うんちの哲学:肛門側のカフェ編
De Modo Cacandi*
さて、皆さんのまわりでの大変な流行をしている新
型コロナウイルス感染症(かんせんしょう)のさいしん情報だ。最初、病気にかかった人の「うんち」と「おしっこ」からウイルスが見つかったという報告が
あった。くわしくと調べてみると「うんち」には多く含まれるが「おしっこ」にはそれほど多くなかった。たぶん、おしっこには、出にくいのだろうが、パンツ
のなかの下半身では、それらの出口が近いために、ウイルスがみつかりやすいのかもしれない。コロナウイルス時代では、おしっこも安全とは言えないぞっ!ト
イレの後には手洗いを十分することは重要だ!! |
このウンコページは、(1)正式ウンコサイト、(2)肛
門側サイト(このページです!)、そして(3)うんこ科学編、の三種類があ
ります、ぶりぶりっ!
科学編登場!:トイレット科学編:正式:陰嚢裏サイト(元祖)はこちらです!
Yo no me tiro pedos. Yo susurro en mis pantis!私はおならをしない!パンティの中でささやくだ け〜♪
*De modo Cacandi とは「糞のひり方」という意味のラテン語(風表記)です。ラブレーから獲りました。くわしくはサン・ヴィクトール図書館蔵書目録にアクセス!
豚の哲学*
Bullshit is unavoidable whenever circumstances require someone to
talk without knowing what he is talking about. - Harry Frankfurt, On Bullshit, 2006.
排泄現象を文化的に考察するためには、どうしても個人の経験という身近なところから出発しなければならない。以下は私じしんの体験である。
中央アメリカのカリブ海に面した低湿地の村落を旅した時のことである。慣れ ない旅においては誰しもが排泄の不調を体験するものだ。3日ほど便通がなかったが、次の日の朝食を済ますと、便意を催した。村の人に便所はどこにあるの か?、と聞くと、どこでもいいさ!、という返事。泊まっていた小屋の裏の人目のつかない草むらに出かけ用を済ました——長い間溜めていたときほど、それを 成し遂げた気分は爽快である。 さて、立ち上がろうとすると隣の草むらでガサゴソと音がする。 人の野糞を眺める不埒な輩がいるのかと思ってそちらの方を注視すると、1 頭の豚が現れた。シッシッと追いやってもその豚は痩せた躯を左右に振るばかり。現場を後にすると、入れ替わりに豚がそこへ飛び込むようにして来た。脳裏に 嫌な思いが走ったが、何事も観察をもって任じる人類学徒の心得。私は踵を返して、その豚が何をするのかを眺めた。豚は私の動作に一瞬たじろいだが、私の、 それの匂いを嗅ぎ、おもむろに食べ始めたのである——なんと悍(オゾマ)しい!。 |
豚が人間の排泄物を食べることは、既に知識としては得てはいた。しかし、体験として眼の前で繰り広げられる衝撃は忘れられない。体外に出された 瞬間から(その文化的公準によって)マイナスの価値が付与される排泄物である。それは、もう自分とは何の関わりもない。にもかかわらず、まだ温かいと思わ れるそれが眼前で食される時の感覚は、まるで自分じしんの身体が喰される、あるいは汚されるような感覚なのであった。
この衝撃は、中国や合衆国で仕切りのない、あるいは仕切りのほとんどないトイレで隣人を気にしながら用を足した時の経験の比ではなかった。こ う思ったものだ。この村にもっと住み続けていたら、やがて村の人と同じようにそのことに慣れてしまい、平気になってしまうだろうか?
