人間と動物の関係性に関するメモランダム
"Animal & Human" In Miscellaneous informantions
Eugene Dress, Vassal Nijinsky, "La dance simoise" des Orientates, 19 juin 1910./ Albert Peignot, Radiographie d'un volatile, 1896, Leon Vidal
解説:池田光穂
「つねづね私は文学を、認識のための探究というように考えつけているものですか ら、実存の領域を動きまわるためには、それを人類学や、民族学や神話学にまで拡大して考える必要があるのです」——イタロ・カルヴィーノ『アメリカ講義』 岩波文庫61ページ(→「人間と動物の関係性に関する文化人類学的考察」)
寓意 ・人間は風評を食い物にする動物(寓意2)「地球温暖化対策に役立つなどとして、原発を再評価する「原子力ルネサンス」の動きが世界的に活発化していた が、この動きにも、ブレーキがかかる可能性がある。ただ、中国やインドは原発建設計画に、変更はない」スポーツ報知)
寓意 ・人間は風評を食い物にする動物(寓意1)「安全性を売りに、官民一体となって新興国への原発売り込みを行ってきた。だが、この事故で“神話”は崩壊」ス ポーツ報知)
人間と動物の区分は曖昧 ・比較宗教学という観点からみて、霊と物質というものの区分が難しいように、霊や物質などの〈媒介〉を想定すると(あるいはそのような文化的説明が給備さ れていると)人間と動物の関係の区分というものも、難しくなる。と同時にすぐに気づくはずだが近代科学は宗教的思考の変形であることも明確になる(→「動物と人間の自然誌」「動物学者と動物の科学民族誌」)
・語る人称 アイヌ神謡における人間以外の動物や事物の一人称性がとてもユニークで気になるにゃ〜♪(もちろん観点主義をとる我々の同胞としての先住民の文化的独自性 からです)
・何を問題にするのか 動物に心があるかどうか?[権利があるかどうか]というナンセンスな審問の数十年前に、動物の行動から内面(=心)のメカニズムを解明しようとする動物心 理学という研究が始まっていることについて気付かなくちゃ〜♪
・古くなったグリフィンの問題設定 グリフィン『動物の心』もう古くなった(過去のもの?)が、心のミニマムな定義の提唱をしている。だが冷静に考えれば、動物に心を認めたいためのミニマム 化じゃねぇの?という批判にどのように応えるのか?だから心の中身ではなく平等な配慮という功利主義的原理から攻めたシンガーは古典になったのだ
・動物の存在論から動物の身体論へ〜♪(169頁)
・確かに南北アメリカ大陸の先住民は、更新世 Pleistocene[大型動物相]大虐殺の実行者である可能性が高いにゃ〜♪ (レヴィ=ストロース 1990[1985]:217)
→これには反論がある。気候変動による食物不足から動物の絶滅という主張がある。このことを紹介したダンバーによると、最近のコンピュー
タ・シミュレーションなどにより気候変動説をより精緻にできるという[別の箇所で指摘している、彼によると単一原因で説明しようとすることは、多くの場合
で失敗すると、進化学的に妥当なラインがあることを示唆](ロビン・ダンバー『友達の数は何人』インターシフト、142ページ)。
・ロシアのダライラマ14世のドキュメンタリーの前半の語りは、ほとんどが空の哲学にもとづく「事物の相対性」について彼が非常に屈託なく笑い ながら話すのだが、そこで撮影チームに見せられるビデオがなんと!「動物の生態」を延々と映したもの〜♪(動物の身体性/内面性は、内省的考察に不可 欠?)
