かならず読んでく ださい

上野千鶴子『資本制と家事労働』再入門!:Ver 1.5

垂水源之介の私的なノート

上野千鶴子『資本制と家事労働』海鳴社、 80pp.,1985年

【目次】ノート(→「上野千鶴子『資本制と家事労働』再入門!Ver 2.0」)

はじめに
第1章 生産労働と再生産労働
 女性の解放の社会理論
 近代社会の編成と社会理論の編成
第2章 資本制下の家事労働
 家事労働とは何か
 家事労働領域の自律
第3章 資本制と家父長制:その妥協と葛藤
 初期産業資本制
 ビクトリア朝型妥協
 ケインズ革命と修正資本主義
 高度産業資本制
第4章 再生産労働の再編成
 再生産コストの現実
 再生産費用負担の選択肢
 家族ー市場の再編と国家
結語

___________________
はじめに

・資本制と資本主義の奇妙な二元論

彼女はCapitalism を資本主義と言わず資本制という。〜イズムはイデオロギーなのではなくてシステムだからというのが彼女の説明(p.5)

・彼女が資本制という用語にこだわるのは、本書の 19ページ以降にあらわれる家父長制との対比で、資本制を考えたいという目論見もある。それゆえ、近代社 会における、家庭内領域における家父長制のあり方を批判的に検討する、ラディカル・フェミズムの議論を展開することが可能になると、思っているらしい。

【批判】彼女はこの用語法を通して資本制=現実、資 本主義=人間を動員する理念、という二分法で考えているようだ。このような考えは生産的なものをもたら さない。なぜならこれまでの経験的批判によると、イデオロギーはシステム制をもつので、Capitalism を資本制と言おうが資本主義といおうが、用語と内容を一対一対応で考える極端な形式主義者をのぞけば、資本主義の説明原理に変わらない。そのような瑣末な 用語の拘りが、彼女の生産的な議論に反映すればその用語の採用には首肯できるかもしれない。しかしそのような峻別が、システムでありイデオロギーでもある 資本主義=資本制の議論の解明には大きく貢献しているようには思えない。

・アプリオリな「解放理論」

【解説】上野の議論は、女性を解放することが当たり 前に必要であるかのように叙述する。これは、前提を共有しない人には容易には理解されない可能性があ る。この主張を可能にするためには、彼女が言わない2つの前提を明確にしておくことが必要である。すなわち(1)女性は現在解放されていない状態にある (=例えば隷属、システムやそれを代表するもう一つのジェンダーである男性への隷属)、(2)そして女性を解放しなければならない。解放というのは、基本 的に「〜の解放」(例:なにかへの隷属)なので、女性が〜によって「解放されていない状況」を説明し、なぜ「〜の解放」が必要となるのか、そして「女性 が〜から解放される」ことが、どのような帰結をもたらすのかについて、暫定的な見取り図を、本書のどこかで指摘する必要がある。

第1章 生産労働と再生産労働

1.1 女性の解放の社会理論

 1)社会主義婦人解放論、伝統的マルクス主義フェ ミニズム(ドラマチックなマルクス主義)

 2)ラディカルフェミニズム(1970年代以降)

 3)ネオ・マルクス主義フェミニズム

の3つしかないと言う。

 1)社会主義婦人解放論、伝統的マルクス主義フェミニズム(ドラマチックなマルクス主義)

 階級支配が諸悪の根源である。だから、社会が解放 されれば男女とも解放される。したがって、男女とも階級支配に隷属すると考える。

 2)ラディカルフェミニズム(1970年代以降)

 社会主義婦人解放論の批判からはじまる。社会主義 婦人解放論が困難な3つの理由:(1)社会主義が実現しても性支配は廃絶しなかった。(2)近代社会批 判は市場批判であったが、近代社会はマルクス主義のいうような市場中心の社会ではなかったことが70年代以降明らかになった。つまり市場の外側の発見や、 家庭内領域への注目など。(3)市場の科学としての経済学理論の失墜——ただし評者はその評価に関しては疑問をもつ——や、ホモ・エコノミクス中心主義の 見直し——この指摘は正しいと思われる。

