かならずよんで ね!

再帰的近代化

Reflexive modernization

池田光穂

再帰的近代化(さいきてききんだいか、reflexive modernization)あるいは内省的近代/再帰的近代 (reflexive modernity)とは、外部から強制力をもって近代という新しいモードを獲得していくプロセス(=連辞符のつかない唯の近代化 [modernization] のこと)とは異なり、近代を生きる個人や組織あるい は社会が、近代化(=以前にあったものを放棄して新たな生活や思考を始めること)のプロセスを内面化していく現象(再帰的近代化)。あるい は、再帰的近代化が進行中の時間や歴史のことを、再帰的近代という。

ヨーロッパの社会学者、とりわけアンソニー・ギデン ズ(Anthony Giddens, 1938- )、ウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck, 1944-2015)、あるいはスコット・ラッシュ(Scott Lash, 1945- )らによって、提唱され、また理論的に深められた。

なぜ、このような奇矯な用語法が登場した理由は、脱 構築派らの近代概念の見直し、あるいは近代の虚構性(→近代という概 念は啓蒙主義者により社会的・歴史的に構築されたにすぎぬ)に対して、危機を抱いた、 上記のような社会学者たちが、それまでの近代化の概念のように、古いものを捨て去り新しい進歩の概念を取り込むことが近代だという単純な見方をやめ、近代 概念の再生産や伝承(あるいは伝染)が可能な社会的条件はなにか?と、彼ら自身が反省的=リフレクシブで再帰的な思考に戻り、近代を担う、個人・組織・社 会が、近代概念の内面化をすることが不可欠であることに気がついたからであろう。

例えば、ベックは、合理的な近代化が、大規模な環境 汚染を引き起こしたり、激甚災害などに十分な対応ができないことを通して、この市民社会そのものがリスクを含んだものであることを再帰的に自覚させるにいたると主張する。たしかに、ベックの 議論を受けて、我が国(日本)における、リスク社会論の成立とその受容は、その後の、企業の環境汚染に対するモニター制度や、政府機関による食の安全性、 あるいは、激甚災害への対応や、災害が起こらないように近代理性的にその防止策を検討するだけでなく「減災」などの用語や概念すら生み、災害後の人的・経 済的被害の予測を立てるだけでなく、そのダウンサイドリスクを最小限に食い止めようとする努力に、正当な根拠を与えるようになる。

再帰的近代の研究をおこなうものは、近代概念を歴史 化することに余念がない。なぜなら、封建的伝統を打倒した世俗革命の後の西洋社会に、再帰的近代化を可能にしたものは、普通選挙(universal suffrage)、教育制度(education)、福祉国家、市民権あるいは参政権という課題であったからだ。第二の自然(second nature)という比喩のように、ウルリッヒ・ベックは、これらの過程を「第二の近代(second modernity)」 と呼ぶ。その後に近代社会が経験するのは、経済と文化のグローバリゼーションである。 そこでは、従来の国民国家の概念をこえる、トランスナショナルなエー ジェンシー(企業やNGOなど)が登場し、地方、国家ならびに国際社会の統治の概念にさまざまな影響(→つまり内省的な契機になる)を与える。新聞やテレ ビあるいはインターネットなどのマスメディアの普及により、労働や協業や奉仕の概念に変化が生じ、また、労働の概念は、分業やジェンダー観にも影響を与 え、男女の平等や女性解放の考え方が芽生える。個人主義と家族のアトム化は、かつての、地域的・職域的・労働組合的な協業観や労働観に影響を与える。

それらの再帰的近代化は、近代が前提にしていた、世 界の合理化、脱魔術化に単純に進むものではない。社会的反動や保守主義を生じさせたり、また、彼らの父母を育ててきた、民主主義への信頼が損なわれ、ポ ピュリズムや排外主義、あるいは、脱ナショナリズムを経由して、再度ナショナリズムや排外主義的なジンゴイズムが生まれることがある。これらは、近代化の 概念が用意した、社会変化は次々と過去のものを古くし、捨て去るという様式をも、ポストモダン状況では放棄されることが、図らずしも、再帰的近代化にあら われることを歴史的に示した。

■テキスト『再帰的近代化』Reflexive modernization : politics, tradition and aesthetics in the modern social order / Ulrich Beck, Anthony Giddens and Scott Lash, Cambridge, UK : Polity Press, 1994

再帰的近代化(RM)は工業社会における創造的破壊 を加味する(ベック 1997:11)

リフレクシヴとは省察ではなく、自己との対話である (ベック 1997:17)

社会的形式の個人化、サブ政治(サブ政体、サブ政 策)

「啓蒙主義の古い決まり文句でいえば、再帰的近代化 は、近代化を乗りこえるために、近代化に依存してゆくのである」(ベック 1997:49)。

円卓会議モデル、専門委員会などに内閉されるもので はなく、分割した専門化、機能分化として、それを共同し、対話するモデルで考える(ベック 1997:57)。→たしかに、対話は、それに参画するエージェントのそれぞれの再帰性を促すのは間違いない。

ベックらの『再帰的近代化』の索引に宗教の項目は見 つからない。

再帰的近代化とは自らが用いる秩序カテゴリーを撤廃 しだしている(本当か?)モダニティのなかで、両義性の歴史的所与性を正当に評価で きるような、合理性の刷新を意味している(ベック 1997:65)。コメント→先の、再帰的近代化(RM)の説明や解説をパラフレイズしただけ?

