か ならず読んでください

未来をデザインする!

Designing Our Future in/off the Osaka University Campuses

池田光穂

「今日、デザインを支える理論はな お、デザインの色あせた社会美学の基本理念を引き 合いに出しているのだが、そうした理念が全体として俗物化の傾向にあるなかで、いまはわずかにその幽かな光が残っているにすぎない」——ゲルト・ゼレ『デ ザインのイデオロギーとユートピア』[1973]

デザイン思考はみんなのものなのに、 せこいチープな本を書いて売らんとする偽デザイナーな自称プランナーを小馬鹿にして、ブログでもウェブでもなんでもいい、情報発信しましょう!——垂水源之介

コ ミュニケーション・デザインセンターの終焉に際して(2016年6月30日 元CSCDセンター長:池田光穂)

読者におかれては、この特集において私たちのコミュニケーションデザイン・センター (CSCD)に関するさまざまな議論に触れてこられたかと思う。どのような学術上の組織にも、どのような学問領域においても、それを支える人たちの理念理 想の持ち方には一定のまとまりをもちながらも、一定の多様性が認められることは自明である。しかし極端な多様性や明らかな異端の存在は、我が国の多くの職 域においてはだ忌避されることはあれ賞賛されることはきわめて少ないものである——いわんや学問の多様性が容認されかつ精神の自由を享受している大学大学 院においてをや! 事実、現実は厳しい。しかし学問における理念や実践に多様性が失 われ、柔軟性が失われ硬直していく時、その精神の自由を享受する学園の 歴史的使命は終わるのである。自由と多様性を失った学問組織は、老兵と同様、あとは消え去るのみだ。生まれたばかりのCSCDもまた、将来 そのような状態 になった時また同じようにリストラの運命に晒されるのである。

この文章はCSCDが将来、その歴史的使命を終えて人々の記憶の中に語られるだろうとする時、 未来から現在に回顧した本センターが果たしている理念と実践について述べるものである。もちろん本文のエピグラフ(巻頭辞)のような呪詛を大阪大学や文部 科学省当局にかけるものではない。また未来において現在を懐かしむノスタルジア(郷愁)でもない。CSCDの夢は未だ実現されざるプロジェ(投企)であ り、CSCDという実在は我々の実践の痕に残されているものだからである。

はてさて本センターの効能書の口上を述べる時が来た。それはかくのごとくであろう。

現在の日本の多くの大学——当然、大阪大学もそれに含まれる——において、人間のあいだのコ ミュニケーションがうまく機能していないと言われる。そこには次のような具体的な問題があるからだ。

繰り返しになるが、CSCDがその歴史的使命を終える時、未来の大阪大学はこのような苦境をも はや過去のものとして葬っているはずである。ここで読者諸氏には、冒頭早々に大見得を切りやがって!とお叱りを受けそうだ。しかし、文句があるなら最後ま で聴け(=読め)という格言のとおり、今しばらく辛抱していただきたい。

さて、ここであげたさまざまなコミュニケーションギャップの問題解決に向けてのコペルニクス的 転回への一歩を踏み出そう。まず問題解決の階層性についてである。その場その場における刹那的で表層的な問題解決は、根底にあるより高次で構造的な問題解 決を先送りにしてしまう。かといって抜本的な解決には、組織そのもののグランドデザインから導き出される「大いなる決断」が必要だ。しかし、大阪大学のよ うに組織が複雑で、また学問の覇権のみならず、部局の利害保持に心を砕く人に、現場の理念・理想を語ってみても馬の耳に念仏である。権力の中枢に居座り、 まさに末端の組織の悲鳴が聞こえない人たちに、我々の教育現場のインターパーソナルな問題はあまりにも瑣末に映るからだ。我々には等身大の改革が必要だ。 あるいは大学の組織の抜本は、組織における草の根からの改革から始まる。