 3)ネオ・マルクス主義フェミニズム

 この第一の特徴は、階級支配に対して性支配という 概念を打ち出したことに特色。そして上野はこの理論から本書の内容を展開する。あるいは、階級支配と性 支配という2つの概念の登場を弁証法的に把握する必要があることを、後に主張(p.13)。この主張の方針は、きわめて一貫しているが、その点が、本書に おける彼女の議論をきわめて明快なものにして、大変分かりやすく説得力に富む説明をしている。

・性支配は長老支配である。長老支配は普通gerontocracy と呼ばれているものの翻訳だが、彼女がそう考えているかは不詳。(たぶん彼女は、長老のジェンダーは明らかに男性を想定しているのだろう。この主旨は、 p.12で繰り返される)

・母系制社会は(進化主義人類学が言うような)最古 の家族形態でもないし、また母権社会でもなかった。

・シェリー・オートナー:人類史において女性が権力 をもった社会がなかったと主張(エドウィン・アードナー, シェリ・B・オートナー他『男が文化で、女は自然か?:性差の文化人類学』山崎カヲル監訳東京:晶文社、1987年)

1.2 近代社会の編成と社会理論の編成

・マルクス主義以外にも、性支配を説明する議論が あった。それはフロイト理論である。「社会的生産関係の外にある再生産関係の再生産メカニズムを解明する 一つの理論」(p.13)

・生産(production):モノの生産

・再生産(reproduction):ヒトの生産 (「他人の再生産」=ドイツ・イデオロギーに初出?ただし場所は未確認)

・人間間における抑圧と搾取の関係=階級支配(マル クス)

・再生産手段をもつ人間(=子宮ー女性)と、そうで ない人間の間の支配/被支配関係(フロイト):ただし、この場合は子宮を持たない人間が、子宮をもつ人 間を管理する。→男性のあいだでも女性を支配できる男性(=長老)とそうでない男性の間の格差が生じる(p.15)

・上野は、それが婚姻ルールの起源あるいは誕生だと 主張(この説は文化人類学の内部ではあまり聞いたことがない)。※かなり粗雑な議論

・「こういうものが構成されていった社会領域が、近 代社会では、階級支配は市場、性支配はブルジョア単婚小家族という領域だと考えるわけです」 (p.15)。

・ブルジョア単婚小家族は、先のような長老支配のよ うな、女性の独占が行われないので、それまで子宮(=再生産)を所有できなかった男性には、都合のよい 制度だった。つまりレッセ・フェールの原理、すなわち市場原理。また、これにより複雑な婚姻ルールが不要になった(ただし、これは、複雑とは言えないが婚 姻ルールがブルジョア社会の到来以降も残り続けるという理由を積極的に説明できない)。

・再生産は、子供産めばおわりではなく、育児をし て、一人前の社会的人間に育てるまでが、再生産の領域(p.17 )。つまり、子供が大きくなるまでケアをしなければならず、また女性に高学歴が求められることもあるのは、質の良い再生産労働を子供(=女の子)に与える ことができる。

・再生産労働=子供を社会化するための、社会化労働 である。

・我々の社会は、資本制(=生産する社会)と家父長 制(=再生産する家庭)という二元論からなり、これらの関係(分業や補完など)が重要(p.18)。前 者は生産領域。後者の再生産領域は、影の領域であり、家庭での領域での働きは再生産労働という発想がうまれてくる。

