人間は〈病む存在〉である
Homo patiens
Saturno devorando a su hijo, por Francisco de Goya
〈病む〉ことは、人生において不可欠の経験である。
〈病む〉ことは、まず1人の人間存在の根源に関わる 個人的出来事である。しかしながら、人間が一時的に病んだり本復したりすることは、周りの人々のケアや配慮を派生させ、病んだ原因を追及し、さらに治療を 発動させるために、〈病む〉ことはまた他方で人間の社会性に深く関わる出来事でもある。自殺や突然死でもない限り、人間は死ぬ前には必ず病む。いやそれど ころか自殺や突然死においてすら、病んでいる状態であるとみなされており、それを予知し〈治療〉する研究が進んでいる。
人間が不完全な存在であることを説明するのに、宗教 は〈病む〉ことに関するメタファーを多用する。あるいは、神には死や病いが不在であるという類推から、神や超自然的存在とは対照的に人間のユニークさは 〈病む存在〉——ラテン語の学名風に Homo patiens という——にあると規定し、そこから人間の自由と責任の問題を論じる者もいる[フランクル 1986]。宗教聖典、説教、信徒の日々の会話は、病む存在の 苦しみと病いからの解放についての挿話に満ち満ちている。宗教において〈病む〉ことは枢要な概念である。そして、そのどれもが具体的諸相を帯びており、人 々は深遠な苦悩の神学よりも、どのように病んだか、そしてどのように癒されたかという細部に関心を向ける。
ところが他方で近代生活、つまり世俗的な生活体験に おいては、必ずしも〈病む〉ことが宗教と関連づけられるわけではない。近代化は〈病む〉ことへの対処を、宗教ではなく近代医療にゆだねる。近代生活におい て宗教は、〈病む〉ことの具体的諸相に着目しなくなり、病むことを何か高度な精神の活動と関連づけて論じるようになった。病人は、病室で宗教的奇蹟を期待 することはなくなり〈治療〉を医療にゆだねて、身体と精神の全体論的本復や魂の平安を祈る。後者の働きは〈癒し〉と呼んでもよいだろう。
だがしかし、社会は〈癒し〉と〈治療〉の統合の夢を みることを忘れない。それどころか、近代医療において〈癒し〉が今日では最重要視され〈治療〉の概念に包摂されようとしている。〈病む〉ことの具体的な諸 相を扱わなくなった宗教は、自ずから〈癒し〉の実権を医療に譲り渡すのである[池田 2000a]。
宗教と医療の関係が将来どのように展開するのか、明 確に論じた人はいない。医療と宗教は現在までのところまったく異なった範疇の社会制度であると思われているからだ。しかし、〈病む存在〉としての人間の具 体的な諸相——宗教人類学が扱う大きなテーマのひとつであろう——から我々が眼を離さないかぎり、このことは軽んじられてはならない事柄である。宗教と医 療の関係について吟味するには、まず〈病むこと〉や〈治ること〉が、具体的にどのようなことなのか、そして病む存在としての病人が社会のなかでどのように 振る舞うのかについての豊富な知識が不可欠である。
●上掲の図の説明:人間の病気経験は
多様だ。にもかかわらず診断は限られた知識のなかでおこなわれ、病名が判断され、自分は〜という病気(苦悩)をもつという意識
を人がもちはじめると、患者ないしはその家族は、その病気を直すことに専念する。あるいは、その病気に対応する薬や施術を探す。その結果、その薬や施術が
効いたか効かなかったのかという、二者択一の判断に人々の関心は移行する。治ることの延長上にあるのは、それにより不
幸なことにならなかったということであり、あるいは死ぬことはないものの、その病気(患い)を抱えて生きることになる。他方、治らないという帰結の典型は
「死」である。また症状が固定してしまい、前の身体や精神の状態に戻らないときに、それは障害・障碍・障がい・しょうがいである、ないしは「寛解(かんか
い)」と言われる。後者やガンや精神病などで言われてきた表現で、元通りに治るという概念がなく、状態が一時的に軽減ないしは消失している状態のことをい
う。
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