スタンフォード哲学事典の「ゾンビ」レクチャー
Zombie
☆
哲学におけるゾンビとは、意識と物理的世界との関係についての問題を明らかにするために作られた想像上の生き物である。映画や魔術に登場するゾンビとは異
なり、物理的な点では私たちとまったく同じだが、意識的な経験を持たない。しかし、ゾンビは私たちと同じように行動し、意識について多くの時間を費やす者
さえいる(→「ゾンビ・スタディーズ・ポータル」「チャーマーズ「意識する心」」「哲学的ゾンビ︎」)。
ゾンビが実際に存在すると考える人はほとんどいない。しかし、多くの人は、ゾンビは少なくとも考えうる存在であり、可能であると考えている。もしゾンビが
本当に存在するのであれば、物理主義は誤りであり、ある種の二元論が真実となる。多くの哲学者にとって、ゾンビのアイデアは重要である。しかし、意識と心
の他の側面に関するより広い哲学的理論化に刺激と焦点を与えるという点でも、ゾンビのアイデアは価値がある。また、より一般的な形而上学的、認識論的研究
においても、例えば、想像可能性、構想可能性、可能性の関係についての問題を提起したり、「他の心」の問題を再活性化させたりすることで、その重要性を示
している。
1. ゾンビという考え方 |
デカルトは、人間以外の動物はオートマタであり、その行動は物理的なメ
カニズムですべて説明できると考えた。しかし、人間の行動はそのようには説明できな
いと彼は主張した。人間のように見え、人間のように振舞う機械について考えてみたが、デカルトは2つのことがその仮面を剥ぐと考えた:それは、創造的に言
語を使うことができないことと、任意に様々な状況において適切な非言語的振舞いをすることができないことである(談話V)。つまり、言語を創造的に使うこ
とができないこと、そして、さまざまな状況において適切な非言語的行動をとることができないことである(談話V)。17世紀の技術しか知らない彼は、人間
特有の行動を説明するには、物理的なものを超えた何か、つまり脳や身体の他の部分のプロセスと相互作用する非物質的な心が必要だと結論づけた。(重要なこ
とは、彼は同じ結論に対するアプリオリな議論も持っていたことで、そのうちのひとつは、後述の第3節で論じる「想到可能性の議論」を先取りしていた)。も
し彼が正しければ、物理的には現実の世界と同じであるが、そのような心を欠いた世界は存在しえない。心臓は鼓動を続け、眠っている間に呼吸をし、食べ物を
消化し、無心になって歩いたり歌ったりするかもしれない(彼は『反論IVへの回答』でそう述べている)。しかし、心による寄与がなければ、行動は人間らし
い特徴を示すことはできない。そのため、デカルトはゾンビの考えを明文化することはしなかったが、その可能性についての疑問は生じなかった。最も近いもの
はオートマタであり、その行動は人間的でないことが容易に認識できた。 19世紀になると、科学者たちは、物理学は説明可能なすべての物理現象を説明できると考えるようになった。すべての物理的結果には物理的原因がある、つま り物理世界は「因果関係のもとに閉じている」と考えたのである。発展途上の神経生理学の科学は、そのような説明を人間の行動にも拡張しようとしていた。し かし、もし人間の行動が物理的に説明できるのであれば、意識はどのように説明できるのだろうか?物理主義(あるいは唯物論)という一つの回答は、意識も物 理的なプロセスしか含まないと主張することである。しかし、意識の現象を物理的に説明することは困難であり、デカルトのように非物理的な何かが関与してい るに違いないと結論づけた思想家もいた。物理的なものの因果的閉鎖性を受け入れた彼らは、意識は物理的な世界には影響を与えないと結論せざるを得なかっ た。この見解では、人間はT.H.ハクスリーが言うように「意識のオートマタ」であり、人間の行動も含めたすべての物理的事象は物理的プロセスで説明可能 であり、意識の現象は因果的に不活性な副産物、つまりエピフェノメナである(ジェイムズ1890年、第5章参照)。やがて、この考え方は、意識がないこと を除けば、私たちとまったく同じ純粋な物理学的生物が存在しうることを意味していることが明らかになった。G.F.スタウトは、もしエピフェノメナリズム (「意識的オートマトン」理論のより馴染み深い呼称)が真実であるならば、それはかなり信憑性があるはずだと主張した、 経験する個体が存在せず、存在したこともなかったとしても、自然の構成と成り行きはまったく同じであったろう。橋や電話や電信を作ったり使ったり、本を書 いたり読んだり、議会で演説したり、唯物論について議論したり、といった動作は、人間の身体でも行われていただろう。これがコモン・センス(Stout 1931: 138f.) スタウトがここで説明し、一面的に信じがたいと考えているのは、ゾンビの世界である。(彼が攻撃していたエピフェノメナリストが主張していたように)物理 的プロセスが因果関係のもとで閉じており、現実世界のものとまったく同じであるが、意識的な体験が存在しない世界全体である。 同様の考えは、1970年代の物理主義の議論でも見られた。心理物理学的同一性理論の反例として、「脳状態が物理化学的特性においてわれわれと完全に類似 している」にもかかわらず、痛みを感じず、色も見えない「模造人間」がいた(Campbell 1970)。ゾンビは一般的な物理主義への反例として提唱され、それが可能であるという直観を裏付ける議論が考案された(Kirk 1974a, 1974b)。しかし、これらの議論は、当初の考えとほぼ同じ直観群に依存していたため、その目標を達成することはできなかった。 通常の人間のように振る舞い、あるいは機能的には人間のようであっても、我々が持っている「クオリア」を持たない他の種類のシステムが想定された(ブロッ ク1980a, 1980b, 1981; シューメイカー1975, 1981)。