カントの宗教概念
Searching for God in Weltanschauung of Immanuel Kant
池田光穂
これから述べる「カントの宗教概念」では、カント自身は孤独な思索をおこないながら、倫理的共同体 や、自己の格率を通して他者と出会う、社会的な存在としての人間の「人倫」について考えているところが、ジェイムズの宗教と定義と似ていながら(=孤独な状態での思考 のモードで自分が悟る)、独自のもの(=カントのそれは一種の「社会の形而上学」の様相をもつ)である。
★世界の領域区分
叡智界 |
理性の世界 |
悟性界 |
理解の世界 |
感性界 |
感覚の世界 |
●カントにおける宗教概念
1793年04月 『たんなる理性の限界内での宗教(たんなる理性の限界における宗教)』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft.
Religion Within the Boundary of Pure Reason.
「神は権利をもつが、義務はもたない。人間は権利と義務をもつ」(S.48) 『遺稿(Opus postumum)』XXI,
「神とは、あらゆる義務概念の実在的原理を内に含む存在者である」(S.152)『遺稿(Opus
postumum)』XXI,
義 務の実在性と科学の客観性の承認(ラクロワ 1971:33)
「永 遠なるキリスト教」
『エ ウチプロン』の中でソクラテスが、神々のきまぐれへの屈従や祭式の迷信に抗して、道徳的宗教の理想を擁護(ラクロワ 1971:68-69)
叡智界は、道徳的世界
神 は我々よりも先に認識されている
道 徳法則は自然法に属する
『遺 稿』の中に、神に関する多くの指摘がある(ラ クロワ 1971:88-89)
自 由は道徳法則と一体をなす
道 徳は形而上学(ラクロワ 1971:95)
ア リストテレス『ニコマコス倫理学』では、道徳的経験とは、有徳な人が実践するとおりのもの、と結論づける。
根 元悪
回 心は無時間的(ラクロワ 1971:121)
「格 率は意志の主観的原理であるが、道徳法則は意志を客観的に限定する」(ラクロワ 1971:122)
た んなる理性の限界にある宗教=三批判の総合であり、完成である(ラクロワ 1971:124)。
宗 教は「意志のまったき対象」にかかわる(ラ クロワ 1971:132)
●●『たんなる理性の限界内の宗教』Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft 1792-1793.における宗教の位置付け
「倫 理的共同体(ethisches gemeines Wesen)」のもとで、人間は道徳的に完成する。
理 性信仰(→純粋実践理性)による理性宗教(=一種の宗教進化論)
(α) 恩恵を求める宗教は、不純な宗教:奇蹟や祭祀にかまける。迷信
(β) 啓示信仰は、文書や歴史にもとづく経験的な歴史的信仰(→スピノザに類似)。啓示宗教と理性宗教は完 全に合致するわけではないが、理性宗教に合致する部分もある、と主張。キリスト教はそれに価する。カントによればキリストが儀礼を理性宗教に導くために 「手段」として使った。
(γ)理性信仰による理性宗教、完全な「道徳的宗教」
人 間の問題と神の問題の合致:我々の内なる神(Deus in nobis)=神の内なる人間(homo in Deo)
た だし、この『たんなる理性の 限界内の宗教』は、プロイセン宗 務当局によりキリスト教の教義を歪曲したものとして判定、フリードリヒ大王の詔令により国王が亡くなるまでは講義を禁止される(→『諸学部の争い』)
序 文:道徳が必然的に宗教にいたる。理性的な道徳宗教のみが真の宗教である。
第 1編:現在に代表される根元悪(=人間の性癖としての)が示される。根元悪は自愛の動機が格率として優先される。この性癖そのものは、自由な存在者として の人間に備わる善により、根元悪を克服できると主張。神に恩寵を求める「不純な宗教」は、この改善を不可能とする動機にもとづいている(だから「不純」な のだ)。
第 2編:「人間の支配をめぐる善の原理と悪の原理の戦いについて」という表題で、イエスが善の原理の人格化された理念として表されているという。イエス=善 の原理、道徳的完全性を備えた人間の理念(モデル)の示現となる。人間の道徳的改善は、人間の義務であり、奇蹟信仰などに頼って(=自分の格率として取り 入れて)はならぬ。
第 3編:善の原理の勝利による「神の国の建設」をどう考えるのか?がテーマ。人間が自然状態を脱することが、可能になるのが、「倫理的共同体(ethisches gemeines Wesen)」である。その理想的状況のなかでは、神の民であり徳の法則に従う民が人間なのである。
第 4編:神に対する奉仕と、偽の奉仕の峻別。神意に叶うには良い行いが必要である。それ以外のおこないは、宗教的妄想=偽の奉仕である。教会の僧職制度は、 この偽奉仕を助長すると指摘。
● 『実践理性批判』における「神の命令の履行」について
「道 徳法則を自らの義務として自ら進んで遵守するという道徳行為こそが、さらにいえば無制約的な道徳法則を意志の主観的原理(格率)とする善意志を自己存在の形式にして、そのようにして 自己が完全な道徳的存在になることを(道徳性の実現)こそが、神の命令の履行、人間の神に対する真の奉仕になる」(甲斐博見「宗教哲学」『カント事典』弘 文堂Pp.232-233, 2014.)