[*]正式の標題は「豚の哲学, あるいは便タムの功利主義哲学」です。
『南島雑話』に描かれた幕末期の奄美大島における豚便所:名越 左源太(1820-1881), Public Domain, https://goo.gl/fnFzvm
リベンジ弁当というジャンルが日本にはあります。お弁当を持たせる主婦が、夫をなじる時に、蓋をあけた時にメッセージを伝えるのがこれです「うんこ!!!」という決め台詞がサイコーです。
排泄の慣習、ひいては糞尿そのものに対して、人びとがどのような感情や理解をおこなうかは、文化によって相対的に決まる。すなわち、それらの 意味づけは社会集団によってコンセンサスが得られており、またそれは独特なものである。
排泄行為とその意識は、親から子への育児のプロセスのなかで学習されてゆく。その点で排泄体験というのは、個々人が育てられた状況や環境に大 きく依存する。その環境とは、家庭における躾という次元から、糞尿の処置や利用という社会が保有している技術や慣習の次元、はては気候や風土あるいは人工 環境を含めてエコロジカルな次元にまで広がったなかにある。
むろん、そのような糞尿との付き合いは、人類の歴史が始まって以来長い間、多様な変化をこうむってきたことは想像に難くない。すなわち、人び とに共有されている排泄の経験は、新しい環境が登場することで(集団が共有するレベルでは)今後幾らでも変わり得ることを示唆している。しかしながら、排 泄の体験は先に述べたように多様な環境条件の中で比較的はやい成長段階において学習されてゆくものなので(個人のレベルでは)むしろ変化には保守的であり 期待しにくい側面もある。また言うまでもなく、社会が許容する変化の枠のなかで、排泄の体験や理解において個人差というものが明かに認められる。
従って、排泄の体験を幅広く理解するためには、<文化的に規定される体験や慣習>と<個人の排泄体験や習慣>という 2つの視点から解釈することが重要になる。これは看護の技術的側面において排泄現象を理解し、それを実践に役立てていこうとする時にも枢要な観点となる。
我々じしんの排泄の文化について考えてみよう。一時期“病院のトイレは汚い”という主張をめぐって論争が起こった。現在の排泄現象が抱える問 題について、先鋭な議論をたたかわせる必要性については言うまでもない。しかし、ここではその議論の背景にある、我々じしんの“潜在的な歴史経験”につい て思いを馳せてみたい。すなわち、厠(かわや)に関する民俗的事象ついてである。
都市生活をおくる人びとにとって厠、雪隠(せっちん)、あるいは「はばかり」という言葉はもはや死語となった。しかしながら家相占いでは、相 変わらず鬼門といって、中国由来の陰陽道によると丑寅=北東、(裏鬼門といって)未申=南西、我が国独自の伝統によるとさらに戌亥=西北の方角に便所を置 くことが嫌われる。家屋の構造や居住のスタイルが変化した現在では、このようなことを信じることが困難になってきた。だが便所がもともと家屋と独立してお り、糞尿を資源として利用していた時代において、厠に独特の空間的位置が与えられていたことは不思議ではなかろう。
「鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべ
き方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この
方角も鬼門同様、忌み嫌われる。南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした……現代でも、家の中央から見て鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風
呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。また、南西の方位を裏鬼門として、鬼門同様、水まわりや玄関を嫌う風習も根強く
残っている」ウィキペディア「鬼門」
伝統的な家屋構造において厠はまた象徴的にも独特な位置が与えられていた。便所に用を足す——この表現そのものが言い換えだが—ことを 「観音様さ行く」「高野へ参る」と表現された。むろん今でも「お手洗いに」と言い換えられるが、厠を“聖なる所”と読み変えていることに注意しよう。実 際、そこには厠神あるいは便所神がおわしましたのだ。
「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)。有名な功徳としては便所の清めがある。便所は古くから「怨霊や悪魔の出入口」と考える思想があった ことから、現実的に不潔な場所であり怨霊の侵入箇所でもあった便所を、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まり今に伝わって いる。現在でも曹洞宗寺院の便所(東司)で祀られている。……ある時、インドラ(帝釈天)は仏が糞の臭気に弱いと知り、仏を糞の山で築いた城に閉じ込めて しまった。そこに烏枢沙摩が駆けつけると大量の糞を自ら喰らい尽くし、仏を助け出してみせた。この功績により烏枢沙摩は厠の守護者とされるようになったと いう(Jørn Borup, Japanese Rinzai Zen Buddhism: Myōshinji, a living religion. p.242, 2008.)」ウィキペディア「烏枢沙摩明王」
それらの厠に宿る神さまは、時代や地方によってさまざまな形態が与えられた。よく言われたのは、その神さまが盲目であったり、手が無かったり という身体の欠損がみられることである。またその神さまは水神が零落したものだと言われることもあった。出雲地方では「カラサデサン」とか「カラサデ婆」 といわれる老婆の姿をとった。便所にいるのが河童の場合も多い。深夜便所に行くと尻をなでられるというのは、このような便所神のせいであった。
写真:左:木曽川にある「水神社」ウィキペディア「水神」ウィキコモンズ/右:長崎市山王神社,手前4社(基)は水神、一番奥は土神と読める:
撮影:増田研(Copyright Ken Masuda, 2016)
Suijin (水神?, dieu de l'Eau) est le dieu shinto de l'eau au Japon.