(大雑把に言えば、クオリアとは、私たちが経験を「どのようなものであるか」によって分類するための性質である。物理学者でさえこの表現を使 うことができるが、二元論者とは違って、彼らはクオリアを物理的なものだと考えている)。物理主義に対してゾンビの考えを最も体系的に使っているのは、デ イヴィッド・チャルマーズ1996年である。 もしゾンビが物理主義の反例となるのであれば、ゾンビが行動的・機能的に普通の人間と同じであるだけでは不十分である。物理主義者の多くは、単に行動的あ るいは機能的な私たちの複製にはクオリアが欠如している可能性があることを認めている。ゾンビは、すべての物理的な点において普通の人間と同じでなければ ならず、物理主義者が私たちが持っていると仮定する物理的特性を備えていなければならない。このことは、ゾンビが物理的な因果的閉鎖に従うことを必要と し、だからこそゾンビが意識を持たないことが物理主義への挑戦なのである。その代わりに、彼らの振る舞いを物理的に説明することができない生き物として考 えるのであれば、物理主義者はその考えに悩まされる理由はないだろう。エピフェノメナリストが主張するように、私たちの動きが実際に物理的な用語で説明可 能であるという証拠はたくさんある(例えば、Papineau 2002を参照)。 私たちの誰も実際にはゾンビではなく、ゾンビは私たちの世界には存在しないというのが通常の仮定である。しかし、中心的な問題は、ゾンビが我々の世界に存 在できるかどうかではなく、ゾンビ、あるいはゾンビの世界全体(これは時に、より適切な考え方である)が、より広い意味で可能かどうかである。 |
2. ゾンビと物理主義 |
ソール・クリプキの比喩は、ゾンビの考えがいかに物理主義を脅かすかを
示すのに役立つ(Kripke 1972/80,
153f.)。神が世界を創造し、純粋に物理的な宇宙全体を存在させると決めたとしよう。この物理的宇宙を創造した神は、意識を提供するためにさらに何か
仕事をする必要があったのだろうか?この質問にイエスと答えるということは、意識には物理的事実だけでは補いきれないものがあるということだ。何もなけれ
ば、意識は少なくとも部分的には非物理的な性質に依存しており、純粋に物理的な世界では存在しないもの、つまりゾンビの世界であることを意味する。一方、
物理主義者は「ノー」と答える。彼らは、純粋に物理的な事実を固定することによって、神はそれによって創造された生物の思考、感情、感情、経験を含む精神
的な事実を固定するために必要なすべてを行ったと言わなければならない。言い換えれば、物理主義者は、ある意味で純粋に物理的な真理が精神的な真理を内包
していると言わなければならないようだ(Kirk 1974a,
1974bは、物理主義にはその旨の「内包のテーゼ」が必要だと主張した)。もし本当に物理的事実だけを修正すれば、精神的事実を修正するのに十分なので
あれば、ゾンビの世界は不可能である。 物理主義がゾンビの不可能性を含意していることに誰もが同意しているわけではない。一つの提案として、物理主義者は、純粋に物理的な点では我々の世界と全 く同じであるが、我々の世界で意識を生み出す物理的特性が、意識を妨げる非物理的なものによって妨げられている可能性のある世界があることを認めることが できる。そうなれば、物理学者は一貫してゾンビ世界の可能性を認めることになる(Leuenberger 2008. このような「ブロッカー」については、Hawthorne 2002b; Chalmers 2010, 163-165を参照のこと)。しかし、このアプローチは、実際の意識状態が物理的状態や機能的状態と同一であるか、あるいは物理的状態や機能的状態に よって構成されていると主張することと矛盾する。もし私の意識状態が物理的状態と同一であるか、物理的状態によって構成されているのであれば、前者なしに 後者が存在する世界はありえない。したがって、物理主義者が一貫して意識遮断の可能性を認めることができるかどうかは明らかではない。Lei Zhong 2021は、物理主義は物理的なものに対する精神的なものの超越性にコミットするという広く知られている見解に挑戦し、非常に異なるアプローチをとってい る。 しかし、ここで言う不可能性とはどのようなものだろうか?物理主義者は、ゾンビが自然法則によって排除されていると言うことはできない。二元論者でさえ、 その意味でゾンビが不可能であることに同意できるからだ。したがって、物理主義はより強力なものを必要とする。 論理的必然性と形而上学的必然性である。さて、多くの哲学者(主にゾンビの考えに影響されている)は、物理的事実から意識へのつながりは、広い意味でも論 理的ではあり得ないと考えている。そして確かに、物理学の概念スキームは、物理的なものから現象的なものへの論理的な結びつきの余地を残していないように 見える(Kriegel 2011; Stoljar 2006など参照)。しかし、それにもかかわらず、ゾンビは実際にはまったく考えられないと主張する人もいる(Kirk 2005, 2008, 2013; Tye 2006)。Kirk 2013はまた、物理的事実は先験的に意識的経験についての真理を含意しないが、それにもかかわらず、論理的必然性によってそれを含意すると主張してい る。 それでも、多くの物理学者は、ゾンビの不可能性を保証するものは「形而上学的」必然性であると主張する。典型的には、現象的な意識の状態は物理的な状態と 同一であり、クリプキが主張したように、これらの同一性は事後的に必要であると主張する(McLaughlin 2005、批判についてはStoljar 2000などを参照)。しかし、可能性と必然性の語彙は微妙である。例えば、論理的な可能性と形而上学的な可能性が異なるかどうかについては意見の相違が ある(後述の3.1節)。クリプキ(1972/80)が「論理的」な可能性と「形而上学的」な可能性について書いているとき、彼はこれらの言葉を互換的に 使っているように見える(Yablo 1999: 457n.)。 物理的事実が形而上学的必然性によって意識を伴うのであれば、物理主義者はゾンビが形而上学的に不可能であっても、それでもなお考えられると主張できると 考える者も多い(Balog 2012; Loar 1990/97; McLaughlin 2005; 以下5.1、5.2節)。それとは逆に、チャルマーズは、考え得るということは実際には形而上学的な可能性を伴うと主張している。もしチャルマーズの主張 が正しければ、一般的な物理主義は間違っていることになる。ゾンビの可能性に関するいわゆる「想到可能性の議論」は、ゾンビのアイデアによって提起された 主な問題のいくつかを議論するための焦点を提供する。 |
