はじめに かならずよんでください

民族誌的近代・民族誌的モダニティ

Ethnographic modernity, ethnographic modern

かいせつ 池田光穂

民族誌的近代(ethnograpgic modernity)とは、ジェームズ・クリフォードが『文化の窮状』 (Predicamento of Culture, 1988[邦訳 2003])の冒頭で発した用語であり、近代における「文化」および文化概念が直面している窮状のことを、そのように言い換えた(パラフレーズ)したもの である。

もちろん窮状という事態は、従来の近代性の概念からみた窮 状であり、別の観点からみると、文化概念がもつパラドクス、多声性、シュールリアリズム性、芸術的多義性や可能性など(従来の近代概念が抑圧してきた)豊 饒性(豊かさ)を意味する。したがって民族誌的近代は、分析や論理的判断のための概念ではなく、観察的および記述的な概念なのである。

では、西洋近代において、文化および文化概念が、どのよう な経緯で——特に近代人類学ならびに民族誌の登場を通して——窮状化するにいたるのであろうか。


まず、近代人類学が生みだした「文化」および文化概念について考えてみよう。

近代人類学は、西欧列強(後にはアメリカ合州国や日本)による植民地統治ならびに開発のプロ セスの中で、その学問の制度的意義を獲得してゆく。人類学者は、植民地という辺境にある現地人の生活の中に、文化を見つけだし、それを民族誌という記録媒 体に留める。人々の生活が多様であるという経験的認識は、文化の多様性というより高度で抽象化された学問的認識として確立し、文化人類学が近代的学問の中 に不可欠な知的領域として、自己の存在を主張しはじめる。そこでの文化の位置づけは、現地社会にある混じりけのない独自なものに他ならない(これを「本質 主義的理解にもとづく文化概念」と呼んでおこう)。

さて他方で、現地の本物の文化について理解しようと現地に赴く人類学者たちの活動は、徹頭徹 尾、近代がもたらした多様なテクノロジーによって支えられている。地球の裏側にも迅速に移動できる交通手段、通訳や調査助手を雇う豊富な資金力ならびに (植民地的)権力、民族誌を書くことでその社会の文化について自分の社会(西洋)の中で語ることができる知力や大学におけるポジションなどである。

では、この人類学者じしんがもつ[あるいは属している]「文化」とはいったいどんなものであ ろうか。それは西洋という土着の文化というよりも、西洋が生みだした根無し草的ないしはコスモポリタン的な故郷喪失な性格をもつほとんど[現地]文化とは 言えないしろものである。つまり土着ないしは現地の文化のような性質をことごとく消失したものである。ここでの文化概念は、現地の人たちのものと、人類学 者のものは、完全に非対称であり、後者つまり人類学者ひいては西洋近代がもたらした文化とは、人類学者が求めてきた文化に比べてきわめて歪(いびつ)なも のである。つまり、民族誌的な観点(ethnographic points of view)からみると、西洋近代は、ほんものの文化というものを持っていないことになる。だがこれは、なんともこれは奇妙な帰結である。

ここで民族誌的(ethnographic)という形容詞が指し示すものは、人類学者が住む 西洋近代という世界の中心にあるものではなく、つねに脱中心化した周辺の世界に存在するものである。そこには、先に述べたような「ほんものの文化」が存在 し、人類学者はそこで収集された情報を彼らのホームである西洋社会に持ち帰り、現地の人たちのもつ文化を、人類学者が書く民族誌の中で表現してきた(この ことは、民族誌は「現地文化の表象」であると言うことができる)。ここでは民族誌的に記述される客体(=語られるもの、見られるもの)と、民族誌的に記述 する主体(=語るもの、見るもの)が完全に非対称なものであることだ。

ところが、近代社会における民族誌が生みだされる過程を歴史的に分析することから、次のよう な奇妙なことが次第に明らかにされてきた。

人類学者が現地社会に赴いた時点において、現地社会もまた西洋近代が経験しているさまざまな 歴史的変動の影響を受けていた。大量かつ高速な移動手段によって人類学者を現地に送り出した西洋近代社会は、その交通手段によって、現地の人たちを受け入 れていた。このような人たちは、西洋社会における近代的教育を受け、現地社会で医師や教育者など近代化のエージェントになり、現地社会のもつ文化制度と複 雑な関係をとり結んだ結果、さまざまな変化をすでにもたらしていた。

人類学者たちは、そのような現地社会の変化については特段の関心を持たないだけではなく、現 地のほんものの文化を調べる際の障害となると考え、それらを意識的に排除していた。このことは、先に述べたような、現地の文化と西洋の[ほんものの文化と は言えないような]文化のあいだの非対称性の傾向をさらに助長させることに貢献した。

