かならずよんで ね!

ある「生命論と宗教と人工知能」論に対するスコラ的論駁

Cult and Religion of Technological Singularity: a scholastic confutation

The Cyber Luddite

池田光穂

このページでは、シンギュラリティへの未来学的予測 が、いつのまにか、シンギュラリティそのものを崇拝する(Singularity cult)信仰に転化するプロセスについて考察するページのひとつである(→「ポータ ルページ」)

●生命論と宗教と人工知能論のスコラ的論駁

神奈川大学名誉教授・伊坂青司氏による「生命論と宗 教の現代的可能性:AI時代の中で」『神奈川大学評論』巻号数不詳における、冒頭と結論の部分を文章をセンテンスにわけて引用と注解をし、その弁証の論理 が破綻していることを示す。

p.83
1)AI(人工知能)は、人間知能の働き の一部を機械によって代用するものである。
【異議】
AIには、人間知能の働きの一部 あるいは全部を代用するという立場があるので、完全なAIの主張になっていない。AIの標準的な定義を機能論で説明している点で不十分である。

2)人間知能の中枢をなす脳の機能は、神 経細胞間の活動電位による信号インパルスの働きによって、情報伝達と情報処理を行うことにある。
【異議】
脳の機能は、これ以外にも、いま だ論証されていない面も含めて不十分(例:アントニオ・R・​ダマシオらの「情動の機能」)。「神経細胞間の活動電位による信号インパルスの働きによっ て、情報伝達と情報処理を行う」のは、メカニズムでこれは「機能」だけではなく「構造に根拠づけられた機能」のことを言っている。

3)AIはこうした人間の脳の機能を電気 信号の機械によって高度に特殊化したものである。
【異議】
第一文が「人間知能の働きの一部 を機械によって代用するもの」であり、この文が「人間の脳の機能を電気信号の機械によって高度に特殊化」というものが、前の二文と連結していない。

4)それは人間が作り出した機械でありな がら、しかし記憶媒体としての機能のみならず情報処理機能という点で、すでに人間の脳を超えている。
【異議】
5)6)7)の例証の文章だが、 「情報処理機能という点で、すでに人間の脳を超えている」というのは、AIの特異な現象(例:人間には過学習がおこらないのにAIでは、それがおこり研究 者の頭を悩ます)からいっても断定できない

5)例えば、AI が囲碁のトップ棋士に勝ち、麻雀で十段になったという報道がわれわれを驚かせている。
(承前)

6)また人工知能を組み込んだロボット が、人間身体を超えるような運動をしたり、人間労働を代替したりすることも実際に生じている。
(承前)

7)さらに、高度な知能を持つ人間型ロ ボットが感情をインプットされて、人間を支配したり殺したりもするSF の世界が、リアリティーを帯びつつある。
(承前)

8)確かに情報の記憶量と処理能力という 点で、ロボットは人間をはるかに超えてゆくとしても、しかしあくまでも機械であることに変わりはない。
【異議】
「機械であることに変わりはな い」なら、AIも足元にある電気掃除機も機械であることにはかわりない。しかし、「情報の記憶量と処理能力という点で」すぐれていることと、「機械である ことに変わりはない」は論理的に結びつかない。

9)人間型ロボットでも及ばない人間の固 有性の一つは、生命に固有の自己増殖作用である。それは個体における細胞分裂であり、また生殖による新たな個体の産出である。
【異議】
自己増殖作用の定義によるが、セ ルオートマトンは、自己増殖プロセスを考察するためのモデルであり、セルオートマトンは、単純に機械による仕事をさせることで我々はその理解が可能にな る。
83-84
10)その意味で、どれほど高度な人工知 能を組み込まれた人間型ロボットでも、少なくとも現在のところ人間生命を超えることはできていない。
【異議】
人間と機械が異なるという事実認 定と、「人間生命を超える」という現象の予測をすること自体がナンセンスである。なぜなら、「超える」という現象は、同一の作業タスクを課して、どちらが 優れているのかということを判別したり、勝敗率ではじめて比較可能になり、ようやく「超える」という主張が可能になる
88
11)そこで改めて人間存在の根源をなす 生命に立ち帰って、AI 時代のわれわれ現代人の奥底にある生命観を掘り起こすことにしたい。
(この論考についての宣言)

