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近代主体概念を問いなおす

Rethinking the concept of subjectivity in temps moderne

池田光穂

近代主体概念を問い直すとは、西洋近代が用意し鍛え 上げてきた「主体」——私というものの在り処でありまた私そのもののこと——の概念を、反省的にとらえ直すことです。このことを通して、主体としての私と は何者であるのかを、社会や思想が呼びかけ働きかけてきたものが、西洋近代が理想とする「主体」とどのような相違や亀裂が生じるのかを、明らかにします。 これまで、私たちは、その違いが明らかになった場合には、西洋近代が理想とする「主体」の原理のほうを優先して、主体としての私を修正し、それにあわせて ゆくようにすることです。カントの「啓蒙とはなにか?」のなかにある、未熟な状態からの脱却を試みることです。しかし、主体としての私たちが、西洋近代の 主体と異なることに、私たちが気がついて、それに違和感がなく——自然化している状態と言います——また、それが私たちにとっての美徳と思われる場合、西 洋近代が用意してきた主体のほうがむしろ異なるのではないか? あるいは西洋近代と、我々——例えば、東洋や東アジアあるいは儒教圏あるいは日本文化など で表象できる——は違うのだと解釈するのです。前者は、啓蒙の論理で、後者は文化相対主義の論理にあたるでしょう。

しかし、西洋近代の主体概念を問い直す方法は、ほか にも沢山あります。それが、対話を通して、この近代主体について議論することでしょう。文献に引いていますが、Yahoo! 知恵袋「近代的主体とは一言で言うと何なのでしょうか? 」へのベストアンサー(rank_0ut 氏)の回答が秀逸なので、それを引用しつつ、 この概念がもつ違和感について検証しましょう。回答の全文は5つのパラグラフからなりたっています。それぞれのパラグラフごとに検討していきましょう。下 線は引用者によるものです。

(1) 「学的な用語としての「主体」は、デカルトのいうコギト、カントの言う超越論的な自己意識のような、倫理的で合理的な規範として機能する自律的な主体のことで す」

ここでの理想的な「主体」は、自分のことが(他人か らの客観的な眼を通して)何もであるかを理解している。それは道徳的であり、また合理的で、自分で自分をコントロールできることが示されています。

(2) 「人称の主体は、いつでもどこでも、主語と述語の関係から成立し ます。一方、哲学における自律的主体は、人々が自分の行為の原因 を自分の意志に求め、自分の行為の責任は自分にあると信じることによって、はじめて成立する概念です。つまり自律的主体は、人々が共同体から独立して個人の意志や責任が問題となる近代 社会に固有な現象だと言えます」

我々の常識では自明である社会の中の存在、社会に従 属した存在である「私」ではなく、私は私だ、と自覚する私が要求されています。あるいは、私以外の他人様や社会が、どのようなものであっても、それとは無 関係に、私でなければならないと、そう思っている私です。この主張は、一方で気高いとは思いますが、他方で、ずいぶんしんどい決意や覚悟のような気持ちが します。要は、世間に流されるなと、いつもいつも耳もとで言われていると「そんなものは自分でするがな!(します!)」と反論したくなります。でも皮肉 に、それ(=後者)の自覚こそが、そのような個人の意思の産物なのです。

(3)「この自律的主体は、近代社会に内在する人間 として、自己を形成していきます。したがって、自律的主体が生じるところには、「呼びかけ審判する超越的自己」と、「その呼びかけに応じて審判に従う経験 的自己」が生じます。ミシェル・フーコーが言うように、超越的自己と経験的自己という自律的主体の基本的な構造は、キリスト教における「召命 (calling)」に見出せます。召命は、神に呼びかけられ、救われることを意味しています。人間が神の召命に応えるための行為の一つが「告白 (confession)」です。告白は「告解」の一部とされます。「告解」は、神父や牧師に自分の罪を告白し、その赦しを乞う行為の一部です。告白され る罪は自分の真実、つまり経験的自己における真実であるとされます。告白する自分は自分を超える自分です。したがって、それは超越的自己となります。つま り告白というのは、超越的自己による経験的自己の開示を伴わせる行為なのです。フーコーによれば、こうした告白は西欧近代社会に自律的主体という自己概念 を広めるための装置として機能していました」

先の(2)でコメントしたような、分離・分裂を、こ のフーコーは2つの用語で上手に表現しています。「呼びかけ審判 する超越的自己」と、「その呼びかけに応じて審判に従う経験的自己」です。フーコーはキリスト教の儀礼において重要な位置をなす召命や告解 (<告白)の概念で説明していますが、非キリスト教徒ではない、人にもこのような2つの自己から得られるのものは多いと思われます。

