黒崎政男「カント純粋理性批判入門」ノート
Introduction to Kant's Critique of Pure
Reason (1781,1787)
☆ 黒崎政男, 2000. 『カント『純粋理性批判』入門』講談社.https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA48135545(→「純粋理性批判」(全体の 紹介)はこちらです)
★哲学は学べない、ただ「哲学すること」だけが学び得る(イマヌエル・カント)。
★本書(黒崎政男, 2000. 『カント『純粋理性批判』入門』講談社.)の目次 +++++++++++++++++++++ プロローグ カントのプロフィール 序章 すべての哲学が失敗した理由 1. 「本当に在る」とはどういうことか 2. 存在するとは近くされることである(実在論と観念論) 3. 感覚のうちになければ知性のうちにない(経験論と合理主義) 1章 『純粋理性批判』の建築現場 1. 導きの糸としての現象 2. 沈黙の十年の苦闘(『批判』成立前後) 3. 伝統的な真理観(理性・知性の優位) 4. 形而上学のすべての秘密を解く鍵 2章 『純粋理性批判』見学ツアー 1. 形而上学とは何か(序文) 2. 時間と空間とは何か(超越論的感性論) 3. 真理とは何か(超越論的分析論) 3. カテゴリーこそ客観的認識の根拠である(超越論的演繹論) 4. 理性そのもののうちに潜む錯誤(超越論的弁証論) 3章 『純粋理性批判』の動揺 A. カントの不安 1. ハイデッガーのカント解釈 2. 感性と悟性の〈共通の根〉 3. イエナ期ヘーゲルの慧眼 B. 理性の深淵 4. 理性のダイナミックな性格 5. 『純粋理性批判』から最晩年『オプス・ポストゥムム』へ 6. 真理は本当に存在するか エピローグ カントの広さと深さ 索引 **** カント『純粋理性批判』(1771,1787)全体の構成(86) 第一序文と第二序文 序論 I. 超越論的原理論 第一部門. 超越論的感性論(感性論は美学と同じ用語) (1) 空間について (2) 時間について 第二部門 超越論的論理学 (1) 超越論的分析論 (2) 超越論的弁証法 II 超越論的方法論 |
形而上学の可能性とは、カントが「従来の」形而上学を革新できるという
自負のことであり、形而上学の不可能性は「従来の」形而上学はそれを成し遂げられなかったという批判のことである。
1) 認識が対象に従うという(従来の常識的な)考えを、対象が認識に従うという視点から考えてみようと提案した。→主観が世 界を成立させる(コペルニクス的転回→バークリーの独我観念論とどう折り合いをつけ るか?) 2) 経験と対象は同時に存在する:「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である」(→概念と直観、悟性(理解)と感性の合 一があって認識 が成立する) 3) 私たちの認識がかかわるのは物自体ではなく、わたしたちの感性と悟性が成立させる現象なのだ。→世界とは物自体の世界ではなく現象の世界である(→現象の認識は客観的である) 4)現象の認識は客観的だが、物自体についての認識は主観的なものにすぎない(黒崎 2000:25-30) 「ア・プリオリ(先験的)な総合判断はいかにして可能か?」がヘーゲルが考える『純粋理性 批判』のテーゼ——(感性と悟性という)非同一なものがアプリオリに同一である理念を表現している。あるいは、構想力を理性とみる見方(黒崎 2000:166)。 |
プロローグ(pp.5-) |
・1足す1はなぜ2なのか?(→アポロ宇宙船の月着陸)(8) ・カントと黒崎の私史(6) ・「ア・プリオリな総合判断はいかにして可能か?」p.8 (→カントは総合判断が可能であるという希望的観測から議論をはじめるが、多くの継承者はその試みは失敗したことを吐露する)[→カント入門] ・あるがままの事物は妄想(10-11) ・認識は徹頭徹尾主観的条件によりなりたつ(=認識には主観的条件が必須なの だ!!!)(→「「お花をみた」ときに、ワタシの思考のなかで何が起こっ ているか」) ・それゆえに、認識は客観性をもつ(=一般的理解とは矛盾した見解) ・私たちの認識が客観的であるとはどういうことか?《私たちの認識が 客観的である》=超越論的真理(10) ・世界は主観による構成物であり、それでこそはじめて客観的認識になる(11) ・これまでは「認識は対象にしたがう」と想定されていたが「対象が認識に従う」と考えたらうまくいくのではないか?(B p.XVI)熊野訳 p.24——これは形而上学の課題でありコペルニクス的転回の主張である。——パラフレイズすると「あるから見える[考えることができる]」のではなく 「見える[考えることができる]からあるのだ」と考える。(→バークリー) ・これは、逆説的手法である(10)——ただし、思考実験としては重要である。 ・カントは、「対象が認識に従う」という見解を保持する——その条件として、1)時空間の観念性、2)現象と物自体の区別、3)形相と質料の区別、などが 必要。 +++++++++++++++++ 【注釈】※出典はリンク先にあります。 ・ア・プリオリ(ラテン語: a priori)とは、「より先のものから」を意味するラテン語表現。中世スコラ学においては「原因・原理から始める演繹的な(推論・議論・認識方法)」という意味で用いられていたが、カント以降は「経験に先立つ先天的・生得的・先験的な(人間の認識条件・認識構造)」という意味で用いられるようになった。 ・ア・ポステリオリ (ラテン語: a posteriori) とは、「より後のものから」を意味するラテン語表現であり、中世スコラ学においては「結果・帰結から原因・原理にさかのぼる帰納的な(推論・議論・認識方法)」という意味で用いられていたが、カント以降は「経験に基づく後天的・非生得的・後験的な(認識)」という意味で用いられるようになった。 +++++++++++++++++ |
