イデオロギー
ideology
解説:池田光穂
イデオロギー(ideology)とは「ある特定の観念についての理論体 系」のことであり、それが明文化されていようがいまいが「観念に権威を与え、理解し、それに 基づいて何かの実践を引き出すことができるもの」とここでは定義することができます。したがって、イデオロギーはその渦中にいる人にとって は良い/悪い、 正しい/間違っているという価値の判断を(とりわけ深く考えなくても)もたらすことができます。イデオロギーの定義は、現在では主要な思想家の数だけある と言っても過言ではない。以下ではイデオロギーを理解するための「現代イデオロギー論者七人衆」をご紹介します。
1. ルイ・アルチュセール
アルチュセールに言わせると、イデオロギーとは「自分は外にあるにも 関わ らず、自分の外にはないもの」という自己矛盾したものであるということ です(上野 2014:226-227)。ルイ・アルチュセールのテーゼだと「イデオロ ギーには外がない、と同時にイデオロギーは外にしかない」「イデオロギーには歴史がな い」「イデオロギーは永遠である」ということになります。これは、イデオロギーがイデオロギーとして機能している時には、(あたかも)歴史性をもたず普遍 で 「永遠」なものとしてその行為者たちには錯認してしまうからです(→イデオロギー概念の自然化)。
2. アントニオ・グラムシ
アルチュセールは、マルクスがイデオロギーの概念を根本的に変えて、それ(=イデオロギー)を「ひとりの人間、あるいは社会的な一集団の精神を支配する諸観念や諸表象の体系」と説明しています(アルチュセール[下] 2010:208)。この「精神を支配する」 ことこそが、ヘゲモニーを掌握するというアントニオ・グラムシのテーゼになるので す。そしてアルチュセールのテーゼに従うと、イデオロギーの支配とは、 それが各個人個人に直接訴えます。すなわちイデオロギーは主体に訴えかける機能をもつのです(アルチュセール[下]2010:217)。
3. クリフォード・ギアーツ
クリフォード・ギアツ(ギアーツ)は、イデオロギーの機能としては「政治を意味あるもの とす るような権威あ る概念を与えることによって、すなわち政治を理解し得るような形で把握する手段としての説得力あるイメージを与えることによって、自律的な政治を可能にす ることである」(邦訳:第2分冊:42ページ)と述べています。(→出典「文化としてのイデオ ロギー論に関する対話」)
4. カール・マンハイム
カール・マンハイム(『イデオロギーとユートピア(Ideology and Utopia)』)によると、イデオロギーは、存在被拘束性(Seinsverbundenheit)という性格をもち、支配集団の現状維持 を承認する「虚偽意識」といってます。
5. ハンナ・アーレント
アーレントによると、イデオロギーは世界観と同義だけれど、人間に考えることを停止させる、思想的装置ないしは武器のように思えてきます。 次の 引 用を参照してください。
「哲学的思想に必然的にそなわる不確実さを捨ててイ デオロギーとその世界観(Weltanschaung)による全体的説明を取ることの危険は、何らかの 大抵は月並な、しかも常に無批判な臆断にはまりこんでしまうということよりも、人間の思考能力に固有の自由を捨てて強制的論理を取るということである。人 間はこの強制的論理をもって、何らかの外力によって強制されるのとほとんど同じくらい乱暴に自分自身に強制を加えるのだ」[アーレント 1981:313]。
6. ヒューマン・ケアというイデオロギーあるいはジェンダー・イデオロギー
端的に言って、ケアの現場において、手厚く看護や介護する人は〈女性の役割〉で医療や診断などの知的労働は〈男性の役割〉だと考える人がい た ら、それは古い考え方をもっているのではなく、〈ケアのジェンダー〉や〈労働のジェンダー〉というイデオロギーに呪縛されている人だとい うことができます(→「ケアの倫理」「ミソジニーのイデオロギー的機能」「ジェ ンダー・とらぶってる」)。
7. ジョークネタとしてのイデオロギー(スラヴォイ・ジジェクの
場合)
「量子力学のヒーロ、ニールス・ボーア、コペンハーゲンの男である。彼が、週末の田舎の別荘かなにかに客と一緒にいった。そこで入り口の横
に、馬蹄がかけてある。馬蹄はなにかの魔除けであることを知っている来客は不思議に思った。ボーアは骨太の科学者で、迷信なんかこれっぽっちも信じない。
『ボーアさん、迷信など信じないあなたが、かけてあるこの馬蹄、いったい、あなたは信じるのでしょうか?』と客はたずねた。ボーアは真顔で言った。『あ
あ、もちろん、そんなものなど信じていないよ。けど、これは、僕のような不信心者でも、効き
目があるって人が言うんだよね』(会場大爆笑)。みなさん、これこそが、イデオロギーなんですね!!!」スラヴォイ・ジジェクの講演での
ジョーク(梗概)[→ジョークを通して学ぶイデオロギー入門]
◎イデオロギーという用語の発明者について
今日的用法とは若干異なるがイデオロギーという言葉の発明者はデスチュット・ド・トラシ(Antonie Louis Claude Destutt de Tracy, 1754-1836)である。
