うんこの哲学
「うんこ」についてのべんきょう編
(フル排泄版)池田光穂 de Modo Cacandi (Philosophy of the Grande-Shit), 1999-2019うんこの哲学:肛門側サイト
*De modo Cacandi とは「糞のひり方」という意味のラテン語(風表記)です。ラブレーから獲りました。くわしくはサン・ヴィクトール図書館蔵書目録にアクセス!
排泄現象を文化的に考察するためには、どうしても個人の経験という身近なところから出発しなければならない。以下は私じしんの体験である。
中央アメリカのカリブ海に面した低湿地の村落を旅した時 のことである。慣れ ない旅においては誰しもが排泄の不調を体験するものだ。3日ほど便通がなかったが、次の日の朝食を済ますと、便意を催した。村の人に便所はどこにあるの か?、と聞くと、どこでもいいさ!、という返事。泊まっていた小屋の裏の人目のつかない草むらに出かけ用を済ました——長い間溜めていたときほど、それを 成し遂げた気分は爽快である。 さて、立ち上がろうとすると隣の草むらでガサゴソと音 がする。 人の野糞を眺める不埒な輩がいるのかと思ってそちらの 方を注視すると、1 頭の豚が現れた。シッシッと追いやってもその豚は痩せた躯を左右に振るばかり。現場を後にすると、入れ替わりに豚がそこへ飛び込むようにして来た。脳裏に 嫌な思いが走ったが、何事も観察をもって任じる人類学徒の心得。私は踵を返して、その豚が何をするのかを眺めた。豚は私の動作に一瞬たじろいだが、私の、 それの匂いを嗅ぎ、おもむろに食べ始めたのである——なんと悍(オゾマ)しい!。 |
豚が人間の排泄物を食べることは、既に知識としては得てはいた。しかし、体験として眼の前で繰り広げられる衝撃は忘れられない。体外に出された 瞬間から(その文化的公準によって)マイナスの価値が付与される排泄物である。それは、もう自分とは何の関わりもない。にもかかわらず、まだ温かいと思わ れるそれが眼前で食される時の感覚は、まるで自分じしんの身体が喰される、あるいは汚されるような感覚なのであった。
この衝撃は、中国や合衆国で仕切りのない、あるいは仕切りのほとんどないトイレで隣人を気にしながら用を足した時の経験の比ではなかった。こ う思ったものだ。この村にもっと住み続けていたら、やがて村の人と同じようにそのことに慣れてしまい、平気になってしまうだろうか?
[*]正式の標題は「豚の哲学, あるいは便タムの功利主義哲学」です。
排泄の慣習、ひいては糞尿そのものに対して、人びとがどのような感情や理解をおこなうかは、文化によって相対的に決まる。すなわち、それらの 意味づけは社会集団によってコンセンサスが得られており、またそれは独特なものである。
排泄行為とその意識は、親から子への育児のプロセスのなかで学習されてゆく。その点で排泄体験というのは、個々人が育てられた状況や環境に大 きく依存する。その環境とは、家庭における躾という次元から、糞尿の処置や利用という社会が保有している技術や慣習の次元、はては気候や風土あるいは人工 環境を含めてエコロジカルな次元にまで広がったなかにある。
むろん、そのような糞尿との付き合いは、人類の歴史が始まって以来長い間、多様な変化をこうむってきたことは想像に難くない。すなわち、人び とに共有されている排泄の経験は、新しい環境が登場することで(集団が共有するレベルでは)今後幾らでも変わり得ることを示唆している。しかしながら、排 泄の体験は先に述べたように多様な環境条件の中で比較的はやい成長段階において学習されてゆくものなので(個人のレベルでは)むしろ変化には保守的であり 期待しにくい側面もある。また言うまでもなく、社会が許容する変化の枠のなかで、排泄の体験や理解において個人差というものが明かに認められる。
従って、排泄の体験を幅広く理解するためには、<文化的に規定される体験や慣習>と<個人の排泄体験や習慣>という 2つの視点から解釈することが重要になる。これは看護の技術的側面において排泄現象を理解し、それを実践に役立てていこうとする時にも枢要な観点となる。
厠のフォークロア 3. Folklore of Toilet
我々じしんの排泄の文化について考えてみよう。一時期“病院のトイレは汚い”という主張をめぐって論争が起こった。現在の排泄現象が抱える問 題について、先鋭な議論をたたかわせる必要性については言うまでもない。しかし、ここではその議論の背景にある、我々じしんの“潜在的な歴史経験”につい て思いを馳せてみたい。すなわち、厠(かわや)に関する民俗的事象ついてである。
