黒崎政男「カント純粋理性批判入門」ノート
Introduction to Kant's Critique of Pure
Reason (1781,1787)
☆ 黒崎政男, 2000. 『カント『純粋理性批判』入門』講談社.(→「純粋理性批判」(全体の紹介)はこちらです)
★本書の目次 +++++++++++++++++++++ プロローグ カントのプロフィール 序章 すべての哲学が失敗した理由 1. 「本当に在る」とはどういうことか 2. 存在するとは近くされることである(実在論と観念論) 3. 感覚のうちになければ知性のうちにない(経験論と合理主義) 1章 『純粋理性批判』の建築現場 1. 導きの糸としての現象 2. 沈黙の十年の苦闘(『批判』成立前後) 3. 伝統的な真理観(理性・知性の優位) 4. 形而上学のすべての秘密を解く鍵 2章 『純粋理性批判』見学ツアー 1. 形而上学とは何か(序文) 2. 時間と空間とは何か(超越論的感性論) 3. 真理とは何か(超越論的分析論) 3. カテゴリーこそ客観的認識の根拠である(超越論的演繹論) 4. 理性そのもののうちに潜む錯誤(超越論的弁証論) 3章 『純粋理性批判』の動揺 A. カントの不安 1. ハイデッガーのカント解釈 2. 感性と悟性の〈共通の根〉 3. イエナ期ヘーゲルの慧眼 B. 理性の深淵 4. 理性のダイナミックな性格 5. 『純粋理性批判』から最晩年『オプス・ポストゥムム』へ 6. 真理は本当に存在するか エピローグ カントの広さと深さ 索引 **** カント『純粋理性批判』(1771,1787)全体の構成(86) 第一序文と第二序文 序論 I. 超越論的原理論 第一部門. 超越論的感性論(感性論は美学と同じ用語) (1) 空間について (2) 時間について 第二部門 超越論的論理学 (1) 超越論的分析論 (2) 超越論的弁証法 II 超越論的方法論 |
形而上学の可能性とは、カントが「従来の」形而上学を革新できるという自負のことであり、形而上学の不可能性は「従来の」形而上学はそれを成し遂げられなかったという批判のことである。
1) 認識が対象に従うという考えを、対象が認識に従うという視点を確立した。→主観が世 界を成立させる(→バークリーの独我観念論とどう折り合いをつけ るか?) 2) 経験と対象は同時に存在する:「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である」(→概念と直観、悟性(理解)と感性の合一があって認識 が成立する) 3) 私たちの認識がかかわるのは物自体ではなく、わたしたちの感性と悟性が成立させる現象なのだ。→世界とは物自体の世界ではなく現象の世界である(→現象の認識は客観的である) 4)現象の認識は客観的だが、物自体についての認識は主観的なものにすぎない(黒崎 2000:25-30) 「ア・プリオリな総合判断はいかにして可能か?」がヘーゲルが考える『純粋理性批判』のテーゼ——(感性と悟性という)非同一なものがアプリオリに同一である理念を表現している。あるいは、構想力を理性とみる見方(黒崎 2000:166)。 |
プロローグ |
・1足す1はなぜ2なのか? ・カントと黒崎の私史 ・あるがままの事物は妄想 ・認識は徹頭徹尾主観的条件によりなりたつ(=認識には主観的条件が必須なのだ!!!) ・それゆえに、認識は客観性をもつ(=一般的理解とは矛盾した見解) ・私たちの認識が客観的であるとはどういうことか?《私たちの認識が客観的である》=超越論的真理(10) ・世界は主観による構成物であり、それでこそはじめて客観的認識になる(11) |
カントのプロフィール |
・カントの人生(→イマヌエル・カント)(→カント入門) ・『純粋理性批判』と『オプス・ポストゥムム』を立体的に読む、あるいは対位法的によむ。 ・テキストについての解説(18-) |
序章 すべての哲学が失敗した理由 |
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1. 「本当に在る」とはどういうことか |
