はじめによんでください

トランスクリティーク

Transcritique; Kant and Marx

池田光穂

☆ 『トランスクリティーク:カントとマルクス』は柄谷行人の著作、岩波現代文庫(2010年)のほか、英語版(2003)をふくめ、さまざまな版がある。書 肆の岩波書店の紹介文→「カントによってマルクスを読み,マルクスによってカントを読む.社会主義の倫理的根源を明らかにし,来るべき社会への実践を構想 する本書は,絶えざる「移動」による視差の獲得とそこからなされる批評作業(トランスクリティーク)の見事な実践であり,各界に大きな衝撃を与えた.2003年英語版に基づき改訂.」

★トランスクリティークの定義は上でこのように書かれています:「絶えざる「移動」による視差の獲得とそこからなされる批評作業」だと。

■編集部からのメッセージ
 本書は柄谷行人氏の主著として,海外でも広く知られています.しかし本書に初めて出会われた方の中には本書の書名について,イメージを持ちにくいという 方がおられることでしょう.とりあえずトランスクリティークとは「移動と視差による批評」とご理解いただければ幸いです.それでは,本書では何を批評しよ うとしているのでしょうか.
 「序文」には本書の位置づけが以下のように書かれています.
 「本書は二つの部分,カントとマルクスに関する考察からなっている.この二つは分離されているように見えるけれども,実際は分離できないものであって, 相互作用的に存在する.私がトランスクリティークと呼ぶものは,倫理性と政治経済学の領域の間,カント的批判とマルクス的批判の間の transcoding,つまり,カントからマルクスを読み,マルクスからカントを読む企てである.私がなそうとしたのは,カントとマルクスに関する共通 する「批判(批評)」の意味を取り戻すことである.いうまでもなく,「批判」とは相手を非難することではなく,吟味であり,むしろ自己吟味である」.
 そして本書の問題意識として「イントロダクション」では,「視差」の重要性が記されています.マルクスを衝き動かしたものは自分の視点だけで他人の視点 だけで見ることではなく,「それらの差異(視差)から露呈してくる「現実」に直面することである」.そして著者は述べています.「重要なのは,マルクスの 批判がつねに「移動」とその結果としての「強い視差」から生まれていることだ.カントが見いだした「強い視差」は,カントの主観主義を批判し客観性を強調 したヘーゲルにおいて消されてしまった.同様に,マルクスが見いだした「強い視差」は,エンゲルスやマルクス主義者によって消されてしまった.その結果, 強固な体系を築いたカント,あるいはマルクスというイメージが確立されたのである.しかし,注意深く読めば,このようなイメージがまったく違うということ がわかる」.
 以上の課題意識に基づいて,本書が書かれていること.何よりもカント⇔マルクスという水脈をいかに見いだしていくかという著者の立場が哲学史の再検討に とどまらず,カントによってマルクスを読み,マルクスによってカントを読む――社会主義の倫理的根源を明らかにし,来るべき社会に向けての実践を構想する という課題そのものであることが理解されるのではないかと想います.その意味で本書の第四章は飾り物ではなく,資本,国家,ネーションという三つの基礎的 な交換様式をふまえ,さらにそれを超える交換様式(アソーシエーション)という思想の提示として,現代世界論が示されているという必然性も理解されるもの と思われます.
 「岩波現代文庫版あとがき」で柄谷氏は,本書においてヘーゲル批判という問題意識がどれほど強いものであったかを次のように述べています.
「私の考えでは,資本・ネーション・国家を相互連関的体系においてとらえたのは,『法の哲学』におけるヘーゲルである.それはまた,フランス革命で唱えら れた自由・平等・友愛を統合するものでもある.ヘーゲルは,感性的段階として,市民社会あるいは市場経済の中に「自由」を見出す.つぎに,悟性的段階とし て,そのような市場経済がもたらす富の不平等や諸矛盾を是正して「平等」を実現するものとして,国家=官僚を見出す.最後に理性的段階として,「友愛」を ネーションに見出す.ヘーゲルはどの契機をも斥けることなく,資本=ネーション=国家を,三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである.