カントのプロフィール(pp.14-) |
・カントの人生(→イマヌエル・カント)(→カント入門) ・45歳で大学の先生に、他人の思想が理解できない、カント先生(→ADHD の効用?)(→自閉症的性質をもったカント)(→それほどの読書家でもなかった)(16) ・他方で、社交的な側面もあった(17)——一言でいうと、好きな友人とはとことん交流するという性格の持ち主だったかも。 ・『純粋理性批判』と『オプス・ポストゥムム』を立体的に読む、あるいは対位法的によむ。 ・テキストについての解説(18-)——おびただしい翻訳書がある。原著はアカデミー版の第一版(A)と第二版(B)でページを表記するのが標準。 池内紀『カント先生の散歩』新潮社、2013,2016年 ★カントの生きた時代(※画像をクリックすると単独で拡大します) ★Marquis de Sade (1740-1814) |
序章 すべての哲学が失敗した理由 |
・序章では、哲学史上におけるカントの位置付けがなされる。 ・(純 粋理性批判では)対象が認識にしたがう ・経験と対象は同時に成立する(27) ・「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件だ」(A158, B197) ・認識には主観的条件が必須なのだ!!!(形而上学の刷新を企てる) ・主観が世界を成立させる(→世界は時間と空間からなりたち、その認識はア・プリオリに構成される)——経験が入らないための条件設定が必要 ・主観万歳であると同時に、だったら主観の概念を厳密に定義しようではないかというのがカントの野心 ・繰り返すが「主観 が世界を成立させるがゆえに、現象の認識は客観的だ」 ・私 たちの認識の対象は、物自体ではなく、現象である。それゆえに認識は客観的である(35)→カントは物自体については[それは把握できないゆえに]関心を持たず、現象に執心する。(→「知性が物自体を認識できない」) ・カントにおいて現象は実際に起こったことではなく、観念の操作により論理的に構成されるものと、と考えていたらしい。つまり、経験論とは極北(真逆)の考え方。 |
1. 「本当に在る」とはどういうことか |
・
犬笛は、人間には聞こえず(認知できず)、犬には聞こえる(認知できる)→聞こえないから存在しないのではなく、人間には認知できず、犬には認知できるか
ら、犬には犬笛の「音響」は確実に存在するのである(→認識が対象に従っているのではなく、対象が認識に従っているのだ)(22-23) ・これまでは、認識は対象にしたがう(26)としたが、これからは(純 粋理性批判では)対象が認識にしたがう。これが「コペルニクス的転回」だ(28-29)——言い方を変えると認識中心主義ともいえる。 ・さらにすすむむと、経験と対象は同時に成立する(27)「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件だ」(A158, B197) ・認識には主観的条件が必須なのだ!!!→「「お花をみた」ときに、ワタシの思考のなかで何が起こっているか」(→徹底的に主観 的に考える) ・「カント『純粋理性批判』ノート」より ・1) 認識が対象に従うという考えを、対象が認識に従うという視点を確立した。→主観が世 界を成立させる(→バークリーの独我観念論とどう折り合いをつけ るか?) ・2) 経験と対象は同時に存在する:「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である」(A158, B197)(→概念と直観、悟性(理解)と感性の合一があって認識 が成立する) ・3) 私たちの認識がかかわるのは物自体ではなく、わたしたちの感性と悟性が成立させる現象なのだ。→世界とは物自体の世界ではなく現象の世界である(→現象の 認識は客観的である) ・4)現象の認識は客観的だが、物自体についての認識は主観的なものにすぎない(黒崎 2000:25-30) ・まとめ(30) ・主観が世界を成立させる ・その世界は物の世界ではなく、現象の世界だ ・現象の認識は客観的だが、物自体についての認識は主観的なものにすぎない |
2. 存在するとは近くされることである(実在論と観念論) |
・カントみずからの観念論のユニーク性についての自覚(32)→「主観
が世界を成立させるがゆえに、現象の認識は客観的だ」というのがカント的観念論(34)で、バークリーのそれとは異なる。 ・実在論と観念論 ・バークリー(→ジョージ・バークリー)「山や川や家が、自然に実在していると 考えるのはおかしい」(33)→山や川や家が「知覚」されるから存在する。 ・カントがバークリーの観念論と違うのは、主観をそのままとどめておかず、それを客観的という逆転の発想か(34) |
3. 感覚のうちになければ知性のうちにない(経験論と合理主義) |
・私