・これまでは、認識は対象にしたがう(26)としたが、これからは(純
粋理性批判では)対象が認識にしたがう。これが「コペルニクス的転回」だ(28)——言い方を変えると認識中心主義ともいえる。 ・経験と対象は同時に成立する(27) ・「カント『純粋理性批判』ノート」より ・1) 認識が対象に従うという考えを、対象が認識に従うという視点を確立した。→主観が世 界を成立させる(→バークリーの独我観念論とどう折り合いをつけ るか?) ・2) 経験と対象は同時に存在する:「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である」(→概念と直観、悟性(理解)と感性の合一があって認識 が成立する) ・3) 私たちの認識がかかわるのは物自体ではなく、わたしたちの感性と悟性が成立させる現象なのだ。→世界とは物自体の世界ではなく現象の世界である(→現象の 認識は客観的である) ・4)現象の認識は客観的だが、物自体についての認識は主観的なものにすぎない(黒崎 2000:25-30) |
2. 存在するとは近くされることである(実在論と観念論) |
・実在論と観念論 ・バークリー(→ジョージ・バークリー) ・カントがバークリーの観念論と違うのは、主観をそのままとどめておかず、それを客観的という逆転の発想か(34) |
3. 感覚のうちになければ知性のうちにない(経験論と合理主義) |
・ロックの経験論(37-)(→ジョン・ロックの哲学) ・ライプニッツの合理論(38)(→ゴットフリート・ヴィルヘル ム・ライプニッツ) ・カントは、経験論と合理論の「統合」である(41) ・→「経験論」 ・→「合理主義・合理論」 |
1章 『純粋理性批判』の建築現場 |
・全体の構成(46)→「カント『純粋理性批判』ノート」 ・精神現象学との対比(47) ・沈黙の十年(48) |
1. 導きの糸としての現象 |
・現象とは知覚の対象である(50) ・物自体(51)→「カントの「物自体」にまつわる疑問」 ・対象 ・客観(52) ・現象は概念に対してそこで直観が対応する場所(B335) ・現象(53)『カント事典』の黒崎による解説 ・現象は、基本的には客観的妥当性を主張しうる認識の対象、あるいは認識の領野。現象の背後にその原因として想定される不可知の「物自体」あるいは、個別 的主体に拘束されている仮象(Schein)。物自体と仮象は、主観的なものにすぎず、そのはざまに位置する現象、この認識のみが客観的妥当性を主張しう る対象だ。——カントの認識論。 ・カントは、物自体への認識を否定する。物自体の現れである現象を、客観的認識とした(54) ・物自体の認識にカントはあこがれるが、最終的に、物自体にたいする認識は諦められる(54) |
2. 沈黙の十年の苦闘(『批判』成立前後) |
・感性(55) ・従来は感性は誤謬の直接原因とみなされたが、カントでは、実在的認識の源泉である(55) ・認識は感性と悟性(知性)が合一することで成立する(56) ・悟性の原語など(61-) ・悟性は没落した知性(62) ・理性はラチオより由来する:知性〈対〉理性つまり、インテレクトゥス〈対〉ラチオの対立(62) |
3. 伝統的な真理観(理性・知性の優位)64 |
・感性と想像力は誤謬の源泉だ(マールブランシュ)(64) ・感性に対して見下した態度の哲学者たち:デカルト、マールブランシュ、スピノザ、ライプニッツ(67) ・真理は経験のうちに存する(68) |
4. 形而上学のすべての秘密を解く鍵 |
・沈黙の時代 ・移行期の解説 |
2章 『純粋理性批判』見学ツアー |
・全体の構成(86) 第一序文と第二序文 序論 I. 超越論的原理論 第一部門. 超越論的感性論(感性論は美学と同じ用語) (1) 空間について (2) 時間について 第二部門 超越論的論理学 (1) 超越論的分析論 (2) 超越論的弁証法 II 超越論的方法論 ++++++++++++++++++++++++ (a)グループ 第一部門. 超越論的感性論(感性論は美学と同じ用語) (1) 空間について (2) 時間について 第二部門 超越論的論理学 (1) 超越論的分析論 (b)グループ (2) 超越論的弁証法 ・第一版と第二版があるが、第一版がすぐれていると評価がある(88) |
