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解説編: シンギュ ラリティ研究のための11のテーゼ

Eleven thesis on AI Singularity Studies, 2099

池田光穂

このページは「シンギュラリティ時代における学問」 を考えるために作られた、思考実験の[言説生産の]道具である。左は「シンギュラリティ研究のための11のテーゼ」で右はマルクス「フォイエルバッハの 11のテーゼ」である。

テーゼ01:「AI時代においてある歴史 的時点でシンギュラリティ(=技術的特異点)に到達する」という思考実験は、人類社会の 行く末を占う意味で重要な思想史的意味をもつ。

しかしながら、それは、いまだ、思考実験にとどまっており、実践や行動は「AIユートピアに置かれた理論家や富裕な金持ち[資本家・投資家]の夢想や道楽 にすぎないとして固定化した見解に留められて」、シンギュラリティという現象を、人間の行動面 から捉えられることは、なかった
1 こ れまであったあらゆる唯物論(それにはフォイエルバッハのものも含まれるの だが)の主要な欠点 は、事物や現実や感性が客観あるいは観照という形式のもとでだけとらえれていて、人 間的な感性的行動、すなわち実践として、主体的にはとらえられていない ということである。それで、行動的側面は、唯物論とは対比的に、観念論——それはは自ずと現実の感 性的な行動そのものを知り得ないのであるが——から説明さ れてきた。

フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804-1872)は感性的な——思考対象から現実に区別された——対象を欲したのである。しかし彼は人間的 行動自身を客観的な行動としては理解しなかった。それゆえ、彼は「キリスト教の本質」の中で、ただ理論的態度だけを本来の人間的なものとみなし、実践をさ もしいユダヤ人的な形態でのみとらえ固定化し続けたのである。したがって、彼は「革命的な」「実践的−批判的な」行動の重要性を理解しな かったのである。
テーゼ02:しかしながら、これまでのシンギュラリティの議論は、提唱者カーツワイルのものも含めて、完璧なものとはいえず、領域 においては粗 雑な議論のままの部分がある。この研究は、カーツワイルの議論を受け継いて、シンギュラリティの 議論を、思想史的検証にたるだけの理論に鍛え上げる目的を もつものである。
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行動において、あるいは具体の相 において、シンギュラリティは 真実、すなわち現実と仮想の力を、彼/彼女の思考が現世と未来のものであることを証明しなければならない
2. 人 間の思考が客観的な真実に到達できるかどうかという問題は——理論の問題ではなくて、実践的な問題なのである。実践において、人間は 真実、すなわち現実と力を、彼の思考が現世のものであることを証明しなければならない。思考——実 践から遊離した——が現実的か非現実的かについての論争は、純粋にスコラ的な問題なのであ る。
テーゼ03:AI技術者のシンギュラリティの議論での現時点での問題は、人類史におけるその思想史的意義、歴史的意味 についての深い洞察がな い。つまり、人文社会学(ヒューマニティズ)の二千年以上にわたる知的総力を結集して取り組む課題なのに、皮相的な科学技術論のレベルを超えていない。つ まり必要なのは、このテーマに人文社会学が果敢に取り組むべきことである。
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AI環境が人間によって変えられ、コンピューターサイエンティストと人文社会研究 者の双方自身が自ら教育されなければならない」ことを思い出しさえすれば「AI環境の改変と人間とコンピュータ(AI) の行動あるいは自己=他者=ネットワーク状の変革とが一致することは、革命的な実践/イノベーティブなものとしてのみとらえることができ、合理的に理解で きる
3. 環 境と教育の変化についての唯物論的学説は、環境が人間によって変えられ、教育者自身 が教育されなければならないことを忘れているのだ。それで、この学説は 社会を二つの部分——うちの一方を社会の上に超然と高める——に 分けざる をえない。

環境の改変と人間の行動あるいは自己変革とが一致することは、革命的な 実践としてのみとらえることができ、合理的に理解できるのである。
テーゼ04:代表者の管見においては、人 文社会学のどの分野も、シンギュラリティ問題に取り組めるような知的伝統がある。にもかかわらず、それ を横断的総合的できないのは、人文社会学の分断である。
人文社会科学が学知の分断という 「疎外」状況にある限り、シンギュラリティという問題にだれも満足に取り組むことはできない。シンギュラリティに対して無力を表明する人文社会学者は自ら の「疎外」と無能を嘆いているだけである
4. フォ イエルバッハは宗教的自己疎外、すなわち呈示された宗教的世界と現世的世界への世界の二重化という事実から出発する。彼の仕事は、宗教的世界をその世俗的 基礎へと解消することにある。しかし世俗的基礎がそれ自身から際だって見え、自身を雲のなかに独立した王国として確立するということは、この世俗的基礎の 自己分裂と自己矛盾からのみ説明されるべきである。世俗的基礎自身はその矛盾のままに理解され、同時にまた実践的に革命されなければならない。こうして、 例えば地上の家族が聖なる家族の秘密として暴かれた後では、今度は前者自身が理論的に、また実践的に破壊されなければならない。
テーゼ05:人文社会学が取り組める知的 担保には、この細分化された分野がすべて共有する、知的基盤がある。それは、(1)どの人類社会にも言語 があり、その言語手段には、知識人や知的論理操作をする基本的活動が認められる。つまり、言語操作により人類が世界を創造/想像する基盤をもつ。(2)言 語 の操作により、自然に働きかけ、自然を改変してきたが、同時に人類の知的活動は、その自然環境を理解する言語や知的枠組みをつくりあげてきた。つまり環境 や世界認識が重要である。言語と世界との関係、そして、その2つの抽象的構築物の前に存在する人間との関係について、人文社会学は長きにわたり、さまざま な知的貢献をしてきた。
シンギュラリティに当惑する人文 社会科学研究者はその用語の前で足をすくめているのであり、そのような自信=自身の無さは、シンギュラリティのオントロジー・エピステモロジー・そして語 用論についての無知からくる。そのことがテーゼ04における人文社会科学研究者の「疎外」を生む。
5. フォ イエルバッハは抽象的思考には満足せず、直観に訴えかける。しかし彼は感性を実践的な人間的−感性的な行動としてとらえることはなかった。
テーゼ06:このような本研究グループが もつ人文社会学が考えるAIやシン ギュラリティの考察とその知的貢献は、もちろん、AI技術者との真摯 な対話を通して、はじめて意味を持つことは言うまでもない。しかし、現時点ではシンギュラリティに関する人文社会研究を第一の急務となる。そして、次にコ ンピュターサイエンティストや技術者たちとの対話、最後に、それを教育カリキュラムとして次世代に伝えるための学問パラダイム確立が必要とされる。最終年 度には、パラダイム確立への道筋と、次世代学生・院生のためのモデル・カリキュラムを技術系の研究グループと構想提案する。
シンギュラリティという言葉の前 で立ちすくむ連中は、1.歴史的経過を捨象し、インターネットに接続する知識システムに対して固定的なイメージしかもたず、知識システムを抽象的で孤立し たものとして前提とし、2.インターネットに接続する知識システムを、人 間と対話可能な「類」としてのみ捉えることができない。インターネットに接続する知識システムを 「類」としての結びつける普遍的存在として捉えて見る必要がある
6. フォ イエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、それは社会的な諸関係の総体なの である。