ド・トラシは「フランスの哲学者。パリに生まれ、軍隊に入る。フランス革命直前の三部会に貴族代表として参加したが、革命時には逮捕された。の ち総裁政府下では主として教育行政の立案に参加。哲学的にはコンディヤックの感覚論の系譜を引く。感覚を基礎にして観念の形成、展開を研究し、これを観念 学(イデオロジーidéologie、フランス語)と名づけた。その際、コンディヤックとは異なり、意志、判断、想起も、感覚と同じく観念を構成する究極 的要素として認められている。そして、この狭義の観念学(人間の心理作用の分析)から、倫理、教育、政治の理論を導き出すことを企てた。主著には、この構 想を述べた『観念学の原理』5巻(1801~1815)」香川知晶)。
(以 下はウィキ英語版をまとめたものである):デスチュット・ド・トラシは、コンディヤックがロックの一方的な解釈に基づいてフランスに設立した官能主義学派 の最後の著名な代表者である。カバニスの唯物論的見解に全面的に賛同し、ド・トラシはコンディヤックの官能主義的原則を最も必要な結果まで押し進めた。カ バニスが人間の生理的側面に関心を寄せていたのに対し、ド・トラシの関心は、当時新たに決定された人間の「心理的」ではなく「思想的」な側面に向けられて いた。彼の基盤となるイデオロギーという概念は、「動物学(生物学)の一部」に分類されるべきものだと率直に述べている。ド・トラシが 意識生活を区分する4つの能力、すなわち知覚、記憶、判断、意志は、すべて感覚の一種である。知覚は神経の外端の現在の興奮によって引き起こされる感覚で あり、記憶は現在の興奮がないときに過去の経験の結果である神経の性質によって引き起こされる感覚であり、判断は感覚間の関係の認識であり、それ自体感覚 の一種である、もし我々が感覚を認識するならば、それらの間の関係も認識する必要がある。
彼の哲学が及ぼした影響から考えると、ド・トラシは、能動的触覚と受動的触覚を区別し、最終的に筋肉感覚に関する心理学的理論の発展に寄与した という点で、最低限の評価に値すると思われる。外的存在の概念は純粋な感覚ではなく、一方では作用、他方では抵抗の経験に由来するという彼の説明は、この 観点からアレクサンダー・ベインや後の心理学者の業績と比較されるべきものである。
主な著作は、『イデオロジーの厳密な定義』として発表された第1巻のÉléments d'idéologie (1817-1818) 5巻、Commentaire sur l'esprit des lois de Montesquieu (1806) および Essai sur le génie, et les ouvrages de Montesquieu (1808) で、先に完成したモノグラフでの論点を補完するものであった。Eléments d'idéologie』の第4巻は、『Traité de la volonté』と題した9部作のうちの第2部の序章と位置づけられるものであった。このため、デ・トラシは政治ではなく、意志とその決定条件を理解する 可能性という、より基本的な問題に取り組んでいることが明らかになった。
ド・トラシは、社会理論において演繹的手法を厳格に用い、経済学を行為(プラクセオロジー)と交換(カタラクチック)の観点から捉えることを推 進した。ド・トラシの影響は大陸(特にスタンダール、オーギュスタン・ティエリ、オーギュスト・コント、シャルル・デュノワイエ)でもアメリカでも見ら れ、フランス自由主義派の政治経済学は、アーサー・レーサム・ペリーの業績や評判に見られるように、19世紀末まではイギリスの古典政治経済と互角に戦っ てきた。ド・トラシは、政治的著作において君主制を否定し、アメリカの共和制を支持した。この共和制と、哲学における理性、経済政策における自由放任主義 の提唱は、ナポレオンに気に入られず、彼はド・トラシの造語である「イデオロギー」を罵倒語に変えてしまった。カール・マルクスはこの流れを汲み、ド・ト ラシを「fischblütige Bourgeoisoisdoktrinär」(「魚の血を引くブルジョワの教条主義者」)と呼んだ。
一方、トーマス・ジェファーソンはデスチュット・ド・トラシの仕事を高く評価し、彼の原稿のうち2本をアメリカでの出版に用意した。1817年
の出版に際し、ジェファーソンはその序文で「政治経済学の健全な原則を普及させることによって、現在消費している寄生虫組織から公共産業を保護することが
できるだろう」と書いている。ド・トラシのモンテスキュー批判と代議制民主主義の支持は、ジェファーソンの思想に影響を与えた。
★イデオロギー批判(critique of ideology)
The critique of ideology
is a concept used in critical theory, literary studies, and cultural
studies. It focuses on analyzing the ideology found in cultural texts,
whether those texts be works of popular culture or high culture,
philosophy or TV advertisements. These ideologies can be expressed
implicitly or explicitly. The focus is on analyzing and demonstrating
the underlying ideological assumptions of the texts and then
criticizing the attitude of these works. An important part of ideology