・今日の日経新聞!私の履歴書の横の文化欄。もと医科研の職員の方の動物園のパンフのコレクション記についての興味深いエッセー。すでに2千件 上の資料をもっている。俺達の研究とも深く関わるので記事に釘付けになったのだがその趣味にいたる来歴も興味深い〜♪
エヴェンキの狩猟動物関する取り扱い方=道徳を追加(下記の====以下の)しました〜♪ >> 僕とシャーマニズムと動物と http://bit.ly/eXJxG8
・セクシストのこんこんちき野郎と言われるかもしれませんが「女性は自足する動物」だとつくづく感じますわ〜♪ (したがってこの命題の相補的なものは「男性は自足できないカタワ[R・ニーダム的には片側だけの]動物」ということですが_そしてゲイはそれらの微妙な 組み合わせのヴァリエーション)
シャーマニズムと動物:http://d.hatena.ne.jp/mitzubishi/20110213
(エリアーデ覚書)
エリアーデ、ミルチア『シャーマニズム(上)』堀一郎訳、筑摩書房、2004 年
「オーストラリアと北米では、他所と同様に親近霊と守護霊とが動物の形をとる のが圧倒的である。それらはいわば、西アフリカの「叢林霊」や中米 およびメキシコのナグアル(nagual)とパラレルなものである」(上:171)
「トゥングースのシャーマンは補助霊として蛇を持っているが、巫儀の間に爬虫 類の運動をまねようとする。また補助霊としてつむじ風を持っている シヤーマンはつむじ風のように振る舞う。チュクチとエスキモーのシャーマンは狼に変身する。ラップ人のシャーマンは狼、熊、馴鹿[となかい]、魚になる。 セマング族のハラが虎に変わることができるのは、サカイ族のハラクラクやケランタン族のボモールと同様である。」(上:171)
「動物の形で補助霊があらわれること、それと秘密の言語で対話すること、 シャーマンがかかる動物霊に化身すること(仮面、身振り、舞踊、など) は、シャーマンが人間の状態を放棄する——換言すれば、「死ぬ」ことができる——ことを別の方法で示しているという点である。悠遠の昔から、ほとんどすべ ての動物は他界へ霊魂を伴い行く導き手として、または、死んだ人間の新しい形として考えられてきた。「祖先」であるにせよ、「イニシエーションの師匠」で あるにせよ、この動物は他界と真実にして直接的な関連を象徴している。おびただしい数の世界中の伝説や神話で英雄は動物によって他界に運ばれて行く。新加 入者を背中に乗せて叢林(地下界)に運んだり、顎にはさんだり呑み込んだりして「殺して復活させる」のは常に動物である。最後に古狩猟民の宗教の支配的特 徴をなす人間と動物との間の神秘的連帯性を考慮しなければならない。これによって、ある種の人間は動物に変形し得、その言語を解し、その予知力と神秘力と にあずかることができる。シャーマンはいつでも動物の生活様式にあずかることができ、ある意味で人間界と動物界との離婚がまだ起こらなかった、かの神話時 代に存在した状況を再現するのである」(上:172)
マヤ文化にお ける蜂の表象
「守護霊はシャーマンをして変身を可能ならしめるのみならず、シャーマンの 「写し」でもあり、第二の自我(alter ego)でもあるわけだ。この第二の自我はシャーマンの「霊魂たち」の一つであり、「動物の形をした霊魂」——もっと正確には「生命霊」なのである。 シャーマンたちは互いに動物の形で対決し、もしその第二の自我が戦いで敗れると、シャーマンもやがて死んでしまう。」(上:173)
「未来のシャーマンはそのイニシエーションの過程で、巫儀の間に精霊たちや動 物霊たちと交通するための秘密言語を習得しなければならない。彼は この秘密言語をその師匠からか、もしくは自分自身の努力——つまり精霊たちから直接に——よって習得する。……して用いられ到。どのシャーマンもそれぞれ 自分に固有の歌を持っていて、それを精霊に懇祷する際に詠唱する。秘密言語が直接問題にならぬ所でさえ、その痕跡は、例えばアルタイ語族におけるように、 巫儀の間に繰り返される理解し難いリフレインの文句のなかに見出される」(上:174)
「この秘密言語が実際に「動物言語」か、動物の啼き声に由来することが非常に 多い。南米では、新米のシャーマンはそのイニシエーションで動物た ちの声をまねることを習得しなければならない。……カスタニェはキルギス・タタールのバクサがテントのまわりを走りまわり、跳ね、唸り、飛ぶ行事を記録し ている。バクサは「犬のように吠え、参会者の臭いを嗅ぎ、牛のように吠え、羊のように唸り、叫び、メーメーと啼く。また、豚のようにブーブー言い、ヒヒン と言ったり、クークー言ったり、驚くべき正確さで動物の啼き声や、鳥のさえずりや、その飛ぶ様子を真似し、そのすべてが聴衆に深い感銘を与える」と。」 (上:175)
「世界中どこででも、動物、とくに鳥の言葉を習得をすることは自然の秘密を知 り、予言をすることができるのと同価値である。鳥の言葉は通常、蛇 や呪的動物と見做されている動物を食べることによって習得される。こうした動物は未来の秘密を啓示する。これらは死者の魂の容器、または神々の顕現と考え られているからである。だからその言葉を習い、その声をまねすることは、あの世や天上界と交通し得る能力に等しい。シャーマンの衣裳とその呪的飛翔とにつ いて論ずるとき、この動物とくに鳥との同一視の問題に戻ってくるであろう。鳥は魂をあの世に導いてゆくものである。鳥そのものになること、鳥に伴われると いうことは、生きているままで天界やあの世へのエクスタシーの旅を企てる能力を示すものなのである」(上:176-177)
「多くの伝承において、動物との親交や動物の言葉を理解する例のあることは、 楽園的徴候を示している。初めのとき、すなわち神話時代には、人々 は動物と平和に暮らし、動物の言葉を解した。聖書の伝承の「人間の堕落」に比すべき原初的破局のときまでは——人間がこんにちそうであるように、死ぬべき ものとなり、性を持つものとなり、自らを養うべく働かねばならなくなり、動物と敵対関係に入るまでは——、そうではなかったのである。」(上:177)
==================
Saint Clare intervenes to save a child from a wolf, in this panel by Giovanni di Paolo, 1455. http://www.wikiwand.com/en/Clare_of_Assisi
==================
エヴェンキの狩猟動物に対する取り扱い方=道徳
"A clear expression of a similar, purely animistic approach to nature was the hunting rite whose vestiges still make themselves felt in practically all areas populated by Evenki and Evens.