文化人類学は、近代化によって文化が西洋化——つまり脱中心化や根無し草化——するだけでは なく、現地文化との相互作用により多様化することに対して「文化変容」という用語を与えて、そのようなダイナミズムを理解しようとした。あるいは、文化が 現地の小さな社会に妥当するだけでなく、国民国家のレベルにも当てはまると主張して国民文化などという用語を造る。また文化概念が、幼年時代からの社会経 験により形作られるという見解をとると、文化は人間の価値観を成型するような保守的で変化しないものと理解されてしまうが、変化という観点からみると文化 には革新的でダイナミックなものにも理解できる。また文化は、前者の見解をとれば、全員がもつ画一的な価値観とみなされてしまうが、後者では文化内の多様 性を理解することが重要になる。文化を調和的で非政治的な観点でとらえる者もあれば、暴力的でイデオロギーであるという見解も登場する。つまり、理論言語 としての文化概念は矛盾に満ちて破綻の危機に陥ってしまった。

このような窮状の原因はどこにあるのか? そして、それは人類学の文化概念がもはや役に立た なくなったということなのだろうか?(結論から言うと、決してそうではないのだ)

クリフォードらの主張を敷衍して私が考えるところによると、窮状の原因は、民族誌を産出した 西洋近代がもたらした、文化概念における西欧と現地社会の文化概念の二重性であり、記述するものと記述されるものの立場——より率直に言えば知識と権 力——の非対称性に求めることができる。このような事象について、反省的な観点から取り組むことで、文化概念を再構成するというのが、彼らの野心的な試み なのである。

そして、このような不思議で奇妙な[窮状に陥った]文化概念の諸相について、反省的な知識を 供給するのが「民族誌的知識」に他ならない。太田好信(2001:15)によれば、民族誌的知識とは、「人類学のような一つの学問のなかで制度化された行 為の産物ではなく、文化という意味体系から脱中心化してしまう経験が生む何かであり、つまり文化のなかにいたまま、それを外から眺める行為が生む何か」 (→民族誌的知識)ということである。

通常、議論をする際には、言葉に具体的な定義を与えて、その論理操作をすることが定石だが、 クリフォードや太田は、その輪郭をだけを示唆して、それが何であるかということを、それを指摘する文脈の中ではあまり具体的に明示しない傾向がある。その 代わりに、彼らの著作の中で、民族誌的近代を示唆する豊富な事例が、その該博な人類学的知識とブレンドされて、速射砲のように出てくるのである(人類学的 な知の散種と言っても過言ではない)。

それゆえ、このような議論についていけない[十分に理解できない]批判者は、イライラして形 式論的な定義を与えて論理的にすっきりする議論へと回収し、その領域内で我田引水的議論をするか、もっとひどいのになると理由もなく禁書目録に登録し弟子 たちにそれにもとづいた議論を抑制することで、それを克服したかのように思いこむ傾向がある。

しかし、クリフォードや太田が他の部分で取り上げるように、芸術と人類学の活動の類似性につ いて指摘していることが、彼らの主張の曖昧さを説く鍵のひとつあろう。つまり芸術家が何かを表現しているように、人類学者は民族誌を記述することを通し て、この社会のなかで何かを表現しており、また人類学者と呼ばれない人たちにおいてもその民族誌を引き受けたり、あるいは別のタイプの民族誌的知識を産出 することで、民族誌的近代に関する問題系にさまざまな意見の提示をおこなっているのだ。このことを理解すれば、民族誌的近代という用語ならびに概念は、文 化と民族誌と人類学の社会的地位に関する、複雑な歴史的位相の形成の理解とその具体的な問題の解法むけて、我々に対してなにがしかの指針を与えてくれるで あろう。

  • ジェームズ・クリフォード『文化 の窮状:20世紀の民族 誌、文学、芸術を読む(授業)
  • 民族誌の批判的読解:ミレニアム 版(授業)
  • Introduction: The Pure Products Go Crazy
  • 第1部 言説
        I. Discourses

    1.民族誌的権威について 1. On Ethnographic Authority

    2.民族誌における権力と対話 2. Power and Dialogue in Ethnography: Marcel Griaule’s Initiation

    3.民族誌的自己成型  3. On Ethnographic Self-Fashioning: Conrad and Malinowski

    第2部 転置
    II. Displacements

    4.民族誌的シュルレアリスムについて
     4. On Ethnographic Surrealism

    5.転置の詩学
    5. A Poetics of Displacement: Victor Segalen

    6.君の旅について話してくれ
    6. Tell about Your Trip: Michel Leiris

    7.新語のポリティクス
     7. A Politics of Neologism: Aimé Césaire

    8.植物園
    8. The Jardin des Plantes: Postcards

    第3部 収集
     III. Collections

    9.部族的なものと近代的なものの歴史
    9. Histories of the Tribal and the Modern

    10.芸術と文化の収集について
    10. On Collecting Art and Culture

    第4部 歴史
    IV. Histories

    11.『オリエンタリズム』について
    11. On Orientalism
    ジェイムズ・クリフォードによる『オリエンタリズム』の書評について
    12.マシュピーにおけるアイデンティ ティ
    12. Identity in Mashpee