・マルクス主義の限界は、近代市場社会の限界。

・(市場)と(家族)/(資本制)と(家父長制)の マトリクスで、それぞれどの分野が焦点を当てるのかによって、マルクス主義フェミニズム、ネオマルクス 主義フェミニズム、そしてラディカル・フェミニズムの3領域を当てはめようとする。つまり、(市場)×(資本制)=マルクス主義フェミニズム、(家族)× (資本制)=および、(市場)×(家父長制)=[家父長制資本主義 patriarchal capitalism]の2つがネオマルクス主義フェミニズム、そして(家族)×(家父長制)=ラディカル・フェミニズムという割り当てになる (p.19)。

・これまで触れられなかったブルジョア婦人解放論の コメント:解放の理論ではない。なぜなら、近代の抑圧に関する理論的な解明に寄与しない(p.20)。

・「オールドリベラル・フェミニズムと、70年代以 降のニューラディカル・フェミニズムの決定的なちがいは、近代が女性の抑圧に対して有罪だという、近代 批判の視点があるかないか、ということです。近代を相対化することによってはじめて、近代の中で女性が二流市民のままでいつづけなければならない理由はな にか、とか、近代が完成しない必然性は何か、とか、近代は何を近代化し、何を近代化しなかったのか、もしくは、してはならなかったのか、とかが見えてくる わけです」(p.21)

第2章 資本制下の家事労働

 家事労働とは何か

・家事労働の二大分類→三分類

1)自分自身の再生産:他人に委ねることができない もの

2)自分自身の再生産:他人に委ねることができるも の

3)他人の再生産=子供の生産

1)自分自身の再生産:他人に委ねることができないもの

 例:ご飯をたべる、うんこをする

2)自分自身の再生産:他人に委ねることができるも の

 例:家庭における夫に対する妻のケア(基本的には 自分でできる労働)

3)他人の再生産=子供の生産

・出産・育児のことを「他人の再生産」と喝破した『ドイツ・イデオロギー』に感銘をうけたことを上野は吐露する(p.23)。この論理を敷延すると、再生 産される他人=子供にとっては、再生産される他人=親が必要になるという(pp.23-24)。

・ここから更に敷延して、彼女は、家事労働を「他人 に委ねることのできない再生産労働」であると「定義したい」とする(p.24)。

・先に再生産労働は、他人に委ねることができないも のと、できないものに区分出来ると触れられたが、他人の再生産は、他人に委ねられない家事労働であると いう議論がなりたつ。ここには先に触れた自分の再生産がどのように他人の生産と関わるのかという説明がされていないために、家事労働=再生産労働だと「定 義します」という表現は、多少なりとも説明不足の感は否めない。とりわけ、労働は、英語ではレイバー(labor)と訳されるが、これは出産や分娩を意味 する名詞であり、また労働するという意味の他に分娩中という動詞でもある。

【コメント】したがって、他人の再生産のレイバーの もっともクリティカルな部分は、出産という世代の再生産のことであり、出産後に家族内で、子供が一人前 に育てられるプロセスは、子供への育児ケアという再生産労働でもある。ただし、後者は、母親当事者でなくても、育児は他人に委ねられることができる。この 当たりから、上野理論が主張する「他人に委ねることができないもの/できるもの」という二分法が、じつはあれかこれかの二分法ではなく、主夫が育児に専念 したり、また両親が孫の世話を比較的恒常的おこなったり、乳幼児保育のように、他者の再生産の場合は、一見「他人に委ねることができないもの」ですら「他 人に委ねることができるもの」に変わり得る。したがって、「他人に委ねることができないもの/できるもの」の間には、数直線上のどの程度のという留保が必 要なるかもしれない。あるいは、時代や社会が変化すれば、この時間や労力のシェアを家庭内での労働——これが言葉の正しい意味での家庭内労働 (domestioc labor)——の中に取り込むことが可能になる。

・子供のいない夫が単身赴任している場合、妻は自分自身の再生産をだけをしているという。そこに夫が帰ってくることは、「メカケ暮らし」だと言い「妻の セックスサービスもしくはその排他的独占に対して亭主がお金を払っているというむき出しの構造」(p.25)がみえるという。