徳
と幸福の一致としての最高善が叶ってる世界を「神の国(Reich Gottes)」と呼んだ。
● ハイチャーチ(High Church )における、教会論と典礼主義(→洗練された儀礼主義?)
""High church" Christian denominations are those who emphasize formality in beliefs and practices of ecclesiology, liturgy, and theology, and often resist "modernisation". Although used in connection with various Christian traditions, the term originated in and has been principally associated with the Anglican/Episcopal tradition, where it describes Anglican churches using a number of ritual practices associated in the popular mind with Roman Catholicism. The opposite is low church. Contemporary media discussing Anglican churches tend to prefer evangelical to "low church", and Anglo-Catholic to "high church", though the terms do not exactly correspond. Other contemporary denominations that contain high church wings include some Lutheran, Presbyterian, and Methodist churches." - High church.
「ハ
イチャーチ」とは、教会論、典礼、神学などの信仰と実践において形式を重視し、しばしば「近代化」に抵抗するキリスト教宗派のことである。さまざまなキリ
スト教の伝統に関連して使われるが、この用語は主に英国国教会/司教団の伝統に由来しており、主に英国国教会/司教団の伝統に関連している。その反対は低
教会である。聖公会の教会を論じる現代のメディアは、「ローチャーチ」に対して福音主義を、「ハイチャーチ」に対してアングロカトリックを好む傾向がある
が、これらの用語は厳密には一致しない。ハイチャーチの翼を持つ他の現代教派には、ルーテル教会、長老派教会、メソジスト教会などがある。
""Low church" Christian denominations are those who give relatively little emphasis to ritual, sacraments and the authority of clergy. The term is most often used in a liturgical context./ The term was initially intended to be pejorative. During the series of doctrinal and ecclesiastic challenges to the established church in the 17th century, commentators and others—who favoured the theology, worship, and hierarchical structure of Anglicanism (such as the episcopate) as the true form of Christianity—began referring to that outlook (and the related practices) as "high church". In contrast, by the early 18th century, those theologians and politicians who sought more reform in the English church and a greater liberalisation of church structure, were called "low church"./ "Low church", in a contemporary Anglican context, denotes the church's simplicity or Protestant emphasis, and "high church" denotes an emphasis on ritual or, later, Anglo-Catholicism."- Low church.