critique has to do with “looking suspiciously at works of art and
debunking them as tools of oppression”.[1] |
イデオロギー批判とは、批判理論、文学研究、文化研究で用いられる概念
である。大衆文化やハイカルチャー、哲学、テレビ広告など、文化的なテキストに見られるイデオロギーの分析に焦点を当てている。これらのイデオロギーは、
暗黙的または明示的に表現される。テキストの根底にあるイデオロギー的前提を分析し、明示し、その上でこれらの作品の姿勢を批判することに重点が置かれて
いる。イデオロギー批判の重要な部分は、「芸術作品を疑いの目で見て、抑圧の道具として暴く」ことである。[1] |
Terminology The critique of ideology has a particular understanding of "ideology," distinct from political perspective or opinions. This specialized meaning comes from the term's root in the works of Karl Marx and Friedrich Engels. For the critique of ideology, ideology is a form of false consciousness. Ideology is a lie about the real state of affairs in the world. In Raymond Williams's words, it is about "ideology as illusion, false consciousness, unreality, upside-down reality".[2] German philosopher Markus Gabriel defines ideology as "any attempt to objectify the human mind [...] to eradicate the historical dimensions of it, to turn something which is historically contingent, produced by humans, into some kind of natural necessity."[3] In the work of Marx and Engels, ideology was the false belief that capitalist society was a product of human nature, when in reality it had been imposed, often violently, in particular circumstances, in particular places, at particular historical periods. The term "critique" is also employed in a special manner. Rather than a synonym for criticism, "critique" comes from Immanuel Kant's usage of the term, which meant an investigation into the structures under which we live, think, and act. A critic of ideology, in this sense, is not merely one who expresses disagreement or disapproval, but who is able to bring to light the belief's true conditions of possible existence. Because conditions are constantly changing, showing a belief's existence to be built on mere conditions implicitly shows that they are not eternal, natural, or organic, but are instead historical, contingent, and therefore changeable. Frankfurt School philosopher Max Horkheimer termed a theory critical if it aims "to liberate human beings from the circumstances that enslave them."[4] The critique of ideology is rooted in Karl Marx and Friedrich Engels's writings. The above is an 1875 portrait of Marx. |