Le terme Suijin (littéralement « peuple de l'eau » ou « divinité marine
») renvoie aux manifestations célestes et terrestres de la divinité
bienveillante shintoïste de l'eau. Mais il se réfère également à une
grande variété de créatures mythologiques et magiques trouvées dans les
lacs, les étangs, les sources et les puits, y compris les serpents et
les dragons, les anguilles, les poissons, les tortues et les kappa
carnivores. En tant que dieu de l'Eau, Mizu no Kamisama, Mizugami, ou
Suijinsama, il est très vénéré au Japon. - Wiki, Suijin
興味深いことに、地方でみられる家伝薬の秘密伝授の逸話のなかに、便所で河 童の手をもぎ取り——これは先の厠神の手の欠損を想起させる——そ の奪った“手”を返してやる代わりに秘法を河童から教わったという話もある。これらに共通していることは厠の神さまは特異な姿をした異人であり、それは時 に我々に秘密や知識を授けることもできたということである。
今日の学校生活では“便所掃除”はもっぱら懲罰としての色彩がつよい。あるいは、便所=汚いという意味づけが強烈にはたらいて“人の嫌がる苦 行”と見なされやすい。それゆえに、個別訪問して便所掃除することを奉仕の一環として位置づける宗教団体もある。しかしながら民俗社会における便所掃除の 意義はより複雑であった。妊婦が便所掃除をすると“器量のよい”子供が生まれるという言伝えがあったところも多い。むろん、嫁に対して苦行を押しつける言 い訳だ、と現代的に解釈することもできないではない。だが、便所の神さまは積極的にお産を助けると考えられたりもしたことは、それらの間の複雑な事情を反 映している。
++++
「便所掃除」(1956)——濱口國雄(詩人, 1920-1976)
扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしびれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明けの空気もくさくします
掃除がいっぺんにいやになります
むかつくようなババ糞がかけてあります
どうして落着いてしてくれないのでしょう
けつの穴でも曲がっているのでしょう
それともよっぽどあわてたのでしょう
おこったところで美しくなりません
美しくするのが僕らの務めです
美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう
くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます
静かに水を流します
ババ糞におそるおそる箒をあてます
ポトン ポトン 便壺に落ちます
ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します
落とすたびに糞がはね上がって弱ります
かわいた糞はなかなかとれません
たわしに砂をつけます
手を突き入れて磨きます
汚水が顔にかかります
くちびるにもつきます
そんな事にかまっていられません
ゴリゴリ美しくするのが目的です
その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
大きな性器も落とします
朝風が壺から顔をなぜ上げます
心も糞になれて来ます
水を流します
心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます
キンカクシのうらまで丁寧にふきます
社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます
もう一度水をかけます
雑巾で仕上げをいたします
クレゾール液をまきます
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
静かな うれしい気持ちですわってみます
朝の光が便器に反射します
クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします
便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません
※濱口國雄はこの「便所掃除」の詩で、国鉄詩人連盟第5回国鉄詩人
賞を受賞した。
+++
子供と厠の関係も興味深い。生まれた子供を初めて屋外に出すとき、火(=竈)の神さま、井戸の神さま、便所の神さまにお参りをした。このよう な儀礼を“雪隠参り”といった。関東や甲信越の広い地域では、桑でできた箸でウンコを挟んで子供になめさせるまねをして、その箸を便所に刺しておいたとい う。臍の緒は便所に吊されて子供の夜泣きのまじないとされた。
雪隠参り(セッチンマイリ)という乳児の訪問儀礼——栃木県(場所ならびに撮影年不詳:戦後):写真は栃木県立博物館蔵
便所の神さまは、井戸や竈の神さまと深い関係があり、それぞれ互い に夫婦だ、兄弟だとも言われてきた。つまり、それらの神さまは我々の生活と 一体をなして、食事や排泄という我々じしんの身体意識と深く関わっていたのである。
■現代のうんこ作品(パロディ芸術)
++
スカトロジーとは、ギリシア語のスカトス——糞便の——に由来し直訳すれば「糞便学」となる。これはともすれば糞便を“科学的に分析する学” と想像されがちであるが、実際は“糞便趣味にもとづく排泄に関する記述的考察”といった感で理解されている。くだけた表現をもってすれば「ウンコとシッコ のお話」の類と言えようか?、マイナーであるが、立派な文学のサブジャンルとなっている。
scatology - In medicine and biology, scatology or coprology is the
study of feces. Scatological studies allow one to determine a wide
range of biological information about a creature, including its diet
(and thus where it has been), health and diseases such as tapeworms.
