主体と主観(主観主義を含む)
しゅたい、しゅかん、subject, subjectum
主体と主観(suject)[→主観主義 はこちら(タグジャンプ)](→「主体/サブジェクト」はこちらです)
・主体と主観は、客体と客観(object)と対比 するものとして、しばしば表現される。というか、この対比がまず、我々の生活の中で定番となっている。
・例えばこうだ、「君の考えは主観的過ぎる、もっと客観的にならなければならない」。この表現は、主観的というのが、どうも個人的なもの、端的に言うと 「主観的=個人的思い込み」であり、「客観的=誰もが同意するもの」ではない、という非難の用語として使われる。
・これは、明らかに価値表現としては、「主観的=個人的思い込み」<「客観的=誰もが同意するもの」という図式である。もし、このことに同意するのであれ ば、なぜ「客観的=誰もが同意するもの」が、「主観的=個人的思い込み」よりも優れているのか、このことの正しさが証明されていることが明確に(とりわけ この種の主張をおこなう人は)主張される必要がある。
・しかしながら、この不等式をあれかこれかの判断で分けることには、じつは大きな問題がある。次のことを考えてほしい。
・君を非難する人(仮にBさんと名付けておこう)は、君の意見が「客観性が少ない」と君を批判するわけだが、そのような判断はBさん自身の個人的な思い込 み、すなわちBさんの主観的判断の一種である可能性がある。Bさんは、Bさん以外の人(Cさん)をつれてきて、同じ意見を君に言ったとする。その時、多 少、君の意見は、客観的よりも主観的である可能性が生まれてきたかもしれない。だが、Cさんの判断も主観的であるかもしれない。さらに、本当は君がBさん が所属しているカルト集団に引き込まれようとして、Cさんと談合している可能性を考えてみよう。そうすると、客観性というものは、それを主張する人数の大 きさでは決まらないような「判断」である可能性がある。多数決の歴史を調べれば、「多数派の判断が常に正しい=客観的である」ということが、あまりにも根 拠のない主張であることがわかる。
・したがって、客観的における「誰もが同意するもの」は、多数決で決められるようなものではないことがわかる。
・おまけに、どこかにXさんという人がいて、この人の意見は常に「客観的」なのだということを決めるわけにはいかない。こういう決め方は、こつこつと他者 と議論を積み重ねて本人たち自身の「納得」によって理解=同意を生む生み方ではないので、しばしば無謬論(むびゅうろん)や、超越論(ちょうえつろん)と 言われる。ちなみにこの2つの議論とは、こういうことである。
・無謬論(むびゅうろん)とは、誤りがないと主張する議論。あるいは誤りがあることを生じさせないような議論の展開のやり方。そして超越論(ちょうえつろ ん)とは、ここで述べたような主観と客観の呪縛から放たれて、主観的なものを中心に議論を先鋭化させる方法で、超越論的観念論 (Transcendental idealism)はカントが洗練させた議論の方法である。
・以上のように主張すると、主体・主観と客体・客観を対比する方法は、ああいえばこういうという反論が可能なので、それほど有効な方法と思えないように思
われる。しかし、議論の形式として、ある論者が本人だけにしかわからず、あるいは、他者からの介入で修正可能で、その発話の時点では論理が破綻しているも
のをまず(非難することなく)「主観的」と名付け、客観的なもの——以上の議論のように客観的なものを定義づけるのは極めて困難——との対比のなかで、そ
の議論を、他のみんなとより多くの合意がとれそうなもの(それは客体化された主観
objectified subject
と呼ぶことができる)へと洗練させてゆくことには、大いなる意味があるように思える(→「」)。
以上のような議論に、主体の西洋的起源を求めることは、議論の展開に直接役に立つように思えない。しかし何かのヒントになるかもしれないので、ここで紹介 しておこう。ここでの紹介は桂寿一(1902-1985)による[桂 1974:2-3]。
主体や主観は、ラテン語の subjectum から来ている(→「主体/サブジェクト」はこちらです)。
Subjectum は「下に置く、投げる」という動詞 subjicere 〜由来し、それは「根底におかれたもの/根底にあるもの」をさす。つまり、このサブジェクトゥム(subjectum)は、客観に対する主観という反対語 的な表現や、上記の私の説明で個人的と表現した「我」や思い込みという「意識」をさすものではない[従ってウィキペディア(日本語)の「主体と客体」とい う項目と出典引用を明示しないその説明は誤解を生む危険性が高いものとなっている]。
さらに、このラテン語は、アリストテレスの「ヒュポ ケイメノン(hypokeimenōn, ύποκείμευου)」にまでたどりつく。彼の『形而上学』(Z-3, 1028b)には、「有るもの(実体)」についての解説があり、彼はそれを4つの意味を説明して4番目にヒュポケイメノン=基体(出隆訳、[上: 230])と説明している。基体とは、まさにそこにあることをさす、したがってラテン語訳の「根底におかれたもの/根底にあるもの」のことであり、桂 [1974:3]は「この全く客体的なことがら」とまで書いている。アリストテレスは『カテゴリー論』において「第一実体」の定義として「他の事物はそれ の述語となるが、それ自らは決して他の何ものの述語とされない」という性格をヒュポケイメノンに与えている。主体(subjectum)が物質と同じ意味 をもつ基体(substratum)という訳語も与えられたとも考えてられている。
ちなみにアリストテレスが考える「有るもの」の4つ のもののうち基体以外には、「何であるか(本質)」、「普遍的なもの」そして「類」というものがあ り、この基体に高い意味与えている。
また「客体」の語源は、投げ出され・差し出される
objici の名詞形として objectum
としてあり、桂の表現によれば、まったく今日的な使い方とは真逆に「 objective
にあるということは、決して今日我々のいう「客観的」にあるのではなく、逆に観念や心的形象の内容としてある、むしろ本来的でない主観的なありかたを意味
するのである」[桂 1974:4]。これは、歴史的みるとまったく逆説的な事実である。
桂寿一のみならず、西洋近代では、主体の近代化は、基体なるものが人間化されるものと、どうも関連しているらしいことを多くの論者が指摘している。人間
