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Matrix Ontology: A fragment

(断片)

マトリクス・オントロジー

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池田光穂

5.2 現実性〈対〉仮想性の二元論:マトリクス三 部作について(承前)

ウォシャウスキー兄弟の監督になるいわゆる「マトリクス三部作」すなわち"The Matrix"(1998), "The Matrix Reloaded"(2003), "The Matrix Revolutions"(2003) は非常に奇妙な映画である。にもかかわらず多くのSF映画ファンを魅了してきており、金字塔と評する熱心なカルトファンも多い。その魅力はそれまでのSF 映画が自己主張していたエージェントやギミックの魅力よりも「現実」と「仮想現実」を対等に並置し、主人公がその往還をおこない自己探求するというダイナ ミズムにあるように思われる。人類学者にとって民話・神話・インフォーマントの語りなどのいわゆる口頭伝承が、当該文化や社会の分析にとって重要な資料と なったり、当の社会の人びとが「考えるのに適している」ためにこのような口頭伝承をさまざまな行動を誘発させる原動力としていることをみても、マトリクス 三部作についてそれを題材として取り上げることは僅かばかりでも意味のあることだと思われる。本節ではその梗概(シノプシス)を述べてみよう。

会社員のプログラマーであるトーマス・アンダーソ ンは天才ハッカー(クラッカー)「ネオ」の異名をもつ別の顔をもっているが、後に恋仲になるトリニティ の導きによりモーフィアスと出会う。モーフィアスやトリニティたちのよると、アンダーソンが生活している世界はコンピュータネットワークによって作られた 仮想現実の世界であり、「本当の現実世界」は機械が人間を支配下におきネットワークに繋げているという。その中で最後の抵抗をする「生身の人間たち」はザ イオンという地下世界の片隅で、船(シップ)と呼ぶ船を駆使してネットワークコンピュータを攻撃する遊撃戦下にあった。しかし機械世界はセンチネルという 蛸のようなロボットをザイオンに派兵して最後の殲滅戦を仕掛けていた。

ネオはトリニティらと共にモーフィアスの指揮のも とにある人間の遊撃隊に加わり、その抵抗運動に加わる。シップに乗り込み遊撃隊員たちは身体の部分に埋 め込まれたジャックに接続されてマトリクスの仮想現実の世界に潜り込む。そこではエー ジェント・スミスというプログラム(personification of the Program, Agent Smith)が潜りこんだ人間のプログラムとマ トリクス内で作動しているプログラムを恭順させ、反抗的なものに対しては同化するという支配を敢行していた。このような世界観と2つの世界の間の移動につ いて当初理解できなかったネオであるが、モーフィアスたちはネオが「救世主」であることを予感し、ネオを仮想世界に共に「連れ戻そう」とする。逡巡しなが らもネオは彼らとともにマトリクスの世界に「戻る」。

他方、マトリクスの世界はただひとつのコンピュー タプログラムが一元的に支配する世界ではなく、さまざまな「人間=エージェ ント=プログラム」が住まう 世界でもある。そのマトリクス世界の中には、反抗勢力である「人間=エージェント=プログラム」が存在する。その中の中心的な存在であるオラクルは、マト リクス世界では普通のおばさんであるが、個々人の占いのみならず世界の未来の趨勢の予知能力をもつ。彼女はネオたちに、マトリクスの仮想現実の世界は機械 =コンピュータが作りかつ支配する世界だけではなく、より広大な精神世界の一部であることを告げる。そこで、ネオはモーフィアスが言う単なる予言者なので はなく、予めプログラムされ救世主になることを予定された「存在」であることを、オラクルの予言などから明らかにされる。

そこでは、またザイオンもマトリクス世界と敵対す るだけの抵抗拠点=社会=コミュニティという実体ではなく、マトリクス世界を破局から救うために「アー キテクト」によって作られた存在であるというのだ。オラクルの予言によると、ネオもザイオンもアーキテクトによって予定されたプログラムだというのであ る。そこでネオは「現実世界」の親しい人たち(=ザイオンの住人)を武力闘争を通して共に闘うか、人類一般を救うためにマトリクス世界の改変にコミットす るかの選択を迫られる。しかし「現実世界」では、無数のセンチネルがザイオンに向かいつつあった。