都市生活をおくる人びとにとって厠、雪隠(せっちん)、あるいは「はばかり」という言葉はもはや死語となった。しかしながら家相占いでは、相 変わらず鬼門といって、中国由来の陰陽道によると丑寅=北東、(裏鬼門といって)未申=南西、我が国独自の伝統によるとさらに戌亥=西北の方角に便所を置 くことが嫌われる。家屋の構造や居住のスタイルが変化した現在では、このようなことを信じることが困難になってきた。だが便所がもともと家屋と独立してお り、糞尿を資源として利用していた時代において、厠に独特の空間的位置が与えられていたことは不思議ではなかろう。
伝統的な家屋構造において厠はまた象徴的にも独特な位置が与えられていた。便所に用を足す——この表現そのものが言い換えだが—ことを 「観音様さ行く」「高野へ参る」と表現された。むろん今でも「お手洗いに」と言い換えられるが、厠を“聖なる所”と読み変えていることに注意しよう。実 際、そこには厠神あるいは便所神がおわしましたのだ。
それらの厠に宿る神さまは、時代や地方によってさまざまな形態が与えられた。よく言われたのは、その神さまが盲目であったり、手が無かったり という身体の欠損がみられることである。またその神さまは水神が零落したものだと言われることもあった。出雲地方では「カラサデサン」とか「カラサデ婆」 といわれる老婆の姿をとった。便所にいるのが河童の場合も多い。深夜便所に行くと尻をなでられるというのは、このような便所神のせいであった。
興味深いことに、地方でみられる家伝薬の秘密伝授の逸話のなかに、便所で河童の手をもぎ取り——これは先の厠神の手の欠損を想起させる——そ の奪った“手”を返してやる代わりに秘法を河童から教わったという話もある。これらに共通していることは厠の神さまは特異な姿をした異人であり、それは時 に我々に秘密や知識を授けることもできたということである。
今日の学校生活では“便所掃除”はもっぱら懲罰としての色彩がつよい。あるいは、便所=汚いという意味づけが強烈にはたらいて“人の嫌がる苦 行”と見なされやすい。それゆえに、個別訪問して便所掃除することを奉仕の一環として位置づける宗教団体もある。しかしながら民俗社会における便所掃除の 意義はより複雑であった。妊婦が便所掃除をすると“器量のよい”子供が生まれるという言伝えがあったところも多い。むろん、嫁に対して苦行を押しつける言 い訳だ、と現代的に解釈することもできないではない。だが、便所の神さまは積極的にお産を助けると考えられたりもしたことは、それらの間の複雑な事情を反 映している。
子供と厠の関係も興味深い。生まれた子供を初めて屋外に出すとき、火(=竈)の神さま、井戸の神さま、便所の神さまにお参りをした。このよう な儀礼を“雪隠参り”といった。関東や甲信越の広い地域では、桑でできた箸でウンコを挟んで子供になめさせるまねをして、その箸を便所に刺しておいたとい う。臍の緒は便所に吊されて子供の夜泣きのまじないとされた。
便所の神さまは、井戸や竈の神さまと深い関係があり、それぞれ互いに夫婦だ、兄弟だとも言われてきた。つまり、それらの神さまは我々の生活と 一体をなして、食事や排泄という我々じしんの身体意識と深く関わっていたのである。
スカトロジック・リベレーション(うんこを通しての人間解放)4. Scatologic Liberation
スカトロジーとは、ギリシア語のスカトス——糞便の——に由来し直訳すれば「糞便学」となる。これはともすれば糞便を“科学的に分析する学” と想像されがちであるが、実際は“糞便趣味にもとづく排泄に関する記述的考察”といった感で理解されている。くだけた表現をもってすれば「ウンコとシッコ のお話」の類と言えようか?、マイナーであるが、立派な文学のサブジャンルとなっている。
科学的かつ実践的動機をもって排泄現象を把握する本誌の“真摯な読者”にとって、ウンコとシッコの文学とはなにごとだ!、と思われるむきもあ ろう。ところが関係おおありなのである。これに対する態度や感情そのものが、その人じしんの“排泄の意味づけ”を如実に表現しているからである——ちなみ に(すぐ後で述べるように)ウンコという表現に否定的な感情を持たれた方は<挫折>タイプということです。
人類の歴史を通して排泄物は周縁的な地位を与えられ続けてきた。むろん、ヒンドゥー教徒における牛糞の神聖視など、排泄物の取り扱いや価値を めぐって一見奇異な逆転がみられることはある。だがそれは、信仰や慣習という“一種の回路”を通して高度に文化的に意味づけられたものである。排泄物はお おかた人類の歴史の中で“汚物”として忌避されてきた。
他方、人間の生活にとって排泄は不可欠であることは言うまでもない。“排泄(行為)の存在”は、それを排出せざるを得ないにもかかわらず、で きればそれを避けていたい人間にとっておおきなジレンマとなる。文学作品のなかに見られるそのような糞便のテーマを丹念に拾い集めた山田稔さんによれば、 糞尿のイメージの取り扱い方にはおおきく2つに分けられるという。すなわち<解放型>と<挫折型>である。