The hunting cult of the Tungus was based on the following premise: to kill animals, birds, fish, and to destroy trees in order to obtain food, clothing, fire, etc., is not contrary to nature and does not hurt it. What is contrary to nature and hurts it is the useless, senseless waste of natural resources, and that is what was regarded as a wrong-doing for which man should be punished.
The Tungus considered it amoral to kill for the sake of killing, to acquire unneeded things, to torture animals. Many legends tell of the extinction of whole clans because a clansman tortured a deer or a dog or any other animal. That is how, among others, the destruction of the Mayat-Tungus.
Reverence for the game was expressed in precise regulations concerning the treatment of the bag taken by the hunter. Returning with the booty, the hunter announced his arrival by knocking and coughing, not by talking. The fox and the sable he carried into the house blindfolded. When bringing in a musk deer, the men pretended that it was so big that even several people could hardly pull it through the narrow entrance. Meanwhile they were not allowed to make noise".
(Tugolukov 1978:420)
Tugolukov, V. A., 1978. Some Aspects of the Beliefs of the Tingus (Evenki and Evens)., In "Shamanism in Sibria." Dioszegi, V. and M. Hoppal eds., Budapest: Akademiai Kiado.
・陳光興(日本人が多様になる戦術として)「女性になる、レズビアンになる、動物になる、テーブルになると言ったようなことも想定し てみるのも いいんじゃないでしょうか」〜♪ イエイ!これやこれ!(→ドゥルーズとガタリ『千のプラトー』第10章参照)(→「鹿を狩るた めに鹿に偽装すること」)
神話の主人公でまともな生き方/死に方をした人(動物やモノも含む)はおまへんにゃ〜 だから神話になる人間もまた他人からみたら英雄かもしれ ないが、当人の思いや経験と俗人のそれらとは何の関係もおまへん。
・かなり人間中心主義の発言だな〜♪(in vivo 動物実験屋はこうまで言う人はない) 「根岸氏はかねて「植物にできることが人工的に実現できないはずがない」と語ってきた」
・ヘスス!ディオスミ〜〜〜オーーーー!いまメキシコのForoTv のネット投稿動画で「交尾した後の雄のオウムが優雅ですばらしい口笛(の物まね)を十数秒間奏でる」さすがのキャスターも言葉につまり苦笑wW いい ねぇ〜♪ 日本では(動物でも交尾は憚れるので)公共放送に乗らないぞ〜♪
・ギネスや記録狙いというアホな[人間の考えるような]ことはやめて、動物にもQOLを考えてあげたら?→「ゾウのはな子、元気に64歳 長寿 記録あと1年」産経)
・オポッサム?メラネシアでは喰い物(タンパク)だよ、白人と移民には好奇な擬人的象徴物(自分の似姿)ーどちらも生物多様性と保全とその概念 には関係ない/あるか?ー「ドイツ・ベルリンの動物園で飼育されている寄り目の「オポッサム」が話題に」FNN)
・自然のネメシス(復讐)じゃん?あるいは飛べない白鳥の怨念かも?「富山県によると、今回の感染が分かった動物園では、コブハクチョウが逃げ ないよう羽根の一部を切った上で堀で飼育しており、陸に上がって来園者と接触する恐れはなかった」時事)
・「動物に恋をする」という動詞(ウァイ=ムラ・ガメタラーリ)において「表された観念は、自ら近づいて来て殺されるままになるように、動物を 性的に誘いこむことであり、これ自体が性的な支配行為である」(p.277)
・【人を喰ったライオンの釈明】「酔いつぶれた同胞(=ライオン)を介抱していたら、人間の男に因縁をつけられ、いきなり殴られたので、殴り返 した上で[人間と動物の間の正しい関係を実践するために、その人間を]喰べてしまいました」(スポニチから引用をもとに戯作しました—事実事件とは無関 係)
・【男女共同参画社会】人間のオスとメスが、これまでの利害対立による無益な闘争をやめて共同することで双方のプレイヤーの利害得失の不均衡を 極小化するのみならず実現不能なウィンウィンの関係創出という都合のよいイデオロギー。ゲーム理論の誤用(『野生動物のための野蛮な人間の理解事典』よ り)
・みなしゃん!動物愛護管理法によると、犬猫を捨てると30万円以下の罰金、殺傷(殺したり傷つける)すると100万円以下の罰金刑に処せられ ますよ〜♪ 道徳的非難だけじゃなくシビアな処罰がまっているからね、改めて犬猫は大切にしましょう、でも野良猫に餌をやるのも無責任な類似行為だぜ!