だからこそ、コミュニケーションデザインという発想が誕生するのである。コミュニケーションデ ザインとは、文字通り人間が行使する〈交通=交信=交渉〉(communication)を〈立案=設計=実践する〉(design)ことである。した がってコミュニケーションデザインという発想は、草の根的——これは根本的(radical)に通じる——で、かつ民主的なのである。この実践は、人間の 間のコミュニケーション様式の改変・改善・変革を通して、キャンパスに生きる人たちのライフスタイルを変えてみようと試みるのだ。私にとってCSCDのも くろみと存在意義は、そこにある。もちろん現在のCSCDの現員勢力では、このような問題でまとめられる具体的な諸相のすべてに応えられるわけではない。 スタッフはこの領域に高度な専門性をもっているわけでもない。にもかかわらず、このような問題に対して理論的研究かつ実践的貢献——特に大学院生への共通 教育を通して——をおこなおうという理念と情熱をCSCDの教職員の多くが共有している点で、この組織は、大阪大学——ひいては日本の大学一般——におい てもきわめてユニークな特徴をもったものであることは間違いない。大阪大学のわが同胞に対しては次のように呼びかけたい。本センターは、全学の共同利用施 設でもある。つまりCSCDが試みようとしている活動に参加するためには、専任教員、特任教員あるいは兼任教員[学外者には客員のさまざまなポストがあ る]となることで可能になる。言うなれば本学の教員であれば手続きを踏めば誰でも、この野心的で実験的な教育研究プログラムに参加できてしまうということ なのだ。

そうなるとコミュニケーションデザインに挑戦する!という標語におけるコミュニケーションと は、そもそもいったい何なのだという疑問が出てくる。たしかに19世紀中頃に実用化されるようになる電気通信技術の導入以降、人類が手にし続けてきたコ ミュニケーション技術の発達には、事後的に回顧すればするほど、まさに喫驚すべきものがある。コミュニケーション技術の肥大化とは、人間のコミュニケー ション様式の肥大化を生み出したことは間違いがない。

コミュニケーション技術の具体的な応用の歴史を、いま事後的に振り返れば、マーシャル・マク ルーハンが喝破したように人間身体感覚の拡張という性格をもっていた。しかしモールス電信機による史上初めての通信電文“what hath god wrought”[神の為せる業]のように、その技術はしばしば人間性の概念を超えたもの、あるいはそれまでにない技術革新がもたらした心理的道徳的混乱 [ないしはその可能性]として、社会的にはしばしば否定的に評価されてきた。他方、技術者は技術がもつ倫理的価値上の問題に腐心することなく開発に専心し ていた。純粋に科学思考上における問題を考える時に、世間のことは余計な雑音に過ぎなかった。大学がそのような科学者の孵卵器としての役割を果たしてきた ことは事実だ。

つまりコミュニケーション技術の発達は、人間の可能性を拡張するものなのか、それとも神への冒 涜をふくむ反人間的な歩みの始まりなのか。私たちが日々耳にするいわゆるコミュニケーション技術の発達に関する報道には、この相反する2つの憶測のどちら か一方か、あるいは双方の意見の併記——こういう意見もあるが反論もある、というふうに——がみられる。技術的科学と似てコミュニケーション技術そのもの は道徳的中立を標榜しているはずなのだが、人間社会の文化的技術として受け入れられる際には、道徳的(ムーディーズよろしく)格付けをされるということな のだろう。

しかし私がここでコミュニケーションデザインという名の下で考えたいのは、そのような技術革新 が派生的に生み出す道徳的問題ではない——糞喰らえとは言わないが、これに関してはテレビのワイドショーで評論家の先生が十分すぎるくらい面白いコメント をしているので多言は無用だろう。そうではなくて、もっと単純で社会的存在としての人間が宿命的に担っている対人的コミュニケーションのさまざまな諸相の 具体的で綿密な検討こそが、私たち大学人こそがおこなうべき使命であろう。

もちろん、世に数多あるコミュニケーションを事後的に解釈し、そこに造形的設計要素を抽出する だけでコミュニケーションデザインが完結するわけではない。そもそも人間が持ちうるコミュニケーションのあらゆる可能性を立案=設計=実践するという主張 そのものには、やはりまた一種のいかがわしさがある。2つの主張ががっぶり四つに組んでいる時に、どのような事態に対しても万事上手く調停できるというの がコミュニケーションデザインというものではないだろう。もちろん、近年のさまざまな紛争解決や交渉術に関する諸研究を通して、きちんと手続きを踏めば、 その状況に参与するプレイヤーを抽出し、それらの利害を調停し、最適な答えを導き出す論理構造を発見することは可能である——すくなくとも管見のおよぶ限 りその結果は日常生活を送る上では十分に役に立つ。しかし、コミュニケーションにおける参与者の多様なふるまいが、どれほど予測できるのかという点に関し ては、まだまだ研究の余地は残されている——私たちは自分たちが何をやっているのかまだ十分に自覚的ではないのである。

