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カール・マルクス

 Karl Marx, 1818-1883

池田光穂

カール・マルクスは、1818年5月5日プロイセン 王国ニーダーライン大公領属州トリーア(上掲のワッペン参照)に生まれた。しかし1845年、彼が27歳の時にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国 籍者だった。1849年(31歳)の渡英以降はイギリスを拠点として活動している。

1818 プロイセン王国ニーダーライン大公領属州 トリーアにうまれる

1820s  農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで反ユダヤ主義が強まる

1824 8月、第8子のカロリーネが生まれたのを 機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗

1825 母オランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ (Henriette)も改宗。

1830 12歳の時にトリーアのフリードリヒ・ ヴィルヘルム・ギムナジウムに入学。フランスで7月革命.

1831 クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネChristian Johann Heinrich Heine, 1798-1856)は、1831年からはパリに移住して多数の芸術家と交流を持ち、若き日のマルクスとも親交があり、プロレタリア革命など共産主義思想の着想に多大な影響を与えた。

「ハイネはフランス移住を決意し、1831年5月に 終生までの住処となるパリに移った。ハイネはフランス時代に多くの著名な芸術家、文学者やサン=シモニストと交流を持っており、その中には作曲家エクト ル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、フランツ・リスト、ジョアキーノ・ロッシーニ、フェリックス・メンデルスゾーン、リヒャルト・ワーグナー、作 家オノレ・ド・バルザック、ヴィクトル・ユーゴー、ジョルジュ・サンド、アレクサンドル・デュマらが含まれる。」

1832 自由とドイツ統一を求める反政府派集会が 開催

1833 ギムナジウムに警察の強制捜査が入り、ハ ンバッハ集会の文書を持っていた学生が一人逮捕

1834 1月には父ハインリヒもライン県(ドイツ 語版)県議会議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止され、「カジノクラブ」も警察 監視下に置かれた。ギムナジウムの数学とヘブライ語の教師が革命的として処分され、ヴィッテンバッハ監視のため保守的な古典教師ロエルスが副校長として赴 任。

1835 ボン大学に入学。プロイセン陸軍(ドイツ 語版)に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格。

1936 夏にトリーアに帰郷した際にイェニー・ フォン・ヴェストファーレンと婚約。10月にベルリン大学に転校。

1837 1837年と1838年の冬に病気をした が、その時に療養地シュトラローで、ヘーゲル哲学の最初の影響を受けた.

1833 5月10日に父ハインリヒが病死

1840 キリスト教と正統主義思想の強い影響を受 けるロマン主義者フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位し、保守的なヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルンが文部大臣に任命された。

1841 

反ヘーゲル派のフリードリヒ・シェリング 教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任。4月6日に審査が迅速で知られるイェーナ大学に『デモクリトスの自然哲学とエピクロス の自然哲学の差異(英語版)(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の4月15日に同大学から哲学博士号を授与。7月ボン大学で教授をしていたバウアーの もとを訪れる。ボンでのマルクスとバウアーは『無神論文庫』という雑誌の発行を計画したが、この計画はうまくいかなかった。1841年夏にアーノルト・ ルーゲは検閲が比較的緩やかなザクセン王国の王都ドレスデンへ移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrbücher)』を出版した。マルクスはケッペンを通じてルーゲに接近し、この雑誌にプロイセンの検閲制度を批判する論文を寄稿したが、ザクセン 政府の検閲で掲載されなかった。ザクセンでも検閲が強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿を断念し、彼の友人が何人か参加し ていたライン地方の『ライン新聞(ドイツ語版)』に目を転じた[119]。この新聞は1841年12月にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が新検閲令を発 し、検閲を多少緩めたのを好機として1842年1月にダーゴベルト・オッペンハイム(ドイツ語版)やルドルフ・カンプハウゼンらライン地方の急進派ブル ジョワジーとバウアーやケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派が協力して創刊した新聞だった。