たちの認識の対象は、物自体ではなく、現象である。それゆえに認識は客観的である(35) ・カント:思惟は内容を伴い、直観は概念を伴う(35)(A51, B75)——感性と悟性が合一して認識は成立する。概念と直観は合一する(36) ・「感覚のうちになかったものは知性のうちにない」(36)——これはライプニッツ ・ロックの経験論(37-)(→ジョン・ロック=経験論の哲学)「一切の知識は経験から生じる」そして心の出発点はタブラ・ラサ(白紙)である。 ・ライプニッツの合理論(38)は、ロックと正反対(→ゴットフ リート・ヴィルヘル ム・ライプニッツ)心はタブラ・ラサではなく、すでに書き込まれた何かであり、心はそれを機会に応じて呼び出すのだ(38)——つまり、タブラ・ ラサは虚構である。 ・カラスは黒いという論証と、三角形の内角の和という命題の証明の質は異なる。——ライプニッツは「感覚のうちになかったものは知性ではない」と結論。 ・→「経験論」=知識は感覚や感性を通して外部から得られる。そのために経験を重視する。 ・→「合理主義・合理論」=もともと備わっている知性による認識が重要で、感覚や感性に よる認識は「程度が低い」ものだ。(41) ・カントによるライプニッツの評価:現象を知性化した。——感性あるいは感性的直観をノイズとみなしたが、感性は客観的認識の不可欠なものだ(42)—— なぜ?(池田) ・カントによるロックの評価:知性の概念を感覚化した(41)。——経験から概念を引き出すという理屈は、客観的なものが偶然の産物になってしまう (42)——トートロジー(池田) ・知性中心のライプニッツも、感覚中心のロックも、それにより、物自体を把握できると考えた(A 271: B 327) ・カントは、経験論(ロック)と合理論(ライプニッツ)の「統合」である(41) |
1章 『純粋理性批判』の建築現場 |
・全体の構成(46)→「カント『純粋理性批判』ノート」 序文
・精神現象学との対比(47)——こちらは知の遍歴の
ダイナミズムが表現されて、ヘーゲルの思索を追体験できる。他方「純粋理性」は、完成体で難解である。序論 I 超越論的原理論 第一部門 超越論的感性論 第1節 空間論 第2節 時間論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第二部 超越論的弁証論 II 超越論的方法論 ・超越論的感性論では、時空間は、人間の直観形式であると主張され、 ・超越論的分析論では、12のカテゴリーの純粋悟性概念が、経験を成立させる条件だと主張される(47) ・そのこと(=カントの無手勝流)を理解するためには、公刊前の沈黙の十年を知ることが重要である(48) カント『純粋理性批判』ノート、より |
1. 導きの糸としての現象(pp.50-) |
・現象とは現れたものであるが、現象とは知覚の対象である(50)(B
207) ・物自体、客観、対象の3セット(51-) ++++++++ ・物自体(51)→「カントの「物自体」にまつわる疑問」——それ 自身で存在している状態、知覚とは無関係。 ・対象——なにかに対して立っている状態(51-52)、つまり認識の対象。 ・客観(52)——主観の対概念。物自体と対象の中間的存在 ・物自体(認識とは無関係)←→客観←→対象(認識と関わる)52 ++++++++ ・現象は概念に対してそこで直観が対応する場所(B335) ・現象(53)『カント事典』の黒崎による解説 ・現象(Erscheinung)は、基本的には客観的妥当性を主張しうる認識の対 象、あるいは認識の領野。現象の背後にその原因として想定される不可知の「物自体」あるいは、個別 的主体に拘束されている仮象(Schein)。物自体と仮象は、主観的なものにすぎず、そのはざまに位置する現象、この認識のみが客観的妥当性を主張しう る対象だ。——カントの認識論。 ・カントは、物自体への認識を否定する。 物自体の現れである現象を、客観的認識とした(54)——(なぜなら)言い方を変えると、物自体への認識を否定して、現象を認識の対象として、現象を認識 から構成されるものとする「コペルニクス的転回」的主張が弱くなるからである。「物自体は無である」(54)(B 335)。 ・物自体の認識にカントはあこがれるが、最終的に、物自体にたいする認識は諦められ る(54)(B 335) |
2. 沈黙の十年の苦闘(『批判』成立前後)(pp.55-) |
・感性(55) ・従来は感性は誤謬の直接原因とみなされたが、カントでは、実在的認識の源泉である(55) ・認識は感性と悟性(知性)が合一することで成立する(56)——こ れが「批判」の主張で、70年論文では2種類の認識と区分されていた(57) ・70年論文の基本的性格(56-) ・「あるがままの事物を認識する」というナイーブな意識を批判では放擲する(59-) ・悟性、知性、理性の3セット(pp.61-) ・悟性の原語など(61-) ・悟性は没落した知性(62) ・理性はラチオ(=合理性?)より由来する:知性〈対〉理性つまり、 インテレクトゥス〈対〉ラチオの対立(62) |
3. 伝統的な真理観(理性・知性の優位)64- |
・感性・想像力は劣悪な能力(64-) ・感性と想像力は誤謬の源泉だ(マールブランシュ)(64) ・カントの見事な転換(65-)——「純粋悟性や純粋理性からする物の認識は、すべ ては単なる仮象、真理は経験のうちにのみ存する」(「プロレゴメナ」附録)(68)——これがカントの転換である。 ・感性に対して見下した態度の哲学者たち:デカルト、マールブランシュ、スピノザ、ライプニッツ(67)——つまり感性や経験の軽視という伝統的哲学観 (67) ・真理は経験のうちに存する(68) カント『純粋理性批判』ノート、より |
4. 形而上学のすべての秘密を解く鍵(pp.69-) |
・『純粋理性批判』が生まれる前の10年間=沈黙の時代——1771年の時点で、知性が物自体を認識できないこと