・「じゃれあう」というのは「あそぶ」とは違うのか?——人間と動物の大人や子供どうし、あるいは人間の恋人どうしなど、いろいろな例で考えて くで〜♪
・(近年の「重要な他者」としての動物の浮上)この場合の他者は、同一社会の同類のカテゴリーの中における他者の意味だよ。
・来年の文化人類学会の予稿集アップロードだん〜♪ 去年から査読ありだから心配じゃ〜、テーマは生物多様性における動物と人間の関係について、ツイッター上での議論(biodiversity_jp上で膨 大な情報が手に入る)も取り上げるつもり〜♪ もう完全に日本の文化現象に入ったね〜♪
・カルチェのギフトCM(パンサー)は噴飯物だな!動物を使う企業はその利益の10%は野生動物保護と保護区周辺住民の生物多様性保全を含む福 利に再投資(=保全のために地球に投資)すべし〜♪
・性科学では「動物/人間の生殖行為」という疑似抽象化はもちろん可能だが俺のセックス、あんたのセックスという「所有格」——ちなみに人間の 性行為はぢつわモノのようには所有することはできない——という何かがくっついてしまう。ありもしない平均や理想的セックスをとく香具師は別としてね
・セックスにニュートラリティを求めるのはどこか潔癖マニア(あるいはその反対の汚損マニア)を疑いたくなる。性科学では「動物/人間の生殖行 為」という疑似抽象化はもちろん可能だが【c続く】
・補足すると、男女年齢に関係なく人間は(性の快楽部分を含む)自分の人生が全くの偶然によるものだとか、いや宿命のごとくある種の原理によっ て決められているという、説明に耐えるほどタフな動物ではないようで、そのような意味と現実の狭間で悶々とすると同時に満足もする存在だな
・スペンサーとギレンの民族誌にはそれ(トーテム動物を食べることとそれに対する感情形成)を傍証する議論がないのに、フレイザーはそれを無視 し牽強付会に走る。スペンサーはそこで一種の機能経済論で民族誌事実の解釈を誤る(アッカーマン2009:320-325) 9784831872166
・俺たちはハクビシンすら、在来種か輸入種かどうかわらない生物多様性に関する知識レベルなのでおます〜♪ 梶原『資料日本動物史』 9784896944952
・狂牛病と口蹄疫について偉そうに論評するにはまず遠藤秀紀『ウシの動物学』から〜♪ 9784130740128
・うざいアニマルライツ派の思潮がきわめて最近の現象であることの歴史的傍証と、動物虐待と保護思想の隆盛は、社会の階級概念と切り離せないこ とを考えるためには両派に役立つロバート・ダートン『猫の大虐殺』
・おおっ!『人間と動物の環世界への散歩』1934年の知覚の種間相対性を示す絵画による表現ってのは、後のオリバー・サックスの脳障害による 知覚の異常の神経内科的探求とそっくり〜♪(後者の前者に対する学識の現れ?)
・オントロジー派の人類学者がユクスキュルを重用するのは、動物を客体としてとらえる機械論的な見方を批判し、動物を主体(Objekt)から みようとしたこと〜♪
・17世紀のフェヌロン!面白れぇ〜!人間が世界に充実し、法に従うことになれば「人を襲う獣」もいなくなるという。また人どうしが殺し合わな いために保護区を儲けて、人間がそこで動物を殺せば、はけ口解消なるとも(ラブジョイ、前掲書、196頁)
・椅子に座ってポケットの中のなにか重いもの(例:鍵束)が動いた時、そこに小動物がいるような感じがしない?(とりわけ、夜の残業で誰も付近 に居ないとき)そういう時は、あなたのコンパニオンの精霊が一人ではないと囁いているのです〜♪ (シャベリ・バタより)
・・手当て・が治癒力をもつという考え方は、やがてフランス革命期には手あての“動物磁気”による治療——これはメスメリズムと呼ぶばれる—— などに継承された http://bit.ly/eYOby1
・BlogPetサービスの終了っ!なんか、俺の愛していたドブネズミの忠公が、動物愛護センターにおくられ「ドリームボックス」で御陀仏する ような気分〜♪
・学習概念を動物にまで拡張した結果、人間のみ(ブラックモアの意に反して俺は高等霊長類も極めて一部ではあるが含めたい)がもつ得意な能力の 特性に対する峻別と理解が曖昧になったのだ
・ねこの子を何匹か水に浸けて殺した苦痛の知るものだけが動物解放に参戦せよ!という審問は受け入れられるべきスローガンだろうか?