1841 ルートヴィヒ・フォイエルバッハ『キリス ト教の本質』

1842 

5月にもボン(後にケルン)へ移住し、ヘ スやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加し、論文を寄稿。無神論の記事を書いたが、検閲官の目は誤魔化せず、この記事は検閲で却下された。また8月にも 結婚の教会儀式に反対する記事を書いたのが検閲官に却下。当時のマルクスは共産主義者ではなく、あくまで自由主義者・民主主義者だったため、編集長就任の 際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した。

1843 

3月『ライン新聞』廃刊。イェニー・フォ ン・ヴェストファーレン(兄のフェルディナントはプロイセンの内務大臣。ヴェストファーレン家はプロイセンの貴族)と結婚

1843年3月から8月にかけて書斎に引きこもって 『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』の執筆

「1843年、ハイネは、パリで25歳のカール・マ ルクスと親交を結び、1845年のマルクスの出国まで頻繁に会う。マルクスはハイネの『ドイツ冬物語』(13年ぶりのドイツ旅行を題材にしたもの)の出版 の手助けをするなど援助に努め、ハイネもマルクスに多くの詩を読み聞かせて意見を求めた。ハイネはさらに、1844年、シレジアの窮乏した織物工が起こし た蜂起を題材にした時事詩「貧しき職工たち」(のち「シレジアの職工」)を『フォーアベルツ』誌に発表、社会主義者の機関紙でフリードリヒ・エンゲルスの 激賞を受ける。同年『新詩集』を刊行する。」

1844 『独仏年誌』1号2号の合併号が出版され た。マルクスとルーゲのほか、ヘスやハイネ、エンゲルスが寄稿。8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『聖家 族』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった。

1845 

1月、フランス外務大臣フランソワ・ギ ゾーは、内務省を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』に寄稿している外国人を国外追放処分とした。月にパリを離れ、ベルギー王都ブリュッセルに移 住。ベルギー王レオポルド1世は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。マ ルクスはベルギー警察の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓い ます。」という念書を提出。夏からエンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版され ることはなかった。

1846 2月にはエンゲルス、ヘス、義弟エド ガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)、フェルディナント・フライリヒラート、ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、ヴィルヘルム・ヴァ イトリング、ヘルマン・クリーゲ(ドイツ語版)、エルンスト・ドロンケ(ドイツ語版)らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「正義者同盟」と の連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している。

1847 『哲学の貧困』。1月、ロンドン正義者同 盟のマクシミリアン・ヨーゼフ・モル(ドイツ語版)がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。マルクスはこ れを許可し、6月のロンドンでの大会で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「共産主義者同盟 (1847年)」を結成することを正式に決議した[264][265]。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の 敵」とする決議も出された。

1848 2月革命。2月22日に暴動が発生し、 24日にフランス王ルイ・フィリップが王位を追われて共和政政府が樹立される事件が発生した。オーストリア帝国の帝都ウィーンでは3月13日に学生や市民 らの運動により宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝フェルディナント1世も一時ウィーンを離れる 事態となった。オーストリア支配下のハンガリーやボヘミア、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国のイタリア統一運動も刺激された。プロイセン王都 ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入 り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、プロイセン国民議会(ドイツ語版)の創設、ドイツ統一運動に承諾を与えた。3月4日に入った午前1時、ベルギー警察 が寝所にやってきて逮捕。妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された。3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、 警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国する。3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。 議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、カール・シャッパー、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた。3月21日にはエンゲルスとともに17カ 条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表。マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方ケルンに入る。

6月23日にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生 するも(6月蜂起)、ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧。6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽 造パスポートでフランスに入国。パリのリール通り(フランス語版)に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始。偽名で生活していたマルク スも8月16日にパリ行政長官からモルビアン県へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここはポンティノ湿地(フ ランス語版)の影響でマラリアが流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れる ため、フランスからも出国する覚悟を固めた。

マルクスの『新ライン新聞』発行

1949 反逆罪容疑の裁判では無罪判決。5月16 日にプロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分。6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽造パスポートでフランスに 入国。パリのリール通り(フランス語版)に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した。8月27日に船に乗り、イギリスに入国。エンゲ ルスも11月12日にはロンドンへやってきた。