を、考え始める(71) ・時間は実在的か、主観的か?(71)——カントは後者の立場をとるだろう ・移行期の解説 ・表象と対象の関係(74) ・認識が対象を生み出す——宗教における「光あれ」という表象化(74)——この当時は、神と人間の関係について考察していた(77) ・悟性的認識と感性的認識の2種類が統合されるプロセス(75)——カントは、批判において、感性と悟性が合一化される認識を生み出すにいたる(74) ・現象は実在的存在(76) ・個人差のある感覚を、悟性で普遍化する(78)——悟性と感性の合 一化の第一ステップ ・悟性と感性の相互補完——悟性と感性の合一化の第二ステップ(79)——人間認識が成立する不可欠な契機(81) ・神概念から離脱——「真理を神から奪い取る」(81) ・真理は体系のうちにあるのではなく、経験のうちにある。経験のうちとは、対象との出会いによるものだ。その認識には感性的契機が不可欠である(82) ——このあたりは、感動的ですらある!! ・身体の不調と戦いながら、「純粋理性批判」を完成させるカントの姿勢にはなにか通じるものがあると、黒崎(2000:82-83)は指摘する |
2章 『純粋理性批判』見学ツアー |
・全体の構成(86) 第一序文と第二序文 序論 I. 超越論的原理論 第一部門. 超越論的感性論(感性論は美学と同じ用語) (1) 空間について (2) 時間について 第二部門 超越論的論理学 (1) 超越論的分析論 (2) 超越論的弁証法 II 超越論的方法論 ++++++++++++++++++++++++ (a)グループ 第一部門. 超越論的感性論(感性論は美学と同じ用語) (1) 空間について (2) 時間について 第二部門 超越論的論理学 (1) 超越論的分析論 (b)グループ (2) 超越論的弁証法 ・第一版と第二版があるが、第一版がすぐれていると評価がある(88)——ショーペンハウアー、ハイデッガー、三木清(88) 【再掲】 カント『純粋理性批判』ノート、より |
1. 形而上学とは何か(序文) |
・形而上学の革新に対する自負(89-90)——万学の女王としての形
而上学(88) ・カントの時代には、すでに形而上学の神通力は衰退。それゆえ、カントはそれを浮上させたいと願う(89) ・『純粋理性批判』に対するものすごいカントの自信(90) ・従来の形而上学は、人間の認識についての吟味を怠り、神や霊魂や人間の自由について気楽に論じ、失敗してきた。形而上学の復権には、人間は何を知りうる のか、知り得ないのかを明らかにすべきだと主張(91)——これがカントの目論見 ・数学と自然科学の成功に学ぶ(91)——そのため、数学と自然科学を模倣してみると提案 ・認識が対象に従うのではなく、対象が認識にしたがうと考えてみたらどうかと提案(92) ——「批判」のキモ=コペルニクス的転回。 ・私たちが何かを認識したとは、その対象のなかにある自分ではないか?(93) ・形而上学とはなにか(93)——カントによれば、それは人間意識の根本構造を問うことである(94) ・bグループでは、形而上学を否定的(=限界がある)に扱い、aグループでは、新しい形而上学(→可能性)を考え る(94)——「純粋理性批判」では形而上学の用語には(+)と(-)の2面がある ・物自体という謎(94) ・客観には2とおりある。1)現象としての客観、2)物自体としての客観(95) ・物自体には、問題があるという主張は同時の哲学のコンセンサス(96) ・奥深い概念(96)——物には事柄なども含まれる ・超越論的(98)——超越論的と先験的はおなじことば transzendental の訳語。超越論的とは、対象を認識する仕方に関する認識を、そういう。 ・ア・プリオリとア・ポステリオリ(99)——ア・プリオリは経験に先立つ、ア・ポステリオリは経験にもとづく、経験に由来するもの。 ・経験と経験的は別の単語(100)——経験はニュートラルで「客観的認識」でもある。後者の経験的とは、超越論や純粋と対比される、あまりポジティブで はないもの(100) +++++++++【復習】+++++++++ ・ア・プリオリ(ラテン語: a priori)とは、「より先のものから」を意味するラテン語表現。中世スコラ学においては「原因・原理から始める演繹的な(推論・議論・認識方法)」という意味で用いられていたが、カント以降は「経験に先立つ先天的・生得的・先験的な(人間の認識条件・認識構造)」という意味で用いられるようになった。 ・ア・ポステリオリ (ラテン語: a posteriori) とは、「より後のものから」を意味するラテン語表現であり、中世スコラ学においては「結果・帰結から原因・原理にさかのぼる帰納的な(推論・議論・認識方法)」という意味で用いられていたが、カント以降は「経験に基づく後天的・非生得的・後験的な(認識)」という意味で用いられるようになった。 |
2. 時間と空間とは何か(超越論的感性論)(pp.101) |
・感性論をエステティークとする(美学と言わない理由)(101-
102) ・ジンリッヒカイト=感性 ・エステティーク=感性論——感性の形式である時空間が問題になるので、美学とは訳さない。 ・空間は物自体ではなく、空間は人間の主観的条件である(102)——空間は物自体 を規定するものではない。(A26, B 42) ・時間も人間のものである(103)——時空間は感性的直観の2つの純粋形式である(103)——主観的な宇宙がカントのいう時空間。 ・空間は人間の主観的条件である(104)——(A26, B 42)——空間は感性の主観的条件 ・時空間は「直観」(104)——主観的条件を除くと時空間も存在しない(104)——人間の認識が成立するためには時空間が必要。 ・時間は、人間の直観の主観的条件。主観を度外視すれば時間は無になる。(A34, B51) ・あるがままは愚かな認識。認識は主観的条件により成立しており、そのことにより認 識は客観性を有する。