・はいはい、異種動物結婚譚ですね、世界の民話や神話にガンガン出てくるから何の問題もございません、結婚でも葬式でも御自由にやっとくなま し〜♪(オメデトウ!)
・動物でも人間でも弱いものを過剰に暴力的にいたぶる現象は、変態性欲や自傷欲望の転換などと好き勝手に解釈し、異常は繰り返すのでとにかくキ 印をぶち込めという主張もあるが、それがライフサイクルで一生以上の長期周期であれば再犯はないことになる。すべて後知恵。俺達が分からない狂気は存在す る!
・これは解釈の別れるところですね。人間にできないので動物を代償にしているという話もあります(専門家でも扇情的テーマになると科学的事実に 従わず判断を誤る人も多いですからね)〜♪ 。 小動物の虐待や殺害を繰り返す人は、矛先を人に向けるようになる事もあると聞き
・闇雲に動物を殺傷したい、種間ヘイトクライムだね〜♪「小学校花壇に頭部切断ネコ」産経)類似の犯罪も多いことがリンク先より判明
・航空便で運んだ有機水銀入のマグロ(=特定動物ではなく食物連鎖の頂点としての鯨やイルカなども含む)喰って上手いって!幸せなお方→「スペ イン産本マグロ、羽田に朝到着 昼には店頭へ、大手すしチェーン」産経)
・人類にとっては人間は必要ですが、人類から害を受けている動物(例:日本の熊)からは必要じゃないという当たり前の答えを引き出しちゃいます (生物多様性の民衆的議論はこんなもんかもしれません)〜♪
・そのとおり!俺達はつねにシャドウボクシング〜♪ 時々パンチがあたるから当たった事物を「敵」と思っちゃう困った動物〜♪
・えっ!上司にいぢめられた部下がペットを虐待するなんてぇ!(マサカねぇ、でもオプションとして可能——動物虐待防止連盟より)>>職場スト レス解消のためのペット導入
・う〜ん、羽田の滑走路分布は埋め立て&拡充という方針でできたので、なんとなく幽霊島のように思える。百年後は軍艦島ツアーのような廃虚にな るのか、それとも野生動物があふれるサファリになっているかもね!
・じゃあどうする?人間を間引きするわけにはいかないし〜? > 森が痩せて 食べ物がなくなっています。山の動物が里に
・許せん〜!!!「<動物虐待>犬が顔だけ出して生き埋め 富山の土手」毎日
・なんつ〜ても人間は自分の種を含めて動物を喰う動物(hyper-omnivore)じゃからのう
・草食系というニンゲンども表現はまったく愚かなだね!肉食動物に対する巧みな防御力の源泉になる草食動物の社会性の高さや知性、大人しさと気 高さの同居などニンゲンどもはなにも分かっちゃいない、その想像力の貧困さといったらありゃしない——COP10に参加する反芻動物より
・なある!(美的評価の言葉が見え方に反映するわけだ、これは脳科学的(あるいは動物行動学的)になにかありそうだ!)> かわいいなら年下に見えるんですが、美人だとお姉さん的な感じがして年上に見える
・なるほど、コインを入れ得て、動物の能力をメタモルフォーシスするんだな〜♪(仮ライダ)
・人間は象徴に束縛されると同時に、また象徴にも動かされ未来を切り開く動物だから、82円が「防衛ライン」と不本意にも漏らすこと自体は愚か でもなんでもない。むしろ、愚かなマイナー政党党首が本道と関係ないところで騒ぐから話がややこしくなる。グリーンスパンでも読んでな〜♪
・マスメディアは〈声の独占〉を通して国民の声を代弁してつもりだが、ツイッターメディアのような複数の多様な意見の表明をカバーもできない し、代弁もできない限界を、連中の動物的勘で感じているのでは?だから、過剰で奇妙な内戦状態に突入?