<解放型>とは、作品のなかに糞尿が公然と登場し、滑稽や笑いを伴うものである。尻を拭く素材に何が最もふさわしいかという議論 が延々と続いたり、招待した客人にひそかに下剤を飲ませて便を垂れ流す様を主人が楽しむ、といったことを取りあげる。そこでは、糞便は忌むべき対象ではな く、人間の自然な排泄行為を正面から肯定する姿勢が見られる。このような文学作品は中世やルネサンスにおいて広く見られた——例えばフランソアワ・ラブ レー『ガルガンチュア物語』をその代表とする。
O
stercus pretiosum! - Denis Diderot,
Le neveu de Rameau (1713-1784)
Le point important est d'aller aisément, librement, agréablement, copieusement, tous les soirs à la garde-robe. O stercus pretiosum! Voilà le grand résultat de la vie dans tous les états.
「肝心な点は、たやすく、自由に、愉快に、どっさりと、毎晩御不浄に行くことです。「おお貴重な糞便(O stercus pretiosum!)」これこそはどんな身分にも起こる生活の偉大な結果です」——ディドロ『ラモーの甥』本田喜代治・ 平岡昇訳、岩波文庫、p.37、岩波書店、1964年。
他方<挫折型>では、糞便への態度は抑圧的かつ否定的である。作品のなかで糞便と対峙する主人公が気真面目であったり、作中の人 物が糞便をもって本人や大切な事物を汚すという行為をとる。また性的な要素として排泄が描写される。この種の作品は、近代以降顕著に現れてきた。糞尿は隠 すべきまた排除すべき対象であり、それじしんによって恥辱や自己破壊と結びつき(なぜなら排除されるものを人間は身体に内包するからである)、ときにブ ラック・ユーモアとなる——ノーマン・メイラーや金芝河などの作品にそれを見ることができるという。
「この書物『泥棒日記』は、すなわち「到達不可能な無価値性の追求である」——と著者ジュネは、同名のタイトルの書物の中ほどで宣言をす
る、まことに奇妙な著作なのだ(朝吹三吉訳『フランスIV』世界の文学、集英社刊、1990:205)。その1ベージ後に、警察の留置所における糞尿の記
述がある。
この文学作品における2つの糞尿の取り扱い方は、ひるがえって見ると我々にとって“排泄の存在というジレンマ”を克服する2つの異なる手法、 あるいは2つの認識の回路となる可能性を示唆している。にもかかわらず、そして読者も感じているように、現況は<挫折型>がおおきな勢力をも ち、<解放型>がきわめてマイナーな領域に閉じこめられているのである。
言葉も吐くという表現から、罵詈雑言(=巨大なうんちや大量の下痢)も小言も呟きも(=少量の便秘気味のうんち)《排泄》的行為とも言えよ
う。森崎和江の次の言葉を参考にしよう:「金嬉老にかぎらず、朝鮮人が自分自身の存在を告げるため
に、犯罪を代償にしたり血縁を死においやったりして日本人宛のことばを作り出そうとしているときに、日本人は朝鮮人へのことばを、自分の何ものをもこわす
ことなく排泄している」——森崎和江(1968)「二つのことば・二つのこころ」『ことばの宇宙』1968年5月号
《火野葦平「糞尿譚」1937年》
主人公は最後は糞尿を撒き散らす。
「……彦太郎は糞壺の縁まで来ると、半分は埋められたが、残りの半分に満々と湛えている糞壺の中に長い柄杓をさしこみ、これでも食くらえ
と、絶叫して、汲み上げると、ぱっと半纏男達へ振り撒まいた。わっと男達は声をあげ、左肩から浴あびせられた先刻の背の低い男が、逃げようとしてそこへ仰
向あおむけに引っくり返った。貴様たち、貴様たち、と彦太郎はなおも連呼し、狂気のごとく、柄杓を壺につけては糞尿を撒き散らした。半纏男達はばらばらと
われ先に逃げ出した。柄杓から飛び出す糞尿は敵を追い払うとともに、彦太郎の頭上からも雨のごとく散乱した。自分の身体を塗りながら、ものともせず、彦太
郎は次第に湧き上って来る勝利の気魄に打たれ、憑つかれたるもののごとく、糞尿に濡れた唇を動かして絶叫し出した。貴様たち、貴様たち、負けはしないぞ、
もう負けはしないぞ、誰でも彼でも恐ろしいことはないぞ、俺は今までどうしてあんなに弱虫で卑屈だったのか、誰でも来い、誰でも来い、彦太郎は初めて知っ
た自分の力に対する信頼のため、次第に胸のふくれ上って来るのを感じた。誰でも来い、もう負けはしないぞ、寄ってたかって俺を馬鹿扱いにした奴ども、もう
俺は弱虫ではないぞ、馬鹿ではないぞ、ああ、俺は馬鹿であるものか、寿限無寿限無五