The word derives from the Greek σκῶρ (GEN σκατός) meaning "dung,
feces"; coprology derives from the Greek κόπρος of similar
meaning.[1][2][3] A comprehensive study of scatology was documented by
John Gregory Bourke under the title Scatalogic Rites of All Nations
(1891). An abbreviated version of the work (with a foreword by Sigmund
Freud), was published as The Portable Scatalog in 1994.[4]
科学的かつ実践的動機をもって排泄現象を把握する本誌の“真摯な読者”にとって、ウンコとシッコの文学とはなにごとだ!、と思われるむきもあ ろう。ところが関係おおありなのである。これに対する態度や感情そのものが、その人じしんの“排泄の意味づけ”を如実に表現しているからである——ちなみ に(すぐ後で述べるように)ウンコという表現に否定的な感情を持たれた方は<挫折>タイプということです。
人類の歴史を通して排泄物は周縁的な地位を与えられ続けてきた。むろん、ヒンドゥー教徒における牛糞の神聖視など、排泄物の取り扱いや価値を めぐって一見奇異な逆転がみられることはある。だがそれは、信仰や慣習という“一種の回路”を通して高度に文化的に意味づけられたものである。排泄物はお おかた人類の歴史の中で“汚物”として忌避されてきた。
他方、人間の生活にとって排泄は不可欠であることは言うまでもない。“排泄(行為)の存在”は、それを排出せざるを得ないにもかかわらず、で きればそれを避けていたい人間にとっておおきなジレンマとなる。文学作品のなかに見られるそのような糞便のテーマを丹念に拾い集めた山田稔さんによれば、 糞尿のイメージの取り扱い方にはおおきく2つに分けられるという。すなわち<解放型>と<挫折型>である。
《解放型スカトロジー》
<解放型>とは、作品のなかに糞尿が公然と登場し、滑稽や笑いを伴うものである。尻を拭く素材に何が最もふさわしいかという議論 が延々と続いたり、招待した客人にひそかに下剤を飲ませて便を垂れ流す様を主人が楽しむ、といったことを取りあげる。そこでは、糞便は忌むべき対象ではな く、人間の自然な排泄行為を正面から肯定する姿勢が見られる。このような文学作品は中世やルネサンスにおいて広く見られた——例えばフランソアワ・ラブ レー『ガルガンチュア物語』をその代表とする。
O
stercus pretiosum! - Denis Diderot,
Le neveu de Rameau (1713-1784)
Le point important est d'aller aisément, librement, agréablement, copieusement, tous les soirs à la garde-robe. O stercus pretiosum! Voilà le grand résultat de la vie dans tous les états.
「肝心な点は、たやすく、自由に、愉快に、どっさりと、毎晩御不浄に行くことです。「おお貴重な糞便(O stercus pretiosum!)」これこそはどんな身分にも起こる生活の偉大な結果です」——ディドロ『ラモーの甥』本田喜代治・ 平岡昇訳、岩波文庫、p.37、岩波書店、1964年。
《挫折型スカトロジー》
他方<挫折型>では、糞便への態度は抑圧的かつ否定的である。作品のなかで糞便と対峙する主人公が気真面目であったり、作中の人 物が糞便をもって本人や大切な事物を汚すという行為をとる。また性的な要素として排泄が描写される。この種の作品は、近代以降顕著に現れてきた。糞尿は隠 すべきまた排除すべき対象であり、それじしんによって恥辱や自己破壊と結びつき(なぜなら排除されるものを人間は身体に内包するからである)、ときにブ ラック・ユーモアとなる——ノーマン・メイラーや金芝河などの作品にそれを見ることができるという。
「この書物『泥棒日記』は、すなわち「到達不可能な無価値性の追求である」——と著者ジュネは、同名のタイトルの書物の中ほどで宣言をす る、まことに奇妙な著作なのだ(朝吹三吉訳『フランスIV』世界の文学、集英社刊、1990:205)。その1ベージ後に、警察の留置所における糞尿の記 述がある。
金芝河の長編譚詩《糞氏物語》:「妓生観光に訪れた日本人(主人公:「姓 は糞、名は三寸待」)が,朝鮮民族の英雄の銅像のてっぺんから多量の糞便を垂れ流すというイメージは, たんなる社会風刺でなく,この詩人の深い挫折感(〈恨(ハン)〉)と結びついたスカトロジーとして評価されるべきであろう」「スカトロジー」『世界大百科 事典』(_)内は引用者による加筆
+++
(冒頭部分……)
昔からいうにや
刃物持ったやつ刃物で亡び
金を持ったやつ金で亡ぶ
森羅万象人間百事これみな
自業自得だ
——金芝河『糞氏物語』井出愚樹編訳(2) p.124.