3. ゾンビの可能性についての想像可能性の議論 |
この議論の最も単純なバージョンは以下の通りである。 1. ゾンビは想像できる。 2. 想像できるものは何であれ、それは可能である。 3. したがって、ゾンビは可能である。 (クリプキは1972年/80年に同様の議論を行っている。この議論のバージョンについては、チャルマーズ1996年、93-171ページ、2010年、 141-205ページ、レヴィーン2001年、ネーグル1974年、ストルジャー2001年を参照のこと。マイケル・ペルツァー(2021)は、想像可能 性に訴えることなく、同じ結論を主張している。)明らかに、想像可能性の議論は妥当である。しかし、その前提は両方とも問題がある。前提は述べられている ように不明瞭であり、明確にしても論争の的となる。重要な問題は、この文脈における「想像可能」をどのように理解すべきかである。 多くの哲学者は、ゾンビはある意味で想像可能であることを認めることに前向きである(例えば、Hill 1997; Hill and McLaughlin 1999; Loar 1999; Yablo 1999)。しかし、その意味は時にかなり広義である。例えば、「痛みという概念とC線維刺激という概念の間には、実質的なア・プリオリな結びつきはな い」という主張は、「原則的には、他方を習得することなく、これらの概念のいずれかを完全に習得することは可能である」という点によって裏付けられている (Hill 1997, 76)。しかし、その基準では、円周率と直径の比が有理数であることは考えられるが、実際にはありえない。もし、その意味での「考えられる」ことが「あり える」ことを意味するなら、その比が有理数であることはありえるし、ありえないということになる。そうなると、そのような「考えられる」という議論は意味 をなさなくなる。そう理解すれば、前提(1)は簡単に受け入れられるが、(2)は拒否せざるを得ない。明らかに、想像可能性の閾値が低いほど、(1)を受 け入れやすくなるが、(2)を受け入れるのは難しくなる。そのため、前提(1)と(2)で呼び起こされた想像可能性の種類は、厳しく制限する必要がある。 ここで採用する一般的な定義は、以下のものである。「あることが考えられるのは、それがア・プリオリに否定できない場合に限られる。(これらの考えや関連 する考えの洗練については、チャーマーズ著『1999年、477ページ』、『2002年』、『2007年』、『2010年』および下記5.1を参照のこ と。) ジョセフ・レヴィーンは、ゾンビの想像可能性を「説明のギャップの主な表れ」と見なし、想像可能性の議論のバージョンについて論じている(2001: 79)。彼の見解では、このギャップを生み出しているのは、現象が物理とどのように関連しているかを説明する認識論上の問題である。彼は、この問題を解決 する方法はないと考えており、ゾンビが不可能である場合でも、この問題は残ると考えている。 キャンベル、コープランド、デン(2017)は、一般的に、あらゆる想定可能性の議論には対応する「鏡像の議論」があり、それは主たる議論を損なう代償を 払うことでのみ否定できると主張し、想定可能性の議論はすべて「論理的に破綻している」と結論づけている。 ここで、2つの重要な問題に直面する。説明された意味でゾンビは想像できるのか?もし想像できるなら、それはゾンビが存在しうることを意味するのか?両方 の質問に「はい」と答える場合のみ、想像可能性の議論は成功する。この2つの問題は、この順番で検討できる。 |
4. ゾンビは可能か? |
1970
年代にゾンビのアイデアを利用した人々は、一般的にゾンビは考えられるだけでなく、可能であると仮定した(例えば、Campbell
1970、Nagel
1970)。チャルマーズがこの考えを再活性化させたとき、彼はゾンビの可能性を「明白」だと考え、「確かに首尾一貫した状況が記述されているようだ。し
かし、彼はこの直感が当てにならないことも認識していた。意識経験の本質を理解するのは結局のところ難しい。明らかに可能だと思うことが、隠れた矛盾を含
んでいることが判明することもあるのだ(Nagel 1998; Stoljar
2001)。明らかに、ゾンビは考えられると主張する人々は、我々の認識能力に依存する認識論的主張であるため、否定可能であることを認識した上で、正当
性を示さなければならない。 |
4.1 ゾンビの可能性に関する議論 |
Chalmers
(1996)は、物理的事実から精神的事実へのアプリオリな含意があるという見解に反対する5つの論拠を示した。それぞれの議論は直接的または間接的にゾ
ンビの考えの直感的な魅力を補強するものである。他の4つはそれぞれ、物理的な差異がない「逆スペクトル」の可能性、純粋に物理的な情報に基づいて意識的
な経験を学習することの不可能性、ジャクソン(1982)の「知識論証」(最後の論証と関連している)、そしてチャルマーズが「分析の不在」と呼ぶもので
ある: 他の論証が機能すると仮定して)「そのような付随性を実証しようとする試みは失敗する運命にある」(1996, p.