1850 ドイツ連邦自由都市ハンブルクで月刊誌 『新ライン新聞 政治経済評論)』を出版。9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進める(経済学批判)。

1851 秋からアメリカ合衆国ニューヨークで発行 されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『ニューヨーク・トリビューン』のロンドン通信員。12月に大統領ルイ・ボナパルトが議会に対す るクーデタを起こし、1852年1月に大統領に権力を集中させる新憲法を制定して独裁体制を樹立した[396]。さらに同年12月には皇帝に即位し、ナポ レオン3世と称するようになった。

1855 

妻イェニーの伯父と母が相次いで死去し た。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は楽になった

1856 ハインリヒ・ハイネChristian Johann Heinrich Heine, 1798-1856)がパリで死亡、モンマルトル墓地に葬られる。

1859 1月にこの原稿を完成させたマルクスは ラッサールの仲介でドゥンカー書店から『経済学批判』を出版した

1861 プロイセンで国王フリードリヒ・ヴィルヘ ルム4世が崩御し、皇太弟ヴィルヘルムがヴィルヘルム1世として新たな国王に即位した。即位にあたってヴィルヘルム1世は政治的亡命者に大赦を発した。プ ロイセンでは、1861年12月とつづく1862年4月の総選挙で保守派が壊滅的打撃を被り、ブルジョワ自由主義政党ドイツ進歩党が大議席を獲得してい た。

1862 ラッサールがロンドン万博で訪英するのを マルクスが歓迎することに。

1863 11月に母ヘンリエッテが死去した。マル クスは母の死には冷淡で「私自身棺桶に足を入れている。この状況下では私には母以上の物が必要だろう」と述べる。ドイツ社会民主党が創設。

1864 

同志のヴィルヘルム・ヴォルフが死去し た。ヴォルフは常にマルクスとエンゲルスに忠実に行動を共にしていた人物であり、彼は遺産のほとんどをマルクスに捧げる遺言書を書き残していた。マルクス は彼の葬儀で何度も泣き崩れた。ヴォルフは単なる外国語講師に過ぎなかったが、倹約家でかなりの財産を貯めていた。これによってマルクスは一気に820ポ ンドも得ることができた。この額はマルクスがこれまで執筆で得た金の総額よりも多かった。急に金回りが良くなったマルクス一家は浪費生活を始めた。パー ティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになったのである[447]。しか しこのような生活を続けたため、すぐにまた借金が膨らんでしまった。再びエンゲルスに援助を求めるようになり、結局1869年までにエンゲルスがその借金 を肩代わりすることになった(この4年間にエンゲルスが出した金額は1862ポンドに及ぶという)。この借金返済以降、ようやくマルクス家の金銭事情は落 ち着いた

1866 ハンブルクのオットー・マイスネル書店か ら『資本論』第1巻を出版。

1873 肝臓肥大の診断。以降鉱泉での湯治を目的 にあちこちを巡る。

1875 春には近くのメイトランド・パーク・ロー ド41番地に最後の引っ越しをしている。以降マルクスは死去するまでここを自宅とすることになる

1875年のマルクス

1883 1月12日に長女イェニーが病死した。そ の翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見された。 64歳。その3日後にハイゲイト墓地の無宗教墓区域にある妻の眠る質素な墓に葬られた。葬儀には家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出 席したが、大仰な儀式を避けたマルクスの意思もあり、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度の慎ましいものだった。

1918 ロシア革命。11月のドイツ革命

1919 ワイマール憲法(〜1933停止〜 1945廃止)

1922 英国、労働党が1922年に労働党政権が 誕生する。

1936 フランス、社会党と共産党による人民戦線 内閣が誕生。ドイツではドイツ社会民主党がワイマール共和国で長く政権を担当する。

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●クレジット:カール・マルクスあるいはカールおじさんの実践哲学

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