フォ イエルバッハは、この現実的な本質の批判に携わろうとはせず、それゆえ無理矢理に

1. 歴史的経過を捨象し、宗教的心情をそれ自身にたいして固定化し、抽象的な−孤立した−人間的個人を前提とし

2. 本質を、単に「類」としてのみ、内的な、無言の、多くの個人をただ自然に結びつける普遍性としてのみとらえることができるのだ。
テーゼ07:シンギュラリティが人文学 (ヒューマニティーズ)にもたらす最大の思想史的インパクトは「人間の死」(あるいは主体の死)である。人間の死」とは、ミッシェル・フーコーの『言葉と物』の最後の部分の、あのテーゼである。
シンギュラリティに対して人類が 持つ「宗教的/機械的心情」が社会的な産物であること、その現象を分析する抽象的な個人が、現実には特定の社会形態に属するということについて自覚的でな い
7. フォイエルバッハは、それゆえ、 「宗教的心情」自身が社会的な産物であること、そして彼が分析している抽象的個人が、現実には特定の社会形態に属することを見 ない。
テーゼ08:シンギュラリティ問題で問われていることは、人間社会における、個人間、個人と機械、そし て、機械間における信頼関係である。現在のところは、研究 者がAIの開発する際に留意しなければならない「倫理」の次元に留 まっている(→「アシロマAI研究倫理」)。
シンギュラリティという課題が実 体的なものであっても仮想的なものにすぎなくても、シンギュラリティという課題に取り組む人類の 姿勢とは「実践的」なものである。シンギュラリティというものに「神秘的なもの」あるいは「心理を隠蔽するもの」と感じる者は、どちらも、実践的な活動を 通して、それまでの曖昧な概念に対して具体的な回答を得ることができるであろう
8. す べての社会的生活は本質的に実践的なのである。理論を神秘主義に誘い込むあらゆる神秘は、人間的な実践のなかで、そしてこの実践の理解のなかで、合理的に 解決されるのである。
テーゼ09:2017年のアシロマAI会 議で言われる「超知能(superintelligence)」とい う語彙は、それが指し示す以前に「超知能という実体」を虚構的空想表現のなかに表現をしており、今後「神」という名とともに、我々の意識の中を占有するに 違いない(観念的な超知能という幻 想から自由になるためには、感性を実践的な活動であるということへの自覚であり、幻想は君の直感のレベルにとどまっている心的様相であることについて知る べきである 9. 観照的な唯物論、すなわち感性を実 践的行動として理解しない唯物論が到達しうるのは、せいぜい個々の個人と市民社会の直観である。
テーゼ10:SF 映画たとえば、ブレードランナー(正続)や、ターミネイター(シリーズ連作)や、機械の反乱により、人間生活どころか、人間を破壊しようとするカコトピア が想像されています。AI研究者が、シンギュラリティなど来るわけないよという揶揄している一方で、民衆は映画的世界が提示するなかで、未来への対処行動 を、各人の想像力のなかですでに「実践」していると言えないでしょうか? ギアーツ流の宗教は、シンボル操作やその観念体系プラス信仰実践ですが、ふつう の人々は観念のなかで善悪の行動を実践してはいないでしょうか?旧約聖書であるトーラの解釈学的伝統など。(これまでのシンギュラリティは神秘化されたり 審美化されたものでありモダンの時代と社会の立脚点の帰結である。新しい時代の社会の立脚点は、現実の社会を超えるネット ワークというクラウド的オントロジーである 10. 古い唯物論の立脚点は市民社会で あり、新しい唯物論の立脚点は人間的社会あるいは社会化された人類なのである。
テーゼ11:(コンピューターサイエンティストとサイバー人 類学者は、これまでのインターネット社会と「シンギュラリティという幻影」をさまざまに解釈しただけである。問題なのはネットワーク社会を変革することな のである 11. 哲 学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。問題なのは世界を変えることなのである。
クレジット:シンギュラリティの宗教学研 究のための11のテーゼ
旧クレジット:シンギュラリティの 人文社会学のための10のテーゼ( Ten thesis on AI Singularity Studies, Oct., 2018)
クレジット:フォイエルバッハに関する11のテーゼ(Thesen über Feuerbach, 1845)

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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