・野菜のタンパク質に動物脂質のうまみが合うようですね。中米だったら小豆豆の塩味の煮物(フリホレス・コシド)には豚皮の唐揚が不可欠〜♪
奥野科研の申請書より
「……人間が動物をコスモロジカルにどのように表象し、感覚器官を用いてどのように動物に接しているのかに関して、人びとの実践と語りの両面に おいて実証的に解明し、開発やグローバル化による商品経済の浸透によって、それらの関係がどのように変容しつつあるのか……をつうじて、人間と動物をめぐ る関係について考察することを目的とする」(基盤研究B・海外学術・申請書・平成19年10月)。
人間と動物と自然と
「恩寵をラテン語ではグラーティア(gratia)というので、中世のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)の思想の要約として、しばしば "Gratia naturam non tollit, sed eam perficit"=恩寵は自然を破壊せずこれを完成する、という文章が引用される。これが神としての超自然と人間を含めての自然一般との関係をあらわし ている。動物はこのナトゥーラすなわち自然の世界にとどまるが、人間はとくに、それを超える営みをすることができる」(今道友信『自然哲学序説』 p.19, 講談社学術文庫、1993年)。
レヴィ記の中の動物の禁忌の解釈をめぐって医学衛生的な解釈理論があったのを、象徴論のダグラスおばさんが胸の空く論破を展開するてな感じだっ たような〜♪
The Catalunyan Politico-Cultural War Outbreaks!!!「<スペイン>「動物虐待」と闘牛を非合法化 カタルーニャ州…動物愛護の高まりのほか、同州に分離・独立志向が強い事情も背景 にある」毎日
「ホッキョクグマのユキ」(山口県徳山動物園)?!愛称のネーミングがあまりにもわかりやすすぎで、彼女(雌)に気の毒な気もしてしまう。でも 小さな子供にはいいかっ!
7.動物の心(心の哲学が抱える12の問題 J・サール『心の哲学』2004=2006)
(衣服)ファッションが素晴らしい(ということは馬鹿馬鹿しさの源泉でもあるが)ところは、身体のナチュラルフィットよりも外形の見てくれを優 先することであり、服を体に合わすのではなく、体を服に合わすというサイボーグ概念を人間社会に持ち込んだことだ。最近動物=ペットがそれに近づきつある が
動物実験もナダスディのウサギも、その〈自然の本性〉(nature of Nature)が人間社会に譲渡=贈与されているからこそ、その返礼行為として慰霊祭や儀礼をやるのではないかと思った次第。
もしこれが旧約聖書レビ記の内容を敷延してことの発言だったら馬鹿で目茶苦茶な解釈だな(やってられん)→→「キリスト教は神から許された動物 は殺して食べていいが許されていない動物は好き勝手にしてはいけないという禁忌」
シーシェパード裁判、ザ・コーヴ、宮崎の口蹄疫の殺処分問題。これらは、日本社会の動物観、生命観、自然観つまり、宗教観に対する大いなる挑戦 にも関わる重大問題であるにもかかわらず、日本の宗教界とりわけ[新宗教を含めた]仏教界の連中が何も発言[記者会見レベル]しないのは情けない!
ゾウの「はな子」の昇天—— 「はな子(はなこ、1947年 -
2016年5月26日)は、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園で飼育されていたメスのアジアゾウ」出典:https://goo.gl/tuq3fG
つまり他者あるいは他の動物の命の可処分[虐待はそのヴァリエーションのひとつ]ができるという権利概念(=親権)というのは、天賦で絶対的な ものではなく、その権利を濫用しないことを前提に仮に与えられているにすぎない。他者の命の可処分ができるという発想が虚構むしろ狂気
鳥インフルでも口蹄疫でも殺処分=大量屠畜の数に驚かされるのは、俺達は自分たちの見ていないところで、大量に動物を殺して生きているというこ とだ。人間を殺しても動物の命を守りたいパラノイアになったアニマルライツ[シーシェパードでもいいが]の連中の気持ちは解らんでもない
_ 鹿を撃って肉を売って儲けようと考えた馬鹿。宗教的にも世俗的(動物愛護)にも衛生的(汚染物質いっぱい喰っとる)にも理不尽でDQNで憎むべきだが、俺 達はそんなチンケな野郎を動物愛護法違反の軽微な罪でしか裁けない。虐待する親も同じ。地獄へ百万遍落としたい気分なのにね!
「フィールド研究の倫理」終了なう[1時間前]。陪席していたクロサワ先生には動物実験の国際基準化の舞台で活躍されている観点なのか、説明責 任(accountability)と応答責任(responsibility)の峻別と、その研究実践における具現化の部分が受けたでぇ!
