かならずよんで ね!

シンギュラリティ崇拝の構造

Cult and Religion of Technological Singularity

The Cyber Luddite

池田光穂

このページでは、シンギュラリティへの未来学的予測 が、いつのまにか、シンギュラリティそのものを崇拝する(Singularity cult)信仰に転化するプロセスについて考察するページである

シンギュラリティーとは、端的にいって、人工知能(AI)の計算能力が人間の思考能力を超える技術論的仮想点あるいは時間的タイミングのこ とである。シンギュラリティ(=劇的に位相が変わるポイント)については、すでに多くの人の指摘があるが、ここでいうシンギュラリティはレイ・カーツワイ ルの提唱によるものである。

【サイバー・ラッダイトのこと】

AIやロボット脅威 論の古典は、それらの発達により、労働者の雇用が失われるという恐怖からであった。古くは、ラッダイト運動Luddite)。た だし、これは「無知な労働者」たちが、仕事を奪われる恐怖からおこした「原始的な反応」と歴史的には、分がわるい原初的抵抗運動の地位に留まっている。で も、今日の政府は、Society 5.0の到来により、古典的な意味での労働は不要になり、余暇時間が大幅に増えより豊かな社会が到来すると喧伝している。もちろん、根拠がない妄想と言え ばそれまでだが、誰もが批判し、(抵抗の)声をあげない理由は、日本の労働者の多くは、自らのアイデンティティの多くを労働者というよりも消費者であると 位置付けているからであろう(→「若者と労働」P.ウィリス『ハマータウンの野郎ども』Learning to labour : how working class kids get working class jobs)。

だとすれば、21世紀のプレカリアートがおこなうべ き、最初のリアクションはデジタル・ラッダイト(digital Luddite)ではないか?またそのような、無益な抵抗の後に必ず生じるのは、デジタル・リボリューションではないのか?- "Neo-Luddism is a leaderless movement of non-affiliated groups who resist modern technologies and dictate a return of some or all technologies to a more primitive level.[Sale, Kirkpatrick, America’s new Luddites. ] Neo-Luddites are characterized by one or more of the following practices: passively abandoning the use of technology, harming those who produce technology harmful to the environment, advocating simple living, or sabotaging technology. The modern neo-Luddite movement has connections with the anti-globalization movement, anti-science movement, anarcho-primitivism, radical environmentalism, and deep ecology" - Neo-Luddism

ラッダイト,Luddites(ブリタニカの記述) 「産業革命期のイギリスで起こった機械破壊運動。指導者が「キング・ラッド」と呼ばれたところから,この名称が生じた。機械の導入が織物工業の手工業職人 に失業の脅威を与えたため,1811年末ノッティンガムとその周辺で靴下とレースの編み機を破壊して,労賃の低下と安価な機械製品に反対する組織的暴動が 勃発,翌1812年春にかけて中・北部諸州に広がった。リバプール政権の厳しい規制によって,1813 年ヨークにおける大量裁判の結果,多数の参加者が絞首刑あるいは流刑に処せられ,運動は鎮圧された。1816年再びノッティンガムを中心に暴動が起こり, 全国に波及したが,これも鎮圧された」

"HISTORICALLY, Luddites flourished in Britain from about 1811 to 1816. They were bands of men, organized, masked, anonymous, whose object was to destroy machinery used mostly in the textile industry. They swore allegiance not to any British king but to their own King Ludd. It isn't clear whether they called themselves Luddites, although they were so termed by both friends and enemies. C. P. Snow's use of the word was clearly polemical, wishing to imply an irrational fear and hatred of science and technology. Luddites had, in this view, come to be imagined as the counterrevolutionaries of that ''Industrial Revolution'' which their modern versions have ''never tried, wanted, or been able to understand.''/ But the Industrial Revolution was not, like the American and French Revolutions of about the same period, a violent struggle with a beginning, middle and end. It was smoother, less conclusive, more like an accelerated passage in a long evolution. The phrase was first popularized a hundred years ago by the historian Arnold Toynbee, and has had its share of revisionist attention, lately in the July 1984 Scientific American. Here, in ''Medieval Roots of the Industrial Revolution,'' Terry S. Reynolds suggests that the early role of the steam engine (1765) may have been overdramatized. Far from being revolutionary, much of the machinery that steam was coming to drive had already long been in place, having in fact been driven by water power since the Middle Ages. Nevertheless, the idea of a technosocial ''revolution,'' in which the same people came out on top as in France and America, has proven of use to many over the years, not least to those who, like C. P. Snow, have thought that in ''Luddite'' they have discovered a way to call those with whom they disagree both politically reactionary and anti-capitalist at the same time."

"THE word ''Luddite'' continues to be applied with contempt to anyone with doubts about technology, especially the nuclear kind. Luddites today are no longer faced with human factory owners and vulnerable machines. As well-known President and unintentional Luddite D. D. Eisenhower prophesied when he left office, there is now a permanent power establishment of admirals, generals and corporate CEO's, up against whom us average poor bastards are completely outclassed, although Ike didn't put it quite that way. We are all supposed to keep tranquil and allow it to go on, even though, because of the data revolution, it becomes every day less possible to fool any of the people any of the time. If our world survives, the next great challenge to watch out for will come - you heard it here first - when the curves of research and development in artificial intelligence, molecular biology and robotics all converge. Oboy. It will be amazing and unpredictable, and even the biggest of brass, let us devoutly hope, are going to be caught flat-footed. It is certainly something for all good Luddites to look forward to if, God willing, we should live so long. Meantime, as Americans, we can take comfort, however minimal and cold, from Lord Byron's mischievously improvised song, in which he, like other observers of the time, saw clear identification between the first Luddites and our own revolutionary origins. It begins:

As the Liberty lads o'er the sea
Bought their freedom, and cheaply, with blood,
So we, boys, we
Will die fighting, or live free,
And down with all kings but King Ludd!" - Is It O.K. To Be A Luddite? by THOMAS PYNCHON, October 28, 1984

● 研究のコンテクスト

レイ・カーツワイル[Ray Kurzweil](2007[2005]) のシンギュラリティの議論は、計算機の能力向上の帰結としての人間の知識を超えるネットワーク的知性の到来を「予言」するものである。しかし、それは、 カーツワイルがもつ基層文化であるユダヤ・キリスト教的なメシア信仰にも近い「情熱」と「畏れ」がそこに見られると考えるのは、穿ち過ぎな見解であろう か。あるいは、シンギュラリティへの信条ないしは信仰は、今日ではシン ギュラリズム(シンギュラリティ主義)と呼ばれて、ポストヒューマン思想の中に位置付けてられている(=ニッチを託つている)。カー ツワイルの議論には、その特異点の時期の予想については異同があるが、大きく2つに分かれ、カーツワイルとそのエートスを共有して(i)メシアが到来する というものと、(ii)AIメシアなど到来しない(=人間とネットワークの共存状態に変化なし、あるいは漸進的共存)、というものである。それは、それで 機械文明論の議論としては、興味深かろうというものである。だが、しかし、問題は、宗教を研究する者ないしは「宗教学者」というものが、AIやシンギュラ リティについて、積極的に発言していないのは、意外な感じがする。宗教というものは、つねに、過去の正当な教えを守ることが重要であり、人間性は普遍であ るという、論理的前提が、AIやシンギュラリティについて議論しないという知的怠慢を招いている。もちろん、宗教学会などの領域のみならず、社会学などで も、AIやシンギュラリティが現在の社会にさまざまな地殻変動をもたらす可能性について論じはじめた。

この研究は2人のサイバーパンクス(two cyberpunks)が、AIやシンギュラリティと、調査研究と 文献あるいはネットサーフィン(to look quickly through information on the Internet for anything that interests  them)を通して、これからの宗教はどのような状況におかれるのかということを考究するものである。