104)のである。104). 彼の最初の議論は次のようなものである。小さな人間の集団が、あなたの脳を機能停止させ、その機能を自分たちで複製する一方で、あなたの身体の他の部分は 正常に動作するとする(ブロック1980aを参照)。このようなシステムに意識はあるだろうか?直感的にはそうではないと言いたくなるかもしれない。機能 主義者を中心に、「イエス」と答える人もいる。しかし、この議論は、ホムンクルス・ヘッドが意識を持たないという仮定に依存しているわけではない。それ は、ホムンクルスが意識を持たないということが考えられるという仮定に依存しているだけである。チャルマーズの言葉を借りれば、ここで重要なのは、システ ムに意識が欠けているかもしれないと言うとき、「意味のある可能性が表現されているのであって、意識が生じるかどうかは未解決の問題である」(1996 年、p.97)ということである。もし彼の言う通りなら、システムが意識を持たないことも考えられる。その場合、システムはすでにゾンビのようなものであ り、唯一の違いは、ゾンビがニューロンを持っているのに対し、小さな人間を持っているということである。そして、その状況が考えられるかどうかということ に、なぜ違いがあるのだろうか?ホムンクルスからニューロンに切り替えたからといって、なぜ意識の灯がともるのだろうか?(ホムンクルス・ヘッドに意識が ないことが考えられるという仮定に対する疑問については、例えばLoar 1990/1997, pp.613f.を参照)。 その他、ブロック 1995, 2002; レヴァイン 2001; サール 1992にもゾンビの可能性を支持する考察がある。Chalmers 2010は彼の擁護をさらに発展させている。Brian Cutter 2020は、物理的真理が意識の不在と両立するという仮定に頼らない、反物質主義的な様相論を提示している。 |
4.2 ゾンビの可能性に対する反論 |
かつてはゾンビが存在することは広く受け入れられていたが、現在では懐疑的な意見も増えている。この考えに対する直接的な攻撃を検討する前に、二元論が誤 りであることを先験的に知ることができるという主張を支持する3つの見解を簡単に思い出してみよう。 一つ目は検証主義で、(宣言的な)文はその真偽が検証できる場合にのみ意味があるとする。これは、検証不可能な文は文字通り無意味であり、観察不可能な非 物理的なものが存在するという形而上学的な主張は成り立たないということを意味する。しかし、私たちが自分の経験について考えたり話したりすること自体が 検証主義にとって問題であるため、ゾンビの考えを攻撃する際にこの見解を前提とすることは、問題を提起することになる。第二の見解は、ウィトゲンシュタイ ンの私的言語論に訴えるものである。検証主義的とは言えないが、この議論は、言葉が意味を持つためには、その使用が公にチェックされなければならないとい う仮定に依存している。しかし、この検証可能性の仮定が正しいとすれば、ゾンビの可能性を擁護する人たちが考えるような方法でクオリアについて語ることは できないことを証明することになるため、現在の文脈では疑問符がつく。第三の見解である行動主義によれば、精神状態を持つということは、ある特定の行動を とるように仕向けられること以上のことはない。ゾンビの考えを攻撃する根拠として、行動主義は検証主義や私的言語論と似たような状況にある。ゾンビは完全 な意識を持つための行動条件をすべて満たすので、行動主義が正しいと先験的に知ることができれば、ゾンビの世界はその理由で考えられないことになる。しか し、行動主義が正しいことを示すことはできそうにない。(デネット1991は行動主義に強い親和性を持つ立場を擁護しているが、機能主義の一種として分類 した方がいいかもしれない)。 機能主義は、より広く支持されている精神へのアプローチである。それによれば、精神状態は単に行動や気質の問題ではなく、感覚入力、内的状態、行動出力の 間の因果関係やその他の機能的関係の問題である。(必ずしも行動特性に反映されない内部機能を考慮することが重要であり、そうでなければ機能主義は、前節 で述べた「ホムンクルス・ヘッド」のような行動主義に対する通常の反論に陥る(Kirk 2005, 2013, 2017)。) さて、ゾンビは完全な意識の機能的条件をすべて満たすので、機能主義はゾンビが不可能であることを意味する。しかし、機能主義はますます洗練されてきてお り、機能主義を支持する議論は、ゾンビの可能性を否定するものである。(ゾンビに対する機能主義の擁護については、Dennett 1991; 1995; 1999; Kirk 2017; Shoemaker 1999; Tye 2006; 2008を参照のこと。ゾンビに対処する機能主義の能力についての疑問については、例えばHarnad 1995を参照のこと)。 広範な精神機能主義理論とは別に、ゾンビの想像可能性に対してより焦点を絞った攻撃もある。 私たちは本当にゾンビを想像できるのか?ダニエル・デネットは、ゾンビの想起可能性を認める人々は、ゾンビを十分に想像できていないと考えている。「彼ら は必ず、想起(あるいは想像)の仕事を過小評価し、自分自身の定義に反するものを想像してしまう」(1995年、322頁。)意識の広範な機能主義的モデ ルを考えれば、「ゾンビと意識のある存在との間の仮定の対比が幻想的である」(325。)意識は「単一の素晴らしい分離可能なものではなく......多 くの異なる情報能力の巨大な複合体」なのである(1995, 324。コットレル1999はこのアプローチを支持している)。 認識論的アプローチ」。Stoljar (2006, 2020)は、我々が関連する物理的事実について完全な知識を持っていない可能性が高いにもかかわらず、想到可能性の議論は我々が関連する物理的事実につ いて完全な知識を持っていることを前提としていることを強調している。もしそれが正しければ、我々は問題の可能性を正しく発想することができず、その場 合、発想可能性議論の前提(1)は偽となる。