アパデュライのスケープ論
five scapes by Arjun Appadurai
アルジュン・アパデュライの5つのスケープ論 |
1)エスノスケープ(ethnoscape) |
2)テクノスケープ(technoscape) |
3)ファイナンススケープ(financialscape) |
4)メディアスケープ(mediascape) |
5)イデオスケープ(ideoscape) |
アルジュン・アパデュライの5つのスケープ論
1)エスノスケープ(ethnoscape)
「《エスノスケープ》とは、今日の変転する世界を構
成している諸個人のランドスケープを言い表し
ている。旅行者、移民、難民、亡命者、外国人労働者といった移動する集団や個人が、世界
の本質的な特徴をなしており、国家の(そして国家間の)政治に、これまでにない規模で影響をおよ
ぼしているようである。とはいえ、親族、友人関係、労働や余暇から、子供の誕生や居住といった世
代を超えるものにいたるまで、比較的安定した共同体やネットワークが存在していないわけではない。
だが、こうした安定性がいわば縦糸として存在しているとしても、移動しなければならないという現
実や、移動への欲求をかきたてる夢想に直面する個人や集団が増えるにしたがい、いたるところで、
あたかも横糸のようにヒトの移動が入り交じっているとは言えるであろう。さらに、このような現実
も夢想も現在では、さらに大きな規模で作用している。たとえば、インドの村落地帯出身の者はプー
ナやマドラスヘの移動ばかりでなく、ドバイやヒューストンヘの移動も考えており、また、スリラン
力難民にしても、スイスだけでなく南インドでも見られる。同様に、フモン族はフィラデルフィアだ
けでなくロンドンにまで追い立てられている。そして、国際資本の需要転換や、生産やテクノロジー
が生み出す多様な需要、国民ー国家による難民政策の転換のために、こうした移動集団は、その想像
力を長期にわたって一定に保つことを望んだとしても、もはやそれが許されないのである
」(アパデュライ 2004:70-71)(→「民族」)。
2)テクノスケープ(technoscape)
「《テクノスケープ》とは、テクノロジーのグローバ ルな、そしてたえず流動的でもある布置、さら に、テクノロジーが、ハイテクであれローテクであれ、機械的であれ情報的であれ、かつては流動を 阻んできた多様な境界を越えて高速移動しているという事態を指している。現在では、多くの国々が 多国籍企業の起源となっている。リビアの巨大な鉄鋼コンビナートは、インドや中国、ロシア、日本 からの利益に関与し、テクノロジーの新たな布置を構成するさまざまな要素を提供している。テクノ ロジー流通を特異にし、それゆえテクノスケープを特殊にしているのは、基準賃金表や政治的管理、 市場合理性といった目に見てとれる経済ではなく、マネーフロー、政治的可能性、非熟練ないし熟練 労働者の調達可能性という一_一者の、複雑さをいや増す関係である。たとえば、インドは、ウエイター やおかかえ運転手をドバイやシャルジャヘと輸出している一方で、アメリカにはソフトウェアの技術 者を輸出している彼らは、ターター・バローズ社や世界銀行と短期の雇用契約を結んだ後、国務 省を経由し、富裕な在留外国人となりおおせ、今度は、魅惑的な宣託をもった人物として、インドに おける連邦あるいは国家プロジェクトへと、その資金とノウハウを投資する。/ グローバル経済の記述を(世界銀行がいまだに続けているように)伝統的な指標に則って行うことも、 その研究を(ペンシルヴァニア大学でのリンク計画の場合のように)伝統的な比較研究という視点で行う ことも、確かに依然として可能ではある。だが、これらの指標や比較研究の基盤となっている複合的 なテクノスケープ(や変転するエスノスケープ)は、社会科学が重視してきた領域からこれまで以上に かけ離れつつある。日本とアメリカの賃金や、ニューヨークと東京の不動産コストについての有意な 比較を行うためには、グローバルな通貨投機や資本移動を通してその二つの経済を結びつけている、 複雑な財政や投資のフローそのものについて緻密な説明を施すことが、是が非でも必要となってくる のではないだろうか」(アパデュライ 2004:71-72)。
3)ファイナンススケープ (financialscape)
「《ファイナンスケープ》をとり上げることも有益で あると言えよう。現在、グローバル 資本は、かつてないほどまでに神秘的で急速に移動するため、動きをとらえがたいランドスケープと なっている。通貨市場や国債市場、商品投機は、巨大資金を目にも止まらぬ速度で国家へと流出入さ せており、しかも利率や期間のごくわずかな違いによって莫大な含み益を生み出している。しかし。 決定的に重要なのは、エスノスケープ、テクノスケープ、ファイナンスケープのグローバルな関係が、 深層では乖離的で全く予測不可能である、ということである。というのも、それぞれのランドスケー プは、独自の制約と刺激(政治的なことも、情報的なことも、技術環境的なこともある)の影響下にある と同時に、他のランドスケープでの移動を制約または媒介する変数として作用するからである。した がって、グローバルな政治経済のもっとも基本的なモデルであっても、ヒトの移動、テクノロジーの フロー、資金の移動の関係が深層で乖離的である、ということを考慮せねばならない」(アパデュライ 2004:72-73)(→「資本論」「生産様式」)。
●)メディアスケープとイデオスケープという乖離構 造
