えもかつてはそうだったし、非物理的なものを当てにすることなく 科学が事象を説明できるという考えも、今では真実である。反物理主義者の一部は、反対派が困難な問題から目を背けていると信じている。 理論を正しく説明するために、ゾンビの可能性を否定する人もいるかもしれないが、そのような理論の正当性は、可能性の問題ではなく、むしろその逆の観点から論じられるべきである(Chalmers 1996, 96)。 一方、物理主義者の一部は、ゾンビの考え方が反物理主義者の思考に非合理的な影響を与えていると信じており、 反物理主義者の議論を、その独立した力がその偏見性を覆い隠している直感の合理化と見なしたくなるのである(Loar 1990/1997, 598)。 両者の議論がますます洗練されてきているにもかかわらず、あるいは、それゆえに、それらの議論は説得力を増してはいない。それぞれの方向への引きつけは依然として強い。 |
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