だが、この対人的コミュニケーション研究という沃野の開拓に着手した私たちの最大の発見は、世 事の解決策からコミュニケーションの根本問題まで、研究対象に極めて大きな多様性があると同時に、つねにそれらが単一の解決策を容易に拒絶することのでき る問題含みの研究領域であることだ。良好なコミュニケーションをめざす電気通信科学における最適な理想状況が、ノイズの縮減にあるとすると、それとは逆 に、社会や文化に埋め込まれた対人コミュニケーション研究においてコミュケーションの不全状態は私たちにとっては格好の研究材料であり、その存在論的意義 は多大なのである——この見解はその筋の人から見れば眉を顰めざるをえない大胆不敵な発言である。

私の主張をまとめてみよう。まず、大学という組織が、内部のみならず大学を取り囲む社会との関 係においても、情報伝達や意識の共有化という点において良好にコミュニケートしていないという厳しい現状を、まず私たちは理解しないとならない。この問題 は、私たちがコミュニケートする努力をしていないことに原因があるのではなく、良質なコミュニケーション手段を私たちが十全に活用してない。ないしは、未 知の良質なコミュニケーション手段を発見していないことに、その多くの理由があるようだ。そしてより積極的に言えば、少なくとも対人コミュニケーションに おいては、良好とは見なされていないコミュニケーションにも、また存在論的価値があるということだ。しかし、対人コミュニケーションの改善を目指していた り、またその「秘伝」をさずけるマニュアル教育をおこなっている世の中の如何なるエージェントが、コミュニケーションの不全(我々の用語でいうところの ディスコミュニケーション)の有用性を声高に主張するだろうか?——これは無謀な挑戦だろうか、私はそうは思わない。コミュニケーションデザイン・セン ターは、それらの技術開発のための思想や理念[アイディア]を大胆に提案する組織である。

   




以上、私が申し上げたことは、理想論ないしは創造的妄想にすぎないかもしれない。しかしなが ら、あらゆる実証科学に仮説検証の手続きが不可欠なように、仮説を生み出すためのクリエイティブな想像力を否定する人はいまい。人類にとっての大学の存在 意義は、人間存在の可能性を伸展させることにある。実現されていないコミュニケーションデザインに関するさまざまな試みがCSCDだけの専売特許でなくな り、それぞれの部局が横断的にこのことに協力体制ができるようになる近未来がやってくるであろう。そうでなければ大阪大学はこの世に存在する意味がないか らだ。

大阪大学のすべての学生と教職員が、今よりももっと良い大学でありたいと意識する限り、この組 織の存在意義は過去のものになっていない。我々の組織はアクチュアルな現在であり、この組織が近未来において過去の時代遅れのものになる時、この組織の理 想と実践は大阪大学の隅々に至っているはずである。


大阪大学COデザインセンターの発足に際して(大阪大学CO デザインセンター副センター長 池田光穂)

以上の説明をもって、大阪大学コミュニケーションデザイン・センターの制度的終焉に 際しての私の言葉である。

しかし、他方で、コミュニケーションデザインという概念がそこで全く葬りさられるわ けではない。しかしながら、コミュニケーションデザインは死んだわけではない。むしろ、現在では、コミュニケーションデザインの重要性はますます増大するばかりである。

したがって、私たちは新生CSCDの教育科目群の中に、コミュニケーションデザイン という概念を盛り込むことに成功した。

そして、かつてのコミュニケーションデザイン・センターが、人間の新しいコミュニ ケーションをデザインすることを目的としてさまざまな試みを大学院の高度教養教育の中で実践してきたが、それを今度は、未来のコミュニケーションを大胆に デザインし社会イノベーション(ソーシャル・イノベーション)を提案してゆくことに、我々の組織の運営の舵をそのように切ったということができる。

つまり、私たちの大阪大学COデザインセンターは、明るく・ただしい社会の「未来をデザイン」すること を是とするのである。

● Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij Announcement

リンク

文献

その他の情報

【旧版のクレジット】「コミュニケーション・デザインの未来:The Fate and Future of the Communication-Design in Osaka University Campuses」

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聖ヒエロニムス(カラヴァッジョ画)