1. 形而上学とは何か(序文) |
・形而上学の革新に対する自負(89-90) ・認識が対象に従うのではなく、対象が認識にしたがうと考えてみたらどうかと提案(92) ・bグループでは、形而上学を否定的に扱い、aグループでは、新しい形而上学を考える(94) ・物自体 ・客観には2とおりある。1)現象としての客観、2)物自体としての客観(95) ・超越論的(98) ・ア・プリオリとア・ポステリオリ(99) |
2. 時間と空間とは何か(超越論的感性論) |
・感性論をエステティークとする(美学と言わない理由)(101-102) ・空間は物自体ではなく、空間は人間の主観的条件である(102) ・時間も人間のものである(103) ・時間は人間の主観的条件である(104) ・超越論的観念論(105-) ・時間空間の実在性と観念性(106-) ・すべては、現象であり、表象である(108) ・時間も空間もすべての人間の側のものである。神や天使のものではない(端的にわからない)(112) ・対象が我々にあらわれるままに表象する(113) |
3. 真理とは何か(超越論的分析論) |
・真理とはなにか?という問い(114) ・論理学者たちは、みじめな循環論に陥る ・真理とは、認識とその対象の合致である(115) ・合理的に問う(117) ・超越論的真理を問うのは不合理だ(119) ・純粋悟性概念=カテゴリー(120) ・カテゴリーの12判断形式(120-121) ・カテゴリー一覧表(120) |
3. カテゴリーこそ客観的認識の根拠である(超越論的演繹論)122 |
・経験は、認識の質料と、質料に秩序をあたえる形式とを含んでいる。(122) ・質料と形式は、それぞれ異なった要素である。 ・経験:Erfahrung ・質料: Marerie ・形式:Form ・この見方は、プラトンのイデア論を批判したアリストテレスにはじまる(123) ・結合は、表象能力の自発性の作用である(124)——これが形式のあり方 ・私は考えるという意識は、私の表象に伴うものである。これは純粋統覚(Apperrzeption) ・超越論的統覚(transzendentale Apperzeption)(127) ・統覚の意味・説明(127) ・カントの戦略は、感性と悟性をまったく2つの認識の要素して、別々に論じる(129) ・だが超越論的演繹論において、感性の側に属するといわれる直観が、悟性による超越論的統覚に従うと、主張を変える(129) ・意識の総合的統一は、すべての認識の客観的条件だ(129)この箇所はB138のみ ・統覚の統一という原則こそ、人間の認識全体の最高の原理なのである(B135) ・直観はカテゴリーにしたがう(130)B143 ・悟性(Verstand):理解力(Understanding) ・カテゴリー ・統覚(Apperzeption):統覚・意識的知覚・理解(apperception)——ライプニッツの用語、知覚をとりまとめる(127)、統覚はカントによると自己意識(=私は考える)(131) ・世界は人間の主観が成立させた現象(131) ・主観的原理は、客観的妥当性を有する——超越論的演繹論(132) ・神的知性ならカテゴリーはいらない(133)——つまり、純粋理性批判は、人間による人間のための人間の議論か?そうである!!! ・経験の可能性の条件が、経験の対象の可能性の条件、これが序章の根源的成果(135)であり、コペルニクス的転回そのもの。 |
4. 理性そのもののうちに潜む錯誤(超越論的弁証論)137 |