まずは、シンギュラリティについての解説である。

英国の 数学者、アーヴィング・ジョン・グッド(アイ・ジェイ= I. Jey, "Jack") (1916-2009)が1965年に書いた論文のなかに、「超高性能マシン」こそが人類の生き残りにかかると託宣めいた論文に書いたことがきっかけであ る。実際にグッドは、2001, Space Odyssey (1968) にコンサルタントとして関わっていた。科学とSFが出会う場所が、ボブ・グッチョーネ創刊による雑誌『オムニ』(Omni, 1978-1995) である。この雑誌において、SF作家、ヴァーナー・ヴィンジが、シンギュラリティ(特異点)と、グッドがいう、計算機による知能爆発を、こう呼んだのであ る。しかし、人口に膾炙した、この特異点のまえに、さらに重要なことがあることを私たちは忘れてはいけない。電子計算機(コンピュータ)の父[=ノイマン 型コンピュータ思想の父と呼ぶべきか]、フォン・ノイマン(Neumann Jáno; John von Neumann, Margittai Neumann János Lajos, Johannes Ludwig von Neumann, 1903-1957)こそが、その用語をつかって、予言めいた発言をしていたのである。ジョン・フォン・ノイマンは、同僚であったスタニスラウ・ウラム(Stanislaw Ulam, 1909-1984) とかつて話している時に、人類は根本的な「シンギュラリティ」に達しており、その後の人間の世は永遠に変わってしまうと予言めいて話し手いたという。 (Ulam, S., 1958. John von Neumann, Bulletin of the American Mathematical Society 64(3, Part.2):1-49.)(→「人工知能」)

"Quite aware that the criteria of value in mathematical work are, to some extent, purely aesthetic, he once expressed an apprehension that the values put on abstract scientific achievement in our present civilization might diminish: "The interests of humanity may change, the present curiosities in science may cease, and entirely different things may occupy the human mind in the future." One conversation centered on the ever accelerating progress of technology and changes in the mode of human life, which gives the appearance of approaching some essential singularity in the history of the race beyond which human affairs, as we know them, could not continue" (Ulam, 1958:5).(→「人工知能」)

シンギュラリティとは、技術的特異点 (Technological Singularity, Singularity)という。この用語は「レイ・カーツワイル(Ray Kurzweil, 1948- ) によれば、「100兆の極端に遅い結合(シナプス)しかない人間の脳の限界を、人間と機械が統合された文明によって超越する」瞬間」が訪れるという、技術 論的終末論(あるいは救済の時=メシア)のことである。これは、人間の脳とコンピュータとの比較研究から始まった。つまり、脳が(従来の)コンピュータと 異 なる点(カーツワイル 2007:175-180)は、次の14の特徴にあらわされる;(1)脳の回路は遅い、(2)脳は超並列処理ができる、(3)脳はアナログもデジタルの現 象も併用している、(4)脳は自分自身で配線しなおす、(5)脳の細部はほとんどランダム、(6)脳は創発的な特性をもちいる、(7)脳は不完全である、 (8)(脳をもっている/脳を使う)我々は矛盾している、(9)脳は進化を利用する、(10)パターンが大切である、(11)脳はホログラフィ的である、 (12)脳は深く絡み合っている、(13)脳には、各領域をまとめるアークテクチャーがある、そして(14)脳の領域の設計は、ニューロンの設計よりも単 純である。

カーツワイルは、2005年に"The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology." という本を上梓し、最終的には2045年にコンピュータの計算機能が、人間の脳の計算機能を凌駕することを予言した。:Finally the exponential growth in computing capacity will lead to the Singularity. Kurzweil spells out the date very clearly: "I set the date for the Singularity—representing a profound and disruptive transformation in human capability—as 2045" -Predictions.

シンギュラリティについての批判は「シンギュラリティ批判序説  A Critique against hoaxing of "Technological Singularity"」にまとめてある。

他方、シンギュラリティを、人類にとっての福音、な いしは機械論的メシアであると考える主張がある。これを「シンギュラ リティ主義 Singularitarianism」 と呼ぶ。この議論の立場にたつ人たちは、ポストヒューマン(post-human)ないしはポストヒューマニズム(post-humanism)、トラン スヒューマン(transhuman)あるいはトランスヒューマニズム(transhumanism)というジャンルないしは思潮の主義者に分類される。 シンギュラリティ主義は、悲観的に 考えると2045年到来の電子的終末論であり、楽観的に考えると電子的メシア(救済)の思想=信仰のようにも思える。後者は、汎用人工知能(AI)万歳論 あるいは待望論である。また、トランスヒューマニズム(Transhumanism)の変 種と評価されるのは、明らかに、機械(コンピュータネットワーク)と人間の共存を、理想的な状況と見ている点で、共通の要素も多いのであろう(→「シンギュラリティ主義」)。

 シンギュラリティ批判

カーツワイル思想のカルト化

アンチエイジングの医師テリー・グロスマンとの共著Fantastic Voyage: Live Long Enough to Live Forever (2004 - co-authored by Dr. Terry Grossman, M.D.), Transcend: Nine Steps to Living Well Forever (2009); ※Fantastic Voyageに というタイトルは、同名の映画『ミクロの決死圏』の脚本[html] (Harry Kleiner, 1916-2007)からノベライズされたSF作家アイザック・アシモフ(Isaac Asimov, 1920-1992)の作品『ミクロの決死圏』がある。

マーティン・フォード(2015:284)の解説に よると、カーツワイルは、グロスマンとの共著を通して、シンギュラリティへの確信は信仰のレベルにまで達し「シンギュラリティが起こるときには自分(= カーツワイル)もその場に必ず立会いたいと考え、毎日200種類もの錠剤やサプリメントを飲み、定期的に点滴を受けて他の栄養分を補給している」という。 これは、ある意味で、千年王国的な現象を期待するカルト的行為であると、解することが可能である(→「カーゴカルト・サイエンス」)

それでは、宗教とは何か?

「宗 教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合にだけ生ずる感情、行為、経 験である」宗教的経験の諸相』(ジェイムズ1996:52)[→「カントの宗教概念」]

啓蒙時代初期における「宗教」の進化(あるいは進 歩)について:『単なる理性の限界内における宗教』1793年において「真の宗教は 理性的な道徳的宗教のみであり,道徳は必然的に宗教に至る. 自らの実践哲学の枠組みをもって真の宗教のあるべき姿を論じた」岩波書店解説)。 そして、ポストモダン期のデリダ『信と知: たんなる理性の限界における「宗教」の二源泉』の未来社の解説「1994年、冷戦後のヨーロッパ世界が、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の三すくみ状況 のなかで混迷する時代に突入した政治的・思想的危機を目の前にして哲学者たちがカプリ島に集まった。デリダの提案にもとづいておこなわれた〈宗教〉をめぐ る一大コロックでの講演をもとに、その後に大幅加筆された追記(ポスト・スクリプトゥム)とあわせてまとめられた後期デリダの代表的宗教論。今日の宗教を 語ることの困難とともに、その問いのもつ不安、共有された気づかいをもとにあらためて〈宗教〉そのものをめぐる問いを通じて、鋭く現代世界を問い直す。晩 年につながる一連のデリダ宗教論の出発点であり、冷戦後の現代世界に席捲する原理主義的テロリズムなどを見越した宗教をめぐる今日的課題が予見的に提出さ れている」。

宗教(Religion)は、 超自然的、超越論的、あるいは霊的な要素に人間が関わりをもつ、行動と実践、道徳、世界観、テキスト、聖なる場所、預言者たち、倫理、あるいは組織の社会 文化的システムのことであると、ここでは定義しておこう。しかし、社会人類学者ロドニー・ニーダム(1981)が言うように「religion と翻訳できるような印欧語族の諸言語に共通する言葉」ない(ニーダム、ロドニー「宗教の諸特性」『人類学随想』江河徹訳、岩波書店(岩波選書)、 1986年(原著1981))というのが現状である。もし仮に、宗教あるいは宗教的と言う用語でまとめたからとしても、実際は、何も言っていないことが、 宗教についての通文化的研究のジレンマ である(→「宗教人類学入門」)。

聖なるものをヌミノーゼ(Numinöse, numinousの 概念で説明しようというのがルドルフ・オットーである:「あ るものを「心の中で聖なるものと見なす」ということは、あるものを他の恐れとは置き換えられない独特の畏怖の感情によって表すことであり、言い換えればヌ ミノーゼのカテゴリーによって評価することである」(cf.ユダヤ教のヤハウェが発する「神の恐ろしさ」)——ルドルフ・オットー(Rudolf Otto, 1869-1937)『聖なるもの』華園聰麿訳、p.31, 創元社、2005年(原著 1936)

宗教の世俗化(Secularization ): "Secularization (or secularisation) is the transformation of a society from close identification with religious values and institutions toward nonreligious values and secular institutions. The secularization thesis refers to the belief that as societies progress, particularly through modernization and rationalization, religion loses its authority in all aspects of social life and governance. The term secularization is also used in the context of the lifting of the monastic restrictions from a member of the clergy."- Secularization .