は、特別な意味で主体になったのである。それを可能にしたのは、人間そのものが近代の中で主題化し、それが世界との関係のなかで位置づけられ、また、その
ように理解されるようになったことと無関係ではない——つまりスピノザやアルチュセールの指摘を待つまでもなく「主体という概念は普遍的なものでなく、こ
の世の人に遍く備わっているものではない。したがって、私たちが世界を知るのは、傍観者ないしは観察者として知るのではなく、人間の知のありか
たとして知るということになるのだ。ただし、現代において世界を知るありかたには、どうもあれかこれかの関係ではなく、一方には客観主義とよばれる立場、
やはり人間は観察者として世界を正確に詳細に知ろうという立場もまたあり、これが自然を知るだけでなく、自然に働きかけかつそれを支配するヴィーコのよう
な近代科学観を具現化する思潮も生み出したというのである。
(→「主体/サブジェクト」はこちらです)
「主観主義とは、共有的・共同的なものではなく、 「私たち自身の精神活動が、私たちの経験における唯一の疑いようのない事実」であり、外的・客観的な真理は存在しないという教義である。トマス・ホッブズ は主観主義の初期の提唱者であったが、この立場が成功したのは歴史的にはデカルトと彼の方法論的な疑いによるものとされてい る。主観主義は、主観的な経験がすべての尺度や法則の基本であるとして、その優位性を認めるものである。この文脈では、人間の知覚の原動力としての神への 信頼から、ジョージ・バークレーの適格経験主義を考えることができる」。
Subjectivism
is the doctrine that "our own mental activity is the only
unquestionable fact of our experience",[1] instead of shared or
communal, and that there is no external or objective truth. While Thomas Hobbes was an early proponent of subjectivism,[2][3] the success of this position is historically attributed to Descartes and his methodic doubt. He used it as an epistemological tool to prove the opposite (an objective world of facts independent of one's own knowledge, ergo the "Father of Modern Philosophy" inasmuch as his views underlie a scientific worldview).[1] Subjectivism accords primacy to subjective experience as fundamental of all measure and law.[4] In extreme forms like Solipsism, it may hold that the nature and existence of every object depends solely on someone's subjective awareness of it. One may consider the qualified empiricism of George Berkeley in this context, given his reliance on God as the prime mover of human perception. |
主観主義とは、共有的・共同的なものではなく、「私たち自身の精神活動
が、私たちの経験における唯一の疑いようのない事実」[1]であり、外的・客観的な真理は存在しないという教義である。 トマス・ホッブズは主観主義の初期の提唱者であったが[2][3]、この立場が成功したのは歴史的にはデカルトと彼の方法論的な疑いによるものとされてい る。主観主義は、主観的な経験がすべての尺度や法則の基本であるとして、その優位性を認めるものである。この文脈では、人間の知覚の原動力としての神への 信頼から、ジョージ・バークレーの適格経験主義を考えることができる。 |
Metaphysical subjectivism Subjectivism is a label used to denote the philosophical tenet that "our own mental activity is the only unquestionable fact of our experience."[1] While Thomas Hobbes was an early proponent of subjectivism,[2][3] The success of this position is historically attributed to Descartes and his methodic doubt.[1] Subjectivism has historically been condemned by Christian theologians, which oppose to it the objective authority of the church, the Christian dogma, and the revealed truth of the Bible.[1][5] Christian theologians, and Karl Barth in particular, have also condemned anthropocentrism as a form of subjectivism.