(105) ・超越論的観念論(105-107)——時間の経験的実在性を主張す る。他方で、時間の絶対的実在性を与えることを拒絶する。 ・時間・空間の実在性と観念性(106-)(A28, B44) ・すべては、現象であり、表象である(108)——超越論的には観念 論、経験的には実在論——その逆は10年まえの論敵の批判に通じている。 ・時間も空間もすべての人間の側のものである。神や天使のものではな い(端的にわからない)(112)——時間と空間は人間のもの。世界はわれわれにとっては時間的であり、空間的である(111) ・人間以外の知的存在者も、人間と同じ(112)——人間と神を区分しない。マイルドな無神論 ・対象が我々にあらわれるままに表象する(113)——仮象、現象、 物自体 【おさらい】 ・時間と空間を抜きにして我々は何も想像できないだろう?——無時間や無空間を想像することは困難なので、はい、そのとおりです——だったら、時間と空間は物の存在のア・プリオリな条件として存在していると考えるべきだ、というのがカント先生の主張。 ・仮象——個別 的主体に拘束されている仮象(Schein) ・現象——客観的妥当性を主張しうる認識の対象、あるいは認識の領野 ・物自体——それ自身で存在している状態、知覚とは無関係。 |
3. 真理とは何か(超越論的分析論)(pp.114-) |
・真理とはなにか?という問い(114)(A 57, B
82)——この問いを通して論理学者を問い詰める。 ・論理学者たちは、みじめな循環論に陥る ・真理とは、認識とその対象の合致である(115)(A 57, B 82)——雪が白いという事態と、雪が白いという認識が合致している状態(115)。 ・雄山羊の乳をしぼり、フルイ(篩)でそれを分ける——問いが不合理で、無用な答えを求めることの事例として。 ・合理的に問う(117) ・真理の「普遍的基準」は存在するのか(118)——認識の内容の真理基準を問うのはナンセンスだ(119)(A58, B83) ・超越論的真理を問うのは不合理だ(119) ・固有性を切り捨てた、あらゆるものに通用する真理をもとめるのはナンセンスだ(119)——「根本的真理、あらゆる認識に通用する真理」は自己矛盾を含むゆ えにインチキである(→この相対的な真理概念はカントに特有なものである)。 ・そうではなくカントは「超越論的真理」を確定することに目論見がある(119) ・超越論的真理は、一般論理学の真理とは異なる(120) ・超越論的真理を理解するためには、純粋悟性概念=カテゴリーがまず理解される必要がある(120) ・カテゴリーの12判断形式(120-121) 1分量:単一性、数多性、相対性 2性質:実在性、否定性、制限性 3関係:付属性と自存性、原因性と依存性、相互性 4様態:可能——不可能、現実存在——非存在、必然性——偶然性 ・以上のカテゴリーを「悟性」は、みずからのうちにア・プリオリに含んでいる(A80, B106) ・カテゴリー一覧表(120)——純粋悟性概念の演繹論(121) |
3. カテゴリーこそ客観的認識の根拠である(超越論的演繹論)122
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・経
験は、認識の質料と、質料に秩序をあたえる形式とを含んでいる。(122) ・アリストテレスの10のカテゴリーを、カントは4つまで切り詰める——つまりカントのカテゴリーはアリストテレスに由来するが、自分は、このカテゴリーをより洗練させることができると信じていた。 +++++++++++ ・1)量、2)質、3)関係、4)様相 +++++++++++ ・質料(マテリエ)と形式(フォルム)は、それぞれ異なった要素である。 ・経験:Erfahrung——経験は認識の質料とこの質料に秩序を与える形式を含む ・質料: Marerie ・形式:Form ・この見方は、プラトンのイデア論を批判したアリストテレスにはじまる(123)——世界は質料と形式(形相)からなる ・アリストテレスの10のカテゴリー(1. 実体=人間、2.量、3.質、4.関係、5.場所、6.時間、7.位置、8.状態、9.能動、10.受動)——「範疇論」『オルガノン』 ・およそ結合であればすべて悟性の作用(124) ・結合は、表象能力の自発性の作用である(124)——これが形式 (形相)のあり方 ・究極の根拠としての「私は考える」(125) ・私は考えるという意識は、私の表象に伴うものである。これは純粋統覚 (Apperrzeption)(B132)——appercception(英語:知覚・統覚) ・超越論的統覚(transzendentale Apperzeption)(127) ・統覚の意味・説明(127)——知覚をとりまとめるもの——cogito ergo sum として把握しても外れていない(128) ・カントの戦略=演繹論は、感性と悟性(=理解力)をまったく2つの認識の要素し て、別々に論じる(129) ・だが超越論的演繹論において、感性の側に属するといわれる直観が、悟性による超越論的統覚に従うと、主張を変える(129) ・意識の総合的統一は、すべての認識の客観的条件だ(129)この箇 所はB138のみ ・統覚の統一という原則こそ、人間の認識全体の最高の原理なのである(B135) ・直観はカテゴリーにしたがう(130)B143——カテゴリーは、1)量、2)質、3)関係、4)様相、である。 ・悟性(Verstand):理解力 (Understanding) ・カテゴリー ・統覚(Apperzeption):統覚・意識的知覚・理解(apperception)——ライプニッツの用語、知覚をとりまとめる(127)、統覚 はカントによると自己意識(=私は考える)(131) ・世界は人間の主観が成立させた現象(131)B145. ・主観的原理は、客観的妥当性を有する——超越論的演繹論(132)——黒崎もなかなかわからないようである。