【コメント】この議論は、ある意味で近代社会の単婚 家族の男性による女性の排他的な性的支配や、独占欲の裏返しとして男性による女性への嫌悪 (misogyny)の遠因をなんとか説明しそうではある。だけれど、これは生活費の授受を、セックスワークに対する対価と一義的に解釈すれば通る議論で あるが、当事者たちがそのように感じているかどうかは別問題である。また、夫婦が婚外の性交渉をもつことは、男性女性とも起こり得ることであるが——女性 だけ姦通罪が適用されるような「絵に描いたような」男性中心支配イデオロギーがありその逆がないという厳然とした事実を認めた上でも——慣行における排他 的独占と、現実の性交渉の実態とは分けて考える意味がある。これは経済人類学におけるフォーマリスト(形式派)とサブスタンティビスト(実体派)の対立の ごとく、同じ側面のどこに焦点をあてるかで、全く異なった描写が可能になるという教訓と類似のものである。

 「家事労働」領域の自立

・近代社会における「家事労働」領域に投下する資本 の比率が増大するか、それ自体が重要性をもつというのがこの節の基本的主張になる。

・まず、家事労働はドメステック・レイバーと対応関 係にあるように思われるが、彼女はそれを「世帯内労働」という意味であると言う(p.26)。

・そして、前近代社会では世帯内労働には独立性がな かったという。例えば、農奴や奴隷を一家のなかに取り込んでいても、彼らの仕事は生産労働に動員され た。つまりドメステック・レイバーにはなりえなかったという。しかし、近代社会では、家事使用人や執事というものがあらわれて、ドメスティック・レイバー の家事労働性=再生産労働が高まるという(p.26)。

・「前産業社会では家事労働領域がなかったというふ うに、私は言うことができると思う」(p.27)。

【コメント】前近代社会にも召使いやメイドは、ドメ ステック・レイバーに確かに従事していたと思われる。ただし、これは、近代社会においては、奴隷の解放 と同時に、近代社会の核家族の独立というプロセスと共に、召使いやメイドという仕事も衰退する。

・これらの議論を踏まえて、日本語の主婦労働というのは、再生産労働概念ができてから、後になって出来た言葉だという。「主婦がやっている労働が家事労働 ではなく、家事労働をやっている人を主婦と呼ぶんです」(p.27)。

・「主婦という存在を大量現象として発明したのは近 代の画期的発明です」(p.30)。

・産業社会の進展と共に、生産労働が家族の外側に組 織化されていくことを通して、家事労働の自律性も高まる。つまり、両者(=生産労働と再生産労働)の分 離も進展する(p.27)。この分離のプロセスが、また公私の分離も促進し、「私」の領域が自立してゆくという。

・ここで新しい課題が生じる。再生産労働と生産労働 の関係である。彼女は前者が産業社会に組み込まれる過程を次の類型化する

◎再生産労働が産業社会に組み込まれる過程

(a)再生産労働が産業化される(=市場化)

 (aー1)資本主義的市場化

  ベビーホテル、ベビーシッターを雇う、離乳食を 購入する

 (aー2)社会主義的共同化

  社会主義化とは、遅れて産業化された社会が選ん だ産業化の(※これは同語反復?)一形態で、管理された産業化。彼女は例を提示していないが、国家や地 域協同組合などが、再生産機能を補完するという内容のことを指すのであろう。

(b)再生産労働が非産業化されたまま市場の外側に 残る

 (bー1)家事使用人が再生産労働に従事する

 産業ブルジョアジーの家族の中にだけはじめて「男 は仕事、女は家庭」という性分業が登場する。その時に、家事使用人が登場する。例として17,8世紀の イギリス、アフリカやラテンアメリカのエリート。彼女たちが男性と対等に社会で働けるのは、家事使用人が存在するせいだという。この場合は家事使用人が再 生産労働に従事するが、その支配形式は性支配ではなく、階級支配に結びつく。