[1][6] Metaphysical subjectivism is the theory that reality is what we perceive to be real, and that there is no underlying true reality that exists independently of perception. One can also hold that it is consciousness rather than perception that is reality (idealism). This is in contrast to metaphysical objectivism and philosophical realism, which assert that there is an underlying 'objective' reality which is perceived in different ways. This viewpoint should not be confused with the stance that "all is illusion" or that "there is no such thing as reality." Metaphysical subjectivists hold that reality is real enough. They conceive, however, that the nature of reality as related to a given consciousness is dependent on that consciousness. This has its philosophical basis in the writings of Descartes (see cogito ergo sum), and forms a cornerstone of Søren Kierkegaard's philosophy. Modern versions Recently, more modest versions of metaphysical subjectivism have been explored. For example, I might hold that it is a fact that chocolate is tasty, even though I recognize that it is not tasty to everyone. This would imply that there are facts that are subjective. (Analogously, one might hold that it is a fact that it is winter in the Northern Hemisphere, even though this is not always the case, implying that some facts are temporary.) Giovanni Merlo has developed a specific version of metaphysical subjectivism, under which subjective facts always concern mental properties.[7] With Giulia Pravato, he has argued that his version of subjectivism provides a natural way to be both a realist and a relativist about, for example, the proposition that chocolate is tasty—it is part of reality (a subjective fact) that chocolate is tasty, but that doesn't mean it's necessarily true from another's point of view.[8] Caspar Hare's theory of egocentric presentism is another, closely related example. Subjectivism and panpsychism One possible extension of subjectivist thought is that conscious experience is available to all objectively perceivable substrates. Upon viewing images produced by a camera on the rocking side of an erupting volcano, one might suppose that their relative motion followed from a subjective conscious within the volcano. These properties might also be attributed to the camera or its various components as well. In this way, though, subjectivism morphs into a related doctrine, panpsychism, the belief that every objective entity (or event) has an inward or subjective aspect. |
形而上学的主観主義 主観主義とは、「われわれ自身の精神活動こそが、われわれの経験において唯一疑う余地のない事実である」という哲学的信条を示すために用いられるラベルで ある。 [キリスト教神学者、特にカール・バルトは人間中心主義を主観主義の一形態として非難している[1][6]。 形而上学的主観主義とは、現実とは私たちが現実であると認識するものであり、認識とは無関係に存在する根本的な真の現実は存在しないという理論である。ま た、現実であるのは知覚ではなく意識であるとする考え方もある(観念論)。これは形而上学的客観主義や哲学的実在論とは対照的で、さまざまな方法で知覚さ れる「客観的な」現実が根底にあると主張する。 この視点は、"すべては幻想である "とか "現実など存在しない "というスタンスと混同してはならない。形而上学的主観主義者は、現実は十分に現実であると考える。しかし、ある意識に関連する現実の性質は、その意識に 依存していると考える。これはデカルトの著作(cogito ergo sumを参照)に哲学的根拠があり、セーレン・キルケゴールの哲学の礎石となっている。 現代版 最近では、形而上学的主観主義のより控えめなバージョンも模索されている。