かならず 読んでください

民族学という学問の自文化中心主義について

Ethnocentrism of ethno-centri-logists, and/or On the ethnocentrism of the discipline of ethnology

池田光穂

民族学は——あらゆる科学と同様に——言説という境 位のなかで産み出される。そして、民族学はまず最初はヨーロッパの科学であり、やむをえずとはいえ伝統に属する諸概念を使用する。したがって、民族学者の 意図に関係なく、また、このことは民族学者の決断にも依存しないのだが、彼がまさに民族中心主義を告発する瞬間に、彼は自分の言説のなかで、(自)民族中心主義 の諸前提を受け入れてしまうのである。かかる必然性を避けることはできない。これは歴史的な偶発事ではないのだ。この必然性がもたらす帰結のすべてをよく 考察してみる必要があるだろう。しかし、たとえ誰もそこから逃れられないのだとしても、それゆえ、たとえどんなにわずかであれこの必然性に屈することに関 しては誰も責任がないのだとしても、だからといってこの必然性に屈する仕方がすべて同等の正当性を有しているということにはならない。言説の質と豊かさは おそらく、形而上学の歴史と相続された諸概念とに対する関係が思考される際の、批判的な厳密性によって計られる。ここでいう関係とは、人間科学の言語に対 する批判的関係であり、言説の批判的責任である。ある遺産の脱—構築のために必要な資源を、その遺産それ自体から借り受ける言説に関して、その資格問題を 明確に体系的に提 起しなければならないのだ。これは経済と戦略の問題である(pp.572-573)。——デリダ『エクリチュールと差異』

エクリチュール:「エクリチュール( écriture)は、パロー ル(話し言葉)に対して用いられる、哲学用語の一つである。現代において、エクリチュールとパロールの二項対 立とその差異に注目したのは、フランス現代思想家のジャック・デリダである。したがって、哲学思想において、エクリチュールと呼ぶときは、まず西欧社会にパロール本位主義(音声中心主義(Phonocentrisme))があると し、それに潜んでいた倒錯を暴くためのシステムが問題となる。それは、脱構築のための最初の手立てであった。しかし、たとえばモーリス・ブランショにおい ては、本質的に死を含む言語活動として、またロラン・バルト——ラング・スティル・エクリチュールの3つを区別した——においては、快楽の知的媒介とし て、それぞれ機能している。エクリチュールは、話し言葉に対して、書き言葉の特質に注目したときに用いられる用語ということになる」日本語ウィキペディ ア)

音声中心主義(Phonocentrisme) とは、音と音声が本質的に書き言葉よりも優れているという考えである。この理論の支持者にとって、スピーチは書くことよりも豊かで、より自然で、より直観 的である。音声中心主義は、音声はコミュニケーションの最初かつ基本的な手段であり、書き言葉は音声を捉えるための追加の試みにすぎないと主張する。 言語学者で修辞学者のレナード・ブルームフィールドは、この理論を支持して、「書くことは言語ではなく、単に言語を記録する手段である」と主張している。プラトンやルソーなど、彼以前の他の哲学者も書くことについて懐疑的であった。 彼らは、書き言葉は本質的に口頭での教育方法よりも劣っていると感じていた。修辞学者のウォルター・J・オングも、音声中心主義への信念を次のように証言 しています。私たちは、この文章が完全かつ修復不能に作られたものだということを時々自分自身に思い出さなければならない」。オングは、ほぼすべての人が 口頭で簡単にコミュニケーションできる一方で、書くことには重要な特別なスキルが必要であると指摘している。哲学者のジャック・デリダは、文字による表現にはそれ自体の価値があり、単なる「スピーチの補 足」ではないと主張し、音声中心主義を批判した音声中心主義は、存 在を特権とする西洋哲学の典型的なロゴス中心主義を単に例示したものにすぎないという。

●脱構築のエートスと方法

1)差延 différance

「何者かとして同定されうるものや、そのものの自己 同一性が成り立つためには、必ずそれ自身との完全な一致からのずれや、違い、逸脱といった、つねにすでにそれ自身に先立っている他者との関係が必要であ る。このことを示すために、差延という方法が導入され」る。「同 定や自己同一性は、主語になるものと述語になるものの二つの項を前提とする。(「AはAである」)そのため、主体や対象は、反復され得なければならない。 「同じである」ということは、二つの項の間の関係であり、自己同一性においてもその事情は変わらない。自己自身が差異化することによって、そこで初めてそ れが複数の「同じ」であるが「別の」項として二重化しうる。そして、そうなってはじめて、同定や自己同一性が可能となる」。これは「それ自 身に完全に一致し、他を成立のために必要とせず、他に制約されておらず、自己充足した、根本的で特権的なもの、「他のもののうちにあり、他のものによって 考えられるのではないもの(スピノザ『エチカ』 実体の定義)」というのは、たとえ概念の世界だけであっても、副次的に構築された名目的概念としてよりほ かにはありえない、ということを意味する」。「差延(différance) は、再帰的な性質を持つが、 このとき、この再帰を媒介する他の項は、あくまでも不在の形で、自己の側に残された、自己の側の対応する痕跡から遡及的に確認されるにすぎない。しかし他 方で、こうした痕跡は、あくまでもそうした不在の媒介項を前提とし、痕跡が刻まれたその項が自己充足することを許さない」-差延 différance.

差延は、先送りされる。このように言語というもの は、不安定であり、言語というものは個人のあいだで意味を伝達するときに安定した媒体なのである、という常識を解体するものとして、構想されている。

差延は、1)音声言語と文字言語の間に、2)名詞と動詞の間に、3)知覚可能ものと理解可能なものの間に、4)言語と概念の間に、ある。

2)抹消

誰かの発語を引用する時、同じ言葉を使っているが、 同じ意味をもたない。それは、引用された文字が、抹消の痕跡を伴うからである。これは、発語行為とその引用と分析について、周到に慎重になるという批判の 「機能的効用」にはなるが、同時に、議論や言葉のやりとりには、抹消の抹消の抹消の抹消……という「ディスコミュニケーション」の無限後退とジレンマをひきおこす。

3)現前性の形而上学

言語の意味は、確実に把握可能であり、話したり書い たりするときに、言葉の意味は、我々の思考のなかに「現前」するので、このコ ミュニケーションは成功するという、幻想(=儚い夢)をもたらす。デリダによれば、このような現前性の形而上学を信じることは、「ロゴス中心主 義」を信じることだ。意味が完全に現前することはありえない。そのため、意味はわかりえるという考え方は、つねに先送りされてゆく。

4)レトリックと言葉の戯れとしての「言説」

哲学には文学以上に真理を語るという主張、デリダに よると、通らないことになる。そのため、哲学を知の最高裁判所(=文字通り最後の審級)に仕立て上げることはできない。(i)(ありえないあるいは実現不 可能な)真理に対してデリダは謙虚なのか?それとも(ii)最初に言った悪ふざけを人々が信じてしまった以上、悪ふざけ=嘘=虚実皮膜の冗談、を撤回する ことができず、次から次へと法螺を吹くことしかできないのか?——すくなくとも、デリダの主張と、デリダの存在のあり方からは、その両方ともが真理としか 言いようがない、ものとしてデリダの物語を伝えてゆくことしかできない。

++++

イマニュエル・ウォーラスティン (Wallerstein 1997:101)は、ヨーロッパ中心主義を支えてきた議論の方法に次の5つの方法あると言った。

++

リンク

文献

その他の情報

---------------------------------------------------------------------------
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2015-2019

Do not paste, but [re]think this message for all undergraduate students!!!