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レクチャー:西洋倫理学の3つの伝統に関する講義

Three core functions of Western Tradition of Ethics and Ethical Studies

池田光穂

倫理学とは「人として守るべき道」すなわち倫理に 関する学、であると辞書には書いてありますが、これはあまり適切な解説ではありません。倫理学がどのような組み立てかたをされているのかが不明瞭だからで す。漢字の倫理学は、明治期の哲学者—帝国大学ではじめての日本人の哲学教授—の井上哲次郎(1856-1944)が ethics (今では外来語表現でエシックスとも言います)の訳語として考案したものが嚆矢(こうし:始めの意味)です。人の道を説く倫理や道徳は、日本語では古くか らあり、倫理の初出は1622年『信長記』に「倫理を正しくするときくは、尊卑の分あきらかなり」、道徳は702年『續日本紀』「道徳仁義、因礼、礼乃 弘」と日本語の語彙に古くからあります(典拠は共に日本国語大辞典・小学館)。

倫理学がエシックスという西洋の学問に対応する言 葉(翻訳語)というポイントが重要です。だから倫理学は、西洋のエシックスを解説するものでなくてはなりません。もし明治期以前の「日本倫理学」や東洋倫 理学、あるいはイスラム倫理学というものを理解しようとすれば、自ずから近代的な倫理学の体系分類から類推される学問の定義づけから影響を受けているの で、こちらの場合も、西洋起源の倫理学あるいは西洋倫理学というものが、どのようなものであるのかを頭に叩きこんでから、眺めると、西洋倫理学を反省的に ながめる可能性が広がり決して損にはならないと思います。

では、西洋倫理学はどのような構成になっているの でしょう。ウィキペディア(英語版)をみると、アホみたいに細かく分類されています。これでは全く頭が痛くなりますので、ズバリ大切な三本柱 を抽出することにしましょう。まず最初に、古代からの倫理である「徳の倫理学」(Virtue ethics)と近代的な——啓蒙主義以降の——倫理である「功利主義の倫理学(Utilitarian Ethics)」そしてカントの「義務論(Deontology)」です。どうしてこの3つが重要かというと、西洋の倫理学は、この3つの倫理の主張のタ イプがそれぞれ相入れなく、あるいは説明する時に、それぞれがライバルになり議論や推論がしやすくなるからです。つまり、そこで考える3つの倫理のタイプ ——すべて規範倫理学(Normative Ethics)の範疇に入ります——には癖があり、明確で覚えやすいという特徴があります。また、この倫理の説明のタイプを覚えておくと、皆さんが抱えて いる日常的の道徳的課題やジレンマ——たとえばカンニングをするのは悪いことに決まっているが状況においては躊躇しないのは何故か?、お釣りを本当よりも 大目にもらった時はボケをかましたほうがいいのか?、カンニングをやっている親友を学校当局にチクるべきか?などなど——の解消とまではいかずとも、これ らの議論を使うことで納得し、もやもや感に悩むことがなくなるからです。では以下に簡単に説明しましょう。以下の解説はあくまでも入門のその手前ですの で、これで終わってはいけない内容ですので、あくまでも参考ということで!

(1)徳の 倫理学(Virtue ethics)

倫理をその人が持っている徳という属性(一種の性格やタイプ)で判断して、どのようなタイプのものが徳がある=人の道に叶っている=倫理的である、と判断 するものです。アリストテレス(紀元前4世紀頃)は中庸(ちゅうよう)つまり他者や状況に対するその人の態度は両極端であるよりもほどほどがよいと言いま した。危機的状況にあるときに、興奮して極端に野蛮になるのも、また萎縮して臆病になりなにもしないのもアカンというわけです。その中間の冷静でありなが らもやるべきことはやるような勇気が大切だというのです。この説明は分かりやす過ぎますが、危機的な状況でどうふるまうのがいいのかは状況次第ですし、ま た事後的に後悔することもあれば、遺憾だけど仕方がないと思うこともあります。アリストテレスは状況で倫理が変わるということなどは想定していません。む しろ、人間には中庸という徳の状態や性質があり、そのような性格を備えている人を徳のある人(=有徳の人)と言うのだと言います。理屈では説明できないけ ど、経験的に私たちも「あの人はいい人だ」というときに、その人の美徳がなんであるのかある程度、抽象的に説明することができます。したがって、徳の倫理 学は、日常的な体験として違和感のないものです。しかし、その理論的説明においては、とりわけなぜか?という点においては困難さをかかえます。

(2)功利 主義の倫理学(Utilitarian Ethics)