・超越論的弁証論の課題は、超越論的仮象を論じることだ(137) ・超越論的仮象(transzendentale Schein) ・仮象は、カテゴリーの経験的使用の限界外、純粋悟性の拡張というごまかし(137) ・客観的認識には、感性と悟性の合一が必要である(138) ・つまり認識のおよぶ範囲は、時間・空間の形式でとらえられる対象(=現象)に限るということ。 ・純粋悟性概念は、論理形式なので、あらゆるところで適用可能だが、これが超越論的仮象をうむ原因になる。 ・超越論的仮象の例のひとつ「世界は時間的はじまりをもつ」という命題(これは証明のしようがないために仮象である) ・超越論的仮象は、理性の範囲内でおこる——理性も信頼ならない側面があるのだ(139) ・超越論的仮象の3種類 1)心理学的仮象——純粋理性の誤謬推理(パラロギスムス)——自我や霊魂の不滅性 2)宇宙論的仮象——純粋理性の二律背反(アンチノミー)——世界の有限性無限性、自由と必然、絶対的存在者 3)神学的仮象——純粋理性の理念(イデアル)——神の存在証明など |
3章 『純粋理性批判』の動揺 |
・143ページ |
A. カントの不安 |
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1. ハイデッガーのカント解釈 |
・ハイデガーのカント解釈(→「カントと形而上学の問題」) ・ハイデガーの見解は、1787年の第2版は、1781年の第1版にくらべて後退したというもの(143) ・第二版の書き換え問題(144) ・演繹論は2種類ある(145) ・オミットされたのは「構想力」(147-) ・第1版の叙述 ・第二版は、統覚が感性のすみずみに降りてゆくという構造(151)——第二版は統覚が最高原理。 |
2. 感性と悟性の〈共通の根〉 |
・153 ・図式は構想力の産物(154) ・構想力の削除(155)——構想力が悟性に書き換えられる(156) ・ハイデガーによる、超越論的構想力からの撤退(→木場訳, Pp.142-) 1)感性の低級な能力がなぜ理性の本質になり得るのかが説明できない。ラチオとロゴスが形而上学に占めることができなくなる不安 2)超越論的構想力(超越論的感性論と論理学の主題)を前提にすると、批判の建築性の構造が維持できなくなるのではないか?(160) 3)純粋理性が超越論的構想力に化けると、批判全体が主題を失われ、なりたたなくなる。 4)問いをつきつめると、未知なものをカントはみつけて、びびった(=純粋理性が彼をして呪縛する)。 ・他に、三木、坂部の議論(160) |
3. イエナ期ヘーゲルの慧眼 163 |
・カント主義者としてのヘーゲル ・根源的統一原理としての構想力(166) ・構想力こそは直観的知性である(167) ・根源的同一性を前提する哲学(171) ・カントは固定的な二元論から自由になれなかった(172) ・第1版は宙ぶらりんだ(174) ・2つの処方:1)初期ヘーゲルのように根源的一元論化、2)感性と悟性の二元論から、悟性の一元論へ(2は思想的退化と黒崎はいう)(175) |
B. 理性の深淵 |
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4. 理性のダイナミックな性格 |
・人間的認識のいちづけ(177) ・批判には誤謬論がない(178) ・認識は真でも偽でもありえる(180) ・超越論的真理は、経験の地平の確定である(182) ・因果関係をめぐるヒューム(184-)(→デイヴィッド・ヒューム) ・真理は純粋悟性概念からは導けない(186) |
5. 『純粋理性批判』から最晩年『オプス・ポストゥムム』へ |
・批判がカントの思考のピーク(189) ・カント思考の原動力は?(190) ・オプス・ポストゥムムには批判的態度(193) |
6. 真理は本当に存在するか | ・荒れ狂う大海に浮かぶ真理の島(国)(196-) ・カテゴリーと経験の循環(198) ・ニーチェの真理批判(199) |
エピローグ カントの広さと深さ |
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索引 |
リ ンク
文 献
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