光摺りきれず海砂利水魚水魚末雲来末風来末食来寝るところに住むところや油小路藪小路ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅうりん丸しゅうりん丸しゅうりん丸のぐうり
んだいのぽんぽこぴいぽんぽこなの長久命の長助、寿限無寿限無五光摺
りきれず海砂利水魚水魚末雲来末風来末食来寝るところに住むところや油小路藪小路ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅうりん丸しゅうりん丸しゅうりん丸のぐうりんだ
いのぽんぽこぴいぽんぽこなの長久命の長助、
さあ、誰でも来い、負けるもんか、と、憤怒の形相ぎょうそうものすごく、彦太郎がさんさんと降り来る糞尿の中にすっくと立ちはだかり、昴然こうぜんと絶叫
するさまは、ここに彦太郎は恰も一匹の黄金の鬼と化したごとくであった。折から、佐原山の松林の蔭に没しはじめた夕陽が、赤い光をま横からさしかけ、つっ
立っている彦太郎の姿は、燦然さんぜんと光り輝いた。」火野葦平『糞尿譚』
青空文庫より
《番外編》うんこと学問
「このページ(→リンク先)は、鳥屋の梯子と人生はそも短くて糞まみれ : ドイツ民衆文化再考 / アラン・ダンデス著 ; 新井皓士訳,東京 : 平凡社 , 1988.8(原著:Life is like a chicken coop ladder : a portrait of German culture through folklore / Alan Dundes, New York : Columbia University Press , c1984)に、索引がないことに気づいて、それを作成する必要があることを感じた僕が、本文の上に、たぶん、訳者である新井皓士(あらい・ひろし)さん か編集者がつけたと思われる「小見出し」をみつけ、それを、索引(かなりおおざっぱ)として造っておけば、後の引用に便利だと思った次第なのです」《出 典:Life is like a chicken coop ladder》
排除と排泄 5. Exclusion and Excrement
近代社会では、排泄はきわめてプライヴェートな領域に押し込められてしまった——例えば今では“連れション”さえもたいへん味気のないものに なった。排泄経験が文化的に形成されるにもかかわらず、排泄を個人的な行為として強迫的に意味づけてしまう潮流は否定できない。そこでは個人の尊厳を確保 しつつ排泄行為がいかに可能であるかということに問題が収斂しまいがちである。“病院のトイレは汚い”をめぐる議論もそこに深く関わっていた、と私は思 う。
その当時、複数の箇所で看護学生たちに私が意見を求めた時、“私たちの病院にはそんな問題はありません。だって綺麗だもん。”という意見がお おかたを占めた。しかしながら、その意識のあり方こそ、<患者とその家族の感覚>と<医療従事者の感覚>のズレを如実に表わして いるものはない。すなわちトイレの美的意識の根拠は、そこが“物理的に汚れているか否か”ということ以上に、利用する人にとって“清潔と感じるか否か”に かかっているのだ。
興味深いことに、ある利用者は蓄尿の容器がそこにあることに不快の意を表明している。それは、利用者の身になって想像すれば容易に解釈できる ように、他者の尿の存在=トイレの不潔(より正確に言えば“不浄”)という面が強調されているのである——“科学的”観点からみてその蓄尿瓶の存在はたい した問題にはならないにも関わらず。だがこのズレこそが問題なのだ。
不潔=不浄は排除されるというのは、人間の文化一般にひろくみられる現象である。かと言ってそのような意識経験はコントロールできない訳では ない。コンセンサスのある我々じしんの“清潔感覚”を見い出すには、真正面からそのことを論じる他に、ここで述べたような文化相対的な理解の方法も同時に 吟味されなければならないのである。
「金は馬糞だ。だが馬糞は金じゃない」——ヨーゼフ・ゲッベルスの日記より
「天皇さんかて、糞をするんだ」——住井すゑ
On fetor of the prison of this
world
《おわりの哲学について》On End of Philosophy
and Philosophy of Ending
質問:どうしてはじめがあるからおわりがあると言えるのですか?
答え:おわりを予見できるから、はじめについての思索がはじまるわけですね。はじめの思索に決着がつくとき「はじめがあるから、おわりがある」 と言えるわけです。はじめへの思索なしに、そのようなことは言えませんでした。「はじめがあるからおわりがある」はアプリオリな命題ではありませんでし た。だれでも、ひとつ終わりをつけたら、すっきりしますよ。便秘(問題の解消)とおなじ。うんこの哲学ですね。
