はじめによんでください

カントの「物自体」にまつわる疑問

the question on "Ding an sich," by I. Kant

池田光穂

1781年『純粋理性批判』Kant, Immanuel: Kritik der reinen Vernunft. Riga: J. F. Hartknoch 1781, 856 Seiten, Erstdruck.

我々は、外から与える感覚情報を受け身に 捉えるのではない。 認識が可能なのは、我々の精神が経験を組織化し体系づける能動的な作業によっておこなわれる。 我々は、時間と空間と実体という枠組み(カテゴリー)により世界を認知している。 時間と空間と実体は、我々と独立して存在するのではない。それらは、我々の直観や理性(つまり想像)の産物であり、それなしには捉えられない。 では、世界の実体はどのようなものか?(このカントの問題の立て方が、アルキメデスの立場や視座を想定してナンセンスなのだが)カントはそれ答えられな い。そのような「独立した実体」(←これもナンセンス)を物自体(Ding an sich)と呼ぶ。物自体の世界には、永遠に認識できない世界がだが、それはかつてのキリスト教の「天国」のようだ。それゆえ、神学者は、カントのこの 「物自体」という仮想の(独立した実体の)世界を反キリスト教的なものだと、その匂いを嗅ぎつけた。

先験的(超越論的)原理論


先験的(超越論的)感性論


空間について


時間について


先験的(超越論的)論理学


先験的(超越論的)分析論


概念の分析論


原則の分析論


先験的(超越論的)弁証論


純粋理性の概念について


純粋理性の弁証的推理について


純粋理性の誤謬推理について


純粋理性のアンチノミー(二律背反)


純粋理性の理想


先験的(超越論的)方法論


純粋理性の訓練


純粋理性の基準


純粋理性の建築術


純粋理性の歴史

定 言命法
Kategorischer Imperativ, categorical imperative
定言命法[1](ていげんめいほう、独: Kategorischer Imperativ[2]、英: categorical imperative)とは、カント倫理学における根本的な原理であり、無条件に 「~せよ」と命じる絶対的命法である[3]。定言的命令(ていげんてきめいれい)とも言う。『人倫の形而上学の基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten) において提出され、『実践理性批判』において理論的な位置づけが若干修正された。『実践理性批判』の§7において「純粋実践理性の根本法則」として次のよ うに定式化される。

あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるよ うに行為せよ

Handle nur nach derjenigen Maxime, durch die du zugleich wollen kannst, dass sie ein allgemeines Gesetz werde.-  Immanuel Kant: AA IV, 421

Act as if the maxims of your action were to become through your will a universal law of nature.

カントによれば、この根本法則に合致しうる行為が義務として我々に妥当する行為であり、道徳的法則に従った者だけが良い意志を実現させるということであ る。 他のあらゆる倫理学の原則は「~ならば、~せよ」という仮言命法であるのに対して、カントの定言命法は「~ならば」という条件が無い『無条件の行為』を要 求する。 一例として、「幸福になりたいならば嘘をつくな」という仮言命法を採用する場合の問題が挙げられる。ここでは「幸福になること」と「嘘をつかないこと」の 間に必然性が有るのか無いのかが問題となる。「嘘をつかないこと」は幸福になるための都合の良い手段にすぎない。従って、もし「幸福になること」と「嘘を つかないこと」の間に必然性が見出されない(つまり道徳で幸福を得られない)場合には、「幸福になることを目的にする人」は不道徳(嘘をつくこと)を行う ことになる。すなわち、カントは自身の意志を普遍的立法の原理と妥当するように行動することを求めているため、我々は一切の自愛の原理に基づく幸福への意 図を断ち切り、普遍的立法に合致する格率によって意志を確立しなければならないわけである。 また、仮言命法において何が道徳的かであるかの洞察は、行為(嘘をつくこと)と帰結(幸福)との間の自然必然性の洞察であり、経験論に属するものでしかな い。条件節を欠くカントの定言命法は、倫理学が経験論の範囲に陥ることを防ぎ、経験論から独立した純粋に実践的な倫理学の範囲を確保するのである。

我々は、外から与える感覚情報を受け身に捉えるのではない。

認識が可能なのは、我々の精神が経験を組織化し体系づける能動的な作業によっておこなわれる。

我々は、時間と空間と実体という枠組み(カテゴリー)により世界を認知している。

時間と空間と実体は、我々と独立して存在するのではない。それらは、我々の直観や理性(つまり想像)の産物であり、それなしには捉えられない。

では、世界の実体はどのようなものか?(このカントの問題の立て方が、アルキメデスの立場や視座を想定してナンセンスなのだが)カントはそれ答 えられない。そのような「独立した実体」(←これもナンセンス)を物自体(Ding an sich)と呼ぶ。物自体の世界には、永遠に認識できない世界 がだが、それはかつてのキリスト教の「天国」のようだ。それゆえ、神学者は、カントのこの「物自体」という仮想の(独立した実体の)世界を反キリスト教的 なものだと、その匂いを嗅ぎつけた。

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また、フィヒテ(1762-1814)は、人間が知り得ない「物自体」をなぜカント自身が想定できるのかという矛盾に食ってかかる——多くの人 はフィヒテに同意できるだろう。フィヒテは、(カントがいった)能動的精神によって構築される世界がすべての世界であり、精神が知ることができないもの は、そもそも存在しないと主張する。しかし、これは、唯名論のことあげ(=命名できないものは存在しない)と似ており、不可知論や懐疑論者に対して有益な 「トドメ」を刺すことができない点でまだ、改良の余地がある。

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【それ以外のカントの問い】は御存知、以下の3つの問いから構成され る。1)何を知りうるか?、2)何をなすべきか?、何を望みうるか?

こ のことに関して私のいろいろなことを思いつく。→「■理性の関心事に関するカントの問いは、恋愛でもつかえますやん?——だとしたら、恋愛や恋愛対象も、 理性的存在ということなのでしょうか? ■それとも(理性から派生した)万物に対する人間の問いは、まず、この3つから考えよ、という先人の我々に対するアドバイスなのでしょうか? ■(機能論的に考えると)このように、サルでも覚えられる、3つの問いを、観想の対象を前にして思い起こすことは、とにかく、対象に取り組もうとしている すべての学習者に対してクールダウンして「冷静になりな!」という効用があるということになりますな。 ■でも、このようなインペラティブが通用しないクソバカな連中(例:私語をして五月蝿い幼稚園児並のヤンキーな学生)を前にしてカントはあまりにも無力? ではないのか?——現場の教師(=後輩)から聞こえてきそう〜♪ ■すなわち、冷静な思考をするためには、それはよいものであり、したがうべきだという、メタ・インペラティブが作働しておいてこそ(=理性的思考をするた めのアイドリング状態)、カントの問いは——少なくとも実践的には——「問いを促す人」と「自ら問いに取り組もうとする人」にはじめて意味(=意義)をも つとか…… ■君はどう思う?」

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