だがこれがカントの根本的問いのようだ。そ の鍵は現象概念にある。現象概念の主観的原理である(132-133) ・そして、物自体と現象の峻別のアイディアを思い起こすべし(133)。 ・神的知性ならカテゴリーはいらない(133)——つまり、純粋理性 批判は、人間による人間のための人間の議論か?そうである!!! ・経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件、これが 序章の根源的成果(135)であり、コペルニクス的転回そのもの。 ・時空間(=人間の主観性が支える環境のようなもの)とカテゴリーによってはじめて成立する世界であり、それについてなら、人間はア・プリオリに認識する ことが可能になる(136) |
4. 理性そのもののうちに潜む錯誤(超越論的弁証論)137- |
・超
越論的仮象とはなにか(137) ・超越論的弁証論の課題は、超越論的仮象を論じることだ(137)(A295,B352) ・超越論的仮象(transzendentale Schein)——水中に棒を差し込むと曲がって見える、これが経験的仮象である。 ・仮象は、カテゴリーの経験的使用の限界外、純粋悟性の拡張というごまかし(137) ・カテゴリーの使用の範囲を経験の外まで拡張したりすることで「超越論的仮象」が生じる(138) ・「超越論的仮象」は、暴かれても、消滅しない。(A297, 353) ・客観的認識には、感性と悟性の合一が必要である(138) ・つまり認識のおよぶ範囲は、時間・空間の形式でとらえられる対象(=現象)に限るということ。 ・純粋悟性概念は、論理形式なので、あらゆるところで適用可能だが、これが超越論的仮象をうむ原因になる。 ・超越論的仮象の例のひとつ「世界は時間的はじまりをもつ」という命題(これは証明のしようがないために仮象である) ・超越論的仮象は、理性の範囲内でおこる——理性も信頼ならない側面があるのだ(139) ・超越論的仮象の3種類(139-140)——これはカントによると形而上学の「否定的」側面である 1)心理学的仮象——純粋理性の誤謬推理(パラロギスムス)——自我や 霊魂の不滅性 2)宇宙論的仮象——純粋理性の二律背反(アンチノミー)——世界の有 限性無限性、自由と必然、絶対的存在者 3)神学的仮象——純粋理性の理念(イデアル)——神の存在証明など ・ |
3章 『純粋理性批判』の動揺 |
・143ページ |
A. カントの不安 |
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1. ハイデッガーのカント解釈 |
・カ
ントの不安(143)——ハイデガーによると超越論的構想力には、我々の未知の根っこがあることをカント自身は自覚していたが、最終的には目を瞑った。 ・ハイデガーのカント解釈(→「カントと形而上学の問題」) (143)——第31節 ・ハイデガーの見解は、1787年の第2版は、1781年の第1版にくらべて後退したというもの(143) ・「カントは超越論的構想力のさらなる根源的解釈を遂行しなかった。反対にカントは この知らざる根っこから退避したのだ」(ハイデガーの弁, p.176)(144) ・第二版の書き換え問題(144) ・演繹論は2種類ある(145) ・現象の成立には、感性と悟性の両方の協力が必要になる。→感性と悟性の「契約」(145)——異質なものの合一 ・総合はすべての構想力の働きである(147) ・演繹論の章は、 1)第1節 超越論的演繹論の諸原理について 2)第2節 純粋悟性概念の演繹(147) ・第2版でオミットされたのは第1版にあった「構想力」(147-) ・第1版の叙述 ・第2版は、統覚が感性のすみずみに降りてゆくという構造(151)——第2版は統覚が最高原理。 ・第2版は、総合は、悟性の機能と指摘された。第1版では、総合の、心のかくべかざる機能である構想力の働きとされている(149, 151) ・構想力の感性的な側面(152) ・超越論的図式論での構想力の役割(152) |
2. 感性と悟性の〈共通の根〉pp.153- |
・【再掲】超越論的図式論での構想力の役割(152) ・感性と悟性の〈共通の根〉——下は第1版 ・図式は構想力の産物(154)(A140, B154) ・構想力の削除(155)——構想力が悟性に書き換えられる(156) ・ハイデガーによる、超越論的構想力からの撤退の理由(→木場訳, Pp.142-)(158-160) 1)感性の低級な能力がなぜ理性の本質になり得るのかが説明できない。 ラチオとロゴスが形而上学に占めることができなくなる不安 2)超越論的構想力(超越論的感性論と論理学の主題)を前提にすると、 批判の建築性の構造が維持できなくなるのではないか?(160) 3)純粋理性が超越論的構想力に化けると、批判全体が主題を失われ、な りたたなくなる。 4)問いをつきつめると、未知なものをカントはみつけて、びびった(= 純粋理性が彼をして呪縛する)。 ・他に、三木、坂部の議論(160) ・構想力の位置付けの困難さ(162) |
3. イエナ期ヘーゲルの慧眼 pp.163 |