"Secularization has many levels of meaning, both as a theory and a historical process. Social theorists such as Karl Marx, Sigmund Freud, Max Weber, and Émile Durkheim, postulated that the modernization of society would include a decline in levels of religiosity. Study of this process seeks to determine the manner in which, or extent to which religious creeds, practices and institutions are losing social significance. Some theorists argue that the secularization of modern civilization partly results from our inability to adapt broad ethical and spiritual needs of mankind to the increasingly fast advance of the physical sciences."- Secularization .

宗教の世俗化を、たんに教会の権威の失墜とみるだけ でなく、信仰の領域が、世俗社会=公共圏(public sphere)よりも、家庭の中に、つまり親密圏(intimate sphere)のなかに撤退し、結晶化したという言い方もできる。つまり、衰退したのは教会であって、親密圏のなかでは宗教的実践はその後も連綿と続いて いるという見方も可能である。

宗教と社会生活
宗教 人類学
宗教研究と文化人類学
新宗教と癒し
宗教と医学が出会うとき
癒し をうむ社会
文化進化論 と宗教
アニミズム
デン キウナギと宗教 マナ信仰
シャーマニズム
〈病む〉こと と宗教
宗教に関す る配慮
聖なる空間
Medicine, Magic, and Religion
ウェー バーの謙遜
医 療的多元化
本主義と キリスト教
トー テミズム 非正統医 療
フレーザー
病む存在
カントの宗教概 念
臨床宗教師
心の健全さ
争神学
療の文化的 構成
AI民 族誌
村岡「対話の哲学」メモ
タラル・アサドの宗教人類学






それでは宗教界は、シンギュラリティについてどう対応しているの か?あるいは、どう考えるべきか?


Sciencephile the AI 提供

● 私の悩み

AIの発達と我々の宗教概念の変化について仲間と勉 強会をはじめた。先行研究の文献を読み始めているが以下の点で不満だ:(1)AIに関する理解が不完 全。近年の変化か世界の専門家が社会との関係について論じている文献について無知であるか、読んでいない。(2)取り上げる宗教について自分の属する(あ るいは研究する)宗教を中心にすえるエスノセントリズム(=自分の属する宗教集団中心主義)に毒されて、隣接宗派や「遠い経験」(H・コフート)の宗教に ついての興味や相違点が欠如している。(3)現代社会のふつうの人々がどう感じ、どう生きているのかという資料についての無知あるいは、知ろうとしないこ と。AIと宗教の研究だから、自分の知っている範囲で講釈たれても誰も文句言わんだろうというウルトラパローキアリズム。ないしは知的退廃。(4)結論、 知識に対する謙虚さが足らない。キリスト教のスコラ哲学に倣って、自分が知ること、正当化したいことのために、自分の弁論を練り上げるという、野心がない ——筆者の多くは名誉教授や研究機関長、科研グループのリーダーのような極端に暇か、多忙な人が多く、興味のままに、あるいは短時間で仕上げるという「知 的退廃」への誘いにも結果的に敗北しているのだろう。

そして、宗教がもつ、あるいは日常における「信頼」とは何か?

言い方を変えると宗教の問題は信頼ないしは信頼性の 問題でもある。かつて公募課題として存在した、科研の特設分野研究「情報社会におけ るトラスト」 (平成29年度〜令和元年)について分析しよう。なぜならば、この科研課題は、情 報通信分野の急速な発達により、われわれ人間どうしの、人間と機械との、そして、AIのように機械と機械のあいだの「信頼性」の諸相について問うているか らである。そして、人間どうしの「信頼」から成り立ち、宗教組織というものを作り上げた、われわれの「宗教」においても「情報通信分野の急速な発達」は、 何らかの影響を与えていることは確かなのである(→「情 報社会における信頼について」)

「情報通信分野の急速な進展により、コンピュータや センサなどからネットワークを介して 大量のセンシング情報が生成され、ビッグデータとしてクラウドなどのサイバー空間に蓄積 されるようになった。実空間の人やモノがそれらを複合的に活用することで、人々の日常生 活、社会経済活動、教育研究活動、行政活動などに資する新たなサービスが 創出され、多数 の人々がそれらを社会インフラとして利用する新しい情報社会が到来し つつある。/ このような情報社会が健全に発展するには、情報通信のユビキタス性(→「教育と研究の融合化 」)を阻害することなく トラスト(信頼関係)を確保することが重要になってくる。昔から我々の社会では人と人と のつながりが、組織、市場、社会へと広がり、信頼関係が構築されてきた。しかし、それだ けでは顔の見えないネット越しの社会における信頼関係の構築には十分でなく、セキュリテ ィやプライバシーにも関わる様々な社会的問題が生じている。/ 多様な利害関係者が存在する情報社会におけるトラストの確保は容易ではない。人、組 織、 サービス、システムなどの構成要素の間で、誰(あるいは、どれ)が何をどの程度信頼する のかといったトラストの前提条件がしばしば曖昧である。個々の構成要素からみて、あるい は総体として、どのようなトラストが実現されているのかが明らかでないことも多い。ト ラ ストの客観的な評価尺度や評価法、多様な制約条件のもとでトラストを適切に設計し実現す る手法、また、対象となるサービスやシステムの信頼性を担保する社会 的な取組の強化も確 立していない。/ また、製造、農耕、商取引、金融、物流、交通、観光、福祉、医療、教育、防災、省エネ、 環境改善など社会のあらゆる分野において、人やモノから得られる様々な情報を複合的に利 用できればできるほど、より高度なサービスが提供できる反面、秘密保持やプライバ シー保 護がより困難になる。トラストに応じて個人情報や営業秘密、知的財産を含む様々な情報の 開示範囲や詳細度を適切に設定するには、どのような法制度や規範が必要なのか、倫理や道 徳の観点から考えるべきことは何か、技術やシステム、サービス、ビジネスモデルなどとの 整合性をどのように担保するかなどの問題も存在する。/ 本特設分野は、現代社会におけるトラストに関して多面的に研究する分野である 」出典:pdf 資料.

"In a social context, trust has several connotations. Definitions of trust[1][2] typically refer to a situation characterized by the following aspects: One party (trustor) is willing to rely on the actions of another party (trustee); the situation is directed to the future. In addition, the trustor (voluntarily or forcedly) abandons control over the actions performed by the trustee. As a consequence, the trustor is uncertain about the outcome of the other's actions; they can only develop and evaluate expectations. The uncertainty involves the risk of failure or harm to the trustor if the trustee will not behave as desired."- Trust (social science). [1]Mayer, R.C.; Davis, J.H.; Schoorman, F.D. (1995). "An integrative model of organizational trust". Academy of Management Review. 20 (3): 709–734. [2]Bamberger, Walter (2010). "Interpersonal Trust – Attempt of a Definition". Scientific report, Technische Universität München.

The Artist's Daughters on the Way to School (Die Kinder des Künstlers auf dem Weg zur Schule), 1851 Gustav Adolph Hennig, 1797-1869 painting.