三部作目の"The Matrix Revolutions"(2003)のスートリーは複雑なので、ここでは私の議論に必要な内容の概要だけを要約する。ネオはネットに潜ったままだった が、その場所はマトリクス(ソフトウェアが走っている世界)とソース(メインフレーム)の境界上のであるモービル・アヴェーニューという地下鉄の駅にい る。そこでインド人風の夫婦と小さな女の子サティーに出会う。この境界世界はメロビンジアンとその従者トレインマンに支配されている。モーフィアス、トリ ニティらはネオを救済するために駅に侵入するがトレインマンに阻まれる。メロビンジアンはネオを幽閉しているが、モーフィアスらはネオの解放を要求する が、メロビンジアンは「予言者の眼」をかわりに要求する。他方、ネオは予知能力を獲得しつつあり、未来の幻影を観ることができるようになっていた。予言者 はネオに、そのような力の関係や複数のスタンドアローンになりより力をましたスミス(元のエージェント・スミス)について説明をした。

ネオがいなくなったところに闖入したスミスは、予 言者と(プログラム的に)同化し予言者の能力もまた獲得するようになった。他方、現実世界にもどったネ オはさまざまな交渉を経て、自分の予知能力に従って船に乗り込み「マシーン・シティ」にトリニティとともにのりこんでゆく。しかし船内にはすでにスミスに 同化されていた乗組員ベインが潜んでおり、ベインはトリニティを人質にし、最終的にネオの眼を焼き彼は盲目になる。しかしながらさまざまな能力をつけたネ オは最終的にトリニティを解放し、ベイン(=スミスの代理・分身)を打倒することに成功する。彼らはマシーン・シティに向かう。

途中トリニティの死を経験するもようやくマシー ン・シティに到着したネオはマトリクスの中枢にあるデウス・エクス・マシーナ——このジョークとしか思え ない「存在の名前」は興ざめするめに当然のことながら映画のなかでは明示されない——と対話する。その中でネオはデウスと交渉し、スタンドアローンになり マトリクスの意思とは関係なしに行動しはじめたスミスを打倒することを条件にデウスは機械と人間のあいだの和平すなわちザイオンへの侵攻を中止する約束を とりつける。

しかしながら仮想世界と現実を往還する能力をもつ ようになり強力にパワーアップしたスミスの前にネオは倒されてしまう。驚喜するスミスであったがオラク ルを同化した時に手に入れた予言者の眼で目の前に繰り広げられていることは、スミス自らがネオに対してオラクルの予言の言葉を掛ける「始まるあるものには 終焉あり、ネオ」と。その時にスミスはすべてがオラクルの罠であったあることに気づきつつ消滅(デバッグされて)してしまう。

仮想現実の世界にシーンが転回し[人格化された] アーキテクトと予言者が登場する。予言者はアーキテクトと対話し、マトリクスから人間が解放されたこと を宣言する。なぜならマトリクスはこの段階でヴァージョンアップを遂げることができ、人間だけが「唯一のエネルギー」ではないことが明らかにされる。サ ティとセラフ(「翼のない天使」)が予言者オラクルのもとに歩み寄る。そしてマトリクスは新しい夜明けを迎える。

■ハリウッド映画におけるオントロジー

単純なオントロジー(存在論)とエピステモロジー (認識論)の図式で理解可能である。例えばハリウッド映画の『ブレードランナー』は1つ、『マ トリクス』は2つ、世界がある。

5.3 マトリクス・オントロジー

アマゾン先住民のパースペクティヴィズムにおける多自然主義とは、複数の動物種からなる世界がそれぞれ独自の価値観をもって存在するということであっ た。この発想を先に紹介した映画『マトリクス』に適用してみるとどうなるであろうか。

アマゾン先住民の世界は、人間が動物を眺めてそれ を狩猟してたんぱく質資源として利用しているように、動物(例:ジャガー)もまた人間を対象化する時に 対称化した世界の住民であり、人間を食べたり相互作用をもつ独自の存在である。