功利主義の倫理学は、ジェレミー・ベンサム(1748-1832)のものが有名でかつ重要ですが、その経験論的な考え方を理解するために、その先輩格の ディビッド・ヒューム(1711-1776)の議論が欠かせません。ヒュームは懐疑論(かいぎろん)者と言われるように、常識的な質問をしまくることで、 私たちが当たり前と思っている信念を片っ端からぶち壊して、実際には何も問題が起こらないために、それらは慣習的にそう思っているに過ぎず、論理的に説明 をもとめると困難になることを理詰めで突き詰めました。我々は「〜でなければならない」「〜すべき」つまり、原因と結果を必然性の関係で結びつけて考えま すが、実際は原因を結果をながめて「〜である」という習慣づけているだけで、「〜でなければならない」「〜すべき」を証明できたわけではないと言います。 ここから「〜である」——前項の有徳の人を思い出してください——という経験的事実から「〜でなければならない」「〜すべき」ということは導くことはでき ない、それらは習慣によって思い込んでいるだけということなります。ヒュームは、倫理は、理性から生まれるのではなく感情から生じるといいました。それど ころか理性は感情の奴隷だといって、理性を倫理の基礎にすることに反対しました。ベンサムは、ある行為が正しいと言えるのは、結果からしか判断しえないの でないかと考え、よりよい結果を生み出す行為が「正しい」と考えました。例えば増税で人が苦しんでもその税を使って医師を育てより多くの人の命を救うのな らその増税という行為は正しいと考えるのです。ベンサムのこの論理によると「増税で人が苦しむ」ということと「医師の養成により人命がより多く救われた」 ということを、ハカリにかけて、前者よりも後者のほうが「重い」「大きい」あるいは「より重要だ」という判断ができなくてはなりません。このような比較が 可能になるのは、最初の行為と後の結果を、量という指標で比較対照——これは功利計算と呼ばれる——できなければなりません。ベンサムはそのような思考方 法を、「最大多数個人の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)というスローガンで表現し、多くの賛同者を得ることに成功しました。このような考え方を出てきた結果という「効用(utility)」から 功利主義(utilitarianism)と言います。これらはある意味で結果=オーライ、卑俗な言い回しだと「ごちゃごちゃ言わずに結果を出せばいいん でしょう?」という主張や、結果で正しさが保証されるために、より広い意味での帰結主義(Consequentialism)とも言われます。

※「最大多数個人の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)という言葉は、ベンサム以前の(ヒューム以降の)、フランシス・ハチ スン(Francis Hutcheson, 1694-1746)の考案になる用語という。

(3)カン トの「義務論(Deontology)

イマヌエル・カント(1724-1804)の義務論は、他の彼の哲学上の業績でもそうですがゴリゴリの精密な論証をおこなうために難解で分かりにくいもの になっています。他方、その論証の「美しさ」のために、カントの議論にハマるとその手際の鮮やかさに舌をまき、皆を魅了するそうです。つまり、議論のシス テムがわかると、カントの主張による「正しい」行為を明証性——理屈としてすっきりする——をもって理解できるというのです。カントは、先に触れたイギリ スの懐疑主義者ヒュームとフランスの啓蒙思想家のジャン=ジャック・ルソー(1712 -1778)の影響を受けて、啓蒙主義的伝統における重要な概念である理性(合理性=正しい論理=人間存在を超えたという意味で「物自体 Ding an sich」までレベルが上がる)に、倫理を考える際にもとても重要なあるいは特権的とも言える位置を与えます。物自体ということは全宇宙を通してすら普遍 的=一般的であるということですので、この理性の法則に、人間もまた従うべきだ——なぜなら宇宙の法則ならその成員である人間にも当てはまるから——と考 えます。そう考えると人間はデフォルトで法則にしたがっているから道徳など必要ないと思われるのですが、カントはそう考えません。彼は、啓蒙主義から受け 取った「自覚してかつ行動し前よりもよりよく成長する」人間観をもっていますので、その法則に人間を従わせる規則——道徳法則——を与えます。それが「君 が意志し自分自身で決めている規則や規約(=格率・格律[かくりつ]という)が、すべての人に妥当する普遍的法則になることを願うようなものになるように 行動しなさい」というものです(→この発想は「倫理の相対主義」 からは極北のところにあります)。格率・格律(かくりつ)とはドイツ語のMaxime の訳語のことで、主観的=あなただけにのみ使える実践的な原則や規則(=例:寝る前に必ず歯を磨く人のその習慣)。これはあることを促していますが実際に は命令文に近いので、カントの「定言命法(ていげん・めいほう)」と呼ばれます。

このカントが命じる法則は「普遍的立法の原理」がわ からないから格率と合 致しているかどうかわかならい、と言い逃れできそうですが、こう考えるとどうでしょうか。普遍的立法の原理は、私にとっても正しいですが、他ならぬ他人に おいても正しいはずです。普遍立法をなにか難しい規則と考えずに、他人にも共有可能な——より積極的には共有しなければならない—— 規則だとすると、他人が自分にやってほしいという行為(原則)は、自分が他人にやってあげる行為(原則)と同じでなければならないし、他人が自分にやって ほしくないことを、自分が他人にやってはならないことになります。他人が自分に対して正直であってほしいならば、自分もまた他人に対して正直でなければな りません。また、自分が他人からいじめてほしくないのであれば、他者をいじめてはいけないことになります。この定言命法はカントが編み出したものですが、 カントはこのような法則が導かれるのは、自分自身のオリジナルではなく、誰もが推論すれば、それは人間の理性の働きによるもので、そのように我々は結論で きるのだと言います。これを「意志の自律」と呼びます——ここから他者から意志を押しつけるられる、つまり意志の自由が阻害される(=邪魔される)のはイ カンという原理が見つけられます(だから意志の自律と意志の自由は、お互いがお互いを保証しかつ人間にとって崇高なものだということになります)。という わけで、カントは抽象的な行為原則=義務法則をいっけん我々に対して要求しているように思えるので、それを「〜しなければならない」理屈すなわち義務論 (Deontology)と呼ぶようになりました——従ってカントによると真の義務とは人や社会から押しつけられるものではなくその人の自由を守りかつそ の自由の考え方から導きだされる行動の原理の一部だということになります。いずれにせよ、その抽象的な義務論は、実際に日常行為のなかに当てはめてみる と、不思議なくらい具体的に「正しい行為」を導くことができるので、この議論のやり方と実践原理を紡ぎ出す方法というのもなかなか侮りがたい(=容易には 批判しがたい)ものがあります。

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