う〜ん、動物実験代替法についての農水省官僚の国会答弁が500万予算の倍増ごときで議論すんなよ〜という不満。たしかに、そうだわ。2桁オー ダーが違うわね。
日本動物実験代替法学会 http://www.asas.or.jp/jsaae/
OIE かつては家畜の倫理福祉について扱っていたが、実験動物にも着手:OIE実験動物福祉要綱。2010年5月総会で採択、農水省も賛成しているので、これか ら国内法も整備される。
OECD は不必要な動物実験を放棄しているなどなど
動物実験の国際標準化の議論なう。ヘルシンキでの国際会議のエピソード:国際的改訂作業 ICLAS, AAALAC Internatinal, ISO10993 Part2, GLP
シャーク!(シャック)世界的に著名な戦闘的アニマルライツ派の団体。名前が怖いねぇ。襲撃の前に、事前スパイ活動についての興味深いエピソー ド。目的(=動物解放)が汚い手段(=無断侵入や傷害、テロリズム)を正当化する。困ったもんだ。
動物権利論:殺してはいけない、傷つけてはいけない、利用してはならない、の延長上の、動物を喰ってはいけないという論理的帰結。
はいはい、こうなれば「動物権利論」のピター・シンガー教授がいよいよ登場ですね。たしかに私に(人文社会系からの)授業をまかされても、必須 のお方ですね。
来週、宝塚記念(競馬)のお話で、ちょっと脱線——と、思いきや、人間にとっての動物の効用の話とか、獣医についての面白いエピソード。おお、 これが昨日センセイがおっしゃっていた動物と人間の洋の東西の文化差か〜 面白い!
[動物実験の]フルレン麻酔は痛みが少ない、ということを「実証」するために、自分の手術のときに麻酔科のセンセイにお願いした感動?する話
黒澤レクチャー:遺伝子ノックアウト動物をつくることの、倫理的問題(生まれながらにして病気の動物をつくることは、人間への福利や恩恵に比し て正当化できるのか、という深い話)。たしかに便利でよく使われるが、動物の立場(パースペクティズム)から考えれば意味のある課題。
黒澤センセイの実験動物医学の倫理講義なう[次の授業「フィールド研究の倫理」担当なので、この時間は陪席してま〜す]。メチャ面白い〜 ♪
「ディスコラが描く4つの象限にあてはまる動物の世界には、どのようなものがあるでしょうか。まず身体性の類似(+)においても内面性の一致 (+)においても際立ったものは、例えばディズニー映画『ファインディング・ニモ』にみられる動物の社会をテーマにした子供向けのアニメーションの世界で す」
「最後に、身体性(−)も内面性(−)をもちあわせないものが食肉にされる動物です。なぜならスーパーマーケットの食肉コーナーできれいに包装 された肉を見ても、誰も動物の原形を想起する人はいないからです」ってスピーチする学会ってなんだ?!と思うでしょう?俺の所属学会はスバラシ!
それともうひとつ!動物解放直接主義者は、ディープエコロジー(DE)と結びついているという主張は誤り。どこかの部分でたまたま節合した可能 性がある。なぜなら、前者は、自分たちが解放すれば世の中が変わるはずだという近代革命の誤った理想像を内面化している。自然制御の発想でDEとは真逆。
晩年のフィリップ・K・ディックと同じで、動物解放直接主義者のあの暴力主義のエートスは、巨大な権力を敵にしているという脅迫的な恐怖感と被 害妄想。バーダマインホフあるいは大菩薩峠症候群ともいえるものだ(病気比喩は「左翼小児病」と同様罵倒のための隠喩だからね修辞範囲だけで楽しんでね)
苛烈な動物解放論者のうち、直接行動やテロリズム(放火というのが彼らの嗜好性が高い)訴える人たちとまとも議論できると思ってはいけません よ。その理由(1)きちんと議論ができないから直接行動に出る、(2)法システムを動かすことを放棄する反知性主義、(3)最初から結論がある反討議主 義。
動物同士のピアカウンセリング(昨夜観たファインディング・ニモを思い出した)〜♪> 動物にたいするアニマルセラピーはある?
ふふ「ゴミ箱あさり」は生態系ではサステイナブル勢力、雑食系はエネルギー浪費のとんでもないDQN動物がいるよ〜♪ その名は「ニンゲン」——新・生物多様性辞典より
Darwin, Origin of Speciesを紐解いてくれたY先生はいない、アル中の羊歯の分類学教授も死んだ、電子顕微鏡の理論を教えてくれたO先生も、浅虫から郡元の学部にやっ てきた腔腸動物の研究の元気のよいK先生も鬼籍に入られた、でも後で向こうで議論できるからいいか!
