かならずよんで ね!

「桶の中の脳」

あるいは素子の義体の中に収納されている脳について

Brain in a vat, or Brain in Mokoto's Brain in the Shell

池田光穂

素子の義体について聞かされた時に、「桶の中の脳髄」(邦訳は「水 槽の中の脳」)論文の作者のヒラリー・パットナムHilary Whitehall Putnam, 1926-2016)は一笑に付すだろう?あるいは「ふむふむ、これは興味深い思考実験だ」と問題になる前提をいくつか列挙するだろうか? これまでの話 の拡張として『攻殻機動隊』の登場人物・草薙素子(くさな ぎ・もとこ)のように、大脳と 脊髄の一部のみ生体で残りは義体(「義肢」概念の延長上に造語された義身体、「ぎたい」と呼ぶ)になると、それは果たして身体性を基調とする人格(パーソ ナリティ)を持ちうるのかという議論を、ヲタどうしの議論ではしばしば耳にする。しかし、2nd GIGのエピソード11「草迷宮」(affection)にみられるように、草薙はもともともっていた少女の身体という艤装がほどこされ、さらに成長に応 じて身体化をとげた(=「立派な義体使いとなる」)と説明されているので、彼女の脳は、つぎつぎと成長してゆく身体とともにアイデンティティを形成したも のと思われる。またこのことにより、彼女は色気と戦闘的攻撃性という両極端な女性性――それはともに公安9課での秀逸な活動を保証する――を具有してい る。これはパットナムならば、素子が桶の中にいながら「生きる」仮想現実の世界を我々が見せられているのであって、素子がどう現実世界を生きているかとい うことを判断できる材料を我々は持っていないではないか?と反論を喰らうかもしれない(→「素子の義体」『人間機械論・再考』より)。

"In the field of epistemology, Putnam is known for his "brain in a vat" thought experiment (a modernized version of Descartes's evil demon hypothesis). The argument is that one cannot coherently state that one is a disembodied "brain in a vat" placed there by some "mad scientist".[15]/ This follows from the causal theory of reference. Words always refer to the kinds of things they were coined to refer to, thus the kinds of things their user, or the user's ancestors, experienced. So, if some person, Mary, were a "brain in a vat", whose every experience is received through wiring and other gadgetry created by the "mad scientist", then Mary's idea of a "brain" would not refer to a "real" brain, since she and her linguistic community have never seen such a thing. Rather, she saw something that looked like a brain, but was actually an image fed to her through the wiring. Similarly, her idea of a "vat" would not refer to a "real" vat. So, if, as a brain in a vat, she were to say "I'm a brain in a vat", she would actually be saying "I'm a brain-image in a vat-image", which is incoherent. On the other hand, if she is not a brain in a vat, then saying that she is a brain in a vat is still incoherent, but now because she actually means the opposite. This is a form of epistemological externalism: knowledge or justification depends on factors outside the mind and is not solely determined internally.[15]/ Putnam has clarified that his real target in this argument was never skepticism, but metaphysical realism.[61][62] Since realism of this kind assumes the existence of a gap between how man conceives the world and the way the world really is, skeptical scenarios such as this one (or Descartes' evil demon) present a formidable challenge. Putnam, by arguing that such a scenario is impossible, attempts to show that this notion of a gap between man's concept of the world and the way it is, is in itself absurd. Man cannot have a "God's eye" view of reality. He is limited to his conceptual schemes. Metaphysical realism is therefore false, according to Putnam.[63]" - Epistemology of Hilary Putnam.

"Metaphysical realism maintains that "whatever exists does so, and has the properties and relations it does, independently of deriving its existence or nature from being thought of or experienced."" - Laird Addis, Greg Jesson, Erwin Tegtmeier (eds.), Ontology and Analysis: Essays and Recollections about Gustav Bergmann, Walter de Gruyter, 2007, p. 107.

