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認知研究における「感情」の排除傾向

Some academic tendency of excluding "emotion" from cognitive science

池田光穂

情動が思考——いわゆる合理的推論——を邪魔するも のだという考え方は古くから存在します。このロジックは、アリストテレス『ニコマコス倫理学』(1139b)のなかに「魂が肯定したり否定したりすること によって、真理に到達する際の状態」の5つの説明の中にも登場します。この5つの状態とは、技術(テクネー)、学問的知識(エピステーメー)、思慮(プロ ネーシス)、知恵(ソピアー)、知性(ヌース)です。彼は、人生においてもっとも重要な活動を「友愛」(第8巻、第9巻)と「観想活動(テオリーア)」と して考えました。後者は、先の5つの状態のうち、学問的知識(エピステーメー)、知恵(ソピアー)、知性(ヌース)などが関わり、他の仕方ではありえな い、そして不変の事柄に属するものだと位置づけています。要するに、活動の中に巻き込まれ情動やストレスに苛まれることなく、冷静さの中で思考すること が、重要だと考えます。その意味においては、情動は冷静な思考すなわち観想活動を妨げるものとして排除される傾向にあります。

近代における人間の推論に関する総合科学としての 「認知科学」においても、情動の研究は長いあいだ中心的なテーマになりえませんでした。そのような状況は、ハワード・ガードナー(1987)により下記の ように記されています、

感情、文脈、文化、歴史の軽視

「認知科学者の主流はかならずしも感情か支配する領域や思考をとりまく文脈、あるいは歴史的、文化的分析に対し持っているわけではないが、実際にはこれら の要素をできるかぎり//除外しようとしている。認知科学の装いをまとえば、人類学者でさえそうするのである。これは実践上の問題であろう。もしこれら個 人的な、そして現象的な要素を考慮に入れたなら認知科学は不可能になるであろう。なにもかも説明しようとすると、結局なにも説明できないものである。ほと んどの認知科学者は、少なくとも暫定的には、これらのあいまいな概念に頼らなくても十分説明できるような問題を定め、研究しようとしているのである。/認 知主義の批判者はおもにニ通りに反応してきた。ある批判者は感情や歴史、文脈などの要因は科学ではけして説明できない、と考える。それらは本来人間的な、 あるいは美的な次元のもので、科学以外の学問や実践の領域の問題となる運命である。これらの要因は人間の経験の中心となるので、それらを除外しようとする どんな科学も、最初から失敗するよう運命づけられているというのである。一方の批判者は、これらの特徴のあるもの、あるいはすべてが人間の経験の本質であ ることを認めるが、これらが科学的説明を受け付けないとは感じていない。彼らが人間味のない認知科学に唱える異議は、これらの次元を人為的に考慮の外にお くことは誤りだ、ということである。それよりも、認知科学者は最初から着実に、思考と行動のモデルに十分これらの次元を取り込むべきだ、というのである」 (ガードナー 1987:37-38)。

「認知科学は、結局、次のいずれかの方法で、こ うした(感情、文脈、文化、歴史——引用者)要因を扱わざるをえないと思う。ひとつは、感情の認知的説明を提案すること。たとえば、感情状態を、幸福とか 残酷といった次元上での量的な値としてみる。もうひとつは、複合した説明枠を選ぶことである。そこでは、伝統的意味での認知的要因と感情的・要因との交互 作用をモデル化することになる。いずれも大事ではあるが、とてつもなく難しい仕事である。伝統的な計算論的吟味はほとんど役にたたない。/感情的、文脈 的、文化的、歴史的要因が認知的要因と、どれくらいかかわっているのかについては、研究者によって見解はかなり異なる。哲学者ドレイファス、言語学者ハリ ス、心理学者シャノン、人類学者ギアーツらの予想からすれば、こうした要因は人間の経験として非常に大事であるし、本質的でもあるので、認知的な要因より も第一義的なものとみなして当然ということになる。この考えには共感できないこともない。しかし、かならずしもこのような要素を引合に(依存)しなくと も、それ自身のことばだけで説明できる認知の中核世界も存在することは確かだと思う」(ガードナー 1987:367)。

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