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文化人類学の研究対象とは〈他者〉である?!

だが、はたして、それは本当か?

Anthropology of the others, anthropology for the others, anthropology in the others?

左より、シモーヌ・ボーヴォアール、ジャンポール・サルトル、エ ルネスト〈チェ〉ゲバラ.

Alberto Korda (1928-2001). "Visita de Jean-Paul Sartre y Simone de Beauvoir a Che Guevara", en su despacho como

解説:池田光穂

人類学の定義や方法ついて語られる語り口は以下のようなものである。

要約すると、人類学は「他者」についての学問ということになる (→「フィールドワークの現象学」)。

私は、ここにあげた諸先生方の見解をまとめて、文 化人類学とは他者に関する経験的哲学である、と まで言いたいほどである。

ここでは他者とか相対性ということが、人類学の定義を構成する重要な概念とされているのである。 しかし真に危険なのは我々が他者の他者性を尊重しようとするまさにその時に、我々の意味の裏返しをまさに他者に投影してしまうことでもある。人類学が考察している「他者」は人類そのものの類的カテゴリーの一員として想定されているた めに、結果的に自己の延長として位置づけられるからである。

***

人類学者は「相対性」を過激に押し進めるよりも、最終的に理解という人類共通の地平へと回帰して いる ように思えるから、先の先生たち(青木、松田、ラビノー)の表現は次のように言い換えるべきかもしれない

「他者を迂回して自 己の認識に到達する学問」

「他者を迂回して自己の認識にいたるための方法論にもとづく知的認識体系」

文化人類学のビッグネーム(著名な大学者)であるクリ フォード・ギアツは次のようにのべる。

だが、これだけでも何のことか、わかりにくいねぇ。でもギアツは次のようにも言っている。

ということは、文化人類学は他者の研究をおこなうのだが、そのことを通して、自己についての省察 を最終目標においた研究である、と言えなくはない。

「われわれは非我を知るなかでわれわれ自身を知るようになる。……他の事物をわれわれ側から修正 することのほうが、それらの事物のわれわれに対する反作用よりも目だっているところでは、行動の様相をとり、反対に他の事物のわれわれに対する感化が、そ れらの事物に対するわれわれの感化よりも圧倒的に大きいところでは、知覚という様相をとる。ところで、他の事物によって形成されるようなわれわれの在り方 についてのこの概念がわれわれの生活のもっとも顕著な部分であるので、われわれは他の諸事物もまたお互いに作用しあうことによって存在すると考えるのであ る。他、または非という観念は思想のもっとも重要な部分となる」。——チャールズ・サンダー・パース(1985:20)

「地域の慣習に詳しい部外者が田舎のとある村にたどり着き、そこで彼が地元の慣習をいかに深く「理 解」し、またいかにそれに巧く従えるかをひけらかすぎこちない試みほどレイシスト的なことはないだ ろう」(ジジェク 2005:29)

★「要するに寛容とは、この〈他者〉が 「受け入れ難い原理主義者」でないという限りでの〈他 者〉すなわち本当の意味での〈他者〉ではないという限りでの〈他者〉へ与えられる寛容を意味するにすぎない」(ジジェク 2005:30)

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