「ロー
チャーチ」とは、儀式や秘跡、聖職者の権威を比較的重視しないキリスト教の教派のことである。この用語は、典礼の文脈で使われることが多い。17世紀、既
成教会に対する一連の教義的・教会主義的な挑戦の中で、英国国教会の神学、礼拝、階層構造(司教座など)をキリスト教の真の姿として支持する論者などが、
そのような考え方(および関連する慣習)を「ハイチャーチ」と呼ぶようになった。これとは対照的に、18世紀初頭までには、英国教会にさらなる改革を求
め、教会構造をより自由化しようとする神学者や政治家は「ローチャーチ」と呼ばれるようになった/現代の英国国教会の文脈では、「ローチャーチ」は教会の
簡素さやプロテスタント的な強調を表し、「ハイチャーチ」は儀式の強調や、後にはアングロカトリック的な強調を表す。
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再帰的近代化 Reflexive modernization |
リ ンク
文 献
そ
の他の情報
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以下余滴:主観の判断形式に関するノート
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イマヌエル・カ ントによる主観の判断形式(=カテゴリー表)は、秩序についての教理(Lehre)である。
感 覚器官によってもろもろの感覚を受容し、その感覚にもとづいて自らの観念を形成する個体としての精 神身体自我というものは神話である。
カ ント的な「経験」はこの点、つまり知覚の感受についてのその素朴な観念に関して言えば、形而上学な いし神学にすぎない。——ベンヤミン「来るべき哲学のプログラム」
「学んでも何もわからない。行為することが必要である」 (ゲーテ)
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・アプリオリ(先験的)な総合的判断はどのようにして可能になるか?——綜合という漢字は総合と同じ意味。
・ここでいう「総合的判断」とは
・(1)分析的概念:述語の概念が主語の概念のなかに含まれている。
・(2)総合的判断:述語(が主体性をもち?)主語概念を付加する。
・認識の基礎概念とは?
・(3)「私たちの認識は対象に従わねばならない」では、アプリオリな総合的判断ができない——つまり常に対象に認 識が規定されて しまうから。対象の新た な出現に応じて認識が変わってしまう(「別にそうでもいいじゃないか?!」という居直りはさておき)。「私たちの理論=学問は対象=証拠に従わねばならな い」というのは Evidence-based Science の基本的テーゼなので、これから述べるカントのコペルニクス的転回(転換)は現在の認識論としての問題含みの挑戦ではある。
・では、どうすればよいのか?!
・(4)「対象が私たちの認識に従わねばならない」。これを「コペルニクス的転回」という。やっぱり「唯の絵空事」 かもしれない。 しかし?!よく考えてみ よう。対象の把握は我々の認識手段に依存することは自明。ヒュームが眼球の横に指をあてて少し動かしてみると見えるものは横にずれるだろう。だから私たち の眼は「ありのままに見えている」などとは言えず、我々の感覚は眼球を通して解釈されているにすぎない——もちろん、じっさいに事物のある場所に歩いてみ て手で触って「あるじゃん!」と言っても、それは眼と手による確認により確かめられたことにすぎず、最初の眼が正しく事物を把握しているとは限らない(= 視覚の錯認つまり錯覚など証拠はカントが先に言ったように「対象が私たちの認識に従っている」ことは自明だと言える)。
・したがって、私たちの抽象的な認識能力に、アプリオリな判断を可能にする特権的能力を与えても、私たちの世界把握
が大きく崩れる
ことはないだろう。い
や、それこそ、私たちが普遍的にものを理解できる根拠ではないか、とカントなら、こう僕たちに説得するわけだ。
・認識能力の分類
・認識能力には2つある(えっ?どうしてという疑問の前にカントに従うと、次のようになる)
・(5)表象——私たちの身の回りにある具体的な認識対象——を受け取る能力としての感性。感性には固有の形式があ り、それが〈時 間〉と〈空間〉によると カントはいう。これらの形式は、純粋直観によってのみ把握できる。
・(6)直観的表象——私たちの頭?身体の中であれこれ考えている思考対象——を考える自発的能力の悟性(=了解や 解釈)。これに ついて文字を読みながら 「そうだ!」「なぜ?」「いいえ?」と考えている君たちにもそのような悟性が宿るとカントなら言うだろう。さて、悟性にも固有の形式があり、それを〈純粋 悟性概念〉と〈カテゴリー〉に分けている。