例えば、チョコレートが万人にとって美味しいものではないことを認識しながら も、チョコレートが美味しいことは事実であると考える。これは主観的な事実が存在することを意味する。これは、主観的な事実が存在することを意味する(同 様に、北半球が冬であることは、常にそうであるとは限らないが、事実であると考えるかもしれない。これは、ある事実が一時的であることを意味する)。ジョ ヴァンニ・メルロは、形而上学的主観主義の特定のバージョンを発展させた。 [例えば、チョコレートはおいしいという命題について、チョコレートがおいしいということは現実の一部(主観的事実)であるが、それは他の人の視点から見 て必ずしも真実であることを意味しない[8]。キャスパー・ヘアの自我中心的現在論の理論も、密接に関連した例である。 主観主義と汎心論 主観主義的思考の一つの可能な拡張は、意識的経験は客観的に知覚可能なすべての基質に利用可能であるというものである。噴火している火山の揺れる側のカメ ラで撮影された画像を見て、その相対的な運動は火山内の主観的な意識に起因していると考えるかもしれない。このような性質は、カメラやそのさまざまな構成 要素にも帰するのかもしれない。 このように、主観主義は、関連する教義である汎心論、つまり、あらゆる客観的な実体(または出来事)には、内面的または主観的な側面があるという信念へと 姿を変える。 |
Ethical subjectivism Main article: Ethical subjectivism Ethical subjectivism is the meta-ethical belief that ethical sentences reduce to factual statements about the attitudes and/or conventions of individual people, or that any ethical sentence implies an attitude held by someone. As such, it is a form of moral relativism in which the truth of moral claims is relative to the attitudes of individuals[9] (as opposed to, for instance, communities). Consider the case this way — to a person imagining what it's like to be a cat, catching and eating mice is perfectly natural and morally sound. To a person imagining they are a mouse, being hunted by cats is morally abhorrent. Though this is a loose metaphor, it serves to illustrate the view that each individual subject has their own understanding of right and wrong. An ethical subjectivist might propose, for example, that what it means for something to be morally right is just for it to be approved of. (This can lead to the belief that different things are right according to each idiosyncratic moral outlook.) One implication of these beliefs is that, unlike the moral skeptic or the non-cognitivist, the subjectivist thinks that ethical sentences, while subjective, are nonetheless the kind of thing that can be true or false depending on situation. |
倫理的主観主義 主な記事 倫理的主観主義 倫理的主観主義とは、倫理的な文章は個々の人々の態度や慣習に関する事実の記述に還元される、あるいは、どのような倫理的な文章も誰かの態度を含意してい るというメタ倫理的な信念である。そのため、道徳的相対主義の一形態であり、道徳的主張の真偽は(例えば共同体とは対照的に)個人の態度に相対的である [9]。(自分が)猫であることを想像している人にとっては、ネズミを捕まえて食べることは至極当然であり、道徳的に正しいことである。自分がネズミだと想像してい る人にとっては、猫に狩られることは道徳的に忌まわしいことである。これはゆるい比喩ではあるが、善悪の判断はそれぞれの主体によって異なるという見解を 説明するのに役立つ。 倫理的主観主義者は、例えば、何かが道徳的に正しいとは、それが承認されることだと主張するかもしれない。(これは、それぞれの特異な道徳観に従って、異 なることが正しいという信念につながる可能性がある)。こうした信念が意味することのひとつは、道徳懐疑主義者や非認知主義者とは異なり、主観主義者は、 倫理的な文章は主観的ではあるが、それにもかかわらず、状況によって真にも偽にもなりうる種類のものだと考えるということである。 |