対話を通して政治なるものを創造する。これはオッ ケー(ベック 1997:66-)。

総論として、ベックの議論は、ポストモダンか後期近 代かしらないが、再帰的近代という時代がどのようになるのかについてのヴィジョンはよくわかったし、それがある種の未来社会のプログラムになることも提案 として理解可能である。だが、モダンの時代の社会学ような、社会現象のリフレクシヴな反省的、批判的側面の提示よりも、「〜であるべき」社会の提言の様相 がつよく表れている。

■異なった角度からの「再帰的近代化」(安達智史氏の場合:2019年)

以 下の文章は、第92回日本社会学会のテーマセッション公募項目「再帰的近代における宗教 と社会・個人」に関する社会学者・安達智史氏の解説である。/は改行。

「「再帰性」という概念は,社会学においてイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズによって導入されたことで知られている.ギデンズは,グローバル化が日 常的現実となった現代社会のあり方を解明するために,再帰的近代化という理論枠組みを提示した.再帰的近代化とは,モノ,カネ,ヒト,資本,文化のグローバルな移動にともな い,これまで人々を区分けていた空間的・意味的境界が崩れ,そのなかで「より開か れ,より問題を抱えた未来」と向かい合いながら生きることが余儀なくされる時代を 指している./宗教と社会の関係もまた,再帰的近代化のなかで,宗教の私化を前提とした「世俗化」言説を超えてより複雑な様相を帯びつつある.情報通信技 術の発展,福祉国家の後退,国境を超えた(強制的・自発的)移動の増大,個人化の進展,大災害といった未曾有の社会変動を迎えるなかで,宗教が果たす社会 的機能に改めて注目が集まっている.そうしたなか,個人の宗教とのかかわり方にも変化が生じている.宗教と個人の関係は,グローバルなフローの高まりを通 じて,地域に根ざしたものからより個人的なものへと変化している.別の視点から述べるならば,宗教的コミュニティは,個人の再帰的・選択的な関与を通じ て,よりグローバルなものへと拡張しているといえる.」
出典:https://jss-sociology.org/meeting/20190411post-8847/
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■Ikeda, M. (2019) Spirituality and Materiality among Human Remains: Reflection on repatriation activism for the Ainu and the Ryukyu.

◎差延からみた、再帰化について(→「民族学という学問の自文化中心主義性について」)

「何者かとして同定されうるものや、そのものの自己 同一性が成り立つためには、必ずそれ自身との完全な一致からのずれや、違い、逸脱といった、つねにすでにそれ自身に先立っている他者との関係が必要であ る。このことを示すために、差延という方法が導入され」る。「同 定や自己同一性は、主語になるものと述語になるものの二つの項を前提とする。(「AはAである」)そのため、主体や対象は、反復され得なければならない。 「同じである」ということは、二つの項の間の関係であり、自己同一性においてもその事情は変わらない。自己自身が差異化することによって、そこで初めてそ れが複数の「同じ」であるが「別の」項として二重化しうる。そして、そうなってはじめて、同定や自己同一性が可能となる」。……差延(différance)は、再帰的な性質を持つが、 このとき、この再帰を媒介する他の項は、あくまでも不在の形で、自己の側に残された、自己の側の対応する痕跡から遡及的に確認されるにすぎない。しかし他 方で、こうした痕跡は、あくまでもそうした不在の媒介項を前提とし、痕跡が刻まれたその項が自己充足することを許さない」-差延 différance.

◎とても困った審問のなかに「全体主義というのは、ギデン ズらがいう前に、異なった形で(アノマリーに)提唱された『再帰的近代化』なのではないか?」というものがある。

The myth of the state / by Ernst Cassirer, New Haven : Yale University Press,1946.「『国家の神話』【講談社学術文庫版の宣伝文句】『認識問題』『シンボル形式の哲学』などの大著を完成したエ ルンスト・カッシーラー(1874-1945年)が、ナチスが台頭し、第2次世界大戦に向かっていく状況の中、最晩年(1941)に至ってついに手がけた 記念碑的著作。国家という神話は、どのようにして成立し、機能するようになるのか。独自の象徴(シンボル)理論に基づき、古代ギリシアから中世を経て現代 にまで及ぶ壮大なスケールで描き出される唯一無二の思想的ドラマ。●章立て:▶第1部 神話とは何か▶ 第1章 神話的思惟の構造▶ 第2章 神話と言語▶ 第3章 神話と情動の心理学▶ 第4章 人間の社会生活における神話の機能 ▶第2部 政治学説史における神話にたいする闘争▶ 第5章 初期ギリシャ哲学における《ロゴス》と《ミュトス》▶ 第6章 プラトンの『国家』▶ 第7章 中世国家理論の宗教的および形而上学的背景▶ 第8章 中世哲学における法治国家の理論▶ 第9章 中世哲学における自然と恩寵▶ 第10章 マキャヴェリの新しい政治学▶ 第11章 マキャヴェリ主義の勝利とその帰結▶ 第12章 新しい国家理論の意味▶ 第13章 ストア主義の再生と《自然法》的国家理論▶ 第14章 啓蒙哲学とそのロマン主義的批判者 ▶第3部 20世紀の神話▶ 第15章 準備 カーライル▶ 第16章 英雄崇拝から人種崇拝へ▶ 第17章 ヘーゲル▶ 第18章 現代の政治的神話の技術▶ 結語」

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