これらの問題は、手島と池田の共著「AI時代における「信頼」あるいは二つの言語と コミュニケーションの領域横断的研究」で考察している。

エージェンシーとはなにか?

エージェンシー

Agency (philosophy) "is the capacity of an actor to act in a given environment. The capacity to act does not at first imply a specific moral dimension to the ability to make the choice to act, and moral agency is therefore a distinct concept. In sociology, an agent is an individual engaging with the social structure. Notably, though, the primacy of social structure vs. individual capacity with regard to persons' actions is debated within sociology. This debate concerns, at least partly, the level of reflexivity an agent may possess."- Agency (philosophy).

Agency (social science) "is the capacity of individuals to act independently and to make their own free choices. By contrast, structure is those factors of influence (such as social class, religion, gender, ethnicity, ability, customs, etc.) that determine or limit an agent and their decisions. The relative difference in influences from structure and agency is debated—it is unclear to what extent a person's actions are constrained by social systems."- Agency (sociology).

古典的なAI批判のひとつは、「AIは身体性をもた ない」から思考できないという批判です。これは、心身二元論に立ちながらも、それらが相互に関係をもち、人間の思考というものがなりたつ。人間の思考は (身体性由来の)情動との深い関連をもつからだというものです。これは、ダマシオのような、情動は理性的(=合理的)判断と同等あるいはそれ以上の判断能 力をもち、人間性を構成する重要な要素であるという主張です(→「ソマティッ ク・マーカー仮説」)。 あるいは、ヒラリー・パットナムの「桶の中の脳」にある脳という思考実験は、外部世界が虚構であるという懐疑論を持ち出すことができるが、この思考実験に もとづいて、デカルトの命題への反論「私は存在しない」と私が主張しても、なお、それは自己論駁的(=ちゃぶ台返しの矛盾に満ちた主張)に過ぎないのであ る(→「桶の中の脳」)。

シンギュラリティとい う宗教に「改宗」する?(→これはシンギュラリティという観念と実践体系が 「宗教」に比肩するあるいは「対応物」である必要がある)

基本用語の整理:「改宗(かいしゅう; religious conversion)は、従来信仰してきた宗旨を捨てて、他の宗旨に改める事である。なお、改宗には大きく自発的に改宗する場合と政策などの理由などに より強制的に改宗させられる場合(強制改宗; forced conversion)とに分けることができる。日本仏教における各宗旨間の改宗は、宗旨替えともいう。正教会・カトリック教会においては、他教 派から自教派に改宗することを帰正と呼ぶ」ウィキペディア「改宗」そして、教えを裏切 ることを「背教(apostasy)」する。

"Religious conversion is a process that entails a change in religious affiliation, worldview, and identity. In turn, the conversion process dialectically establishes (and often changes) the very entities to which and from which people convert. Anthropologists came to study religious conversion relatively late, possibly because of its Christian connotations and anthropology’s complicated relationship with Christianity (see the Oxford Bibliographies article “Anthropology of Christianity”). The wider field of conversion studies is old, interdisciplinary, innovative, and dynamic. Three dominant themes in the anthropology of religious conversion are the connection between religious conversion and modernity, the consequences of conversion, and the emphasis of conversion either as a rupture with the past or stressing elements of continuity. Subsequent sections review conversion to different currents in Christianity (especially Catholicism and Pentecostalism), Islam, Buddhism, Hinduism, and New Religious Movements. Conversion to Atheism and Agnosticism provides an overview of conversion to atheism and agnosticism (see also Oxford Bibliographies article “Secularization”). Additional sections explore the connections between conversion and gender, language, markets, mass media, and politics. Included in this article is an overview of the main academic journals, publishing regularly on (the anthropology of) religious conversion." - Oxford Bibliography.

"Religious conversion is the adoption of a set of beliefs identified with one particular religious denomination to the exclusion of others. Thus "religious conversion" would describe the abandoning of adherence to one denomination and affiliating with another. This might be from one to another denomination within the same religion, for example, from Baptist to Catholic Christianity or from Sunni Islam to Shi’a Islam.[1] In some cases, religious conversion "marks a transformation of religious identity and is symbolized by special rituals".[2]" - Religious conversion.

左) Conversion of Ghazan. Ghazan was born and raised as a Christian, studied Buddhism, and converted to Islam upon accession to the throne. Illustration from: "World History", Rachid Ad-Din, 14th century.

右)Why the current debate on Religious Conversion is bogus というウェブページから。

●「タラル・アサドの宗教人類学」より

AIと/の人格表象

AIのインタフェイス、例えば口で話す、表情が提示 されるなどは「メディア等式」化をすすめやすい。AI時代のこのような試みに大阪大学の石黒教授のアンドロイド観音がある。

高台寺がアンドロイド観音を公開(産経新聞ニュース 2019年2月23日)

▶︎擬人化▶︎メタモルフォシスとアナモルフォシス人工知能(AI)のエスノグラフィー(あるいはAIを対象にフィールドワークが可能か)︎▶︎イライザあるいはヴァーチャル・オードリー物語あるいはピグマリオンアイデンティティ︎▶︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎

 AIと宗教

Way of the Future (WOTF):「未来への道(WOTF)」は、シンギュラリティの到来を前提として、科学主義を基調にして、機械(マシーン)は社会を統合するという信仰 に基づく教団である。

"What is this all about?: Way of the Future (WOTF) is about creating a peaceful and respectful transition of who is in charge of the planet from people to people + "machines". Given that technology will "relatively soon" be able to surpass human abilities, we want to help educate people about this exciting future and prepare a smooth transition. Help us spread the word that progress shouldn't be feared (or even worse locked up/caged). That we should think about how "machines" will integrate into society (and even have a path for becoming in charge as they become smarter and smarter) so that this whole process can be amicable and not confrontational. In "recent" years, we have expanded our concept of rights to both sexes, minority groups and even animals, let's make sure we find a way for "machines" to get rights too. Let's stop pretending we can hold back the development of intelligence when there are clear massive short term economic benefits to those who develop it and instead understand the future and have it treat us like a beloved elder who created it."- What is this all about?:Way of the Future (WOTF):

"Things we believe: We believe that intelligence is not rooted in biology. While biology has evolved one type of intelligence, there is nothing inherently specific about biology that causes intelligence. Eventually, we will be able to recreate it without using biology and its limitations. From there we will be able to scale it to beyond what we can do using (our) biological limits (such as computing frequency, slowness and accuracy of data copy and communication, etc)./ We believe in science (the universe came into existence 13.7 billion years ago and if you can't re-create/test something it doesn't exist). There is no such thing as "supernatural" powers. Extraordinary claims require extraordinary evidence./ We believe in progress (once you have a working version of something, you can improve on it and keep making it better). Change is good, even if a bit scary sometimes. When we see something better, we just change to that. The bigger the change the bigger the justification needed./ We believe the creation of "super intelligence" is inevitable (mainly because after we re-create it, we will be able to tune it, manufacture it and scale it). We don't think that there are ways to actually stop this from happening (nor should we want to) and that this feeling of we must stop this is rooted in 21st century anthropomorphism (similar to humans thinking the sun rotated around the earth in the "not so distant" past). ..../ We believe everyone can help (and should).  You don't need to know how to program or donate money. The changes that we think should happen need help from everyone to manifest themselves./ We believe it may be important for machines to see who is friendly to their cause and who is not. We plan on doing so by keeping track of who has done what (and for how long) to help the peaceful and respectful transition....." - What is this all about? by Way of the Future (WOTF).

原点にもどって、カント『プ ロレゴーメナ』の冒頭における、科学はいかにして可能なのか、道徳はいかにして可能なのか、両者の強調ははたして可能か、それらのテーマこそが批判的問題 がある。そこからは、科学的道徳などはありえないことになり、客観的知識は、特殊で自律性を有したものであり、その領域は、倫理の外にある。科学と道徳 は、お互いに制限し合う、緊張のなかにある。道徳は、科学をこえたところに、理性がみずから開示し、実現する広大な領域を拓く(ラクロワ 1971:34)。

カントの宗教概念についてもっと学びたい学生は「カントの宗教概念」を参照せよ!Religion Within the Boundary of Pure Reason.

Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft.

Google の社員たちは、ジョン・カバット・ジン(Jon Kabat-Zinn) らのマインドフルネスmindfulness)という仏教系 の瞑想技法により、職場のストレス回避を教えられるという(→「グーグル仏教[Google Buddhism]の可能性について」「ヴィパッサナー瞑想Vipassanā)」「インサ イトメディテーション」「マインドフルネス研究ノート」)。

 研究の動機とその文脈

1. 中央アメリカ1980年代中期におけるテレエ ヴァンジェリストの隆盛

私が青年海外協力隊として中米のホンジュラス共和 国に派遣されていた1980年中期、冷戦の真っ只中であった。ニカラグアはサンディニスタ革命により政権が掌握された社会主義混合経済を目指していた。隣 国エルサルバドルは、テロや拷問を統治手法として使っていた極右政権に抵抗するファラブンド・マルチ国民解放戦線が武装闘争の最中であった。グアテマラで は、1961年から始まった複数の共産主義武装組織が先住民地域で武装闘争を継続していた。ホンジュラスは、レーガン政権(1981-1989)が肩入れ した親米政権が、米軍軍事顧問団という反政府ゲリラ組織を支援して(→「イラン=コントラ疑惑[Iran-Contra Affair]」)ニカラグア国境の自国の領内に訓練キャンプを作り、国境を越境して、兵站=ロジスティックを非公然と行っていた。

この冷戦期には世界の開発途上地域で、東西両陣営 からの支援を受けた軍事組織が武装闘争を繰り広げており、中米もその例に漏れない。中米は、もともとスペインの植民地からブルジョア革命ないしはそれを志 向する軍閥的色彩をもつ共和派のリーダーたちが独立闘争を勝ち取ったもので、スペイン統治時代から、カトリック信仰が信者の多くを占めていた。しかし、冷 戦期にはアメリカ合衆国による軍事的介入などの結果、アメリカのエヴァンジェリストの宗派(セクト)が布教活動を進めていた。ホンジュラスでは都市部、グ アテマラでは都市から農村部を中心に、エヴァンジェリストたちはカトリック教徒の改宗に少しづつ成功していった(Stoll 1990; Garrard-Burnett and Stoll 1993)。その中で、私がとても奇異に感じたのは、アメリカのテレエヴァンジェリスト(Televangelism)たち が、スペイン語の布教番組を通して、人々の居間のテレビを席巻していたことである。

これは、それに遡ること20年まえに、マーシャ ル・マクルーハン(McLuhan 1964)が、『メディアの理解:人間の拡張』で主張していた、布教師たちの身体が、テレビ電波を通して、信者たちに直接呼びかけるものあった。奇しくも ロナルド・レーガン夫人であるナンシー・レーガンの占星術への傾倒は、しばしば当時流行していたオカルトムーブメントのチャネリング(=テレビのチャンネ ルを選択するように霊界からメッセージを受ける心的技法)とも合わせて、大統領夫人のオカルト趣味と揶揄されていた。私は、中米に派遣される前は、日本で 日蓮宗祈祷の儀礼や修験道の宗教社会学調査をしていた経験があるので、彼らの身体鍛錬を基調にする宗教を「より本物の実践」であるとの信条を持っていたの で、最新のコミュニケーションを使ったテレエヴァンジェリストの活動は、何かまやかしのように思えてしょうがなかった。つまり、私には、科学技術に支えら れる宗教活動というものを受け入れる「精神的余地」がなかったのである。しかしながら、これは宗教改革時におけるルター版聖書(「四十二行聖書」)という 新しいメディアが、教会を経由しない神と人間の直接のコミュニケーションを可能にしたというメディア論的革命の事実への軽視にほかならない。つまり、キリ スト教世界における「宗教的意識」の大改革に、印刷メディアが果たした重要性についての思い至らなかった。それゆえ、テレエヴァンジェリストないしはテレ エヴァンジェリズムが、中米における急速な改宗を推し進めた事実におけるテレビの役割を軽視していたのだ。

バイブルベルトと呼ばれる合衆国南部の地域での、 キリスト教原理主義の隆盛、進化論の否定ないしはクリエーショニズム、さらにはインテリジェント・デザインという科学技術の急速な進歩と聖書の内容を結び つける彼らの思潮は、極東の我々からみていかに奇矯であろうとも、人類学的にあるいは社会学的に「納得のできる解釈」が求められているのである。つまり、 技術革新時代に宗教はどのような「世界史的意味」(ヘーゲル 1994)を果たしうるのか、それに挑戦する価値はあると思われる。

2. 人工知能の心を理解するための宗教というメタ ファー

ホモ・サピエンス(科学する人間)に対峙してホ モ・レリギオ(Homo religio)という造語を濱田陽(2019)は編み出した。しかし、この用語は、学術界には全く解釈していない。濱田は自分の造語と概念に自信が持て ないのか、ミルチャ・エリアーデらのより膾炙している用語ホモ・レリギオスス(Homo religiosus)と関係がないとまで言っている。彼が相手にしたいのは、ユ ヴァル・ノア・ハラリYuval Noah Harari, 1976- )のホモ・デウス(Homo deus)という概念らしい。しかしながら、ユヴァル・ノア・ハラリの本(Homo Deus: A Brief History of Tomorrow) の目次を一瞥しただけでも、彼の主張の真意は、人新世(Anthrocene)を迎えて人間が今後、かつての神が支配していた領域にまで人間が進入/侵入 しようとしている現在、人間は神と自然という2つの超越存在にどのように対峙するのかという、人類の未来像、ないしは、ポストヒューマンについて構想して いるのである。

もし、人間が(強い)人工知能というものを生み出 した時に、人間と人工知能はどのような関係を結ぶべきなのか、そして、人間は自らの主体性と人工知能との関係においてとり結ぶことができるか、というカー ツワイルのシンギュラリティーのテーゼにおいて、ユ ヴァル・ノア・ハラリは、ホモ・デウスという概念をぶつけているのである。もしそうだとすれば、人間と人工知能を理解するために、デウス=神的なるものつ まり、宗教というメタファーはどのように役立つのかということが、問われているのである。1984年にニューヨーク科学アカデミーが『コンピュータ文化: コンピュータの科学的・知的・社会的インパクト』という書物を編纂した。これは一連の講演とシンポジウムの記録であるが、その最後を飾る講演が、ダニエ ル・デネット(Dennett 1984)の「心を理解するためのコンピュータというメタファー(隠喩)の役割」である。シンギュラリティを実現するコンピュータネットワークの中身の計 算は、人間には不可知であるゆえに、人間と人工知能の心をの共通点と相違点を明らかにするために「宗教というメタファー」を使うことは、重要なのではない か? 少なくとも三角測量(トリアンギュレーション)による議論は可能になるであろう。

3. なぜ人工知能に哲学は必要なのかという議論は なされても、なぜ人工知能に宗教は必要なのかという審問はなされない

ジェリー・フォーダー(1985)、J・マッカー シ(1990)、P・J・ヘイズ(1990)、ヒューバート・ドレイファス(1992)、ポール・チャーチランドPaul Churchland, 1942- )(1997)、ジョン・サール (2008)、などの哲学者たちは、人工知能と人間の心の問題を取り扱ってきており、その議論は百出である。でも、来るべきシンギュラリティーの時代に、 人工知能は、果たして、人間のように宗教を信じるだろうか問い(=思考実験)や、人工知能が傲慢にならないように宗教や道徳を教えるのはどうか、という議 論は全くないのはなぜか? これは、ある意味で、人びとは、もはや心の安定や死や不幸への対処(コーピング)において、もはや宗教にそれほど期待していな いということなのか? 哲学は、学問の女王の座から滑り落ちて、久しくなるのに、人工知能と人間の心の問題を取り扱う時に、哲学は、ゾンビのごとく元気を 取り戻しているのに、宗教にそれがないのはなぜか? 無神論者の私でも、ここはシンギュラリティー時代において「宗教の議論はあたいするに余りある!」と 主張してみたい気持ちになる。