・カント主義者としてのヘーゲル(163) ・感性と悟性の〈共通の根〉——下は第1版(再再掲) ・カント哲学の核心をとらえるヘーゲル(164)——新カント派. ・「カントの直観形式と思惟形式が、別々の能力として分離しているのではない」(165)——ヘーゲルの弁 ・根源的統一原理としての構想力(166)——構想力は主観であり、 客観であり、またその両方である。 ・構想力こそは直観的知性である(167)——超越論構想力は直観的 悟性・直観的知性と同じものである(168) ・超越論的構想力は、直観的知性(169)——媒介としての超越論的構想力(170) ・カント自身もそのことに気づいていた(170-171) ・根源的同一性を前提する哲学(171) ・カントは固定的な二元論から自由になれなかった(172)——なぜカントはヘーゲルのように展開できなかったか? ・ヘーゲルによると、カントは直観的知性が、悟性の真の理念であることに思いいたらなかった(172) ・カントによると「はじめに区分ありき」だった(173) ・第1版は宙ぶらりんだ(174) ・2つの処方:1)初期ヘーゲルのように根源的一元論化、2)感性と悟性の二元論か ら、悟性の一元論へ(2は思想的退化と黒崎はいう)(175) ・カントは、これ以降、悟性一元論にむかう、黒崎によるとは、それは思想的退化であ る(175) |
B. 理性の深淵, pp.177- |
・純粋理性批判は、「理性」の発見あるいは再定義物語として理解できる(池田) |
4. 理性のダイナミックな性格 |
・真
理の最終根拠は人間(177)——神中心から人間中心へ ・純粋理性批判は、人間的認識のいちづけ(177)——神的認識とは、認識と対象との合一。他方、人間の認識は有限。ただし、神には助けをもとめないの が、カントの矜持。 ・我々の認識を保証するのは、もはや神では人間自身である(177) ・どうやって認識は誤るのか?(178) ・純粋理性批判には誤謬論がない(178)——真理は認識と対象の一致である(A58, B82) ・世界があらわれているのは、カテゴリーが働いている証拠である。(178) ・対象は我々の認識により規定される=コペルニクス的転回を思い起こせ(179) ——経験の形式と質料をきちんと区分することからはじまる。 ・経験一般の形式に関して、カテゴリーが経験を可能にすることを示せばよい(179)A93, B126. ・感性と悟性の合一によってのみ認識は成立する(→これは第一版の理想)。 ・認識は真でも偽でもありえる(180)——純粋理性批判は、個々の認識が真であることを主張したのではない(→だから純粋理性批判には誤謬論が少ない) ・経験をどこまで先取りできるのか?(180) ・経験に先立つ認識はあるのか?——経験論「ない」;合理論「ある」——で、カント は?その中間をいく。(181) ・知覚を先取り的に認識すること(A166,B207)——経験の対象はア・ポステ リオリにしか把握できない。だが経験の形式はア・プリオリに示す=認識することができる(181) ・超越論的真理は、経験の地平の確定である(182) ・純粋理性批判は、経験的諸認識に先行して経験の地平を成立させる超越論的真理を確 立しようとしたものである。(182) ・形式論理学と超越論的論理学の差異(183-)——超越論的論理学=「純粋理性批判」——客観的認識のなかには真も偽(の可能性を)も含みうる。 ・因果関係をめぐるヒューム(184-)(→デイヴィッド・ヒューム) ・ヒュームは、因果性とは、習慣による信念にすぎない(184)。 ・カントは、因果性が、客観的妥当性をもつことを主張する。(185)——認識が対象を規定する(コペルニクス的転回)の意味は、悟性がもちこんだ因果性 =カテゴリーにより、自然を形式に関して規定しているということだ(185) ・真理は純粋悟性概念からは導けない(186)——すべての経験法則は、その起源を純粋悟性からは導出できない(A 127) ・伝統的真理観——真理は体系のうちに存在する、 ・カント的真理観——真理は体系のうちにはない。対象との出会いである経験を重ねる(→感性的契機)ことによりはじめて得られる。(187) ・したがって、経験に先立ちア・プリオリに真偽を列挙することはできない。——経験論的効用は観念論の後にでてくるもの(池田) |
5. 『純粋理性批判』から最晩年『オプス・ポストゥムム』へ
189- |
・批判の第一版がカントの思考のピーク(189)——黒崎は、坂部、三木、ハイデガーの系譜を踏襲する。 ・カント思考の原動力は?(190)——1)人間認識の有限性を自覚 し与えられている感性的契機を重視する。2)人間の悟性を拡大してその合理性でア・プリオリに悟性を汲み尽くす(190) ・オプス・ポストゥムムには黒崎は批判的態度を示す(191-193) ・『オプス・ポストゥムム』は合理性一辺倒気味(193)——肥大した自我は経験を うみだす、と言わんばかりだ(194)——固定的な真理観(198) ・『オプス・ポストゥムム』では、感性的契機が不要にされる(194 -195) |
6. 真理は本当に存在するか 195- |
・よーするに純粋理性批判にある、1)感性的契機と、2)合理性が規定
する悟性概念とのせめぎ合いがもはや(『オプス・ポストゥムム』には)ない(195-196) ・荒れ狂う大海に浮かぶ真理の島(国)(196-)——純粋理性批判で、カントは純粋悟性の国(テリトリー)を発見する(A235, B294)——ここ は真理の国だ。 ・カテゴリーと経験のあいだの循環(198) ・ニーチェの真理批判(199)——『権力への意志』 ・理性とカテゴリーを信頼することは、生にとって有益だと言っているだけにすぎない(#507) ・真理とは、それなくしては生きることができない誤謬(#493) ・ニーチェ的世界(→カントのそれとは真逆)の現状:「ニーチェよれば生物としての人間が安定した生を営むためには世界(環境)そのものが生成変化しても らっては困り固定的で堅固なものとして表象されなければならない.人新世とは世界の生成変化に他ならぬ人間が加担していることでありそれは世界との真理と は無関係である」https://x.gd/ZX0qn ・睡眠薬から興奮剤へ(200) |