■おしっこ&うんちがキレイな水に変わるまで 下水処理の仕組みを解説(外 部リンク)
うんちの色はなんで「うんち色」なのでしょうか?!そして、トイレットペーパーはなぜ白い?!→「白い色が「清楚」な理由は、歓喜愉悦にあるというフランソワ・ラブレーの諸説」
■《うんこミュージアムにおける、うんこ思想の有料化に反対します》
横浜にある私立のアミューズメント施設「うんこミュージアム」におけるウンコ思想を有料化に反対します。ウンコ は誰にでも開かれたデモクラティックなものです。うんこの思想の資本主義化に、当「大日本うんこ正義団」団長の垂水源之介は、う んこミュージアムにおける、うんこ思想の有料化に反対しています。それはウンコな施設であって、気高いうんこの哲学と何の関係もあ りません!
「デザイン・シンキング(Ode for Design
Thinking)」と「デザイン・シンキング批判()」
附 論 放屁論 —— 現在 屁築中〜♪ 6. Farting Ideology
Denis Diderot, 1713-1784 | |
《火野葦平「糞尿譚」1937年》 | |
「ティル・オイレンシュピーゲルは性と愛を無視する一方、糞便を楽しむ」——ポール・オッ ペンハイマー(1972) | |
Source: Slothilda Sloth, http://slothilda.tumblr.com/ | |
画像で拡大します。そして「うんといい世界へ:ウンログ」下線でリンクしま す!(retrieve on June 30, 2018 ) | |
うんこのデザイン・シットっんぐ | |
触れられるよう にする(Make Tangible):うんこの原型をつくる! |
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Yo no me tiro pedos. Yo susurro en mis pantis! | |
屁合戦絵巻[部分](制作年不詳: 相覧弘化3年写の写本、早稲田大学図書館 | |
【現 在考案中:ぷっ!】
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Jacques de Longuyon, 'Les voeux du paon', Tournai (?), ca. 1350 (NY, Morgan, MS G.24, fol. 25v) | |
逆 行性のオナラ〜♪ Trumpet monkeys‘The Maastricht Hours’, Liège 14th century (British Library, Stowe 17, fol. 61v) | |
トイレット博士『屁 学入門の巻』とりいかずよし | |
「祭 司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。 万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、また あなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。 見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上 にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。 こうしてわたしが、この命令をあなたがたに与えたのは、レビと結んだわが契約が、保たれるためであることを、あなたがたが知るためであると、万軍の主は言 われる」マラキ書2:1-4 | |
bullshit "In the influential account by the contemporary philosopher Harry Frankfurt, bullshit describes any statement made without any concern for the truth. The ordinary submission to a discipline of trying to get things right is suspended, in favour of mere hot air, or sounding off. The suspension may be common knowledge, or the speaker may hope that his audience is unaware of his or her irresponsibility. With *lying, by contrast a (deviant) connection with truth is intended, since liars deliberately state what they believe to be false, with the intention to deceive." - サイモン・ブラックバーン『オックスフォード哲学辞典』オックスフォード即席文献、オックスフォード出版局、2016年 | |