 ヘーゲルはイギリスをモデルにして近代国家を考えていた.ゆえに,そこにいたる革命は今後においても各地にあるだろう.しかし,この三位一体的な体制が できあがったのちには,本質的な変化はありえない.ゆえに,そこで歴史は終わる,というのがヘーゲルの考えである.もちろん,ヘーゲル以後にも歴史はあっ た.しかし,本質的な変化は存在しないというほかない.『法の哲学』は今なお有効なのである.ここでもし歴史は終わっていないというのであれば,あれこれ の出来事があるというだけではなく,資本=ネーション=ステートを越えることが可能であるということを示さなければならない.
 私が本書で試みたのは,そのようなヘーゲルの批判である.もちろん,私は正面からヘーゲルを扱わなかった.そうするかわりに,カントとマルクスを論じた のである.カントをマルクスから読むとは,カントをヘーゲルに乗り越えられた人ではなく,ヘーゲルが乗り越えられない人として読むことだ.マルクスをカン トから読むとは,カントがもっていたがヘーゲルによって否定されたしまった諸課題の実現を,マルクスの中に読むことだ.
 しかし,私がヘーゲルのことをあらためて意識したのは,『トランスクリティーク』を日本で出版したあとまもなく起こった事件,すなわち,二〇〇一年の 9/11事件,そして,イラク戦争においてである.この時期,アメリカのネオ・コンは,ヨーロッパが支持した国連を,カント主義的夢想として嘲笑した.彼 らは,フクヤマとは違ったタイプのヘーゲル主義者だった.ヘーゲルは,カントのいう国家連合には,それに対する違反を軍事的に制裁する実力をもった国家が ないから,非現実的だと述べた人である.このとき,私はあらためてカントについて,特に『永遠平和』の問題について考えるようになったのである.
 『トランスクリティーク』において,私は国家がたんなる上部構造ではなく,自律性をもった主体(エージェント)だということを書いている.それは,国家 が先ず他の国家に対して存在することから来ている.したがって,他の国家がある以上,国家をその内部からだけでは揚棄することはできない.ゆえに,一国だ けの革命はありえない.ゆえに,マルクスもバクーニンも,社会主義革命は「世界同時革命」としてしかありえないと考えていた.しかし,本書を書いたとき, 私はこの問題をさほど深刻に考えていなかった.各国における対抗運動がどこかでつながるだろうと考えていたのである.二〇〇一年以後の事態が示したのは, 何もしないなら,各国の対抗運動は資本と国家によって必ず分断されてしまうだろう,ということだ.
 ところで,一国だけでは成り立たないのは,社会主義革命だけではない.ルソー的な市民革命もそうである.たとえば,フランス革命はたちまち,諸外国から の干渉と侵入に出会った.そのことが内部に恐怖政治をもたらし,他方で,革命防衛戦争から(ナポレオンによる)征服戦争に発展していったのである.カント はその過程で『永遠平和のために』(一七九五年)を発表したが,そのずっと前に,ルソー的な市民革命がそのような妨害に出会うこと,ゆえに,それを防ぐた めに諸国家連合が必要だということを考えていた.つまり,「永遠平和」のための構想は,たんなる平和論ではなく,いわば「世界同時革命」論として構想され たのである.だからこそ,ヘーゲルはカントに反対し,ナポレオン戦争を通してヨーロッパ各地に生まれた,資本=ネーション=国家こそ,最終的な社会形態で あると考えたのである.
 私は本書において,交換様式から社会構成体の歴史を見る視点,さらに,資本=ネーション=ステートを越える視点を提起した.しかし,それはまだ萌芽的な ものでしかないことを,私は認める.以後の私の仕事は,それをもっと詳細に,全人類史において解明することであった.そのために,一〇年ほどの時間が必要 であった.それは『世界史の構造』(岩波書店,2010年)という本である.『トランスクリティーク』の続編として読んでいただけると幸いである.」
 以上に示されているように,本書は極めて豊かな構想力に裏付けられた書物です.ただじっくりと読み進めていただければ,本書は,岩波新書『世界共和国へ』の広大な理論的後背地を明らかにした仕事としてご理解いただけるのではないかと思います.
 本書は2001年,批評空間社から刊行され,03年MITプレスからかなりの加筆がなされた上で英語版が刊行され,その後改訂された上で04年3月に小社から『定本 柄谷行人集』の第三巻として刊行されました.現代文庫では『定本 柄谷行人集』を底本としています.
 本書のご一読をぜひお勧めするものです.そして岩波新書『世界共和国へ』,そして本年に刊行予定の『世界史の構造』にもぜひご注目いただきたいと思います.
序文