エピローグ カントの広さと深さ |
・カント思想のポイントは人間の「自由」を主張したこと(203)→「自由意志」「自由主義・リベラリズム」 ・カントの自由は、思考することが、どのような条件にも邪魔されずに、その可能性を拡大することに、その探求の努力がおかれていた。 ・自由概念を媒介にしてマルキ・ド・サドと繋がる(池田) |
索引 |
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池田による附録 |
・同時期にカント(1724-1804)とまったく交錯しない思想家がいる:「★マルキ・ド・サド(1740-1814)」 ・カントに先立つ物理学者としてアイザック・ニュートン(1642-1727)がいる。 |
★ニーチェ『権力への意志』の英訳 https://philosophy.ucsc.edu/news-events/colloquia-conferences/will_to_power-nietzsche.pdf
Friedrich Nietzsche, The Will to Power, #507 The valuation "I believe that this and that is so" as the essence of "truth." In valuations are expressed conditions of preservation and growth. All our organs of knowledge and our senses are developed only with regard to conditions of preservation and growth. Trust in reason and its categories, in dialectic, therefore the valuation of logic, proves only their usefulness for life, proved by experience--not that something is true. That a great deal of belief must be present; that judgments may be ventured; that doubt concerning all essential values is lacking--that is the precondition of every living thing and its life. Therefore, what is needed is that something must be held to be true--not that something is true. "The real and the apparent world"--I have traced this antithesis back to value relations. We have projected the conditions of our preservation as predicates of being in general. Because we have to be stable in our beliefs if we are to prosper, we have made the "real" world a world not of change and becoming, but one of being. |
『権力への意志』507 「真実」の本質としての評価「私はこれがそうだと信じている」。評価には、保存と成長の条件が表現されている。我々の知識と感覚の器官はすべて、保存と成 長の条件に関してのみ発達する。したがって、弁証法における理性とそのカテゴリー、論理の評価は、経験によって証明された生活における有用性のみを証明す るものであり、何かが真実であることを証明するものではない。 多くの信念が存在しなければならないこと、判断が下されなければならないこと、本質的な価値に関する疑いが存在しないこと、これらはあらゆる生物とその生 命の前提条件である。したがって、必要なのは、何かが真実であると見なされること、つまり、何かが真実であるということではない。 「現実の世界と見かけの世界」――私はこの対立を価値関係にまでさかのぼって考えた。私たちは、私たちの生存の条件を、存在一般の述語として投影した。私 たちが繁栄するためには、信念を安定させなければならないため、「現実」の世界を変化と生成の世界ではなく、存在の世界とした。 |
Friedrich Nietzsche, The Will to Power, #493 Truth is the kind of error without which a certain species of life could not live. The value for life is ultimately decisive. |
『権力への意志』493 真実は、ある種の生命が生きられないような誤謬である。生命にとっての価値は最終的に決定的である。 |
リ ンク
文 献
そ の他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
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