In probability Broadly speaking, there are two views on Bayesian probability that interpret the probability concept in different ways. In probability, a subjectivist stand is the belief that probabilities are simply degrees-of-belief by rational agents in a certain proposition, and which have no objective reality in and of themselves. According to the subjectivist view, probability measures a "personal belief".[10] For this kind of subjectivist, a phrase having to do with probability simply asserts the degree to which the subjective actor believes their assertion is true or false. As a consequence, a subjectivist has no problem with differing people giving different probabilities to an uncertain proposition, and all being correct. Many modern machine learning methods are based on objectivist Bayesian principles.[11] According to the objectivist view, the rules of Bayesian statistics can be justified by requirements of rationality and consistency and interpreted as an extension of logic.[12][13] In attempting to justify subjective probability, Bruno de Finetti created the notion of philosophical coherence. According to his theory, a probability assertion is akin to a bet, and a bet is coherent only if it does not expose the wagerer to loss if their opponent chooses wisely. To explain his meaning, de Finetti created a thought-experiment to illustrate the need for principles of coherency in making a probabilistic statement. In his scenario, when someone states their degree-of-belief in something, one places a small bet for or against that belief and specifies the odds, with the understanding that the other party to the bet may then decide which side of the bet to take. Thus, if Bob specifies 3-to-1 odds against a proposition A, his opponent Joe may then choose whether to require Bob to risk $1 in order to win $3 if proposition A is found to be true, or to require Bob to risk $3 in order to win $1 if the proposition A is not true. In this case, it is possible for Joe to win over Bob. According to de Finetti, then, this case is incoherent.[13] |
確率において 大まかに言えば、ベイズ確率には2つの見解があり、確率の概念を異なる方法で解釈している。確率において主観主義的な立場とは、確率はある命題に対する合 理的な主体による単なる信念の度合いであり、それ自体に客観的な実在性はないという信念である。主観主義者の見解によれば、確率は「個人的な信念」を測る ものである[10]。この種の主観主義者にとって、確率に関係する語句は、主観的行為者が自分の主張が真であると信じるか偽であると信じるかの程度を単に 主張するものである。その結果、主観主義者は、不確実な命題に異なる人々が異なる確率を与えても、すべてが正しくても何の問題もない。 客観主義者の見解によれば、ベイズ統計のルールは合理性と一貫性の要件によって正当化され、論理学の拡張として解釈される[12][13]。主観的確率を 正当化しようとする中で、ブルーノ・デ・フィネッティは哲学的首尾一貫性という概念を生み出した。彼の理論によれば、確率の主張は賭けに似ており、賭け は、相手が賢明な選択をした場合に賭け手が損失を被らない場合にのみ首尾一貫している。その意味を説明するために、デ・フィネッティは、確率的な主張をす る際に首尾一貫性の原則が必要であることを示す思考実験を行った。彼のシナリオでは、誰かが何かを信じる度合いを表明するとき、その信念に賛成か反対かの 小さな賭けをし、オッズを指定する。したがって、ボブがある命題Aに対して3対1のオッズを指定した場合、相手のジョーは、命題Aが真実であると判明した 場合に3ドルを獲得するためにボブに1ドルのリスクを要求するか、命題Aが真実でない場合に1ドルを獲得するためにボブに3ドルのリスクを要求するかを選 ぶことができる。この場合、ジョーがボブに勝つことは可能である。ド・フィネッティによれば、このケースは支離滅裂である[13]。 |
Egocentric predicament Dutch book Transactionalism Transcendental subjectivism Phenomenology Existentialism Austrian economics and praxeology Vertiginous question |
エゴセントリックな苦境 オランダの本 トランザクショナリズム 超越論的主観主義 現象学 実存主義 オーストリア経済学とプラクセオロジー 垂直的問題 |
https://en.wikipedia.org/wiki/Subjectivism |
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