(……最終末尾)
学生たち
農夫 日雇いが黙々と糞を片づけ
夕焼けは燃え
夕焼けは燃え
夕焼けは燃え
夕焼けはもえたつ糞の海に
わびしくひびきわたる
あの
天皇陛下万歳——
天皇陛下万歳——
昔の話をきくと
こうして亡んだ者は数知れず なんで糞三寸待一人だけのはずがあろう おのれの滅亡をはっきりとしりつつも 糞に狂い糞を集め 糞を育てる者 いつの世に
も絶えたことがないのは
いったいどういうわけだ!
おそらく 滅亡であるところに
解きがたいもう一つの 糞の秘密があるにちがいない
——金芝河『糞氏物語』井出愚樹編訳(2) p.181.
***
もう一編の詩 金子光晴
恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。
そして狭い糞壺のなかで
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼虫どもに
くすぐられてゐる。
あなたにのこりなく消化され、
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。
うきながら、しづみながら
あなたをみあげてよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ぱたんと出ていってしまった。
この文学作品における2つの糞尿の取り扱い方は、ひるがえって見ると我々にとって“排泄の存在というジレンマ”を克服する2つの異なる手法、 あるいは2つの認識の回路となる可能性を示唆している。にもかかわらず、そして読者も感じているように、現況は<挫折型>がおおきな勢力をも ち、<解放型>がきわめてマイナーな領域に閉じこめられているのである。
言葉も吐くという表現から、罵詈雑言(=巨大なうんちや大量の下痢)も小言も呟きも(=少量の便秘気味のうんち)《排泄》的行為とも言えよ
う。森崎和江の次の言葉を参考にしよう:「金嬉老にかぎらず、朝鮮人が自分自身の存在を告げるため
に、犯罪を代償にしたり血縁を死においやったりして日本人宛のことばを作り出そうとしているときに、日本人は朝鮮人へのことばを、自分の何ものをもこわす
ことなく排泄している」——森崎和江(1968)
《番外編》うんこと学問
「このページ(→リンク先)は、鳥屋の梯子と人生はそも短くて糞まみれ : ドイツ民衆文化再考 / アラン・ダンデス著 ; 新井皓士訳,東京 : 平凡社 , 1988.8(原著:Life is like a chicken coop ladder : a portrait of German culture through folklore / Alan Dundes, New York : Columbia University Press , c1984)に、索引がないことに気づいて、それを作成する必要があることを感じた僕が、本文の上に、たぶん、訳者である新井皓士(あらい・ひろし)さん か編集者がつけたと思われる「小見出し」をみつけ、それを、索引(かなりおおざっぱ)として造っておけば、後の引用に便利だと思った次第なのです」《出 典:Life is like a chicken coop ladder》
排除と排泄
近代社会では、排泄はきわめてプライヴェートな領域に押し込められてしまった——例えば今では“連れション”さえもたいへん味気のないものに なった。排泄経験が文化的に形成されるにもかかわらず、排泄を個人的な行為として強迫的に意味づけてしまう潮流は否定できない。そこでは個人の尊厳を確保 しつつ排泄行為がいかに可能であるかということに問題が収斂しまいがちである。“病院のトイレは汚い”をめぐる議論もそこに深く関わっていた、と私は思 う。
その当時、複数の箇所で看護学生たちに私が意見を求めた時、“私たちの病院にはそんな問題はありません。だって綺麗だもん。”という意見がお おかたを占めた。しかしながら、その意識のあり方こそ、<患者とその家族の感覚>と<医療従事者の感覚>のズレを如実に表わして いるものはない。すなわちトイレの美的意識の根拠は、そこが“物理的に汚れているか否か”ということ以上に、利用する人にとって“清潔と感じるか否か”に かかっているのだ。
興味深いことに、ある利用者は蓄尿の容器がそこにあることに不快の意を表明している。それは、利用者の身になって想像すれば容易に解釈できる ように、他者の尿の存在=トイレの不潔(より正確に言えば“不浄”)という面が強調されているのである——“科学的”観点からみてその蓄尿瓶の存在はたい した問題にはならないにも関わらず。だがこのズレこそが問題なのだ。
不潔=不浄は排除されるというのは、人間の文化一般にひろくみられる現象である。かと言ってそのような意識経験はコントロールできない訳では ない。コンセンサスのある我々じしんの“清潔感覚”を見い出すには、真正面からそのことを論じる他に、ここで述べたような文化相対的な理解の方法も同時に 吟味されなければならないのである。
Source: Slothilda Sloth, http://slothilda.tumblr.com/
「金は馬糞だ。だが馬糞は金じゃない」——ヨーゼフ・ゲッベルスの日記より
「なんや天皇さんかて、糞(ばば)をするんだ」——住井すゑ
On fetor of the prison of this
world
《お わりの哲学について》
質問:どうしてはじめがあるからおわりがあると言えるのですか?
