はじめによんでください
民族誌寓意論
allegory of ethnography
承前
この授業は「民族誌の極北」から由来しています。まず先週 の授業での議論「民族誌の問題系2009」をみてください。
民族誌の端的な定義が、ある空間で生活す る、ある特定の集団(=民族)に関する記述の体系としたら、なぜ民族誌が現代社会をいきる私たちに必要 になるのでしょうか?【4つの命題文】
1. 他者を理解するため
2. 多様な世界のあり方を理解し、多文化共生 を実現するため
3. 異様な他者の異様な行動様式を、認識論的 に飼い慣らし、自らの知識とすることで、生活実践上の統治とリスク回避を実現するため
4. 人間存在にとっての、根本的理解のため
民族誌記述の基本的前提となっていること を確認しましょうか。仮に暫定的であっても、また解釈にすぎないとしても、民族誌は客観的な記述実践の 産物である。著者による加工が入っていようが、民族誌をどのように理解するのかという点では、あらゆる読者に開かれた書物(→エーコの「開かれた作品」を 参照)である。
もし民族誌が上掲の課題(事例で掲げてい るのは4つの命題文)のための書物だとすれば、その書物の性格は別にフィクションや伝承さらにはSFで も良いはずではないか?
フィクションと民族誌を隔てるものはなにか?:事実にもとづく記述
フィクションと民族誌を繋ぐものはなにか?:構成されたもの(fictio)としての記述・記述を通したメッセージ性やメディア性
もし民族誌を後者の系列(=フィクションと民族誌を繋ぐもの)に位置づければ、フィクションが、民族誌の意味について探求する我々に対して何ら かの示唆を与えてくれるかもしれない。
では、その「何らかの示唆」とはなんだろうか?
私が考えるに、それは民族誌とフィクションの関係はアレゴリー(寓意)関係、つまり、両者は人間の生活(=存在様式)や人の集団(=民族)につ いて考えるのに適する物語である。したがって、上掲の4つの命題文について考える資料をフィクションは与えているということになる。
ここで〈民族誌的想像力〉Ethnographic imagination というものを定義してみよう。民族誌的想像力とは、民族誌の読解とそれにもとづく議論に欠かせない想像力のことである。民族誌批判ということばに言い換え ることもできる能力である。民族誌に書かれてある可能性を多角的に読みとる能力であり、そこから得られたものが他の社会のさまざまな現象に関連づけて論じ ることができる能力のことでもある。(→ライト・ミルズ「社会学的想像力」)
言うまでもなく、植民地体制における政治権力性の産物である民族誌ないしは民族誌記述の知的伝統についての反省心なしに、私はこの民族誌的想像 力が駆使できることは思わない。[→オリエンタリズム/サイード「オリエンタリズム」ノート]
だからといって、オリエンタリズム批判が民族誌的想像力の超自我よろしく、そこから派生するさまざまな議論を検閲し、ある種の政治的言説化オン リーになることが健全とも言えまい。むしろ、重要なことは、民族誌的想像力にもとづく相互批判が、民族誌を表象する側にも表象される側にも平等に配分され ることが、どこかで保証される必要がある[→対話論理]。
「民族誌の極北」の中でとりあげたかったテーマ
民族誌の極北の本文には、人類学者の日記、捏造と見なされた民族誌、叙事詩、地誌、史料からSF小説やアニメがあげてあります。そこで、私が想 定しているテーマには下記のようなものでした。しかし実際にはスケジュールの関係でできませんでした:現時点での反省ですが、それぞれの資料をとりあげて も、各1学期程度を要求する濃厚なテーマであり、これを授業の後半で取り上げようというのは「望みのない野望」にすぎませんでした。お詫びいたします。こ の続きは、ウェブのリンクで継続してゆきます。
人類学者の日記
マリノフスキーの日記
マーガレット・ミードの書簡類
捏造と見なされた民族誌
カルロス・カスタネダの民族誌
フロリンダ・ドナーの民族誌
スイフトの風刺文学
叙事詩
ホメロス「イリアス」「オデッセイア」
地誌
司馬遷「史記」
ヘロドトス「歴史」
アリストテレス「アテナイ人の国制」
史料
フーコー編「ピーエル・リヴィエールの犯罪」
SF小説
フィリップ・K・ディックのいくつかの作品
映画
リドリー・スコット監督「ブレードランナー」
アニメ
士郎正宗原作・押井守ほか「攻殻機動隊」
リンク
文献
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