この見解の利点は、意識の還元的説明、つまり、物理的事実が、その事実が得られるすべての可能性のある世界に おいて意識が存在するようなものである、と仮定する自由を私たちに残してくれることである。 ゾンビの発言私がコーヒー豆の焙煎の匂いを嗅いでこう言ったとしよう!いい匂いだ!』と言ったとする。誰もが当然、私が自分の経験について話していると思 うだろう。しかし今、私のゾンビの双子が同じ発話をしたとしよう。彼もまた経験について話しているように見えるが、実際はただのゾンビなのでそうではな い。彼は勘違いしているのだろうか?嘘をついているのだろうか?彼の発話はどうにかして真実と解釈できるのだろうか、それともまったく真実味がないのだろ うか? Nigel Thomas (1996)は、「ゾンビ愛好家がこれらの質問に対して取るどのような線も、彼らを深刻な問題に巻き込むだろう」と論じている。 クオリアについて知ること、クオリアを参照すること。定義上、ゾンビの世界は物理主義者が仮定する私たちの世界と同じであるが、意識はない。このことは、 意識は非物理的なものに依存していることを意味するので、ゾンビは(そもそもゾンビが可能であるとして)非物理的なものを加えることで意識を持つことがで きることになる。そして、ゾンビの世界は因果的に閉じていることを考えると、これらのクオリアは因果的に不活性でなければならない。したがって、ゾンビの 世界が考えられるなら、エピフェノメナリズムも考えられるということになる。(もちろん、これはエピフェノメナリズムが考えられるだけでなく、実際に真実 である必要はない)。もしそれが正しければ、エピフェノメナリズムの実現可能性に対する異論は、ゾンビの実現可能性に対する異論でもある。あまり明白では ない反論は、私たちが意識的な経験に言及し、それについて知っているという事実から始まる。この反論は、私たちが知ることができるもの、言及することがで きるものは何でも、間接的にせよ、私たちに影響を与えるに違いないという広く信じられている見解に訴えるものである(Kripke 1972/80)。それにもとづいて、われわれの相手である超現象的世界ではクオリアについて知ることも言及することもできず、その結果、(上記の推論か らすれば)超現象的世界もゾンビ世界も考えられないことになる。 この攻撃に対してチャルマーズは、重要なのは私たちが自分の経験を「知っている」ことだと答える。この "親密な認識論的関係 "は、私たちが経験に言及できることを保証し、また経験について知っているという主張を正当化する。対照的に、ゾンビの双子には経験がないため、経験につ いての判断は正当化されない。チャルマーズは、たとえクオリアが私たちの判断に因果的な影響を及ぼさないとしても、適切な物理的文脈の中にクオリアが存在 するだけで、私たちの思考がそのクオリアに関するものであることが保証されると提案している。彼はまた、たとえ経験が問題の判断を下すことに説明的に関連 していないとしても、それが我々の知識主張の正当性を構成すると考えている(Chalmers 1996, 172-209; 1999, 493f; 2003, 2010も参照)。 認識論的接触の問題先ほど、ゾンビが考えられるなら、エピフェノメナリストやパラレリストの世界も考えられると思われた。その場合、ゾンビの友人たちは、 そのような世界におけるエピフェノメンタルなクオリアが、どのようにして知り合いの対象となりうるのか、あるいは実際に人々の生活に何らかの親密な貢献を しうるのかを説明しなければならない。ここでカーク(2005;2008)は、ゾンビの考えがさらなる困難に直面していることを示唆している。ここでカー ク(2005; 2008)は、ゾンビという考えがさらなる困難に直面していることを示唆している。これらの活動は、私たちに「認識論的接触」をもたらし、認知的処理を伴 う。だから、(エピフェノメナリズムとパラレリズムが示唆するように)エピフェノメナリー・クオリアが実際に私たちの経験を構成するのであれば、必要な処 理は純粋に物理的なものでなければならない。問題は、ゾンビの物語では、そのような処理によって私たちがエピフェノメナリー・クオリアと認識的に接触する ことは不可能だということだ。というのも、そのために訴えることができる唯一のリソースは、神経プロセスによるクオリアの因果関係と、それとの同型性だけ だからである。もしそれが正しければ、エピフェノメナリー・クオリアとゾンビという概念は矛盾を引き起こす。それらは、人が自分のクオリアと認識論的に接 触することを要求する意識の概念を暗示しているが、同時にそのような接触の可能性を排除している。 強力な資質」。ゾンビの考えに対するもう一つの興味深い反論は、「強力な性質」という(論争の的となる)考えに基づいている。つまり、すべての性質は性質 と質的なものであり、実際、ものの性質はその性質と同一であるという見方である。例えば、Alexander Carruth (2016)は、想起可能性の議論は、物理的性質が処分的である一方で、現象的性質は質的であることを前提としていると主張している。それに基づいて、私 たちの世界のゾンビの複製は、私たちの世界の性質的特性をインスタンス化するが、現象的特性はインスタンス化しない。強力な資質観は、それを先験的に除外 し、考えることすら不可能にする。というのも、もしあるものの性質がその性質と同一であるならば、それと同一であるとされるすべての性質をインスタンス化 することなしに、ある特定の性質の性質をインスタンス化することはできないからである。ヘンリー・テイラー(Henry Taylor, 2017)はこの論法に対抗して、物理的なものと現象的なものとの区別に関するあり得ない説明に依存していると主張し、特に物理的なものは処分的なものに 限定されることはあり得ないと論じている。 その他、ゾンビの概念可能性に関する攻撃については、Balog 1999; Cottrell 1999; Harnad 1995; Kirk 2005, 2008, 2013; Marcus 2004; Shoemaker 1999; Stoljar 2001; Tye 2006を参照のこと。 |