ヒラ リー・パットナムが、「桶の中の脳」を批判したように、それはシンギュラリティを懐疑論としてみなして批判することではなく、形而上学的リアリズム(実在 論)を批判することもできる。形 而上学的実在論とは上の説明による(→「シンギュラリティ批判 序説」)。

「〈認識論〉の講義でこの種の可能性に触れるとすれ ば、もちろんその目的は、外部世界についての懐疑論という古典的な問題を、現代的な仕方で提起すること である(あなたがこういう苦境に陥っているのでないとどのようにして知るのか?)。しかし、この苦境は、心と世界の関係についての問題を提起するために役 立つ仕掛けでもあるのだ」出典:     理性・真理・歴史 : 内在的実在論の展開 / ヒラリー・パトナム [著] ; 野本和幸 [ほか] 訳、東京 : 法政大学出版局 , 1994.9. - (叢書・ウニベルシタス ; 455)、p.8

パットナムが言うように、確かに私たちはそのように 生きているかもしれない。しかし(どのような論争/実証を通しても)そうだと断言できないというのが、 この答えの実際なのである。

「私は存在しない」ということが私によって考えられ ているのであれば、それは自己論駁的である。パトナムによると、水槽の中の脳の議論もそれに同じ (Pp.10-11)




1 アリが砂浜をなぞってチャーチル絵のよう な輪郭を描いている

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いずれにせよアリには「意図」がない—— あるいはアリの意図を触知しえない、知り得ない。
「思想形態thought formならば「それ自体で」何かを表現できるとはいったいどうしてなのか。 いや、そもそも表現できるのか。思考thought はどのようにして外在的なものにとどき、それを「把握 する」のか。」

3
・これらの点から、心は非物質的だという ふうに跳躍してよいか?——もちろんダメだろう。
・だが、心の中の思考の表現は成功しているではないか?——これが想像される最初の反論。
・思考は志向性 intentionality という特徴をもつ。
・志向性を心の非物質的根拠として持ち出してはならない。
・だが志向性は(経験的事実としてある=思考可能だ)、そのため、志向性ならびに指示がいかにして可能かを問わねばならない。
●指示の魔術説
・未開人は、表現と担い手に必然的な結びつきあると信じている——そのために、ある種の術を使えば、それを思いのままにできる能力を手にすることができる (と信じている)。

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・これを、名前と担い手の魔術的な結びつ き、としよう。
・(冒頭の)絵と心的イメージのむすびつきは、この種の魔術的力である。
・この論点の重要性を指摘したのはウィトゲンシュタインである。
・ある日、人類が宇宙船にのってある宇宙人のいいる惑星に樹木の絵を落とす。これは宇宙人が知らないものである。人間と宇宙人の思考の比較をせよ
・名前=シニフィアン
・名前の担い手=シニフィエ、と想定可能。
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・我々にとっては、現実の樹木と、その絵 のイメージの因果連鎖を思い起こせる。宇宙人はできない。
・語も同じ、猿のタイプライターの事例を出す。
・ある人が催眠をかけられ、知らない日本語を話させてているとする。その状況をみて「この人は日本語を知っていて、その意味を理解している」と説明されて も、それを疑う根拠というものは(それ以外の手がかりがない限り)ない。

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・以上のことから次のように言える→
・「ある人が、なんらかの言語で事実樹木の 記述となっている語を思考し、しかも同時に適切な心的イメージをもちながら、しかし、その語を理解 してもいないし、樹木がいかなるものなのかを知ってもいないという場合を考え出すことができる。心 的イメージがこぼれた絵の具によって引き起こされたと想像することもできる(ただし、その人は催眠 術にかけられて、それが自分の思考に適合する何かあるものの像であると思っているただ、問われ ても、それが何であるかを言うことができないだけである)。さらに、その人物が思考している当の言 語は、催眠術をかけられた人も催眠術師も一度も耳にしたことのない言語であると想像することができ る催眠術師が「無意味な文」だと思っているこれらの語が、おそらくまったくの偶然で、日本語で の樹木の記述になっているのだ。要するに、その人の心をよぎるどんなものでも、日本人が本当に樹木 のことを考えるときに心を過ぎていくものと質的に同一でありうるしかし、それは樹木を指示しな いのである」
・それゆえに、猿が偶然に『ハムレット』の本を偶然にタイプしてしまうことは、確率の問題なのではなく、論理的には不可能ではない——宇宙の存立の条件と 似たような話になる。