12)そもそも機械としての人工知能の起 源がどこにあるのか、それに対して、人間生命は哲学や宗教においてどのように理解されてきたのか。
(この論考についての宣言)

13)こうした問題をヨーロッパと日本の 東西比較という視点で考察するとともに、日本文化の基底をなす生命観と宗教の現代的可能性を探ることにしたい。
(この論考についての宣言)
89
n+1)以上のように考察してきて、空海 の真言密教における生命観とシェリングの自然哲学における生命=有機体論を改めて対比してみると、そこには共通した内容と同時に違いもまた理解することが できる。
(叙述)

n+2)確かに両者には、生命に内在する 有機的な連関システムが認められる。しかし真言密教における生命の自然--精神哲学に対して、シェリングの自然哲学は精神哲学との関連をいまだ欠いている と言わざるをえない。
【異議】
真言密教の教義ならびに釈義のな かに(西洋哲学を措定する)「哲学」がないように思われる。それを(その哲学的伝統に位置するように思われる)シェリングの自然哲学と対峙することの、無 意味、無根拠性が問われる。シェリングの自然哲学は、著者も理解しているように「有機体」を自然の最高哲学とみなす観念論である。精神哲学の泰斗でまた仲 間と言えるG・W・ヘーゲルとシェリングは頻繁に手紙を交換しており。「シェリングの自然哲学は精神哲学との関連をいまだ欠いている」根拠を示すべきであ る。だがp.85の本体の部分に、真言密教との比較のなかで「精神哲学との関連をいまだ欠いている」はなされていない。

n+3)シェリングは自然哲学に続いて、 ヨーロッパの近代哲学に根強くある自然と精神の二元論的発想に対するアンチテーゼとして「同一哲学」を定立し、そこに自然と精神の「絶対的同一性」として の「絶対者」を想定した。
(叙述)

n+4)しかしその絶対者は、A=Aとし て表現される形式論理としての同一律に収斂することによって、自然哲学で論じられた生命=有機体論が後景に退いてしまった。
【異議】
シェリングが同一性の哲学を説く 中で、自然と精神の間の区別がなくなるから、自然としての生命=有機体論が後退すると主張するのなら、むしろ、自然と精神の峻別が苛烈になり、後者が同一 性の哲学として完成したと述べるべき。だが、このような論理は、同一性の哲学からみて、矛盾=破綻した論法である。それゆえ、この文章は意味がない。
89-90
n+5)それに対して空海の真言密教にお いては、宇宙生命そのものが「識」という精神的作用でもあり、このような発想は大宇宙の自然生命と人間精神との根源的な一体性を示すものといえよう。
空海の真言密教を「識」で一元化する。
90
n+6)空海は唐に渡る以前に、奈良仏教 の南都六宗における教理論争から離れて、高野山や四国などで山林修行を行っていた。
(叙述)

n+7)この山林修行は、比叡山に籠った 最澄にも見られるように日本密教形成の背景にもなっていて、その基底において縄文人の山や森林に対する自然信仰とつながっていると考えることができる。
(叙述)

n+8)このような自然体験が、宇宙生命 としての大日如来と人間生命の一体性という空海の真言密教の教理にも反映しているであろう。
日本の、顕密の双方の主張のなかに、自然 信仰(=自然崇拝と呼ぶべき)があることを主張

n+9)そこには日本人の自然信仰に根差 した宇宙生命全体についての智慧が示されているのである。
【異議】
自然崇拝があるところには「宇宙 生命全体についての智慧」があるというふうに敷衍できる。これは自然崇拝を相対的にみる立場からみれば、論拠のない一方的な決めつけである。


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