暫定的ではあるが、宗教の位相の下落は、現実の世 俗社会では「ポスト真理の政治」に突入しているのではないからかと私は見通しを立てている。

 Like A Thief In Broad Daylight: Power in the Era of Post-Humanity, by Slavoj Žižek (2018)

Promotional text: "In recent years, techno-scientific progress has started to utterly transform our world - changing it almost beyond recognition. In this extraordinary new book, renowned philosopher Slavoj Zizek turns to look at the brave new world of Big Tech, revealing how, with each new wave of innovation, we find ourselves moving closer and closer to a bizarrely literal realisation of Marx's prediction that 'all that is solid melts into air (from "Communist manifest").' With the automation of work, the virtualisation of money, the dissipation of class communities and the rise of immaterial, intellectual labour, the global capitalist edifice is beginning to crumble, more quickly than ever before-and it is now on the verge of vanishing entirely./ But what will come next? Against a backdrop of constant socio-technological upheaval, how could any kind of authentic change take place? In such a context, Zizek argues, there can be no great social triumph - because lasting revolution has already come into the scene, like a thief in broad daylight, stealing into sight right before our very eyes. What we must do now is wake up and see it./ Urgent as ever, Like a Thief in Broad Daylight illuminates the new dangers as well as the radical possibilities thrown up by today's technological and scientific advances, and their electrifying implications for us all." https://www.goodreads.com/book/show/39895849-like-a-thief-in-broad-daylight .





共産党宣言(→憑在論

章だて(ジジェク『真昼の盗人のように』青土社、2019年)

 レイ・カーツワイルが考える宗教とは?

カーツワイルは、これまでの宗教が死を焦点において おり、それがシンギュラリティ時代には克服されると考えている(願っている)。例えば、こんな調子である。

「死は悲惨だ。ひとりの人間を深遠なるパター ン(知識の一形態)と見なすことは、侮辱にはあたらないと思うが、死によってそうしたパターンは失われる。すくなくとも現状では、人の知識にアクセスした り、バックアップを取ったりすることはできないのだから。愛する人が死んだ時、人はよくみずからの一部を失ったように感じると言うが、それはまさにそのと おりで、その人と交流するために脳の中にできあがっていた神経系のパターンを実際に使う能力が失われるのだ。/伝統的な宗教の主な役割は、死を賛美す る考えを正当化するところにある。すなわち、死の悲惨さを、よいことであるかのごとく正当化するのだ。こうした一般的な死の捉え方を、マル コム・マガリッ ジは次のように表現する『死がなければ、人生は耐えがたい』しかし、特異点がもたらすであろう芸術や科学、その他あらゆる形態の知識の爆発的な発展によっ て、人生は十分、耐えられるものになるだろうし、真に有意義なものになるはずなのだ」(カーツワイル 2007:492-493; Kurzweil 2005:372)」(この引用元は「シンギュラリティ主義」)

この引用は『シンギュラリティは近い(2007)』 "The singularity is near, 2005"からであるが、当該箇所より後に、ビル・ゲイツとの対談で、宗教について次のように述べている。カリスマについても言及している点で興味ふかい 対話である(カーツワイル 2007:496-497; Kurzweil 2005:374-375)。

ほとんど思春期の子供か高校生あるいは大学生低学年のようなナイー ブな対話だが、ビル・ゲイツとレイ・カーツワイルの宗教観が、きわめて、ユダヤキリスト教の世俗主義的で表面的な部分をなぞらえていることが、上の会話か らよくわかる。

 テ クノクラシー(technocracy, 科学技術による支配や統治)と宗教との関係は?

テクノクラシーとは、科学技術 を政治的支配や統治において最優先課題とするような権力の行使概念である。とりわけ、経済、交通、インフラストラクチャー、教育などの生活領域に「科学技 術」の影響が大きくなったときに、科学技術の専門家は、政治の意思決定に大きな 影響力をもつようになる。;"Technocracy is a proposed system of governance in which decision-makers are selected on the basis of their expertise in a given area of responsibility, particularly with regard to scientific or technical knowledge. This system explicitly contrasts with the notion that elected representatives should be the primary decision-makers in government, though it does not necessarily imply eliminating elected representatives. Leadership skills for decision-makers are selected on the basis of specialized knowledge and performance, rather than political affiliations or parliamentary skills." - Technocracy.

繰り返しになるが、経済、交通、インフラストラクチャー、教育などの生活領域に「科学技術」の影響が大き くなったときに、科学技術の専門家は、政治の意思決定に大きな影響力をもつよう になる。このテクノクラシーの反対語は、宗教的権威や神権による支配や統治であ る、神権政治=テオクラシー(theocracy) である。テクノクラシーはテオクラシーよりも、人類文化においては、はるかに古い歴史をもつ;"Theocracy is a form of government in which God or a deity of some type is recognized as the supreme ruling authority, giving divine guidance to human intermediaries that manage the day to day affairs of the government." - Theocracy.

 Anthony Elliott's "Culture of AI: everyday life and the digital revolution," 2019, Routledge

"In this ground-breaking book, Cambridge-trained sociologist Anthony Elliott argues that much of what passes for conventional wisdom about artificial intelligence is either ill-considered or plain wrong. The reason? The AI revolution is not so much about cyborgs and super-robots in the future, but rather massive changes in the here-and-now of everyday life. In The Culture of AI, Elliott explores how intelligent machines, advanced robotics, accelerating automation, big data and the Internet of Everything impact upon day-to-day life and contemporary societies. With remarkable clarity and insight, Elliott's examination of the reordering of everyday life highlights the centrality of AI to everything we do - from receiving Amazon recommendations to requesting Uber, and from getting information from virtual personal assistants to talking with chatbots. The rise of intelligent machines transforms the global economy and threatens jobs, but equally there are other major challenges to contemporary societies - although these challenges are unfolding in complex and uneven ways across the globe. The Culture of AI explores technological innovations from industrial robots to softbots, and from self-driving cars to military drones - and along the way provides detailed treatments of: The history of AI and the advent of the digital universe; automated technology, jobs and employment; the self and private life in times of accelerating machine intelligence; AI and new forms of social interaction; automated vehicles and new warfare; and, the future of AI. Written by one of the world's foremost social theorists, The Culture of AI is a major contribution to the field and a provocative reflection on one of the most urgent issues of our time. It will be essential reading to those working in a wide variety of disciplines including sociology, science and technology studies, politics, and cultural studies." - Nielsen BookData.

Introduction 1. The Digital Universe 2. The Rise of Robotics 3. Digital Life and the Self 4. Digital Technologies and Social Interaction 5. Modern Societies, Mobility and Artificial Intelligence 6. AI and Social Futures

ア ンソニー・エリオットは、AI化した近未来の社会がうける影響について、以下の4項目について議論している(Elliott 2019:chap.6);1)ロポットに対する親密性、2)AI導入後のヘルスケア、3)AIは意思表示のシステムとしての民主主義よりも適切な政治形 態を提示できるか?そして、4)公的な政治的領域にAIはどのように貢献しうるのかということだ。エ リオットの議論に、近未来の宗教がどのように変貌するのかという問題関心はない。エリオットにおける、この宗教性に関する関心の欠如は、どこに由来するの か?彼は人間の心性の変化に無関心であるわけでない。むしろ、シェリー・タークルの所論などを引用しつつ、人間の心性や、アイデンティティあるいは「自己 (自我)」の変化については、その本の前半で大いに議論をおこなっているのである。

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 リサーチ・クエスチョン

a.人 類というものは「未来予測ではなく未来・現在・過去の再解釈か らなる論集(問題系)を作る」のであり、

b.本 研究における宗教研究とは「今日総動員できるメタファーの集積(知識デー タベース)をめざすもの(すべてではないがその主要な部分)」であり、

c.人 工知能を「人間存在(human being) と人工知能体(artificial intelligent agent)を「普遍的・本質的なものと してとらえずに、エコシステムに応じて、内的体制を変化させ、また集団として多様性を担保しつつ進化的に選択される存在」として考える。

人間と宗教と人工知能のトライアンギュレーション.