スーパーサイヤ→毛が立つ→動物の逆毛状態→興奮・攻撃状態→人間における獣性の表象→「人間もまた獣のひとつである」という命題の導出、おわ り
口蹄疫感染ルート解明:津田(食産技総研)氏は4月30日「感染経路の特定については、なかなか一つに絞り込むことは難しい。予断を持たずに動 物、飼料、人、車両、農機具などすべてを対象に、ウイルスの侵入経路を調べたい」毎日
「アルジャノーンのアルジャノーン的利用」ノーバート・ウィナーのパロディね(アニマルライトという発想は動物虐待という発想の延長上にいる ねぇ〜)ピーターへの手紙
「例えば馬について語るとすればきりがないでしょう。韃靼人はかれらにとって有用であるこの動物に対して一種の偏愛をしていますので、馬のため には沢山の言葉をつくっています」矢沢利彦編訳『中国の医学と技術−イエズス会士書簡集』1977:66
【動物裁判】極端な例では、裁判所の書記が動物に対して判決を読み上げたり、動物を拷問してその叫び声を自白とした場合もあった。
【動物裁判】ヨーロッパで広く行なわれた動物裁判は、人間に危害を加えたり、また人間と共同して罪を犯したと認定されたとき、人間とまったく同 じ法的手続きを通して(つまり完全に“擬人化”されて)世俗ないしは教会の裁判所で裁かれたという。
長柄人柱と崇禅寺:子どもの時に親父から寝るときに聞かされてねぇトラウマになったよ。天災に人間を供儀に使うなんて野蛮なことかとね。それが 転じて動物供儀や人喰いに関する現在の職業的興味へ
しかしながら甘言を弄するのはオンナもオトコもみな同じ。社会的な動物としてこの能力の行使においては、どうもジェンダーに差はないようぢゃ? 誰ぢゃ?「私のことじゃないも〜ん」と猫ばば顔をするのは?
「イライザを意識する「私」=人間(動物)には他者とコミュニケーションする社会的能力が備わっている(=生得的に組み込まれている)ために、 そのスイッチが容易に入り[なぜ?](続く)
人間を含めた動物はものすごい数と種類の微生物と何の問題もなく「共存」しています。この人畜無害な微生物を完全に消去することはできませんが 仮に限りなく殲滅しようとすると人体にいろいろな不調が起ることが知られています。無害の同胞とは平和に共存しましょう
イルカ食で盛り上がってますね!私の大好きな漫画家Gary Larsonの作品には動物(アメーバーからゴリラや昆虫まで)が人間と同等あるいはそれ以上の知的活動について描かれています。擬動物[擬人]化される 人間[動物]を貶む皮肉なのですが馬鹿[知的]次元での同一性に妙に感動しちゃう
[ジョーク]鯨食をめぐる日豪戦争勃発!_日本の動物園ではコアラが襲撃され焼き肉の危機に!もうひとつの係争国・米国では、水族館に公立学校 の教師を派遣する法律ができ「イルカ学級」がはじまる!日本の海兵隊基地放棄を条件に沖縄に「イルカ学級」の設置を要求!
節足動物萌え〜♪ .http://bit.ly/9aGM3e しかし図には有爪類・緩歩類[Tardigrada←ラテン語の命名と和訳がすばらしいねぇ!]があるので、生物学分類マニアとしては論文名は「節足動物 の起源」としてほしかった!
ビュリダン(ブリダン)の騾馬(ラバ):中世スコラ哲学に登場する道化の動物で、プラグマティズムとは極北の論理的ジレンマの呪縛に縛られる修 道院哲学者の隠喩。このラバは、左右と厳密に等間隔におかれた2つの飼い葉桶の近い方から食べようとして直近の2つの間に食べられず餓死してしまう。
人間動物園?Anthrozoosって洒脱なタイトルだと思っていたら学会誌(International Society for Anthrozoology,ISAZ)だった!(ただし人間を動物学化するような自然人類学ではなく両者の相互関係を模索研究する学会らしい)
「人間動物機械論、ウィルスとしての人間、あるいはパースペクティズムという思考法を実践する」の冒頭のマトリクスのシノプシスを書き上げたと ころ
人類学では、それを自然化する、つまり文化が強制するものが、それが当然であると当事者たちに感じさせる複雑な装置がある>>むしろ強制ですよ ね。文化人類学的視点の必要性 > 乖離は「殺していい動物」と「殺してはいけない動物」の線引き
「大分水嶺理論」ぶっw!第四期野生動物大虐殺説からルビコン河渡航、そして大前バリバリゼーションまでメアリー・ダグラス流の境界確定がお好 き、楔を打ち込みたいのだ(俺の陣地っと!)。両義的世界や曖昧さに耐えられないぬるま湯に浸かった啓蒙知識人ども、世の中そんなドラマチックじゃねぇ ぞっ
■リンク
■文献
■その他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099