(4) 「自律的主体の概念は、18世紀以降の啓蒙思想にも反映されていきました。啓蒙思想の先駆者デカルトは、私と「デカルト」は交換不可能であると論じてい ます。固有名詞である「デカルト」は、世俗社会で生きる具体的な人物や人格を指し示すでしょうが、人称代名詞の「私」は、神に由来する普遍的な「塊」を指 す言葉だからです。しかし脱魔術化された近代世界で は、次第に自律的主体の超越的自己は「神」という宗教的な概念とは結び付かなくなりました。打って変わって、人が完全性に到達するためには、内在的な「理性」に結び付かなければならな いという考え方が広まっていったのです」

2つの自己をもってなぜ、思考や気持ちが分裂しない のかというと、それを調停する「理性」が必要であり、デカルトでは異端審問の危険性があるので、神という用語を使っていますが、(教会や宗教的なものが我 々の日常性のなかにそれほど大きく占めない現代社会では)あきらかに、道徳や合理性を引き出す「理性」が、その調停として考えられています。

(5)「マルチン・ハイデガーが危惧したように、自律的主体であること には危険が伴います。自律的主体は、自己を超越化してしま うために、他者の存在に盲目的になってしまうのです。他者の存在を見失う 時、人はエゴイズムやアノミーに陥る可能性があります。 そして、大多数の人々がエゴイストになりアノミーになれば、もはや自分が変だとは 思わなくなってしまいます超越的自己は、もはや 経験的自己を審判して反省する尺度を失ってしまうので す」

このように、人間社会が我々に対して要求する自律的 主体というものには、ハイデガーを含めて、さまざまなリスクがあるということを示しています。

●アノミー状態における逸脱行動の4つのパターン・マトリックス(文化目標の是認か拒否か、制度的手段の是認か拒否か?)——ロバート・マートン

●啓蒙とはなにか?(カント)

1)啓蒙の定義:人間が自ら招いた未熟(=未成年の 状態)の状態から抜け出ること 2)未熟(=未成年の状態)の利点:他人に依存するのでとっても便利、だって人に頼ればいいんだもーん。カントはセクシストだから、男性の未成年者と女性 は、このような状態に甘んじたままだと批判 3)未熟から抜け出せない理由:上掲のごとく楽チンだからである 4)公衆の啓蒙:個人が未熟状態から脱するのは困難だが公衆はそうでもない。公衆に自由を与えれば、未熟から脱出しようとするからだ。革命は便利だが、革 命に自ら委ねるだけではダメ。大衆に埋没してしまう 5)理性の公的利用、理性の私的利用:公衆が未熟から脱出するためには公衆に自由を与えればよい。理性の公的な利用は学者(おつむの賢いひと)がみんなの 前で、理性を使ってみせることである。理性の私的利用とは、個人が理性を使うことである。 6)3つの事例:戦時に上官の命令に従う、市民として納税する。牧師が信徒の前で説教することは理性を使わないが、牧師が市民の前で公にはなすことは理性 をつかう。 7)宗教家は、人間の自由をさまたげることを、市民の前で話してはならない。認識を拡張し、誤 りを取り除くき、一般に啓蒙することを禁じたら、それは人間性に対する犯罪である。国民と法の関係については、国民の間で法についての話し合うことで、法 が自由を制限してはならないことに気づくはずだ。あらゆる宗教は、人間の自由を妨げてはならない。 8)君主が法律を定めることができるのは、君主が国民の総意にある時にである。日本は象徴天皇制なので國民の総意を代表して議会が立法し政府がそれを実行 しなきゃならない.つまり國民の総意を反映していない國葬儀をおこなうことは違憲なのだ。 9)カントが「啓蒙とはなにか」を書いたフリードリッヒ大王の世紀は、啓蒙された時代だろうか?とカントは問う。カントの答えは「そうではないが、啓蒙さ れつつある時代」だと診断する。つまり、今の時代は「啓蒙の時代」だ。カントは、理想的な啓蒙時代の君主像を提示する。 10)啓蒙の広がり、カントは、フリードリッヒ大王の世紀を一生懸命用語するが、とりわけ、宗教界への自由の抑圧を批判するために、啓蒙君主をよいしょす る戦略をとっているかのようだ。 11)啓蒙は、かくのごとく、人間の自由の不可分でこのましいものだが、それを遂行するために は、啓蒙君主のもとで自由を享受する臣民には、次のようなことが言われなければならない:「好きなだけ、何事についても議論しなさい、ただし(君主に)服 従せよ」。そのような逆説が、共和状態の市民の自由には課される。また、精神を多少なりとも制約するほうが精神の自由についてのその能力を発揮するような 自由の余地がうまれる。これもまた、啓蒙の逆説である。自由に行動する能力が高まると、統治の原則にまでおよんでゆく。統治者はもはや機械ではない、人間 (市民)をそれにふさわしく処遇することが、自らにとっても有益であることを理解するようになる(→「啓蒙とはなにか?」)。

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文献

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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