 (bー2)主婦が再生産労働に従事する

 マルクス主義は生産労働の概念化と分析をおこなっ てきたが、再生産労働については、十分な理解ができなかった。だから、「市場化されない私的労働」「有 用だが価値を生まない労働」と言って切り離されてきた(p.29)。しかし、第三世界の労働市場を支えるのは膨大な家事使用人である。そして、家事使用人 が再生産労働に組み込まれる。

・つまり(bー1)と(bー2)は、あれかこれかの 関係ではなく、相互補完関係にある。

・主婦は特権階級であり、結婚して主婦になるという のは、階級上昇が願望が伏在する(p.31)。

第3章 資本制と家父長制:その妥協と葛藤

・家事労働の4つの社会的配当(前章のおさらい): (aー1)資本主義的市場化、(aー2)社会主義的共同化、(bー1)家事使用人が再生産労働に従事す る、(bー2)主婦が再生産労働に従事する。

・近代資本制は、何を選んだか?(※こういう問いの 立て方は間違っているし、また人格化するという比喩もあまり適切とは言えないが)

・「資本制と家父長制の調停」=「成熟した産業社会 は再生産労働を非産業化し、つまり市場の外部に隔離し、それに性別による配当をして、主婦という存在を 発明することによって固定するという選択をした」これを「資本制と家父長制の調停」という(p.32)。

・これを調停というのは、資本主義もこれに対して資 本主義原理を犠牲にしている(コメント今風にいえばコストをかけている)。

・この調停の上にうまれたものを「家父長制資本制」 あるいは「資本的家父長制」という(p.32)。

・ラディカルフェミニストは、資本制の強化は性支配 の強化をすすめると計画し、社会主義的婦人解放論は、資本制の進展は家父長制から解放をするめると真逆 の見解をとるが、これらはネガとポジの関係。そうではなく、「調停」関係——動的均衡関係?——だという。

 初期産業資本制

・資本制はその横溢を謳歌したが、誰が資本制に最も 深く組み込まれたのか?それは女子供である。なぜなら、男性は家父長制のもとで、資本制にはソフトラン ディングに組み込まれたが、マージナルな位置にいる女子供は急速に資本制に組み込まれた。だけど、それは男性の利益に与らない関係という意味で疎外された と、彼女はいう。

 ビクトリア朝型妥協

・産業化は、貧民、スラム、犯罪化を推し進めた。 (上野は「産業革命の始まったばかりの頃、1601年には……」(p.36)と記述するが産業革命は18 世紀初頭〜19世紀にかけてなので、この記述は誤り。ただし、1601年のエリザベス救貧法の暦は正解)。

・1833年工場法で、女子供を保護する労働者保護 立法ができる。これにより女子供は、労働市場から放逐され、家庭内に入るようになる。ただし、女子供は 産業革命の初期に、低賃金労働者としてその成長に大きく貢献する。これにより、家父長である男が工場で稼ぎ、女子供は家庭の中に入ってゆくようになる。後 者は市場原理とはことなったものだが、資本制と家父長制が歴史的妥協をとげる。これを彼女は「ビクトリア朝型妥協」と呼ぶ。

・このような理解をできないのは大塚久雄で、ヨー ロッパの資本主義は共同体から個人を析出したというが、この個人とは、上野千鶴子にいわせると家父長の代 表つまり男であり、家族は解体しなかったと反論する(p.37)。

・家族は解体せず、ブルジョア単婚小家族に再編成さ れ、市場経済の公に対する、取り残された影の部分である私が分離してゆくという。したがって、産業資本 制の成立と家族の成立は同時におこったという。

 ケインズ革命と修正資本主義

・ナタリー・ソコロフと上野千鶴子の主張:資本制と 家父長制の歴史的妥協は一度だけではない。その都度、成長や変質をとげて、両者は弁証法的に展開してき たという(p.38)。