答え:おわりを予見できるから、はじめについての思索がはじまるわけですね。はじめの思索に決着がつくとき「はじめがあるから、おわりがある」 と言えるわけです。はじめへの思索なしに、そのようなことは言えませんでした。「はじめがあるからおわりがある」はアプリオリな命題ではありませんでし た。だれでも、ひとつ終わりをつけたら、すっきりしますよ。便秘(問題の解消)とおなじ。うんこの哲学ですね。
うんちの匂い学について
ベルナールド・ピカール(Bernard
Picart, 1673-1733)の版画に「調香師(香水を調合する人)」の風刺画がある。この絵に描かれているのはいわゆる「うんちマー
ク」の嚆矢である。
ベルナールド・ピカール(Bernard Picart, 1673-1733)先生
嘗糞(しょうふん、サンプン、상분)「人間の便を舐めて、その味によって診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われた(出典不 明)」https://goo.gl/nmqawj
朝鮮半島における人糞の水薬:「トンスル(똥술、糞酒、Ttongsul)」韓国で飲用されているとされる人糞を使った薬用酒 https:
//goo.gl/XaCy42
附
論 放屁論 —— 現在 屁築中〜♪
屁合戦絵巻[部分](制作年不詳: 相覧 弘化3年(グレゴリオ暦1846年)写の写本、早稲田大学図書館)
世界が驚愕した屁合戦絵巻をはじめ、江戸時代の屁事
情を徹底紹介(江戸ガイド)
【現 在考案中:ぷっ!】
‘The Rutland Psalter’, England ca. 1260 (British Library, Add 62925,
fol. 67r)
Jacques
de Longuyon, 'Les voeux du paon',
Tournai (?), ca. 1350 (NY, Morgan, MS G.24, fol. 25v)
【現 在公案中:ぶぶっ!】
逆 行性のオナラ〜♪ Trumpet monkeys‘The Maastricht Hours’, Liège 14th century (British Library, Stowe 17, fol. 61v)
お
なら、ぷう〜♪
トイレット博士『屁
学入門の巻』とりいかずよし
「祭 司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。 万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、また あなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。 見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上 にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。 こうしてわたしが、この命令をあなたがたに与えたのは、レビと結んだわが契約が、保たれるためであることを、あなたがたが知るためであると、万軍の主は言 われる」マラキ書2:1-4
《ノ リメタンゲレ:ポストモダン版》「文化放送のラジオで大竹まことと、司会者が、じゃあ どうすればいいのですか?と野口悠紀雄にすがるのだが、それは自分でかんがえないといけないとつれない返事。それもそのはずだ、彼は米国が製造業を脱却し ITないしはICT産業で大ブレイクした時に政府の助成金などなかったと指摘、「彼ら(米国の企業)が創意工夫してなしとげた」とくり返し言う。つまり、 日本は野口のいう「製造業界の農業化」(=政府の助成金サポートで国際競争力を失い本当に産業を日本政府そのものが破壊してしまう)により、もっと酷くな るのだと予言する。つまり、野口のテーゼは「自分たちが直面する苦境は、自分たち自身が創意工夫して乗り越えないとならない」という至極当たり前な処方を くり返しているからだ。イエスが(騙し、裏切り、中傷、拷問、そして処刑という)痛い目にあい、死んでから復活したときに、まだ、残りの連中が、優柔不断 にイエスにすがろうとしたとき彼は「ノリメタンゲレ」と言った。俺にすがるな、という意味だ。それをパラフレイズすれば「自分のケツは自分で拭くんだ!」 という高尚なメッセージになる。イエスは、昔も今も正しいことをおっしゃっている。みんなひとりひとりが、イエスにならなければならない。」
ス ペイン語でオナラはペド(pedo)です!
Chistes de pedos より http://www.1000chistes.com/chistes/pedos
***
Una
pareja de novios argentinos van al cine. Mientras estaban viendo la
película, la muchacha comienza a tocar la mano al novio, entonces el
novio pregunta:
- Mi amor, mira para la derecha..., ¿hay alguien?..