5. 想到可能性は可能性を伴うか? |
想到可能性の議論の前提(2)はこうである: 考えられることは何でも可能である。これは、以下のようにいくつかの角度から攻撃されてきた。 |
5.1 事後必然性に基づく反論 |
多
くの哲学者が、クリプキの事後的必然真理に関する考え方は物理主義の擁護を容易にすると主張している。彼らは、ゾンビの世界が考えられるとしても、それが
重要な意味で可能であるとは言えないと主張する。可能性は形而上学的なものであるのに対して、想到可能性は認識論的な概念であると彼らは言う:「原理的に
Pを想到することができるなら、Pは論理的に可能であるというのは誤りである。Hill 1997; Loar 1990/1997; 1999;
McLaughlin 2005; Webster
2006も参照)。哲学者の中には、ゾンビの可能性を否定する者に証明責任があるという見解に異議を唱え、想到可能性が可能性への指針であるという仮定す
ら否定する者もいる(Block and Stalnaker 1999; Hill and McLaughlin 1999; Yablo
1993)。 チャルマーズはいくつかの場所で反論している(1996, 131-134; 1999, 476-7; 2010, 141-205)。彼の最も詳細な発想可能性の議論(2010)では、二次元意味論の枠組みを用いている。これにより、彼は2種類の可能性とそれに対応す る2種類の想到可能性を区別することができる。例えば、水がH2Oとは化学的に異なる物質であったことは可能である。もう一方の「二次的な」意味において は、水が化学的に異なる物質であったということは、考えうることでも可能なことでもない。たとえゾンビの世界が第一義的に考えられ、したがって第一義的に 可能であったとしても、それが第二義的に可能であるとは限らないということである。そして、事後的物理主義者は、ゾンビ世界の二次的な可能性だけが物理主 義の虚偽性を伴うという理由で、その帰結を否定するのが普通である。この時点でチャルマースは事実上、反対派にジレンマを提示している。(彼の結論をざっ くりまとめると)ゾンビの一次的な可能性は結局のところ二次的な可能性を伴うのであり、その場合、可能性の議論は有効であり、唯物論は偽である。 3が真である(Jackson 1998; and for discussions, Brueckner 2002; Loar 1999; Hill and McLaughlin 1999; Piccinini 2017; Sebastián 2017; Shoemaker 1999; Soames 2005; Yablo 1999も参照)。 |
5.2 現象概念戦略 |
多
くの物理学者は、ゾンビの考えもフランク・ジャクソンの知識論も、現象的概念(大雑把に言えば、私たちが経験の特徴を伝えるときに使う概念。)この考え
方の支持者は、物理的なものと現象的なものとの間の「説明可能なギャップ」、つまりゾンビは考えうるものであるという考え方が、存在論的なギャップをもた
らすと考えている。現象的概念戦略」(Stoljar
2005)によれば、実際には概念的なギャップしかない。現象的概念には、認識論的なギャップに加えて存在論的なギャップがあると誤解させる特徴がある
が、実際には存在論的なギャップはない。 したがって、ゾンビの世界が考えられるとしても、私たちの世界に非物理的な性質があることにはならない。もしそれが正しければ、物理主義者はゾンビの可能 性を認めながら、現象的な概念で選んだ性質は物理的なものだと主張することができる。性質は世界によって構成されるのであって、私たちの概念によって構成 されるのではないことを考えれば」、ブライアン・ロアーは「物理主義者が、概念的に異なる概念が形而上学的に異なる性質を表現しなければならないという仮 定の正当性を要求するのは公平なことである」とコメントしている(Loar 1999, 467; his 1997も参照)。彼はまた、物理的概念が「理論的」であるのとは対照的に、現象的概念は「認識的」であると主張する。現象的概念は「クリプキが『痛み』 の場合に観察したように、それらが摘出した特性そのものを表現する」(1999, 468)とロアーは言う。彼は、これらの点がゾンビ世界の可能性を説明すると考えているが、一方で、関連する物理的特性が意識とは異なる可能性のある世界 は存在しないと主張している。Chalmersは、Loarの説明は物理的概念が現象的特性を参照するという見方を正当化するものではないと反論している (1999, 488)。さらに彼は、このアプローチの支持者はジレンマに直面していると主張する(2007)。私たちが持っているがゾンビには欠けている心理学的な 「重要な特徴」をCとしよう。もし、Cがなくても私たちに関する純粋に物理的な事実が成り立つと考えられるなら、Cは物理学的に説明不可能である。一方、 それが考えられないのであれば、彼の見解では、Cはゾンビと対照的な我々の認識論的状況を説明できないことになる。つまり、Cは物理学的に説明できない か、我々の認識論的状況を説明できないかのどちらかである。(議論については、Ball 2009; Balog 2012; Carruthers 2005; Chalmers 1999; 2007; 2010; Crane 2005; Loar 1990/97; Papineau 2002; Pereboom 2011; Stoljar 2000; Tye 2008を参照)。 |
5.3 ラッセル的一元論 |
ラッ
セル(1927)に倣って、物理学は物事の「構造的な」性質(物事の性質やノミックな関係など)についてしか語らないのであって、そのような構造的性
質の根底にあり、それを説明するとされる「内在的な」性質については語らないとする哲学者も いる。Daniel Stoljar
(2001)は、物理学が提供するものだけに訴えるのか、それとも物理学的対象の本質的特性にも訴えるのかによって、物理的なもの、そしてそれに対応する