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・これは、魔術的な関連性とは全く関係の ない話である。
●水槽の中の脳
・水槽のなかに脳があり、それにコンピュータが接続されて、脳には完全に平常通りという幻想がもたらされると仮定せよ。
パトナムが仮想現実でも、「見」たり「感じ」るとすると言っているが、我々は、そ のような脳になれないので、この「見」たり「感じ」るというものが、不能な限り、この前提は支離滅裂である……ように見える。種明かしは次 の頁で!!!
・この仮定=過程そのものがフィクション であるが、それをどのようにさておいて、仮定できるのか?パットナムは不親切である。
・にもかかわらず、その経験は、完全に「マトリクス」の世界である(→「マトリ クス・オントロジー」)。

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・よせばいいのに、脳の外側で操作する (=マトリクスやエージェント・スミス)、脳に「経験」をおこさせるに、至っては、パトナムのこの論理の組み立ては破綻している。
・と、読者を怒らせた後で種明かしする→「それは、おもしろいけれどもまったく馬鹿げた想定で、 邪悪な科学者がいて、彼は人々の脳を身体からとりはずし、脳を生かしておくための培養液の水槽に入 れるのだ。その想定によれば、神経の末端は超科学的コンピュータに接続されており、そのコンピュー 夕によって、脳のもちぬしはすべてがまったく平常通りだという幻想を……」
・つまり、この議論は《外部世界への懐疑論》の系譜に属することを種明かしする。
・邪悪な科学者が、脳の外にいる——だが、本当にそうなのか?
・そうして、パットナムは自虐的に馬鹿げているけど、こう皮肉る:「宇宙というものは、脳や神経系でいっぱいの水槽を管理する自動機構からできているのか もしれない」
・パットナムは認識論における懐疑論だと いうが、ジジェクなら他者問題(あるいは承認の問題)だと喝破するか もしれない。ジジェクのジョークにこんなものがある:「自分の存在がミミズ(種子でもミミズでもいい)であると心配する神経症の男が精神分析医に訴える。 分析医は『大丈夫、君がミミズだと誰も思わないから、安心したまえ』とアドバイスする。でも男はさらにこう訴えかける『先生は私のことをミミズじゃないと 思っているからいいのです。問題は、うちで飼っている鶏が私をミミズだと確信しているかもしれないのです』と」
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・懐疑論の議論は続く→「自動機構が、多 くの別々で無関係な幻覚ではなく、われわれみなに集団的な幻覚を与えるようにプログラムされているものと仮定してみよう。例えば、私が自分はあなたに話し かけていると思う とき、あなたは、自分が私の語を聞いているように思うのである。もちろん、私の語が本当にあなたの 耳に届いているわけではない——というのも、あなたには(本物の)耳はないし、私にも本物の口や舌 はないからである。むしろ私が語を語り出すときに起こることというのは、遠心性のインパルスが脳からコンピュータに伝わって、私にはそれらの語を発してい る自分の声を「聞いて」いるように、ま た、自分の舌が動くのを「感じる」等々のようにさせ、一方あなたには私の語を「聞いて」いるように、 私の話すのを「見て」いる等々のようにさせる、といったことである。この場合、われ われはある意味では本当にコミュニケーションをしている
・したがって、「ある観点からすれば、「全世界」が集団幻想だったとしても何の問題もない」
・面白いジョーク:「(もちろん、われわれがただの会話をしている二人ではなく、情事のさなかの恋人二人だとしたら、おたがいが水槽の中の脳でしかないと いう指摘は愉快なものではないかもしれないが)」
・この思考実験を「本物の哲学」に誘う議論としては、これを本当のこととしてうけいれよ、という前提である。