- No mi amor, no hay nadie....
- Mira para la izquierda, ¿hay alguien?
Ya emocionada la muchacha le dice:
- No mi amor no hay nadie!
- Y atrás ¿hay alguien detrás nuestro?...
- No amorcito! no hay nadie.....
- Adelante ¿hay alguien?...
- No cariño no hay nadie...
- ¡Entonces fuiste vos la que se tiró ese terrible pedo, la concha tuya!
***
Un
sevillano llega a Nueva York y cuando se le acaban los cigarrillos, va
al bar de la esquina.
Sin saber inglés, con señas describe lo que quiere y trata de
pronunciar. "Malboro".
La chica de la bodega se agacha a buscar los cigarrillos debajo del
mostrador.. y se le escapa un "pedo".
Como si nada se levanta y pone el paquete en el mostrador y le dice:
"Two fifty".
El sevillano indignado le contesta...
- ¿Tu fifty?...Tía cerda...!!!!, la del peo "Fifty tú...... !!!
***
Según un intelectual: El pedo, es el suspiro del alma
***
¿Sabes
por qué los de Lepe se tiran un pedo antes de salir de casa?
- Para echar el pestillo.
***
Una
vieja, en la mitad de un servicio religioso, se inclina y le dice al
oído al esposo:
- Me acabo de tirar un pedito silencioso... Qué hago?..
Y el marido le responde:
- Ahora nada, pero cuando llegues a casa, cámbiale las pilas al
sonotone.
***
Recientemente,
estaba sentado en un bar y de repente sentí la impetuosa necesidad de
tirarme un pedo.
La música estaba realmente muy alta por lo que, decidí programar mi
pedorreta al ritmo de la música.
Luego de 2 canciones, ya me sentía mucho mejor así que, procedí a
terminar mi café. Entonces me di cuenta que, toda la gente a mi
alrededor me estaba mirando... fue cuando recordé que, estaba
escuchando mi ipod!!!
■ 現代うんこ建築について
「スー パードライホールは、東京都墨田区吾妻橋一丁目にあるリバーピア吾妻橋敷地内のアサヒビールの吾妻橋本部ビル(アサヒビールタワー)に隣接するホールであ る。1989年竣工。ビルとオブジェは、フランスのデザイナー、フィリップ・スタルクによる設計。屋上には特徴的な巨大モニュメントが設置されている [1]。燃え盛る炎を形象した「フラムドール(フランス語 flamme d'or、金の炎)」と呼ばれるもので、アサヒビールの燃える心を象徴するとされる[1]。オブジェが炎を表すのに対して、その下のスーパードライホール そのものは聖火台をイメージしたものだという。【しかし?!——引用者】その形状と色彩から「金のうんこ」「うんこビル」の愛称で呼ばれている。/完成当 初よりロッククライマーによる定期的な清掃作業が行われていたが、2005年に実施された塗り替え工事の際、セルフクリーニング機能のある塗料で再塗装さ れたため、以後は実施されなくなった。2017年には同年12月中旬までの予定で2度目の塗り替え工事が行われていた。工事期間中はフラムドールは足場に 覆われた状態となっていたため、姿を見ることができなかった」出典:「スーパードライ ホール」ウィキペディア)
"Asahi Beer Hall: The Asahi Beer Hall (a.k.a. Super Dry Hall, or Flamme d'Or) is one of the buildings of the Asahi Breweries headquarters located on the east bank of the Sumida River in Sumida, Tokyo, Japan. It was designed by French designer Philippe Starck and was completed in 1989. It is considered one of Tokyo's most recognizable modern structures. The Asahi Flame is sometimes colloquially referred to as "the golden turd" (kin no unko, 金のうんこ) and the Asahi Beer Hall itself as "poo building" (unko-biru, うんこビル)." Source: Asahi Beer Hall(Wikipedia)
だいうんこコレクショ
ン〜♪
雲古コレクション(タグはないので、最後まで読んでくれた方への特権です!)