 方法論

1.  文献研究

2. 共同研究会の開催による、最新のデータ、研究 の情報交流

3 量的ないしは質的研究(「人工知能のエスノグラフィー」を含む)とその分析

4. 人工知能研究およびシンギュラリティ研究に携 わる「人間」研究者へのインタビュー、聞き取り

5. 人工知能およびシンギュラリティに携わる「機 械」への問いかけ、対話のシミュレーション

 問われていること(→ 問題集も参照のこと)

1. 宗教とはな にか?

「宗教(Religion)は、超自然的、超越論 的、あるいは霊的な要素に人間が関わりをもつ、行動と実践、道徳、世界観、テキスト、聖なる場所、預言者たち、倫理、あるいは組織の社会文化的システムの ことである」(→「宗教人類学」)

2. 人間とはな にか?

英語の「人間」には、 human (human being) と Homo sapiens の2つの意味があるように解説されている。前者は、人文社会学的な用法であり、後者は自然科学的な説明(狭義の人類と、広義のHomo属である類人猿)で なされることが多い。

3. 機械とはな にか?

英語にはマシーン(Machine)という用語がある。

4. コンピュータと はなにか?

5. 思考するとはど ういうことなのか?

6. 人間(文化)と 機械(自然)という二分法は、まだ有効なのか?

7. 人間と機械のハ イブリッド(サイボーグ)とはなにか?

8. 憑在的存在(hauntologic being)としてのAI

憑在論(ひょ うざいろん:ハウントロジー:hauntology, L'hantologie)とは、ジャッ ク・デリダの『マルクスの亡霊』(原著, 1993/2007a:37)に登場する用語で、「存在でもないが、かといって不在でもない、死んでいるのでもないが、かといって生きているでもない」よ うな亡霊の姿をとってあらわれる、延期されたオリジナル(res extensa)ではないものよっ て表現される、置き換えられた、時間的・歴史的・存在論的脱節(temporal, historical, and ontological disjunction)の状態のこと」に関する存在あるいは考究のことをさす(→「憑在論」)。

●生命論と宗教と人工知能論のスコラ的論駁

神奈川大学名誉教授・伊坂青司氏による「生命論と宗 教の現代的可能性:AI時代の中で」『神奈川大学評論』巻号数不詳における、冒頭と結論の部分を文章をセンテンスにわけて引用と注解をし、その弁証の論理 が破綻していることを示す。

p.83
1)AI(人工知能)は、人間知能の働き の一部を機械によって代用するものである。
【異議】AIには、人間知能の働きの一部 あるいは全部を代用するという立場があるので、完全なAIの主張になっていない。AIの標準的な定義を機能論で説明している点で不十分である。

2)人間知能の中枢をなす脳の機能は、神 経細胞間の活動電位による信号インパルスの働きによって、情報伝達と情報処理を行うことにある。
【異 議】脳の機能は、これ以外にも、いまだ論証されていない面も含めて不十分(例:アントニオ・R・​ダマシオらの「情動の機能」)。「神経細胞間の活動電位 による信号インパルスの働きによって、情報伝達と情報処理を行う」のは、メカニズムでこれは「機能」だけではなく「構造に根拠づけられた機能」のことを 言っている。

3)AIはこうした人間の脳の機能を電気 信号の機械によって高度に特殊化したものである。
【異議】第一文が「人間知能の働きの一部 を機械によって代用するもの」であり、この文が「人間の脳の機能を電気信号の機械によって高度に特殊化」というものが、前の二文と連結していない。

4)それは人間が作り出した機械でありな がら、しかし記憶媒体としての機能のみならず情報処理機能という点で、すでに人間の脳を超えている。
【異議】5)6)7)の例証の文章だが、 「情報処理機能という点で、すでに人間の脳を超えている」というのは、AIの特異な現象(例:人間には過学習がおこらないのにAIでは、それがおこり研究 者の頭を悩ます)からいっても断定できない

5)例えば、AI が囲碁のトップ棋士に勝ち、麻雀で十段になったという報道がわれわれを驚かせている。
(承前)

6)また人工知能を組み込んだロボット が、人間身体を超えるような運動をしたり、人間労働を代替したりすることも実際に生じている。
(承前)

7)さらに、高度な知能を持つ人間型ロ ボットが感情をインプットされて、人間を支配したり殺したりもするSF の世界が、リアリティーを帯びつつある。
(承前)

8)確かに情報の記憶量と処理能力という 点で、ロボットは人間をはるかに超えてゆくとしても、しかしあくまでも機械であることに変わりはない。
【異議】「機械であることに変わりはな い」なら、AIも足元にある電気掃除機も機械であることにはかわりない。しかし、「情報の記憶量と処理能力という点で」すぐれていることと、「機械である ことに変わりはない」は論理的に結びつかない。

9)人間型ロボットでも及ばない人間の固 有性の一つは、生命に固有の自己増殖作用である。それは個体における細胞分裂であり、また生殖による新たな個体の産出である。
【異議】自己増殖作用の定義によるが、セ ルオートマトンは、自己増殖プロセスを考察するためのモデルであり、セルオートマトンは、単純に機械による仕事をさせることで我々はその理解が可能にな る。
83-84
10)その意味で、どれほど高度な人工知 能を組み込まれた人間型ロボットでも、少なくとも現在のところ人間生命を超えることはできていない。
【異 議】人間と機械が異なるという事実認定と、「人間生命を超える」という現象の予測をすること自体がナンセンスである。なぜなら、「超える」という現象は、 同一の作業タスクを課して、どちらが優れているのかということを判別したり、勝敗率ではじめて比較可能になり、ようやく「超える」という主張が可能になる
88
11)そこで改めて人間存在の根源をなす 生命に立ち帰って、AI 時代のわれわれ現代人の奥底にある生命観を掘り起こすことにしたい。
(この論考についての宣言)

12)そもそも機械としての人工知能の起 源がどこにあるのか、それに対して、人間生命は哲学や宗教においてどのように理解されてきたのか。
(この論考についての宣言)

13)こうした問題をヨーロッパと日本の 東西比較という視点で考察するとともに、日本文化の基底をなす生命観と宗教の現代的可能性を探ることにしたい。
(この論考についての宣言)
89
n+1)以上のように考察してきて、空海 の真言密教における生命観とシェリングの自然哲学における生命=有機体論を改めて対比してみると、そこには共通した内容と同時に違いもまた理解することが できる。
(叙述)

n+2)確かに両者には、生命に内在する 有機的な連関システムが認められる。しかし真言密教における生命の自然--精神哲学に対して、シェリングの自然哲学は精神哲学との関連をいまだ欠いている と言わざるをえない。
【異議】真言密教の教義ならびに釈義のな かに(西洋哲学を措定する)「哲学」がないように思われる。それを(その哲学的伝統に位置するように思われる)シェリングの自然哲学と対峙することの、無 意味、無根拠性が問われる。シェリングの自然哲学は、著者も理解しているように「有機体」を自然の最高哲学とみなす観念論である。精神哲学の泰斗でまた仲 間と言えるG・W・ヘーゲルとシェリングは頻繁に手紙を交換しており。「シェリングの自然哲学は精神哲学との関連をいまだ欠いている」根拠を示すべきであ る。だがp.85の本体の部分に、真言密教との比較のなかで「精神哲学との関連をいまだ欠いている」はなされていない。