用語 イデオロギー批判は、「イデオロギー」を政治的な視点や意見とは異なるものとして特別に理解している。この専門的な意味は、カール・マルクスとフリードリ ヒ・エンゲルスの著作における用語の語源に由来する。イデオロギー批判において、イデオロギーは偽りの意識の一形態である。イデオロギーは、世界の現実の 状態に関する嘘である。レイモンド・ウィリアムズの言葉を借りれば、それは「幻想としてのイデオロギー、偽りの意識、非現実、逆転した現実」である。 [2] ドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルはイデオロギーを「人間の心を客観化しようとするあらゆる試み、すなわち、その歴史的次元を根絶し、歴史的に偶発的 で人間によって作り出されたものを、ある種の自然的な必然性へと変える試み」と定義している。[3] マルクスとエンゲルスの著作では、イデオロギーとは資本主義社会が人間の本性の産物であるという誤った信念であったが、実際には特定の状況下、特定の場 所、特定の歴史的時代において、しばしば暴力的に押し付けられたものであった。 「批判」という用語もまた特別な意味で用いられている。「批判」は、単に「批判」と同義語というよりも、イマニュエル・カントの用法に由来するもので、私 たちが生き、考え、行動する構造を調査することを意味する。この意味において、イデオロギーの批判者は、単に反対や不賛成を表明するだけでなく、信念の存 在しうる真の条件を明らかにすることができる人である。状況は常に変化しているため、信念の存在が単なる状況の上に成り立っていることを示すことは、その 信念が永遠でも自然でも有機的でもないことを暗に示し、歴史的で偶発的であり、したがって変化し得るものであることを示す。フランクフルト学派の哲学者 マックス・ホルクハイマーは、「人間を奴隷化する状況から人間を解放する」ことを目的とする理論を批判理論と呼んだ。[4] イデオロギー批判の根源は、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの著作にある。 上の写真は、1875年のマルクスの肖像画である。 |
After Marx See also: Frankfurt School, Critical theory, and Marxism There is no universally agreed upon definition or model of ideology. The classical and orthodox Marxist definition of ideology is false belief, emergent from the oppressive society which educates its citizens to be obedient workers. The failures of the 1918 revolutions, the rise of Stalinism and fascism, and the explosion of another world war saw a new focus on the importance of ideology among Marxists. Rather than a mere lie of the political-economic establishment, ideology was recognized to be a force in its own right. Wilhelm Reich and later the Frankfurt School complemented Marx's theory of society with Freud's theory of the subject, departing from orthodox Marxism and the Leninist traditions, and setting the foundations of what later came to be called "critical theory." Reich saw the rise of fascism as an expression of a long-repressed sexuality. Frankfurt School philosopher Theodor Adorno wrote in his essay "The Culture Industry: Enlightenment as Mass Deception" how the mass entertainment blunts the possibilities for liberatory action by creating and satisfying false needs. Interested parties like to explain the culture industry in technological terms. Its millions of participants, they argue, demand reproduction processes which inevitably lead to the use of standard products to meet the same needs at countless locations. The technical antithesis between few production centers and widely dispersed reception necessitates organization and planning by those in control. The standardized forms, it is claimed, were originally derived from the needs of the consumers: that is why they are accepted with so little resistance. In reality, a cycle of manipulation and retroactive need is unifying the system ever more tightly.