hauntology, ひょうざいろん
憑在論(ひょうざいろん:ハウントロジー:hauntology, L'hantologie)とは、ジャッ ク・デリダの『マルクスの亡霊』(原著, 1993/2007a:37)に登場する用語で、「存在でもないが、かといって不在でもない、死んでいるのでもないが、かといって生きているでも ない」ような亡霊の姿をとってあらわれる、延期されたオリジナル(res extensa)ではないものよっ て表現される、置き換えられた、時間的・歴史的・存在論的脱節(temporal, historical, and ontological disjunction)の状態のことをさす。我々が常態的であると信じ込んでいる、オリジナルとアイデンティティ(同一性)、オリジナルものの存在的な ゆるぎのなさ、を解体するデリダ流の脱構築の方法のレパートリーとしてみることができる。
これは、ただ単に人を驚かすのみならず、存在するもののゆるぎのなさが、解体する/別のものによりハックされる、されることで、存在するものと そのアイデンティティを、後者を別のもので置き換えることを通して、存在してきたものの意味をずらし、解体し、そして見直す、認識論的な方法であるとも言 える。
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デリダはマルクスの唯物論(=実在的存在論)に対して批判する。唯物論は、過去あるいは現在の実在(リアリティ)は、観念(=デリダはそれを非 実在の幽霊 [spectres]としてとらえる)抜きになしに理解可能であるという立場をとる。だがそれは、傲慢な考え方ではないか?そのように考える(=脱構築す ると)とマルクスの著作には、霊(spirits)から逃亡しようとして、思索を深めた形跡がある。だが、霊から逃れてはならない(→我々は霊にハック= 取り憑かれる存在だからだ)——抽象的な理念と理念を完全に「肉化」する試みの現実態の中間にあるので、それは存在論ではなく、憑在論と呼ばれるものに相当する。
マルクスの人間解放論は、正義のもとでなされると、その意味で[その社会理論は]、一種の構造的メシアニズム(宗教なきメシアニズム)になる。
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亡霊の姿は、しばしば現れる度に異なった様相をもち(同一性を持たない)「延 期されたオリジナルではないもの」としての登場する。反復して登場する、死者の亡霊はつねに「始まり」の姿を露(あらわ)にする。過去の亡 霊の登場は、時間的秩序をゆるがし、解決済みのものではないことを、生者に不安な混乱を通して呼びかけるものである。
そのような、亡霊と生者との間には、理想的なコミュニケーションな どは不可能であるし、それらの「対話」が、容易なるものがあるだろう。僕たちは、 亡霊を前にして、冷静に相手に対して「対話」などをすることが困難なことは想像に難くない。
デリダは端的に、亡霊の現存在=そこにいる、とはどういうことだと問いをたてる。
現に、亡霊に不安を感じている人はいる。また、生身を持たず、現前する実在性も、アクチュアリティも現実性ももたぬ亡霊ゆえに、それは過去の遺 物にすぎないとおもっている人も多い(→「アイヌ遺骨の返還問 題について」)。
「鎮まれ、鎮まれ、せっかちな亡霊よ」(ハムレット)——Horatio says ’tis but our fantasy And will not let belief take hold of him- MARCELLUS
結局のところ「亡霊とは未来なのである、つねに来たるべきものであり、再-来するかもしれぬもの」(「そのようなものとしてからみずからを現前 させることはない」)(デリダ 2007b:4)
■「私が、幽霊と相続と世代=生殖につい
て、幽霊のいくつもの世代=誕生、すなわちわれわれの前
にも、われわれの内にも、われわれの外部にも現前しておらず、現在生きていないある他者たち
について、これから長々と話そうとしているのは、正義の名においてである。まだ存在
しない正義、まだここにはない正義、もはやここにはない正義、すなわちもはや現前せず、法
にも還元できないところにある正義の名においてである。そ
の他者たちがすでに死んでしまったにせよまだ生まれていないにせよ、もはやここに現前して生
きていないあの他者たち、あるいはまだここに現前して生きていないあの他者たち、その他者た
ちの尊重を原理として持たぬいかなる倫理あるいは政治学——その政治学が革命的であろうとな
かろうと——これらのいずれもが可能とも思考可能とも正しいとも思われない限りにおいて幽
霊について話さねばならず、ひいては幽霊に対して話さねばならず、さらには幽霊とともに話さ
ねばならない」(デリダ 2007a:13) ●「一切の生き生き とした現在の彼方における責任=応答可能性、生き生きとした現在の節合をはずすものにおける/ 責任=応答可能性、まだ生まれていない者もしくはすでに死んでしまった者たちの幽霊の前での 責任=応答可能性なしには。その彼らが、戦争ゃ、政治的その他の暴力や、民族主義的、植民地 主義的、性差別的その他の絶滅や、資本主義的帝国主義あるいはあらゆる形態の全体主義による 圧制、それらの犠牲者であろうとなかろうと。生き生きとした現在の、自己に対するこの非-同 時性がなければ、その現在の正確さをひそかに狂わせるものがなければ、ここにはいない者たち ーーすなわち〈もはや〉あるいは〈まだ〉現前してはおらず生きていない者たち——への正義の ための責任と敬意がなければ、「どこに?」、「明日はどこに?(whiter?)」という問いを立て るどんな意味があるというのだろうか」(デリダ 2007a:13-14)。 |
★憑在論批判
「デリダは、他者を完全に脱存在化することにより、他者性をきたるべきものに還元し、その結果、約束という幽霊だけが残る」ジジェク『操り人形と小人』(210)」
【設問】
1.
2.
■デリダの『マルクスの亡霊たち』(増田一夫訳)について
導入
1.マルクスの厳命
2.共謀する=厄祓いする——マルクス主義(を)
3.摩耗(年齢、時代なき世界の描写)
4.革命の名のもとに、二重のバリケード(不純な「不純なる不純な幽霊たちの物語」)
5.現れざるものの出現——現象学的「手品」
■共産主義の亡霊
亡霊の比喩は、マルクス・エンゲルスが「共産主義者宣言(共産党宣言)1848年」で、共産主義のこと(das Gespenst des Kumunismus)を比喩して表現した。だが、マルクスの著作のうちフランス三部作「フランスにおける階級闘争」「ルイ・ボナパルトのブリュメール 18日」「フランスの内乱」に登場する。
共産主義者宣言/共産党宣言の憑在論︎▶︎マルクス主義という名のオブセッション▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎
リンク(概念用語)
文献
Mitzub'ixi Quq Chi'j
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099
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