文化人類学の研究対象とは〈他者〉である?! はたして、それは本当か?
Anthropology of the others, anthropology for the others, anthropology in the others?
解説:池田光穂
人類学の定義や方法ついて語られる語り口は以下のようなものである。
「文化人類学は他者性に関する学問である。過去においてもそうであったし、現在においてもそ うでありつづけている」(青木恵理子 1995:96)[→出典は米山俊直編 1995]
「自分が生きるいまという時代と場所を相対化してみることによって、人間存在の原点と多様性 を探るのが人類学の営み・・・」(松田凡 1995:36)[→出典は米山俊直編 1995]
「他者を迂回して自らの理解に到達する」(Paul Rabinow)[1977:5]。
学術用語としての「重要な他者」は、象徴的相互作用論の社会学者G・H・ミードが提唱した。ミードは、ヒトの子どもの発達にとって自己のイメージとアイデンティティを形成することに他者の存在が重要になることを指摘した
要約すると、人類学は「他者」についての学問ということになる(→「フィールドワークの現象学」)。
私は、ここにあげた諸先生方の見解をまとめて、文化人類学とは他者に関する経験的哲学である、と まで言いたいほどである。
ここでは他者とか相対性ということが、人類学の定義を構成する重要な概念とされているのである。 しかし真に危険なのは我々が他者の他者性を尊重しようとするまさにその時に、我々の意味の裏返しをまさに他者に投影してしまうことでもある。人類学が考察している「他者」は人類そのものの類的カテゴリーの一員として想定されているた めに、結果的に自己の延長として位置づけられるからである。
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人類学者は「相対性」を過激に押し進めるよりも、最終的に理解という人類共通の地平へと回帰している ように思えるから、先の先生たち(青木、松田、ラビノー)の表現は次のように言い換えるべきかもしれない
「他者を迂回して自己の認識に到達する学問」
「他者を迂回して自己の認識にいたるための方法論にもとづく知的認識体系」
文化人類学のビッグネーム(著名な大学者)であるクリ フォード・ギアツは次のようにのべる。
「文化人類学は、その普遍主義臭がとりわけ強い——進化主義的、伝播主義的、機能主義的、ま たごく最近では構造主義的、社会生物学的——かたちにおいてさえ、見えるものはどこから見ているのか、何によって見ているかに依存するということについ て、常に鋭い感覚を保持してきた」(ギアツ 1991:4)。
だが、これだけでも何のことか、わかりにくいねぇ。でもギアツは次のようにも言っている。
「学問を知るには、その学問を研究している人たちがいったいどんなことを行っているかを見る べきである。」
ということは、文化人類学は他者の研究をおこなうのだが、そのことを通して、自己についての省察 を最終目標においた研究である、と言えなくはない。
「われわれは非我を知るなかでわれわれ自身を知るようになる。……他の事物をわれわれ側から修正
することのほうが、それらの事物のわれわれに対する反作用よりも目だっているところでは、行動の様相をとり、反対に他の事物のわれわれに対する感化が、そ
れらの事物に対するわれわれの感化よりも圧倒的に大きいところでは、知覚という様相をとる。ところで、他の事物によって形成されるようなわれわれの在り方
についてのこの概念がわれわれの生活のもっとも顕著な部分であるので、われわれは他の諸事物もまたお互いに作用しあうことによって存在すると考えるのであ
る。他、または非という観念は思想のもっとも重要な部分となる」。——チャールズ・サンダー・パース(1985:20)
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