〈病む〉ことの宗教人類学の可能性
――宗教人類学と医療(5)――
〈病む〉ことは、人生において不可欠の経験である。
医療という用語を経験に基づいて定義しようとする と、それは宗教の定義と同様、さまざまな働きをする下位の諸要素が相互に関連して全体を構成することがわかる。つまり、医療は宗教と同様、多かれ少なかれ 体系をなすものである。フレデリック・ダンによると、医療システムとは「行動の特定の項目が引き出した結果が不健康かあるいはそうではないかに関わらず、 健康を増進するための意図的な行動から発達した社会制度と文化的伝統パターン」である[Dunn 1976:135]。
地球上のほとんどの社会においては、(1)近代医療 と、(2)公的あるは準公的な伝統医療、ならびに(3)非公的ないしはカルト化した伝統医療――後二者は歴史的にそれほど古くないものも含まれるので非西 洋医療と言い換えることもある――の少なくとも3種類ないしはそれ以上に分類しうる医療下位システムからなりたっている[池田 1995]。このように治 療の資源が複数化している状況を多元的医療体系(pluralistic medical systems)と呼ぶ。他方、患者と患者家族が、それらの医療資源を横断的に利用している際にみられる、人々の医療行動は多元的医療行動 (pluralistic medical behaviour)と名付けることができる。このような制度と行動における医療現象を論じる視点を医療的多元論(medical pluralism)と呼ぶことができる[先に示した図の下半分を参照のこと]。医療多元論は宗教現象と類比してみると、いわゆるシンクレティズム――教 義と行動において異質な要素が習合しそれらの間に区分がみられない状況――を分析する読解格子となる。シンクレティズムは、教義と行動を合致させる近代主 義な行動理念から見ると矛盾に満ちた奇妙な逸脱現象である。しかし、そこにみられる仮定法的な行動原則――あれがだめならこれと効果を引き出すために試行 錯誤を繰り返すこと――には、最終的に有効な治療を得るための手段として合理化される点では、なんら奇妙なことではない。医療的多元論が生まれる根底に は、医療が〈治る/治らない〉という判別目標をもっているからである。言い換えると、医療とは〈治る/治らない〉という二分法に最終的に縮減される体系で ある。
宗教現象の経験的研究においては、その理念や実践か ら何か共通で本質的なものを抽出することに情熱が注がれる。しかしながら医療現象の文化研究では、医療のドグマ(中心的教説)を治療者や病者とのインタ ビューを通して手に入れること以上に、研究者の関心は医療行動の事象の細部に分け入ることが重要である。文化に修飾された人間の病理現象の驚くべき多様性 に関心と情熱が注がれるのだ。
宗教の古典的研究のスタイルと、本章で紹介した医療
の文化的研究のスタイルの間の方向性の相違に気づき、それらの研究アプローチを相互に刺激しあえば、〈病む存在〉としての人間の宗教人類学的探求に対する
より実り豊かな成果を生むことは確実であろう。宗教人類学における様々研究の展開の中に〈医療〉の視座は欠かせないものとなっているからだ[Lambek
2002;黒岩 1991]。
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