物理主義には2つの異なる概念が存在すると論じている。なぜなら、(おおよそ)物理主義者は常に、物理的世界について(特にその本質的特性について)十分
な知識がないため、ゾンビの可能性を「強く」思い浮かべることはできないと反論できるからである。 このような考えは、チャルマーズが「ラッセル的一元論」(中立的一元論の一種)と呼ぶものに利用される。我々の世界では、根底にある内在的性質は「現象的 性質であるかもしれないし、原現象的性質:適切な方法で組織化されたときに集合的に現象的性質を構成する性質」(2010: p.151)かもしれない。それにもかかわらず、私たちの意識をもたらすとされる内在的な特性が物理的なものと分類されるのであれば、もしそれが私たちの 「完全な」物理的複製であると理解されるのであれば、説明者はゾンビの可能性を否定することができる。同時に、構造的な性質においてのみ私たちと重複する ゾンビの可能性も認めることができる。彼が指摘するように、この見解は「物理主義の非常に特徴的な形態であり、物性二元論と多くの共通点を持ち、多くの物 理主義者が拒否したいと考えるもの」である(Chalmers 2010, p. 152; Pereboom 2011も参照)。物理主義としてカウントすることの障害となるのは、私たちの世界では特別な固有特性が意識をもたらすはずなのに、他の世界では同じ機能 を果たす固有特性が意識をもたらさない理由を説明できないように思われることである。 Philip Goff (2010; 彼の2017も参照)は、ラッセル版物理主義のこの抜け穴がゾンビの議論を弱めることを示唆している。彼はその代わりに、物理的性質を持たない純粋な経験 主体である幽霊からの議論を推奨している。彼は、そのような幽霊は考え得るし、可能であり、ラッセル一元論に抜け穴を残さない物理主義に対する議論を提供 すると主張する。(物理主義者は、ゾンビの可能性に反対する議論も幽霊に対して動員できると反論するだろう)。 |
5.4 その他の異議 |
特
殊要因。心理物理学的なケースには、私たちを惑わす傾向が強い特別な要因が働いていることが示唆されている。例えば、意識状態を想像したり考えたりする
のは、物理的事実を考えるのとは異なる認識能力であると主張されている:ゾンビに関するような)デカルト的直観と、多種多様な他の種類の様相的直観を引き
起こす認知的要因には、大きな違いがある」(Hill and McLaughlin 1999, p.
449。このような違いが、私たちがゾンビを容易に想像できることと、それにもかかわらずゾンビはありえないという主張を理解することの難しさを説明する
のに役立っているということである。 条件分析もう一つの反論は、クオリア概念の条件分析に基づいている。もしそのような非物理的性質がなければ、クオリアとは適切な機能を果たす物理的性質の ことであり、ゾンビは考えられない。このアプローチによって、物理学者はゾンビの可能性は考えられるが、ゾンビは考えられないと否定することができると主 張する(Hawthorne 2002a; Braddon-Mitchell 2003. 批判についてはAlter 2007; Chalmers 2010, pp.159-59を参照)。 因果本質論。因果本質論の理論によれば、物理的性質の因果的性質は物理的性質にとって本質的なものである。Brian Garrett (2009)はこの理論を利用して、物理主義に対するゾンビの議論は、因果本質論の偽りを前提とする自然法則と性質の同一性に関する広義のヒューム的仮定 に依存していると主張している。これらの仮定を否定し、いくつかの物理的特性が本質的に意識を生み出す能力を持っていることを受け入れるならば、そのよう な世界が考えられるとしても、「ゾンビ世界の真の可能性を受け入れることはできない」(Aranyosi 2010も参照)。 ゾンビの発話の詳細 私たちの世界の物理的複製であり、すべての哲学者のゾンビの双子を含むゾンビ世界を考えてみよう。Katalin Balog (1999)は、彼らの発話は意味を持つだろうが、彼らの文章が私たちの口から出てくるものとは限らないと主張する。さらに彼女は、単純化しすぎだが、も し実在の哲学者の口において想到可能性論が成り立つのであれば、ゾンビ哲学者の口においても成り立つだろうと主張する。しかし、彼らの世界では、仮説とし て物理主義が真であるため、彼らの議論は健全ではない。したがって、実際の哲学者たちが使う「考えうる論証」も健全ではない。この論証が有効であれば、 「反物理主義者が可能だと考えるゾンビは、結局、その可能性を立証しようとする論証を台無しにする」(502. Chalmersは彼の2003; 2010, pp.159-60で簡単な反論を述べている)という奇妙な特徴がある。 物理主義に対する反ゾンビ論物理主義はゾンビが不可能であると仮定しているが、ゾンビが可能であることを示すことで、物理主義に反論しようとしている。見 たように、この議論の最も単純なバージョンはこうである: (1)ゾンビは考えられる、(2)考えられるものは何でも可能である、(3)従ってゾンビは可能である。(3)したがって、ゾンビは可能である。しかし、 「反ゾンビ」(純粋に物理的な事実によって意識化された自分自身の複製)もまた、可能であるように思われる(Frankish 2007)。つまり、(1*)反ゾンビは考えられる、(2)考えられるものは何でも可能である、(3*)したがって反ゾンビは可能である、という並列論証 が成り立つ。しかし、(3)と(3*)の両方が真であることはありえない。なぜなら、アンチゾンビに関する純粋に物理的な事実が彼らに意識を持たせるので あれば、ゾンビに関するまったく同様の物理的事実も彼らに意識を持たせることになり、結局彼らはゾンビではないからである(Frankish 2007; Marton 1998; Piccinini 2017; Sturgeon 2000, pp.114-116)。一つの道徳は、私たちは、考えられることから可能性への推論を拒否すべきであるということである。(Brown 2010は、もしアンチゾンビが考えられるのであれば、ゾンビは考えられないと論じている)。ゾンビ対策が可能であるならば、ゾンビは不可能である (Brown 2010は、ゾンビ対策が可能であるならば、ゾンビは不可能であると主張している)。 |