・ケインズ革命=管理資本主義の時代

・第一次大戦前後と30年代の不況の資本制の再編成 のなかで、「非婚女子労働者」が再度市場に参入してきた。これは戦争と不況の両方の要因による。また、 職業婦人——結婚しても「引退」しない女性——の誕生を促す(p.40)。これは同時に「仕事か家庭か」という二者択一の選択を女性にもとめることにな る。

 高度産業資本制

・第二次大戦後の度重なる景況のなかで資本制は幾度 となく再編成(リニューアル)を繰り返す。この中登場したのが、「非婚女子労働者」に代わって「主婦労 働者」というカテゴリーが登場する(p.41)。ただし、これは単純な男性労働の補完ではなく、女性は職級や給与の低い補助労働市場で、「二重労働市場」 を形成することになる。ナタリー・ソコロフの用語では「家父長制資本制」。市場に大量にあふれる主婦労働者とは、一方で市場の賃労働者、他方で家庭の主婦 役割を背負うという意味で二重役割そして二重の労働者となる。

(パートタイマーの大量創出:pp.42-43)

・労働類型(まとめ):ツーサイクル、パートタイ ム、家計補助(pp.46-47)

・現代のお母ちゃんは、家族に飯を喰わせてやり、 セックスの面倒をみてやり、次世代の子供たちに生産労働/再生産労働の担い手になるように育てるという多 面的役割を担うようになる(pp.47-48)。

第4章 再生産労働の再編成

・資本制と家父長制の結びつきの間に亀裂をみつけ、 それらを解体することが、女性の解放につながることを示唆する

 再生産コストの現実

・女性が妊娠し、出産をすると、それまでダブル・イ ンカムであったものが収入が減少する。ロスト・インカム(逸失利益)が生じ、貧困化が生じる。このこと を社会が補填しない限りは、少子化の現象は避けら得ない。にも関わらず、出産と子育ては、未だに「個人の勝手」という社会が考える限りはこの傾向は収まら ない。つまり、家父長制資本制が、家庭内領域のことに、市場と無関係であると考えているうちは、子供をもった家庭に貧困化をもたらし、かつ少子化を生む傾 向は避けられないと考える。この着眼点は炯眼である(p.52)。

 再生産費用負担の選択肢

・このようなトレンドは、資本制は家父長制に介入し てリニューアルをすることを迫られるという。つまり、再生産費用負担を誰がおこなうのかという選択をと るが、その方法にはいくつかのものが考えられる。

(1)家事労働に賃金を払う(p.55)→シャドー ワークを賃金に計算したら、経済的に破綻する:彼女は反対、再生産費用を家庭に押しつけたままになるか ら。

(2)再生産労働の評価額を夫の賃金から分捕る (p.56):これも彼女は反対、再生産費用を家庭に押しつけたままになるから。

(3)市場が再生産費用を負担する:父親の企業から 分捕る:ただし現実の扶養手当は実際の必要量を遥かに下回る額

(4)市場が再生産費用を負担する:母親が以前働い ていた企業から分捕る

家庭でも市場でもこのような(上記)な方法を選択する可能性が低い、そうすると第三の調停者としての国家が登場し、福祉や年金制度がそれをおこなう。これ も現実にあるが有効に機能していない。(その後、経験的事実の報告がつづくが省略)

 家族ー市場の再編と国家(家父長制資本制の矛盾や問題を指摘するが、ここでは省略)

結語

・マルクス主義のフェミニズム領域へのあてはめでは なく、フェミニズムの側からマルクス主義を作りかえてゆく(p.69)

・資本制と家父長制という2本柱の相互関係を分析 し、歴史をみてゆくことの意味。それをとおして、現実に対して実践的で適応可能な方法を見出してゆくこと を主張して終わる。

※上野は、フェミニズムの史的唯物論を打ち立てよう としているが、アドホックな説明を歴史法則で説明する史的唯物論の立論の仕方が、いわゆるトンデモ学説であり、そのことに著者が気付いていないところが、 大変悲しい=残念な論考になっている。

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