他方、マトリクスの世界では、人間の対応物はネッ トワークに住まうコンピュータソフトウェアでありそれらは人格化されている。またコンピュータソフト ウェアはソースを媒介とするメインフレームコンピュータを必要とするために、ちょうど人間とコンピュータが接続するために脳=機械インターフェイス (Brain-Machine Interface, BMI)を媒介としてようやくシームレスな存在になるように、コンピュータもまたソフトマシーン(プログラム)とハードマシン(メインフレーム)は結びつ いている。

マトリクスが映像の消費者に見せる世界構造は多少 複雑であり、そのことを理解するためには、人間が現実(ほんもの)だと思っている仮想現実と、本当の真 の現実がある。ちょうどティム・インゴルド(Ingold 1991,1996)が自然を「真の自然」と「文化的に構成された自然」と区分したように「世界の有り様」を2つに区分することが重要で、パースペクティ ヴィズムの観点から「現実の真の世界」の相対化の手続きが必要になる。

すなわち人間はマトリクスがつくった仮想現実の中 で作動させられているコンピュータプログラムに他ならず、マトリクス世界では、エージェントという本物 のプログラムが存在し、それらはまさに人間の姿の衣装を着ている存在に過ぎない。これが人間がほんものだとおもっている仮想世界すなわち「マトリクスに よって構成された世界」がある。「ネオ」すなわちサラリーマンのアンダーソンは本物だと思っていた世界のなかでのアンダーグラウンドのハッキングの天才と の呼ばれていたところに、「真の人間が住む世界」からやってきたモーフィアスやトリニティとの遭遇により「真の人間が住む世界」に引き戻される。「真の人 間が住む世界」では人間は機械=コンピュータプログラムによってネットワーク化されているので、身体のなかにさまざまな情報コンセントをもつことで可視化 されている。しかしながら「真の人間が住む世界」とは、マトリクスの支配から逃れ、ザイオンという地下世界に残された最後の抵抗拠点から、覚醒した遊撃戦 の戦士をジャックインすることで、マトリクス内に進入し、敵の背後から攪乱戦を挑んでいるのが現状なのである。

モーフィアスはマトリクス世界のアンダーソン(ネ オ)は救世主であることを信じ、彼を「真の人間が住む世界」に引き戻し、マトリクス世界での最終的な戦 闘行為に付かせようとし、またネオ自身もそのことへの自覚をしてゆく物語である。

しかしこのような描写はマトリクスの2つの世界現 実(worlds realities)からみると人間中心主義の見方にすぎない。もちろんマトリクス側(あるいはそこで世界を動かすエージェントたち)からみれば、現実に 覚醒して不要な遊撃戦を挑む「正規のマトリクスネットワーク」に接続されていないスタンドアローンの人間の遊撃戦兵士ならびにザイオンの人間はゆゆしき問 題であり、それゆえにマトリクス世界はセンチネルと削岩マシーンをザイオン世界に送りこんでスタンドアローンの人間の殲滅戦を挑む。つまり両者の間には戦 争状態が存在する。

覚醒した人間たちからみればマトリクス世界のコン ピュータプログラムは人間の存在を脅かす存在であるが、逆の立場からみると、覚醒した人間たちはマトリ クス世界の安寧を脅かす存在すなわち反逆するパラサイトあるいはコンピュータウィルスのような存在である。それらがマトリクス世界では一見人畜無害にみえ る予言者オラクルらの助言にもとづいて不穏な動きをする。つまり、マトリクスという機械=プログラムの世界からみれば、抵抗する人間はマトリクス世界の秩 序を乱すだけではなく、その秩序そのものを転覆しようとする危険な存在なのである。

マトリクス世界からみるとその防御プログラム—— 生体であるなら免疫のような存在——であるエージェント・スミスは、ネオやモーフィアスを追求するのみ ならず「マトリクス世界の秘密」を知る予言者オラクルなどを捜索取り調べをするうちに、システムの中で防御プログラムを適正に作動する存在から次第にオー トマトン的な暴走をしはじめる。