The Roman goddess Fortuna (right) was believed to protect latrine users from dangers. An inscription on this fresco from Pompeii warns toilet users to beware, from Chelsea Wald, 2016 | |
Communal toilets at the Roman site, Ostia Antica., from Chelsea Wald, from Chelsea Wald, 2016 | |
One of the first known toilets that was flushed with water is at the palace at Knossos on the island of Crete. from Chelsea Wald, 2016 | |
Loo with a view: an ancient Roman public latrine in the ruins of Timgad, Algeria. from Chelsea Wald, 2016 | |
「『トイレット博士』(トイレットはかせ)は、とりいかずよしにより1970年から 1977年まで『週刊少年ジャンプ』誌上に連載された人情ギャグ漫画作品。……とりいかずよしの出世作であり代表作の一つ。単行本全30巻は、当時として は記録的な長寿連載であり、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(2016年10月に全200巻で完結)に抜かれるまで『ジャンプ』史上最長だった。部数も 1000万部を売り上げた。その一方で、過激な表現・暴力表現で物議を醸し、社会現象になり、賛否両論を得た」(ウィキペディア:「トイレット博士」) | |
an anthropologist in void | |
O-157,オーイチゴウナナ,病原性大腸菌 |
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炎上をさせない14 の教え |
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ぞうさんのうんちが、おしりのあなから、落下する瞬間 |
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ももたん、ソフト、生グソ味(ご当地秋田の品格です!!!) |
【現 在公案中:ぶぶっ!】
フ
ランソワ・ヴィヨン『悪魔の屁物語』執筆、1452年頃、ただし現在は散佚して内容不明——「巴里奉行所と巴里大学との確執である悪魔の屁(ぺ・と・でぃ
あぶる)事件に積極的に活動し、それを材料として『悪魔の屁物語』を書いたらしいが、散佚」(鈴木信太郎訳、1965:11)『ヴィヨン全詩集』岩波文
庫、岩波書店、1965年(→「逐電の記」)
お
なら、ぷう〜♪
《ノ リメタンゲレ:ポストモダン版》「文化放送のラジオで大竹まことと、司会者が、じゃあ どうすればいいのですか?と野口悠紀雄にすがるのだが、それは自分でかんがえないといけないとつれない返事。それもそのはずだ、彼は米国が製造業を脱却し ITないしはICT産業で大ブレイクした時に政府の助成金などなかったと指摘、「彼ら(米国の企業)が創意工夫してなしとげた」とくり返し言う。つまり、 日本は野口のいう「製造業界の農業化」(=政府の助成金サポートで国際競争力を失い本当に産業を日本政府そのものが破壊してしまう)により、もっと酷くな るのだと予言する。つまり、野口のテーゼは「自分たちが直面する苦境は、自分たち自身が創意工夫して乗り越えないとならない」という至極当たり前な処方を くり返しているからだ。イエスが(騙し、裏切り、中傷、拷問、そして処刑という)痛い目にあい、死んでから復活したときに、まだ、残りの連中が、優柔不断 にイエスにすがろうとしたとき彼は「ノリメタンゲレ」と言った。俺にすがるな、という意味だ。それをパラフレイズすれば「自分のケツは自分で拭くんだ!」 という高尚なメッセージになる。イエスは、昔も今も正しいことをおっしゃっている。みんなひとりひとりが、イエスにならなければならない。」
だいうんこコレクショ
ン〜♪
雲古コレクション(タグはないので、最後まで読んでくれた方への特権です!)
