客体化
objectification客体化(objectification)=きゃく たいか、とは、他の人たちと共に(論理的ないしは現象的理解について)操作可能なものにすることをさします。客体(object)とは、モノや、モノ化さ れたものを指します。それに対して主体(subject)=しゅたい、とは、私自身のこと、主観的(=しゅかんてき)存在をさす言葉です。しかし、主体 (サブジェクト)には、臣下(しんか)、下僕(げぼく)、手下(てした)のような意味、つまり「従うもの」という意味もあります。他方、客体は、客体化さ れたもの、すなわち「他の人たちと共に、操作可能になった、ゆるぎのないもの」という意味があります。主体つまり「従うもの」が、どう思ったり考えたりし ても(=主観的に捉える)、その対象(=オブジェクト)はゆるぎのない存在として、主体の前に立ち現れてきます。したがって、主体の「従う」対象は、客体 ないしは客体化されたものであると言うことができます。
主体がみる見方は、主観的なもので、どのように見よ うと勝手ですが、客体化された事物は、ゆるぎのないものです。ないしは、主体がどのようにゆさぶりをかけようとも、固定的でゆるがないもの、ないしは、意 味や価値を付与されています。
ウィキペディア(日本語)には、
「subjectum(サブジェクト)は、下に投げられたものという語構成のラテン語で、アリストテレスのヒュポケイメノン(英:
Hypokeimenon 希: ὑποκείμενον ヒュポ+ケイメノン
下に置かれたもの、基体)の直訳に由来し、属性がそこにおいて属すべき基体を意味した。」とあり、他方「objectum(オブジェクト)は、前に投げら
れたものという語構成のラテン語で、前面の対象を意味し、中世哲学においては、意識の対象として、表象や観念に相当するものを意味していた。/近世になっ
て、デカルト哲学の懐疑論的な現象主義の枠組みにおいて、外的実在は、もはや神の理性や観念との関係においてではなく、主観における観念や表象、つまり意
識の対象という形で、すくなくともそうした対象を通じて把握されることになり、ここで、objectに客観という意味が発生した」とあります。出典:
http://bit.ly/1UGMVoH
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