・本当にコミュニケーションしていること が、我々の感覚経験の「確信」から由来するものであることを主張している点で、この箇所は重要である。
・「水槽の中の脳」というのは、失望のレトリックを形成している。あるいは、心身一元論の理想のディストピアとして。
・これを本当のこととしてうけいれよ→キリスト教の神義論に近く。あるいは「聖書的事実」の取り扱いについて。
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・本当にそうだったら、水槽の中の脳は、 (「水槽の中の現実」という真実の姿を含めて)そうした脳であると信じれるのか?という問いである。
・それに対するパトナム先生の、答え(の予告)は「ノー」である。
・「つまり、われわれが現実に水槽の中の 脳だという想定は、それがどんな物理法則にも反せず、われわれが経験してきたあらゆることと完全に 整合的であるにもかかわらず、けっして真実ではありえないと論じるつもりである。それはけっして真 実ではありえない。なぜならそれは、ある仕方で、自己論駁的だからである
・現代論理学のある定理、〈スコーレム=レーヴェンハイムの定理〉とLW『哲学探究』との関連性
・自己論駁的な想定=それが真であることがそれ自身の偽であることを含意するもの
・すべての一般言明は偽であることを想定せよ。もし、これが真なら、偽でないとならない。
・心に抱いているという想定が、そのテーゼの偽であることを含意する時にも自己論駁的なものになる。
・私は存在しないという、私も自己論駁的である。デカルトの主張はこうだ。自分自身が存在することを、その時に考えている限りは、その人はその信念( cogito ergo sum)を確信することができる。
・このパトナムのひねりはすばらしい。つ まり、仮想現実の姿を想像するのではなく、仮想現実のほうから反仮想現実の姿を想像できるのか?という問いを立てて、議論するのである。
・「レーヴェンハイム–スコーレムの定理」=「レーヴェンハイム–スコーレ ムの定理(英: Löwenheim–Skolem theorem)とは、可算な一階の理論が無限モデルを持つとき、全ての無限濃度 κ について大きさ κ のモデルを持つ、という数理論理学の定理である。そこから、一階の理論はその無限モデルの濃度を制御できない、そして無限モデルを持つ一階の理論は同型の 違いを除いてちょうど1つのモデルを持つようなことはない、という結論が得られる。」ウィ キペディア
11
・「この想定(=私の脳は水槽の中に存在 する)が真であるか偽であるかについて考えることができるならば、この想定は真でない(ということをあとで示す)。したがって、それは真ではない。」
・「これまで認めてきたよう 覚を持つ存在者がすべて水槽の中の脳であるような世界が存在しても、それは物理法則に抵触しない。 哲学者たちの言い方を使えば、感覚のある存在者がすべて水槽の中の脳であるような「可能世界」は存 在する(この「可能世界」という言い方は、どんな馬鹿げた想定でも、それが真となる場所があるかの ように聞こえて、そのため非常に哲学上の誤解を生みやすい場合がある)。その可能世界の人間たちの 経験することはじ五ね江の経験と正確に同じである。彼らはわれわれと同じ思想を思考する(少なくと も、同じ語、同じイメージ、同じ思想形態等々が、彼らの心を行き過ぎる)。それでもなお、われわれ が水槽の中の脳ではないことを示す議論が存在し、それを与えることができると私は主張するのである。 どうしてそんな議論がありうるのか。そしてまたなぜ、本当に水槽の中の脳であるその可能世界中の 人々は、同じ議論を与えることができないのか」
・「答は(基本的には)次のようなことになろう。その可能世界の人々は、われわれが 考えることや言う ことのできるどの語も、考えることや「言う」ことができるにもかかわらず、われわれが指示できるも のを指示することができない(と私は主張する)のだ。とりわけ、彼らは、自分たちが水槽の中の脳で あると考えたり言ったりできない(「われわれは水槽の中の脳である」と考えることによってさえも きない)のだ。