イントロダクション――トランスクリティークとは何か

第一部 カント
第一章 カント的転回
 1 コペルニクス的転回
 2 文芸批評と超越論的批判
 3 視差と物自体
第二章 総合的判断の問題
 1 数学の基礎
 2 言語論的転回
 3 超越論的統覚
第三章 Transcritique
 1 主体と場所
 2 超越論的と横断的
 3 単独性と社会性
 4 自然と自由

第二部 マルクス
第一章 移動と批判
 1 移動
 2 代表機構
 3 恐慌としての視差
 4 微細な差異
 5 マルクスとアナーキストたち
第二章 総合の危機
 1 事前と事後
 2 価値形態
 3 資本の欲動
 4 貨幣の神学・形而上学
 5 信用と危機
第三章 価値形態と剰余価値
 1 価値と剰余価値
 2 言語学的アプローチ
 3 商人資本と産業資本
 4 剰余価値と利潤
 5 資本主義の世界性
第四章 トランスクリティカルな対抗運動
 1 国家と資本とネーション
 2 可能なるコミュニズム

岩波現代文庫版あとがき
https://www.iwanami.co.jp/book/b255864.html

Kojin Karatani's Transcritique introduces a startlingly new dimension to Immanuel Kant's transcendental critique by using Kant to read Karl Marx and Marx to read Kant. In a direct challenge to standard academic approaches to both thinkers, Karatani's transcritical readings discover the ethical roots of socialism in Kant's Critique of Pure Reason and a Kantian critique of money in Marx's Capital.

Karatani reads Kant as a philosopher who sought to wrest metaphysics from the discredited realm of theoretical dogma in order to restore it to its proper place in the sphere of ethics and praxis. With this as his own critical model, he then presents a reading of Marx that attempts to liberate Marxism from longstanding Marxist and socialist presuppositions in order to locate a solid theoretical basis for a positive activism capable of gradually superseding the trinity of Capital-Nation-State.
柄 谷行人の著書『トランスクリティーク』は、カール・マルクスをカントで読み、カントをマルクスで読むという手法により、イマニュエル・カントの『超越論的 批判』に驚くほど新しい次元を導入している。両思想家に対する従来の学術的アプローチに真っ向から異議を唱えるこの著書では、カントの『純粋理性批判』に おける社会主義の倫理的ルーツと、マルクスの『資本論』におけるカント的な貨幣批判が発見されている。

柄谷はカントを、信頼を失った理論的教義の領域から形而上学を奪い取り、倫理と実践の領域に本来あるべき場所に戻そうとした哲学者として読んでいる。これ を自身の批判モデルとして、彼は次に、資本論、国民国家、マルクス主義の三位一体を徐々に凌駕する積極的な行動主義の確固たる理論的基盤を確立するため に、マルクス主義を長年のマルクス主義的・社会主義的前提から解放しようとするマルクスの解釈を提示している。
An immensely ambitious theoretical edifice in which new relations between Kant and Marx are established, as well as a new kind of synthesis between Marxism and anarchism. The book is timely from both practical and theoretical perspectives, and stands up well against a tradition of Marx exegesis that runs from Rosdolsky and Korsch to Althusser and Tony Smith.

Fredric Jameson, William A. Lane Professor of Comparative Literature, Duke University, author of Postmodernism, or, The Cultural Logic of Late Capitalism
カ ントとマルクスの新たな関係が確立され、マルクス主義とアナーキズムの新たな統合が図られた、非常に野心的な理論的構築物である。この本は、実践的にも理 論的にも時宜を得たものであり、ロズドルスキーやコルシュからアルチュセールやトニー・スミスに至るマルクス解釈の伝統に十分対抗できる。

フレドリック・ジェイムスン、デューク大学比較文学ウィリアム・A・レーン教授、著書『ポストモダニズム、あるいは後期資本主義の文化論』
https://mitpress.mit.edu/9780262612074/transcritique/











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