マトリクスの映画自体は、暴走したスミスをネオが 最終的に破壊することで、最終的に機械が人間を必要としなくなり、すなわちザイオンの人間を殲滅する必 要がなくなり、マトリクスそのものがヴァージョンアップを遂げることで、急展開をとげて——文字通りデウス・エクス・マシーナの登場により——物語は終焉 してしまう。つまりマトリクスの基本的モチーフである人間と機械(コンピュータプログラム)が相互にいがみ合い共存できず、お互いの片方が消滅するまで闘 う一種のマニ教的世界観に支えれていたので、その必要がなくなる時、和平が到来するという唐突な終わり方をする。

パースペクティヴィズムからみたマトリクスが私た ちに与える第1の世界観は、人間にとって機械(コンピュータプログラム)はそれが融合する時に機械は人 間にとっての飼い慣らされ人間に有益性をもたらすものでなければならないというものである。他方、コンピュータプログラムはからみる第2の世界観では、人 間がマトリクスのシステムを維持永続させるために奉仕をつづける限り人間は機械にとって良い存在であるが、人間が自律性をもち人間中心主義を主張するとそ れはシステム全体にとっては脅威になることを意味する。つまり後者の世界観では、マトリクスの存在を自覚し、またシステム全体の根本的変革を野望する者 ——「人間の救世主」と呼ばれる——ものは、システムにとって病気あるいはシステムに巣くい、かつシステムを利用しシステム全体を崩壊に至らしめるウイル スにほかならない

このように考えることはヴィヴェイロ・デ・カスト ロのパースペクティヴィズムに対する紋切り型の反論にあるように、それはただ単に認識論の相違——つま りこちら側とあちら側からみれば善悪の基準が逆転している——のみを示唆し、存在論的な批判を持ち得ていないようにも覚える。

しかし、先に述べたように第1の存在論と第2の存 在論は根本的に対立をなし、それぞれ人間と機械のエージェントが相互に浸透し、マニ教的世界観のもとで 両者は殲滅するまで侵入と攻撃を繰り返すための「生存競争(struggle for existance)」が永続するという点では、まさに生と死をかけた存在をめぐる闘いが繰り広げられており、認識の違いを理解するだけでは、和平などを 導くことは論理的に不可能な世界にほかならない。

マトリクス三部作の分析を通して私は、パースペク ティヴィズムの観点を取れば機械=人間システム(Machine-Man System)の宿主である機械(コンピュータプログラム)にとって人間がそのシステムそのものへの脅威となるウイルスになるという視座であり存在の様式 をとることになる可能性について気づいた。たしかに機械のシステムに比べれば、人間は誤りを犯しやすく、また意志という余計なもの、つまり機械からみれば 「無用のノイズ」をもつことになり、それが宿主にとってダメージをもたらさないものあればまだしも、システムの致命傷になるように「進化」すれば非常に厄 介である。このシステム(機械)がもつ恐怖心——思考実験であるが未来の機械は恐怖をももつように「進化している」かもしれない——は、今日の人間どもが 経験している豚インフルエンザウィルスH1N1が「現在のところ弱毒化」のままだが、DNA/RNA——このウイルスは一本鎖RNAなので逆転写酵素を用 いて宿主(動物)の中でDNAを複製し、かつ増殖するプロセスの中で変異して強毒化する「可能性」をもつ——が突然変異を及ぼして、高病原性鳥インフルエ ンザ(H5N1亜型ウイルスはそのひとつ)のような高い致死率をもたらすかもしれないという影響力のある疫学者およびウィルス学者の発言と政策決定により パニックのにより、「こちらの世界」ではすでに経験済みのことである。つまりアマゾンの先住民のみならず、西洋近代社会のなかにもパースペクティヴィズム が生起している可能性はあるということだ。

にもかかわらず、マトリクスにおいても、豚インフ ルエンザの社会的パニックにおいても、このマニ教的世界観が支配しているが、なぜ西洋近代社会のなかの パースペクティヴィズムは、このような恐怖のシステム——タウシグの言葉を借用すれば"Nervous System"(神経系の意味だが「いらいらや不安を生起させるシステム」とも受け取れる)——しか見えてこないのだろうか? そしてそれ以外の可能性は ないのだろうか? これらのことを検討するためには人間と人間にとって「融合」したり「寄生」しているものについての洞察が必要である。

【用語解説】

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Ongpatonga, Chief of the Omawhaws - S.G. Morton, Crania americana, 1839