12
●チューリングのテスト
・このテストの妥当性について異論があるのは知っているが、パットナムの関心は、「対話による言語能力テスト」を「指示という観念の探究」の目的をために流用することである。
・チューリングテストは合格したら「思考 している=意識をもつ」とみなしてもいいという「判別」(=世俗的判断)であり,思考=意識とは何かについて定義(=神学的判断)から始めていないことに 気づいた.だからこのテストへの批判は真偽ではなく役立/立たぬで判別すべき。
・今のAIの議論はチューリングテストを是認していないと、AIに振り回されている現実を説明できない。
13
・「話し相手が本当は人間なのか機械なの かを決定することが問題なのではなく、話し相手が語を用いてわれわれと同様の指示を しているかどうかを決定することが問題である場合を想像せよ」
・対話相手を(機械でも人間でも交換して)同じ人であると結論づけたら、「その人であるという指示」は同値になる。これを〈指示についてのチューリング・ テスト〉と呼ぶ。
・この答えは「否」である。論理的に不可能ではないが、その人である真偽は、その人と確かめるまでは、判別ができない。(=意識があるという一般的次元に 還元できない)

14
・チューリングは、感覚器官と運動器官を 「意識をもつ」という条件に含んでいない。

15
・チューリングマシーンは、外部を認知す るという機能をもっていない。

16
・砂浜のアリは、同じ曲線を描く可能性は ある。だが、機械の場合は、その平行的な議論をすることができない。
・感覚器官を持たないチューリングマシーンは、外界に、リンゴや野原が「あり続ける」ということに全く無自覚である。つまり、機械には指示機能がない。
・イミテーションゲームをしている以外のことは何もしていない。それは指示をしないのである。

17
●水槽の中の脳(再論)
・(同じような論法で)水槽の中の脳はなんらかの、外部の樹木を指示することができるのか?


18
・それでは映画「マトリクス」のように、 すべての思考する存在の脳が水槽に存在することができるのか?これに関しても答えはノー。
・語というものは、なにものも指示しているわけではない。
・プログラムが、言語体系を非言語的な入力と出力に結びつける、その仕方が不可欠だ。

19
・自動機械の感覚与件は、外在的な(リアル)なそれを表現することはない。
・感覚与件、遠心性末端への運動信号、言語ないしは概念的媒介された思考が、ひとつの体系をなす——それぞれのファンクションに分割できない。
・「水槽の 中の脳の思考と現実世界の中の誰かの思考とが質的に類似していること(質的に同一であることとほぼ 同然だと言ってよい)が、けっして指示が同じになることを含意しないということがいったんわかれば、 水槽の中の脳が外在的なものを指示しているとみなすいかなる根拠もないことを理解するのは困難ではない」

20
●この議論の諸前提
・これまで外堀を埋めてきたので、これから本丸=議論の構造へ入る。
・目の前に樹木があることを、これは揺るぎない事実。

21
・「彼らの「可能世界」が本当に現実の 世界であって、われわれが本当に水槽の中の脳であるならば、そのときわれわれが、「われわれは水槽 の中の脳である」で意味しているのは(いやしくも何かを意味しているのだとすれば)、われわれはイ メージ中の水槽の中の脳であるとか、何かその種のことだということが帰結する。しかし、われわれが 水槽の中の脳だという仮説の一部には、われわれがイメージ中の水槽の中の脳ではないということが含 まれている(すなわち、われわれが「幻覚している」のは、われわれが水槽の中の脳だということでは ない)。したがって、もしわれわれが水槽の中の脳であるならば、そのとき、「われわれは水槽の中の脳 である」という文は、(それが何かを言っているのだとすれば)何か偽であることを言っているのである

22
・「われわれが水槽の中の脳であるような 「物理的に可能な世界」は存在する——このように言うことは、 物理法則と両立しうる、そうした事態についての物理法則と両立しうる記述が存在するということ以外 に、何を意味するというのだろうか。われわれの文化には、物理学をみずからの形而上学だとする傾向、 つまり、精密科学こそがながく待ち望まれていた、「真にして究極的な宇宙の構成」の記述であるとみ なす傾向がある(そしてまた、十七世紀以来ずっとそうだった)。そこでその直接の帰結として、「物理 的可能性」を、何が現実に成り立っていることでありうるのかということについての、まさに試金石で あると考える傾向がある。そうした見解では、真理とは物理的真理であり、可能性とは物理的可能性で あり、必然性とは物理的必然性である。しかし、先にわれわれが見てきたのは、たとえこれまでは非常 にわざとらしい例の場合でしかないとしても、この見解は間違っているということである。われわれが 水槽の中の脳である(これまでずっとそうであったし、これからもそうであろう)「物理的に可能な世 界しが存在するということは、われわれが、本当に、現実に、もしかしたら水槽の中の脳であるかもし れない、ということを意味しはしない。この可能性を斥けるものは、物理学ではなく、哲学である」