「こうした乖離構造(いかなる場合も、単一で機械的 なグローバル下部構造を形成することはない)をさ らに屈折させるのが、《メディアスケープ》と《イデオスケープ》と私が呼ぶものである。この二つ は密接な関係をもっており、ともにイメージに関与している。《メディアスケープ》が言い表してい ることは二つある。第一は、(新聞社や出版社、テレビ局、映画撮影所など)情報を生産し配信する電子 的能力の配分である。現在、この能力を利用する利害団体は、公的、私的を問わず、世界中で増加し ている。第二は、メディアによって創造される、世界についてのイメージである。イメージの様式 (記録を目指したものか、娯楽のためのものか)、ハードウェアの種類(電子的か、電子的以前のものか)、 対象となるオーディエンス(ローカルな範囲か、ナショナルな範囲か、それともトランスナショナルな範 囲か)、そしてそのイメージを所有し管理する者の利害に応じて、そうしたイメージは、多くの複雑 な捻れを被ることになる。メディアスケープに関してもっとも重要なのは、それが世界中の視聴者に (とくに、テレビや映画、カセットという形式で)提供するイメージ、物語、エスノスケープの目録が大 規模で複雑であるため、その目録のなかでは、商品の世界とニュースや政治の世界とが分かち難く混 在している、ということである。つまり、世界中の多くのオーディエンスは、メディアそれ自体を、 印刷やセルロイド、電子画面、掲示板が相互に連関しあった複合的な目録として経験するのである。 オーディエンスが目にする現実のランドスケープと虚構のランドスケープとの境界線は不鮮明になっ ている。そのため、オーディエンスがメトロポリス生活の直接的な経験から遠ざかるにつれて、彼ら が構築する想像の世界は、とりわけ何か別のパースペクティヴや何か別の想像の世界を基準に評価さ れたときには、キマイラ的で美的、ときには夢想的にさえなるのである」(アパデュライ 2004:73-74)(→「メディアの理解」)。
4)メディアスケープ(mediascape)
「 メディアスケープは、総じて、それを生み出したのが私的な利害であるにせよ、国家の利害である にせよにせよ、現実の一断片を、イメージを中心として、そして物語に基づきながら説明するものである。 そして、メディアスケープを経験し変容する者に対してメディアスケープが提示する一連の要素(キ ャラクター、プロット、テクスト形式など)からは、想像の生活についての台本が、しかも、他の場所 で他者が営んでいる生活はもちろん、他ならぬ自分自身の生活についての台本までもが創り出される ことがある。そうした台本は、複雑なメタフアー群へと解体されていく可能性があるし、現にそうさ れて、人びとが生活を営む基準にもなっている(Lakoff and Johnson 1980) 。それを手がかりに、〈他 者〉をめぐる物語や可能なる生活をめぐる原l物語が、つまり、獲得と移動への欲望を導<可能性を もった夢想が構成されるからである」(アパデュライ 2004:74)。
5)イデオスケープ(ideoscape)
「《イデオスケープ》もまたイメージの連鎖である。だが、イデオスケープは多くの場合、あからさ まに政治的で、国家のイデオロギーや、国家権力またはその一部の獲得という明確な方向性をもった 運動の対抗イデオロギーをとり上げることになる。イデオスケープを構成するのは、啓蒙主義的世界 観である。それは、一群の観念や語彙、イメージ——たとえば、《自由》や《福祉》、《権利》、《主権》、 《代表》、そして、《民主主義》というもっとも大きな概念——を要素に成り立っている。啓蒙 主義という大きな物語(や、イギリス、フランス、アメリカでのその亜種の多く)は、ある一定の内的論 理にしたがって構築され、読書、表象、公共圏の間に一、定の関係が存在していることを想定してきた (初期のアメリカ史におけるこのプロセスの力学については、Warner1990を見よ)。だが、これらの語彙 やイメージが世界中に四散することで、特に一九世紀以降、欧米的な大きな物語のなかにそれらを 押し込めていた内的一貫性が揺らぎ、それに代わって、政治学についての緩やかに構造化された梗概 が生み出された。その結果、国民ー国家はその発展の一環として、それぞれに異なった墓本概念を中 心に独自の政治文化を編成してきた(e. g., Wiliams 1976)」(アパデュライ 2004:74-75)。
●脱領域化
「脱領土化 (deterritorialization) は、一般的に、近代世界の中心的な力の一っである。というのも、脱領土化は、比較的富裕な社会の下層階級の区域や空間へと労働者を追いやる一方で、祖国の 政治に対する批判あるいは愛着の感覚を誇張し強化することもあるからである」(アパデュライ 2004:77)。
「同時に、脱領土化は、映画会社や芸術興行者、旅行 代理店に対して、新たな市場を創り出してもいる。それらは、祖国との接触を求める脱領土化された人びとの需要によって成長を遂げている。だが当然ながら、 脱領土化された集団のメディアスケープを構成する、このような捏造された祖国は、往々にしてあまりにも幻想的で一面的であるために、それを素にして生まれ る新たなイディオスケープでは、民族衝突が勃発し始める」(アパデュライ 2004:78)。
For all undergraduate students!!!, you do not copy & paste but [re]think my message. Remind Wittgenstein's phrase, "I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein
リンク
文献
アパデュライのスケープ論