どうして、北半球のウンコと南半球のウンコの《巻き》がちがうか?——それは「コリオリの力」のせいぢや〜♪
引用の際には著者に是非ご放屁と御一服(いえ、もとい御一報!)ください。ぶぶぶぶぶりぶりぶりりり〜♪
The Roman goddess Fortuna (right) was
believed to protect latrine users from dangers. An inscription on this
fresco from Pompeii warns toilet users to beware, from Chelsea Wald,
2016
Communal toilets at the Roman site, Ostia Antica., from Chelsea Wald, from Chelsea Wald, 2016
One of the first known toilets that was flushed with water is at the palace at Knossos on the island of Crete. from Chelsea Wald, 2016
Loo with a view: an ancient Roman public latrine in the ruins of Timgad, Algeria. from Chelsea Wald, 2016
◎うんこ漢字ドリル登場!(小学館の快挙!2017年4月)
「子どもにとっては集中力の続かない「作業」になっ てしまいます。本書はそんな、漢字学習の構造的弱点を克服するために作られました。1年生から6年生までの、3018例文すべてに「うんこ」という言葉を 使用!」
おお、こうなれば、牽強付会に我田引水ならぬ、我本引糞(がほん・いんぷ ん)ですな〜♪ 問題?!革命サイトのポータルは《https://unkokanji.com/》 のとおりです。下記の画像も同サイトから引用されました!
◎トイレット博士
「『トイレット博士』(トイレットはかせ)は、とりいかずよしにより1970年から 1977年まで『週刊少年ジャンプ』誌上に連載された人情ギャグ漫画作品。……とりいかずよしの出世作であり代表作の一つ。単行本全30巻は、当時として は記録的な長寿連載であり、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(2016年10月に全200巻で完結)に抜かれるまで『ジャンプ』史上最長だった。部数も 1000万部を売り上げた。その一方で、過激な表現・暴力表現で物議を醸し、社会現象になり、賛否両論を得た」(ウィキペディア:「トイレット博士」)
作品解説(同上、ウィキペディア記事「トイレット博士」より)
「第1部:単行本1 - 5巻。初出は『週刊少年ジャンプ』1969年23号の「赤塚ギャグ笑待席」である。この連載は赤塚不二夫がかなりの売れっ子であったため、『ジャンプ』編 集部は週刊連載を依頼する事が出来ず、結局赤塚が一週おきに執筆して、穴埋め分は当時とりいが所属していたフジオプロ作家が持ち回りで掲載する形となった ものである。とりいは古谷三敏、長谷邦夫と交互に作品を発表。このとりいの持ち番に掲載されたのが本作であった。この連載が終了した後も、とりいは『ジャ ンプ』誌上で数回本作を読み切りの形で発表。月1回から月2 - 3回と発表頻度が増え、そのまま自動的に連載漫画となった。定期連載となってからは一度も休載していない。/序盤の徹底したスカトロジー表現は、恩師・赤 塚の「お前は顔が汚いからウンコ漫画を描け」という指示を受けてのものだったと、太田出版『愛蔵版トイレット博士』第1巻あとがき・解説に記されている。 とりいは「赤塚先生はお金のタブーを破った。永井豪は性のタブーを破ったので、僕に残されたものはうんこのタブーだと考えた」とも語っている。/主役は一 応トイレット博士だが、タメやん、うんこちゃん、ダラビチ博士などの人気サブキャラクターが続々登場した」
「第2部:単行本6 - 11巻。一郎太が登場し、主役に。うんこネタだけではアイデアが枯渇して苦しくなってしまい、方向転換で人情ギャグにした。しかし、この方向転換が逆にア ンケートの結果を飛躍的に伸ばし、とりい自身の執筆も楽になったが、その一方で主人公トイレット博士の登場回数が無くなってしまった。この事は、『ジャン プ』連載漫画のひとつの特徴として語り草となり、連載後期の作中でも何度もネタにされている。とりいも「トイレット博士はあまりにも不運な主人公であっ た」と、単行本ならびに愛蔵版にてコメントしている」
「第3部:単行本12巻 -
30巻。一郎太、中学に入学。スナミ先生が次第に主役の座へ。そして13巻でいよいよメタクソ団の結成!団員達の卒業で完結する。/週刊少年ジャンプで
「トイレット博士」がほとんど登場せず、実質題名のみとなった後は、『別冊少年ジャンプ』や『少年ジャンプ増刊号』の季刊誌にて、トイレット博士が登場す
る作品が掲載されていた。従ってこの時期のジャンプ・コミックス単行本には、『週刊少年ジャンプ』本誌に載っていた本編に季刊誌掲載分を挟んで収録されて
いる。なお、一部のジャンプ・コミックス単行本では、週刊少年ジャンプ連載の順番とは異なった順番で収録されており、前後関係に違和感がみられている」
どうして、北半球のウンコと南半球のウンコの《巻き》がちがうか?——それは「コリオリの力」のせいぢや〜♪
引用の際には著者に是非ご放屁と御一服(いえ、もとい御一報!)ください。ぶぶぶぶぶりぶりぶりりり〜♪