23
・「われわれがやってきたことは、何かに ついて考えること、何かを表現すること、何かを指示すること 等の前提条件を考察することである。これらの前提条件を、これらの語や句の意味を(例えば言語学者 がするように)研究することによってではなく、ア・プリオリに推理することによって研究してきたのである」
・私=パットナムの手続きは、カントの「超越論的」研究と関連性をもつ。
・経験的な仮定から完全に独立しているわけではないが、心の本性に内蔵された前提条件の研究。

24
●表現とその指示対象との必然的な結びつ きを否定する理由
・心に志向性を与える学者=ブレンターノ

25
・概念は知覚できるわけではない。
・語、イメージ、感覚、感じは、つかめる。
・自分が理解していることの発語と、理解していない発語の違いがわかる。
・他方で想像不可能なことはなにもないとも思う。
・「そして、このことが示しているのは、概念は語(ないしはイメージ、 感覚等々)であるということではなく、むしろ、「概念」や「思考」を誰かに帰属させるということは、 彼に心的な「表現」や任意の内省可能な存在者や出来事を帰属させることとはまったく異なる、ことなのである概念は、外在的な対象を本来的に指示する心的な表現ではない。それは、概念はそもそも心的な表現[表象]ではないという、まさに決定的な理由による」
(好意的に理解するとダマシオみたいなも のか?——嘘や自分がわからないことをわかっているように話すときには、帯状回かなにかが働いて)情動がアラートを鳴らすように。
・ポイントは「概念は、外在的な対象を本来的に指示する心的な表現ではない」か?(「概念は指示しない」テーゼ)
26
・ニレ(楡)とブナ(橅)の違い
・双子地球の思考実験

27
・文を適切な仕方で意味の定義をする能力をもっていない人がいる(=言っていることがわからない人のことか?)

28
・「文を使用する能力」
・『哲学探究』

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・心的な出来事は理解を構成しない。心的な出来事は、理解にとって必要なものではない。
・大切な能力は「適切な語を理解していること」
・概念は能力であって生起するものではな い。
・「外在的なものを必然的に指示する心的表現(表象)が存在するという教説は、単に悪しき自然科学であるだけではない。それは悪しき現象学であり、概念の 混乱でもある
・大切な能力である「適切な語を理解していること」は、人工知能には、確かめることができない。
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◎AIと信仰について

僕は、身体を持たない人に、どんな宗教経験も不可能 だという立場の人間です——言い換えれば信仰は心でするもので頭でするものじゃない。したがってどんなに計算できてもAIに信仰を説くことは鰯の頭に信心 を説教するよりも難しいと思います。だから、草薙素子タチコマは身体をもっている間には、集合表象を感じることができます。

「タチコマを思考させる源泉は「広大なネット」(草 薙やバトーのクリシェ)なのだが、同時に、タチコマが固有の身体をもつことは重要あるいは不可 欠なのである」タチコマ問題

資料

デカルト第一省察より

「そこで私は、真理の源泉たる最善の神ではなく、或 る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形体、音、その他一切の外物 は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何らの感官も有しないもので、ただ間 違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。私は堅くこの省察に執着して踏み留まろう。そしてかようにして、もし何か真なるものを認識するこ とが私の力に及ばないにしても、確かに次のことは私の力のうちにある。すなわち私は断乎として、偽なるものに同意しないように、またいかに有力で、いかに 老獪であろうとも、この欺瞞者が何も私に押しつけ得ないように、用心するであろう。しかしながらこれは骨の折れる企てである、そして或る怠慢が私を平素の 生活の仕方に返えらせる。そのさまは、おそらく夢の中で空想的な自由を味わっていた囚われびとが、後になって自分は眠っているのではないかと疑い始める場 合、喚び醒まされるのを恐れこの快い幻想と共にゆっくり眠りつづけるのと異ならないのであって、そのように私はおのずと再び古い意見のうちに落ち込み、そ してこの睡眠の平穏に苦労の多い覚醒がつづき、しかも光の中においてではなく、かえって既に提出せられたもろもろの困難の解けない闇のあいだで、将来、時 を過さねばならぬことのないように、覚めることを怖れるのである」デカル ト『省察』三木清訳、青空文庫.

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リンク(形而上学的実在論論駁)

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その他の情報

Maya_Abeja

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2019

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