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機械の論理性/機械の非論理性

logicality and illogicality of Machines

池田光穂

次の文章を読んで、ミンスキーが批判する、市井の人 が機械を「論理的なもの」だと思い込んでいる誤謬を、みなさんの経験から、具体的な事例をあげて検討してみよう。

ミンスキーは、人間も合理的なものじゃないではない か、と言って、自分の所論を正当化しているが、ミンスキーの論法におかしなところはないか? 批判と擁護について考えてみよう!

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機械は論理的でなければならないか?
(マービン・ミンスキー『心の社会』安西祐一郎訳、東京:産業図書)

「機械が思考できるとすれば完全な論理に基づいて思考しなければならない、と私たちに信じ込ませた、あの古びた議論は、どこが間違っているのだろうか。私 たちは、機械という機械は、その性質上、一定の規則に従って動くものだ、と教えられてきた。また、どんな機械でも、教えられたとおりのことだけを正確に実 行することしかできない、とも教わってきた。さらに、機械は量的なものしか扱えず、質的なものとか類推のようなものは扱うことができない、とも聞かされて きた。


こうした議論の大部分の混乱の原因は、エージェントとエージェンシーを誤ってごっちゃにしてしまったことに基づいている。たとえば、機械を設計したり製作したりすると きには、その機械のはたらきはよくわかっている。設計のしかたが、よく整理された論理的な原理に基づいている場合、私たちは、得てして、その機械のふるまい もまた、同じように、よく整理された論理的なものだと期待してしまう、という誤りを犯しがちである。この誤りは、機械の内部で何が起こっているか、つま り、機械がどうやって〈動くか〉ということと、外の世界でのふるまいがどう見えるかを期待することとを、混同してしまうことからきている。機械の各部分が どう動くかを論理的な言葉で説明できるからといって、それに伴う活動自体を、そのまま簡潔で論理的な言葉によって説明できるとはかぎらない。いつも勝つと はかぎらない〈チェス指し〉機械は不良品である、と言ったのは、エドガー・アラン・ポーであった。ポーによると、それが本当に機械といえるのなら、完全に 論理的であり、したがって決して間違いはしないはずだ、というのである。この言い方は、どこが誤っているのだろうか。その誤りは、単に、非論理的な推論を 記述するのにどうしても論理的な言語を用いなければならない、という誤った考え方からきている。確かに、機械が教えられたことしかできないというのは、あ る程度までは本当である。しかし、思考のはたらきがわかれば、思考する機械を設計することは不可能ではないのである。

ところで、私たちの日常生活で論理が実際に用いられるのはどんなときであろうか。一つは、自分の思考を簡潔にしたり、要約したりするときである。また、他 人に自分の主張を説明したり、その主張が正しいと説得するときにも用いる。さらに、自分自身の考えを定式化し直すのにも用いる。しかし、私たちが、実際に 問題を解くためとか新しい考えを〈得る〉ためによく論理を用いる、というのは、どうも疑わしいと思う。むしろ、私たちのやっているのは、論理以外の方法で 自分の主張や結論を構成したり発見した後で、論理的な言葉で主張や結論を定式化することである。私たちは、主張や結論を構成した後ではじめて、言語をはじ めとする形式的な推論を用いて〈ものごとをすっきりさせ〉、初めにあった、スパゲッティの塊のようなもつれた思考の中から、基本的な部分を分離するのであ る」。(以上、294ページ)

「論理が後になってから出てくるのはなぜか、ということを考えるために、前に述べた、生成—テスト法を用いて問題を解くという考え方を思い出してほしい。 このようなプロセスでは、論理は、推論の単なる一部分でしかない。つまり、論理は、私たちが妥当でない結論にはまってしまわないようにチェックする役割を 果たしているが、どんな考えを作り出すべきか、またどんなプロセスや記憶を利用すべきかということは、教えることができない。論理が私たちの思考を説明で きるという言い方は、文法が私たちのしゃべり方を説明できるという言い方と、似たようなものである。つまり、論理も文法も、文章がちゃんと作られているか どうかを教えることはできるが、どのような文章を作ればよいかということは教えられないロ知識と意図とが密接に結びついていないと、論理は狂気へと向かっ てしまい、知能へは導かれない。つまり、目標のない論理体系は、たとえば次に示すような、正しいけれども的外れのことを、次から次へと果てしなく生み出す だけなのである」。

AはAを合意(imply)する。
Pであるか、またはPでない。
Aは、AまたはAまたはAを含意する。
4が5ならば、豚は飛べる。

(以上、295ページ)

リンク

文献

出典:Minsky, Marvin Lee, The society of mind, Simon and Schuster (1986) 『心の社会』安西祐一郎訳,産業図書(1990)


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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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