・それをまとめてカントは「内容のない思考は空疎だ、概念のない直観は見えていない(=盲目)」と言いきる——「内 容がないものを 空疎と呼び、直観してい るようだけどその前提には何かの概念があるのは当たり前」と君が言うのは、実は、カントの指摘した世界を生きていることになる。
・いずれにせよ、上記の総合的判断——つまり「説明を省かない要するに」——は、感性と悟性(了解・解釈)が共に働 かないとならな いとカントはいう。
・要するに、思考=総合的判断をする際には、(5)まず感じ(感性の実践)そして(6)それをあれこれ考えること (=悟性の実践 だ)を組み合わせてるだろ うというわけである。
・悟性(知性,了解, Verstand, understanding)とは、感性(Sinnlichkeit, sensibility)と共同して認識をおこなう人間の能力のひとつ(→ウィキペディア「カントの悟性論」)。
・整理しよう。
・(5’)感性:〈時間〉と〈空間〉という2つの形式をもつ。これらは、純粋直観によってのみ把握できる。
・(6’)悟性:〈純粋悟性概念〉と〈カテゴリー〉の形式をもつ
・カントによる12の「純粋概念」(量・質・関係・様相×それぞれ3つづつ=12)
・(7)量:単一性、多数性、全体性
・(8)質:実在性、否定性、制限性
・(9)関係:実体と属性、原因と結果、相互作用
・(10)様相:可能性/不可能性、現存性/非存性、必然性/偶然性
「イマヌエル・カントの悟性論は『純粋理性批判』で展開される。悟性は感性と共同して認識を行う人間の認識能力のひ とつであり、概 念把握の能力である。詳述すれば、物自体に触発されて直観による表象を行う下級認識能力である感性に対して、悟性は理性や判断力とともに上級認識能力のひ とつであるとされる。人間の悟性には固有の形式があり、すべての可能な人間的認識に際してはこの形式が適用され、悟性による表象が可能になる。この固有の 形式が、純粋悟性概念(カテゴリー)であって、量・質・関係・様態にそれぞれ3つ、合計12の純粋悟性概念が指摘される。カント以前に、懐疑論は人間の認 識の確実性を問うたが、カントにおいては人間が外界の物を認識する際に発見する因果性は、純粋悟性概念によって保証されており、人間の認識の諸法則に沿う ために確実なものである。これによってエウクレイデスの幾何学やニュートンの力学は、確実な認識である事が保証される」(→ウィキペディア「カントの悟性論」)
・感性を通して直観的に把握される対象を現象という=「現象」を概念化していうときには、それはそれぞれの具体的な現象を超えたところにあり、それはアプ
リオリに把握できているとしか言いようがない。
・カテゴリーの超越論的統覚:「すべての経験は対象についての概念を含む」から……
・このように現象を認識することはできても、「物自体」をアプリオリな総合的判断で対象としてとらえることはできな い。
「カテゴリーは悟性の対象となるもののみに当てはまる。すなわち感性的認識の対象とならず、単に思惟のみが可能な理 性概念には当て はまらない。このためカントは従来の哲学が扱ってきた神や存在についての命題を否定する。しかし人間理性には形而上学への素質があり、本来当てはめること が出来ない対象へも悟性概念を適用しようとする。これは哲学を推進する主要な動機であり人間の本性として否定する事が出来ないが、しかしあくまでも悟性の 誤用であって、人間は正しい悟性の使用を知らなければならないとされる」(→ ウィキペディア「カントの悟性論」)
・構成的総合的方法から分析的記述的方法へ
・「純粋実践理性は有ることののみを明らかにする」
・無制約者としての「霊魂」「世界」「神」(神、永遠、自由)——これらは悟性のカテゴリー超えるものである。
・このようなものの前では、理性は構成的にものを把握することはできない=形而上学の限界が示される。
・しかし、理性を統制的に利用することができる、それが実践理性である。
・実践理性は、自らを自由に意志を規定する能力である。
続く……
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第一批判:理性を知性の様相のもとに
第二批判:理性を意思の様相のもとに
第三批判:理性を感情の様相のもとに
カントの立場は、何が事実か(quid facti)を問うものではなく、何が権利か(quid juris)を問うものである[→Kant's Transcendental Humanism, by Henry E. Allison, The Monist, Volume 55, Issue 2, 1 April 1971, Pages 182–207, https://doi.org/10.5840/monist197155219]
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