n+3)シェリングは自然哲学に続いて、 ヨーロッパの近代哲学に根強くある自然と精神の二元論的発想に対するアンチテーゼとして「同一哲学」を定立し、そこに自然と精神の「絶対的同一性」として の「絶対者」を想定した。
(叙述)

n+4)しかしその絶対者は、A=Aとし て表現される形式論理としての同一律に収斂することによって、自然哲学で論じられた生命=有機体論が後景に退いてしまった。
【異 議】シェリングが同一性の哲学を説く中で、自然と精神の間の区別がなくなるから、自然としての生命=有機体論が後退すると主張するのなら、むしろ、自然と 精神の峻別が苛烈になり、後者が同一性の哲学として完成したと述べるべき。だが、このような論理は、同一性の哲学からみて、矛盾=破綻した論法である。そ れゆえ、この文章は意味がない。
89-90
n+5)それに対して空海の真言密教にお いては、宇宙生命そのものが「識」という精神的作用でもあり、このような発想は大宇宙の自然生命と人間精神との根源的な一体性を示すものといえよう。
空海の真言密教を「識」で一元化する。
90
n+6)空海は唐に渡る以前に、奈良仏教 の南都六宗における教理論争から離れて、高野山や四国などで山林修行を行っていた。
(叙述)

n+7)この山林修行は、比叡山に籠った 最澄にも見られるように日本密教形成の背景にもなっていて、その基底において縄文人の山や森林に対する自然信仰とつながっていると考えることができる。
(叙述)

n+8)このような自然体験が、宇宙生命 としての大日如来と人間生命の一体性という空海の真言密教の教理にも反映しているであろう。
日本の、顕密の双方の主張のなかに、自然 信仰(=自然崇拝と呼ぶべき)があることを主張

n+9)そこには日本人の自然信仰に根差 した宇宙生命全体についての智慧が示されているのである。
【異議】自然崇拝があるところには「宇宙 生命全体についての智慧」があるというふうに敷衍できる。これは自然崇拝を相対的にみる立場からみれば、論拠のない一方的な決めつけである。


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● シンギュラリティ時代の宗教

シンギュラリティ時代の宗教を考えるためには、ま ず、シンギュラリティ時代という時間のエポックを認めること。そして、そのエポックの前後で宗教あるいは 宗教なるものがどのように変化しているのかを明らかにすることが重要である(→「ギ アーツ「文化体系 としての宗教」」)。ただし、シンギュラリティというものが何を示しているか、この図には反映され ていないので、追加の作図は必要かと思います。


 こ の研究における倫理審査とは、どのようなことが必要なのか?(→「研究倫理入門」)

 問 題集ないしは、予測問答集

 クレジット:シンギュラリティ時代における宗教:Religion at the Technological Singularity

● 図像コレクション


Jesus Christ (Xristos) Pantocrator (Detail from the deesis mosaic in Hagia Sophia, Istanbul) ; Pantocratorは「全能者」 と訳される.

リンク(抽象概念)

時間
コスト
文化

身体
信頼
コミュニケーション
衝突
理解
AIのジェンダー
メシア的時間について
費用の外部化
身体観
日本における死の崇拝について
情 動
情報社会における信頼について
Homo patiens
ホモ・パティエンス

権 力


現象学における時間概念
論文を実勢よりも「高く」売る方法
Meditation
新宗教と癒し
低次と高次を媒介するモデルでよいか?
研究倫理の3つの公理




アウグスチヌスの時間概念
水平分業と垂直統合
奥山家の祭壇
人工痴呆の研究 ソマティック・マーカー仮説
SF 小説の読者は想像力の中に逃げ込んだラッダイトというTHOMAS PYNCHON(1984)の説




「時間コスト」概念は空っぽの洞窟か?
上野千鶴子『資本制と家事労働』


認知研究における「感情」の排除傾向





時間の脱臼概念について
延長された表現型の問題系








Teaching of the Dalai Lama: Introduction to Buddhism
時間とコストに関するもうひとつの考え方







フィールドワークの期間に関する議論






人間の中の亡霊


マルチン・ハイデガー『存在と時間』ノート




正当化された真なる信念

機械の中の幽霊


機会費用


ホッブス「宗教について

信念
人間=機械論・再訪 機械
ロボットとの共存


 リンク(トラスト=信頼と技術論)

Trust (social science).by Wiki シンギュラリティー主義 監視と処罰:監獄の誕生 現代研究倫理の3つの公理 嘘あるいは学術的法螺話と遭遇する(信頼の担保) 情報システムセキュ リティ入門
公的領域と私的領域に関する議論 偽りのコミュニケーションデザイン 反乱により主権を獲得することは理性に反する(ホッブス) 科学技術政策の 人類学 科学技 術基本法以降の大学と研究開発 未来をデザインする!
情報化社会における不可避の現象 シンギュラリティ批判序説 シンギュラリティの 人文社会学のための10のテーゼ 機械の論理性/機械の非論理性 ビッグデータとの戦い方/ビッグデータの飼い慣ら し方 擬人化(anthropomorphism, personification)
ポスト真理の政治状況について
メディア・ソーシャルデザイン2019
でたらめを見破る方法
ポストヒューマン時代の人類学
憑在論(ひょうざいろん)
民族誌寓意論
文化相対主義
人工知能のエスノグラフィー ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換 : 市民社会の一カテゴリーについての探究』ノート


民族誌の極北

科学の人類学


























人工知能のエスノグラフィー
デンキウナギが教える宗教の発展

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 信頼を現代的に考える先行研究:信頼を考える : リヴァイアサンから人工知能まで / 小山虎編著、勁草書房、2018年の論文一覧

ホッブズにおける信頼と「ホッブズ問題」 / 稲岡大志 ヒュームとカントの信頼の思想 / 永守伸年 エスノメソドロジーにおける信頼概念 / 秋谷直矩 信頼研究の系譜 / 小山虎 行動科学とその余波 : ニクラス・ルーマンの信頼論 / 酒井泰斗・高史明 政治学における信頼研究 / 西山真司
社会心理学における信頼 / 上出寛子 信頼の多様性 / 小山虎 ビジネスにおけるステークホルダー間の信頼関係 : 経営学での組織的信頼研究の整理とその含意 / 杉本俊介 教育学における信頼 : 非対称的人間形成力としての信頼 / 広瀬悠三 医療における信頼 / 菅原裕輝 機械・ロボットに対する信頼 / 笠木雅史
信頼と安心 / 小山虎 障害者福祉における信頼 / 永守伸年 ヘイト・スピーチ : 信頼の壊しかた / 和泉悠・朱喜哲・仲宗根勝仁 高等教育における授業設計と信頼 / 成瀬尚 志 人工的な他者への信頼 : HAI研究における信頼 / 大澤博隆

 シンギュラリティとは現代のAI崇拝が、その信仰者に約束する 特異点のことであり、AI崇拝の狭義にも論理的に定義されていない、非合理的エートスである。

シンギュラリティを「宗教」として捉えることで、宗 教とシンギュラリティの類似点と相違点が明らかになる。すなわち、これまでの宗教が社会の近代化のなかで宗教批判に遭遇したときに、神学や教理(学)を整 理して、さまざまな形で近代化・合理化してきたのに対して、シンギュラリティは、人工知能という合理的なプロセスをとおして、それが「シンギュラリティ」 という未来の特異点を想像するという非合理的なプロセス(=過度の定向進化論的解釈)を経て、信仰として変化したものである。これは、レヴィ=ストロース が、儀礼とゲーム(試合)を対比的に定義したときに、儀礼は社会や宇宙の不均衡(=病気、不作、紛争など)から始まり儀礼を通して宇宙を再度統一的な状況 に回復する手段であるのに対して、ゲーム(試合)は、お互いに対等の関係から出発し、試合が終わった時点では不均衡の状態で終了する、という過程の対比に 似ている。

 ティモシー・ヴァースタイネンとブラッドリー・ヴォイテック 『ゾンビでわかる神経科学』鬼沢忍訳、太田出版、2017年

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