どうして、北半球のウンコと南半球のウンコの《巻き》がちがうか?——それは「コリオリの力」のせいぢや〜♪
引用の際には著者に是非ご放屁と御一服(いえ、もとい御一報!)ください。ぶぶぶぶぶりぶりぶりりり〜♪
◎トイレット博士
「『トイレット博士』(トイレットはかせ)は、とりいかずよしにより1970年から 1977年まで『週刊少年ジャンプ』誌上に連載された人情ギャグ漫画作品。……とりいかずよしの出世作であり代表作の一つ。単行本全30巻は、当時として は記録的な長寿連載であり、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(2016年10月に全200巻で完結)に抜かれるまで『ジャンプ』史上最長だった。部数も 1000万部を売り上げた。その一方で、過激な表現・暴力表現で物議を醸し、社会現象になり、賛否両論を得た」(ウィキペディア:「トイレット博士」)
作品解説(同上、ウィキペディア記事「トイレット博士」より)
「第1部:単行本1 - 5巻。初出は『週刊少年ジャンプ』1969年23号の「赤塚ギャグ笑待席」である。この連載は赤塚不二夫がかなりの売れっ子であったため、『ジャンプ』編 集部は週刊連載を依頼する事が出来ず、結局赤塚が一週おきに執筆して、穴埋め分は当時とりいが所属していたフジオプロ作家が持ち回りで掲載する形となった ものである。とりいは古谷三敏、長谷邦夫と交互に作品を発表。このとりいの持ち番に掲載されたのが本作であった。この連載が終了した後も、とりいは『ジャ ンプ』誌上で数回本作を読み切りの形で発表。月1回から月2 - 3回と発表頻度が増え、そのまま自動的に連載漫画となった。定期連載となってからは一度も休載していない。/序盤の徹底したスカトロジー表現は、恩師・赤 塚の「お前は顔が汚いからウンコ漫画を描け」という指示を受けてのものだったと、太田出版『愛蔵版トイレット博士』第1巻あとがき・解説に記されている。 とりいは「赤塚先生はお金のタブーを破った。永井豪は性のタブーを破ったので、僕に残されたものはうんこのタブーだと考えた」とも語っている。/主役は一 応トイレット博士だが、タメやん、うんこちゃん、ダラビチ博士などの人気サブキャラクターが続々登場した」
「第2部:単行本6 - 11巻。一郎太が登場し、主役に。うんこネタだけではアイデアが枯渇して苦しくなってしまい、方向転換で人情ギャグにした。しかし、この方向転換が逆にア ンケートの結果を飛躍的に伸ばし、とりい自身の執筆も楽になったが、その一方で主人公トイレット博士の登場回数が無くなってしまった。この事は、『ジャン プ』連載漫画のひとつの特徴として語り草となり、連載後期の作中でも何度もネタにされている。とりいも「トイレット博士はあまりにも不運な主人公であっ た」と、単行本ならびに愛蔵版にてコメントしている」
「第3部:単行本12巻 -
30巻。一郎太、中学に入学。スナミ先生が次第に主役の座へ。そして13巻でいよいよメタクソ団の結成!団員達の卒業で完結する。/週刊少年ジャンプで
「トイレット博士」がほとんど登場せず、実質題名のみとなった後は、『別冊少年ジャンプ』や『少年ジャンプ増刊号』の季刊誌にて、トイレット博士が登場す
る作品が掲載されていた。従ってこの時期のジャンプ・コミックス単行本には、『週刊少年ジャンプ』本誌に載っていた本編に季刊誌掲載分を挟んで収録されて
いる。なお、一部のジャンプ・コミックス単行本では、週刊少年ジャンプ連載の順番とは異なった順番で収録されており、前後関係に違和感がみられている」
どうして、北半球のウンコと南半球のウンコの《巻き》がちがうか?——それは「コリオリの力」のせいぢや〜♪
引用の際には著者に是非ご放屁と御一服(いえ、もとい御一報!)ください。ぶぶぶぶぶりぶりぶりりり〜♪