[5] Adorno identifies supply and demand reasoning as ideological. It is not merely a false belief: it is a false worldview or philosophy which enables the maintenance of the contingent, historical status quo while appearing to be objective and scientific. A major theme of the Frankfurt School is that those modes of thinking which, at first, are liberatory, may become ideological as time goes on.[5] |
マルクス以降 参照:フランクフルト学派、批判理論、マルクス主義 イデオロギーの定義やモデルについて、世界的に合意されたものは存在しない。古典的かつ正統派のマルクス主義におけるイデオロギーの定義は、抑圧的な社会 から生じる誤った信念であり、市民を従順な労働者として教育するものである。1918年の革命の失敗、スターリニズムとファシズムの台頭、そして新たな世 界大戦の勃発により、マルクス主義者たちの間でイデオロギーの重要性が改めて注目されるようになった。イデオロギーは、政治経済体制の単なる嘘ではなく、 それ自体が力を持つものとして認識されるようになった。ヴィルヘルム・ライヒやその後のフランクフルト学派は、正統派マルクス主義やレーニン主義の伝統か ら離れ、フロイトの自我理論をマルクスの社会理論に補完し、後に「批判理論」と呼ばれるようになるものの基礎を築いた。 ライヒは、ファシズムの台頭を長い間抑圧されてきた性的衝動の表れと捉えていた。フランクフルト学派の哲学者テオドール・アドルノは、エッセイ「文化産 業:大衆欺瞞としての啓蒙」の中で、偽りのニーズを生み出し、それを満たすことで、大衆娯楽が解放的行動の可能性を鈍らせる仕組みについて書いている。 文化産業を技術的な観点から説明しようとする人々もいる。彼らは、何百万人もの参加者が、同じニーズを無数の場所で満たすために、標準的な製品の使用を必 然的に導く再生プロセスを要求していると主張する。少数の生産拠点と広範囲に分散した受信者との間の技術的な対立は、管理者の組織化と計画を必要とする。 標準化された形態は、もともと消費者のニーズから派生したものであると主張されている。それが抵抗なく受け入れられる理由である。実際には、操作と事後的 なニーズのサイクルがシステムをますます強固に結びつけている。[5] アドルノは、需要と供給の論理をイデオロギー的であると指摘している。それは単なる誤った信念ではなく、客観的かつ科学的であるかのように見せかけなが ら、偶発的な歴史的現状を維持することを可能にする誤った世界観や哲学である。フランクフルト学派の主要なテーマは、当初は解放的であった思考様式が、時 が経つにつれてイデオロギー的になる可能性があるということである。[5] |
Binary opposition Immanent critique Interpellation "Ideology and Ideological State Apparatuses" Louis Althusser The Sublime Object of Ideology Slavoj Žižek Culture industry Cultural hegemony Antonio Gramsci |
二項対立 内在的批判 呼びかけ 「イデオロギーとイデオロギー的国家装置」 ルイ・アルチュセール イデオロギーの崇高な対象 スラヴォイ・ジジェク 文化産業 文化的ヘゲモニー アントニオ・グラムシ |
https://en.wikipedia.org/wiki/Critique_of_ideology |
関連用語集&リンク集
余滴
【冗長語法というイデオロギーあるいはイデオロギーの逆説】
「つまらないイデオロギーを超える」という表現に出会う——「つまらなくないイデオロギーってあるの?」と自問する、それはイデオロギーなどではないと言
えばいいのに。ここでの僕たちが得る結論はただひとつ:「冗長語法はイデオロギー的表現のひとつである」。あるいは「〜を超える」というのは、敵を非難し
エゴセントリックな主張する彼らの思考(=つまりイデオロギーの)扇動家の常套句なのだ。そして、こういう回りくどいということもイデオロギーの特徴なの
である。
文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099