6. その他の問題 |
以下の「関連項目」のリストは、ゾンビの考えが提起する問題の範囲と深さを示している。もしゾンビが本当に可能であるならば、物理主義が問題であるだけで なく、他のトピックについても広く受け入れられている見解が問題である。以下に3つの顕著な例を挙げる。 |
6.1 精神的因果関係 |
デ
カルトは、物理的な出来事が精神的な影響を与えるだけでなく、精神的な出来事が物理的な影響を与えるという一般的な仮定を受け入れた(例えば、政治情勢
について考えることが私に手紙を書かせる)。彼の二元論の難しさは、非物理的なものが物理的なものにどのような影響を及ぼすのかを理解することだと考えら
れていた。しかし、もしゾンビが可能なら、つまり物理的世界が因果的に閉じていなければならないなら、非物理的クオリアがすべき仕事はない。その場合、見
た目とは裏腹に、非物理的なものが物理的なものに影響を及ぼさないことを理解するのが難しい。ゾンビがあり得ると仮定すると、並行論やエピフェノメナリズ
ムに代わるものを見出すのは難しくなる。確かに、ゾンビの友人たちは、実際の世界について、エピフェノメナリズムやパラレリストであることを強制されてい
るようには見えない。彼らは相互作用論者であり、私たちの世界は物理的に閉じているわけではなく、実際のところ、非物理的な性質は物理的な影響を及ぼすと
考えるかもしれない。あるいは、形而上学的に基本的なものは物理的性質ではなく、現象的なもの、あるいはおそらく「原現象的」なものであるという汎心論を
採用することもある(Chalmers 1991, 297-299; 1999, 492; Goff 2017; Strawson
2008)。しかし、どちらの選択肢も簡単ではない。因果的閉鎖性を放棄することは経験的証拠と矛盾するように見えるが、現象的または準現象的特性が基本
的なものであるという考え方は依然として不明瞭である。 |
6.2 意識の機能 |
ゾンビの可能性は、進化論にとっても問題である。なぜクオリアを持つ生
物は、そのような生物のゾンビではなく生き残ったのだろうか?もしゾンビが生き残っ
たのだとしたら、意識は何の役に立つのだろうか?オーウェン・フラナガンとトーマス・ポルガーは、ゾンビの可能性を利用して、「なぜ経験の主体が出現した
のか、なぜ非常に知的なゾンビのような情報感受性の高い生物との進化的な戦いに勝利したのか、あるいは勝利すると期待されたのかについて、信憑性のある話
はまだない」(1995,
321)という主張を支持している。ゾンビの可能性を否定する人たちが直面していない問題である。ゾンビを受け入れる人たちに代わって、現象的なものと物
理的なものを結びつける基本的な法則が存在する可能性を示唆する。そのような法則は、意識のある生物が進化したかどうかには関係なく、その場合、進化は特
別な問題を引き起こさない(Chalmers 1996, 171)。 |
6.3 他の心 |
もしクオリアに物理的な効果がないのであれば、他の誰かが実際にクオリ
アを持っていることを確実に証明することはできない。それゆえ、他の心についての懐
疑論に対する確かな答えを持っていると信じている哲学者は、ゾンビの考えのこの帰結は、それを非難するのに十分であると結論づけるかもしれない。他の人は
逆の結論を導き、懐疑的な帰結を「確認」として受け取るかもしれない。(もちろん、他人の心懐疑論に対するすべての反応が、ゾンビは考えられないというこ
とを意味するわけではない)。 |
7. 結論 |
ゾンビのアイデアの直感的な魅力には圧倒されるかもしれない。しかし、
それは地球が静止しているという考えにも言えることであり、科学が非物理的なものに
訴えることなく事象を説明できるという考えにも言えることである。反物理的主義者の中には、反対派のコミットメントがその困難さに目をつぶらせていると考
える者もいる: ある理論を正しいものにするために、(ゾンビの)可能性を否定するように仕向けられるかもしれないが、そのような理論の正当性は、むしろその逆ではなく、 可能性の問題に乗っかるべきである(Chalmers 1996, 96)。 一方、物理主義者の中には、ゾンビの考えが反物理主義者の思考を非合理的に支配していると考える者もいる。 反物理主義者の議論を、その独立した力がその傾向性を覆い隠している直観の合理化と見なしたくなる(Loar 1990/1997, 598)。 双方の主張がますます洗練されてきているにもかかわらず、あるいはそのせいかもしれないが、説得力は増していない。それぞれの方向への引力は依然として強 い。 |
https://plato.stanford.edu/entries/zombies/ |
哲学におけるゾンビとは、意識と物理的世界との関係についての問題を明らかにするために作られた想像上の生き物である。映画や魔術に登場するゾンビとは異
なり、物理的な点では私たちとまったく同じだが、意識的な経験を持たない。しかし、ゾンビは私たちと同じように行動し、意識について多くの時間を費やす者
さえいる。
ゾンビが実際に存在すると考える人はほとんどいない。しかし、多くの人は、ゾンビは少なくとも考えうる存在であり、可能であると考えている。もしゾンビが
本当に存在するのであれば、物理主義は誤りであり、ある種の二元論が真実となる。多くの哲学者にとって、ゾンビのアイデアは重要である。しかし、意識と心
の他の側面に関するより広い哲学的理論化に刺激と焦点を与えるという点でも、ゾンビのアイデアは価値がある。また、より一般的な形而上学的、認識論的研究
においても、例えば、想像可能性、構想可能性、可能性の関係についての問題を提起したり、「他の心」の問題を再活性化させたりすることで、その重要性を示
している。
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