文化としてのイデオロ ギー論に関する対話
On ideology from culturalist point of view
Q:政治学専攻の学生です。クリフォード・ギアツの文化としてのイデオロギー論についてどう 思われますか?(→「文化体系としてのイデオロギー」)そして、それは開 発経済学や開発にかかわる政治学にも援用することができるでしょうか?
A:
池田光穂です。
ギアツ(ギアーツ)は、イデオロギーの機能としては「政治を意味あるものとするような権威あ る概念を与えることによって、すなわち政治を理解し得るような形で把握する手段としての説得力あるイメージを与えることによって、自律的な政治を可能にす ることである」(邦訳:第2分冊:42ページ)と述べています。
【原文】The function of ideology is to make an autonomous politics possible by providing the authoritative concepts that render it meaningful, the suasive images by means of which it can be sensibly grasped.
これには脚注41.があり以下のようになっています;Of course, there are moral,
economic, and even aesthetic ideologies, as well as specifically
political ones, but as very few ideologies of any social prominence
lack political implications, it is perhaps permissible to view the
problem here in this somewhat narrowed focus. In any case, the
arguments developed for political ideologies apply with equal force to
nonpolitical ones. For an analysis of a moral ideology cast in terms
very similar to those developed in this paper, see A. L. Green, "The
Ideology of Anti-Fluoridation Leaders," The Journal of Social Issues 17
(1961): 13-25.
ここでは、ギアーツは、自律的な政治的な動員や参加を可能にするための「意味のある権威的概 念を与える」ことがイデオロギーの働きで、それは、人びとに「理解やイメージ」を可能なものにするという主張がなされています。また、それは、人びとに対 する挑戦=「試み attempt」でもあります。
「……イデオロギーの試みとは、さもなくば理解 不能な社会状況を意味あるものとし、その状況 の内で目的をもって行為することが可能となるようその状況を読み取ろうとすることであるとすれば、イデオロギーが高度に比喩的な性格をもつこと、そしてひ とたびそれが受け入れられたとき激しく防衛されることが、ともに説明される」(邦 訳:第2分 冊:44ページ)。
【原文】the attempt of ideologies to render otherwise
incomprehensible social situations meaningful, to so construe them as
to make it possible to act purposefully within them, that accounts both
for the ideologies' highly figurative nature and for the intensity with
which, once accepted, they are held.
このように説明して、ギアーツは、自分のイデオロギーの試みを説明することが、それに突き動 かされる人びとの行動から、逆に証明されると言わんとばかります。この次の文章では、イデオロギーと隠喩との平行な関係を主張した後、つまりイデオロギー は隠喩と同じ機能を人びとに齎すから、イデオロギーを隠喩とみなしてもよい旨の発言をしてから、次のように言います。
「イデオロギーが何であるにせよ、…略…、それは何よりもまず、問題ある社会的現実の見取り図であり、集合的意識創成[sic]への母体である」。 原文は:ideologies 【may be -- projections of unacknowledged fears, disguises for ulterior motives, phatic expressions of group solidarity -- they 】are, most distinctively, maps of problematic social reality and matrices for the creation of collective conscience. です。——【 】内は日本語訳で示されていない省略された部分です(邦訳:第2分冊:44ページ)。
太字の部分を再度検討すると:問題とされている 社会的現実の複数の地図であり、集合的意識の創造のための複数のマトリクス[語 源は母体]、である。
つまり、ギアーツのイデオロギーの定義は、政治的状況をみる(1)認知や認識を可能にする視 覚表象であり、それは(2)行動を可能にする意識=自発的思考を与える基盤を呈示するものだということになります。
***
たまたま東京大学の原洋之介先生の『ク リフォード・ギアツの経済学 : アジア研究と経済理論の間で』リブロポート、1985年を読んでおりましたところ、その本の最後のエッセーがイ デオロギーの話なんですねぇ。さすがギアツに惚れ込みつ つ、その思想を縦横無尽に使いながら、決してエピゴーネンにならないところに、原洋之介先生 に対して深い感動を覚えます。当該箇所の原先生のギアツのイデオロギー講釈はそれほど 斬新なものではありませんが、著作全体がもつ、それまでの開発経済学を(それとは無縁に思えるような)ギアツの文化論で内破する構造というか、著作のレト リックのやり方は、小渕さんにも参考になるかも知れませんね。
ギアツのイデオロギー論は、イデオロギーの本質主義からの離脱にあり、分析的な概念範疇以外 のなにものでもない、もしイデオロギーというものがあるのなら、それは文化のように具体的な相をもった社会的構成体であり、その実相に分け入らないかぎ りは何も得られることはないというものでしょう。そのようなレトリックは、原先生の著作の中にみられる「社会に埋め込まれた経済」(→これは先のエッセー の中では、バリ島の貿易港から連想されるK・ポランニーという素敵な観念連想の結果)の提唱者として、ギアツを「開発経済学者」として読みとり、地域研究 の重要性に到達するという、開かれた学問論にも直結します。
というわけで・・・ギアツの理解を経由したイデオロギーの政治論はとても興味深いですね。政 治と文化というのは、やはりこ こいらでしっかりと議論したほうがよいでしょうね。
リンク
文献
その他の情報