    民族誌的近代とは、我々の社会(つまり近代社会)が直 面し ている文化概念の窮状のことであるが、それは文化をめぐる社会状況のことであり、「民族誌的知識」を通して明らかになる問題系のことに他ならない。

    もちろん窮状という事態は、従来の近代性の概念からみた窮 状であり、別の観点からみると、文化概念がもつパラドクス、多声性、シュールリアリズム性、芸術的多義性や可能性など(従来の近代概念が抑圧してきた)豊 饒性(豊かさ)を意味する。したがって民族誌的近代は、分析や論理的判断のための概念ではなく、観察的および記述的な概念なのである[このパラグラフは冒 頭の繰り返しである]。

    アルジュン・アパデュライの『近代性一般』(Modernity at Large,1996 )(→アパ デュライのスケー プ論

    "Offering a new framework for the cultural study of globalization, Modernity at Large shows how the imagination works as a social force in today's world, providing new resources for identity and energies for creating alternatives to the nation-state, whose era some see as coming to an end. Appadurai examines the current epoch of globalization, which is characterized by the win forces of mass migration and electronic mediation, and provides fresh ways of looking at popular consumption patters, debates about multiculturalism, and ethnic violence. He considers the way images--of lifestyles, popular culture, and self-representation--circulate internationally through the media and are often borrowed in surprising (to their originators) and inventive fashions." - https://www.amazon.com/Modernity-At-Large-Dimensions-Globalization/dp/0816627932

    「グ ローバリゼーションの文化的研究に新たな枠組みを提供する『Modernity at Large』は、想像力が今日の世界でいかに社会的な力として働き、アイデンティティの新たな資源を提供し、国民国家に代わるものを創造するエネルギーを 与えているかを示している。アパデュライは、大移動と電子媒介という勝利の力によって特徴づけられる現在のグローバリゼーションの時代を検証し、大衆の消 費パターン、多文化主義についての議論、民族的暴力についての新鮮な見方を提供する。ライフスタイル、大衆文化、自己表象などのイメージが、メディアを通 じて国際的に流通し、しばしば(その発信者にとっては)意外で独創的な方法で借用される方法について考察している。」

    An Analysis of Arjun Appadurai's Modernity at Large, Cultural Dimensions of Globalisation, y Amy Young Evrard (章立て)→Ways in to the text Who was Arjun Appadurai? What does Modernity at Large: Cultural Dimensions of Globalisation Say? Why does Modernity at Large: Cultural Dimensions of Globalisation Matter? Section 1: Influences Module 1: The Author and the Historical Context Module 2: Academic Context Module 3: The Problem Module 4: The Author's Contribution Section 2: Ideas Module 5: Main Ideas Module 6: Secondary Ideas Module 7: Achievement Module 8: Place in the Author's Work Section 3: Impact Module 9: The First Responses Module 10: The Evolving Debate Module 11: Impact and Influence Today Module 12: Where Next? Glossary of Terms People Mentioned in the Text Works Cited

    1部 グローバルなフロー

    2部 近代の植民地

    3部 ポストナショナルな配置(ロケーション)

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    1.今とここ

    1部 グローバルなフロー

    2.グローバル文化経済における乖離構造と差異

    3.グローバルなエスノスケープ:トランスナショナルな人類学へ向け ての覚書と疑問

    4.消費、持続、歴史

    2部 近代の植民地

    5. 近代性との戯れ:インドクリケットの脱植民地化

    6. 植民地想像力における統計

    3 部 ポストナショナルな配置(ロケーション)

    7. 原初主義(primordialism)の後で

    8. 愛国心とその未来

    9. ローカリティの生産

    ●テッサ・モリス=スズキ『辺境から眺める』2000.

    序 辺境から眺める

    第1章 フロンティアを創造する—日本極北における国境、アイ デンティティ、歴史

    第2章 歴史のもうひとつの風景

    第3章 民族誌学の眼をとおして

    第4章 国民、近代、先住民族

    第5章 他者性への道—二〇世紀日本におけるアイヌとアイデン ティティ・ポリティクス

    第6章 集合的記憶、集合的忘却—先住民族、シティズンシッ プ、国際共同体

    終章 サハリンを回想する

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