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資本主義とプロテスタンティズムとヴェーバー

The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism

池田光穂

ウェーバー(マックス・ヴェーバー , Max Weber 1864-1920)の資本主義の定義は、組織的におこなわれ る金もうけで、暴力をともなわない経済的な営みをすべて資本主義とみなしていた。

さて、プロテスタンティズムが資本主義を生んだとい うのは、マックス・ウェーバーの「プロ倫」(『プロテスタンティズムの倫理と資 本主義の精神』1904年)の典型的な誤読であり、生前の今村仁司 先生(1942-2007)は、酒席にお いて僕に次のように解説していた。

ウェーバーは、プロテスタンティズムそれも禁欲的で 質素なカルビニスト派の勢力がつよいところで初期の資本主義が発生したことに疑問をもった。僕たちが、資本主義に感じる、しばしば強欲(=マルクス主義か らはブルジョアは生産手段の独占を通して「プロレタリアートに分け前を寄越さない」つまり搾取)なほどの、利潤の追求の精神と、このカルビニストの神の召 命(=お前は神からその職(=天職、ベルーフ)を与えられたのだからその仕事を真っ当に勤めあげることで神に召される)とは両立しない。マルクス由来の労 働観と資本主義の誕生と成長の説明(=資本論)に批判的だったウェーバーは、カルビニストの労働観をエートス(倫理)と捉えて、それがキリスト教の精神と 合致し、資本蓄積を可能にする労働観への「節合」したのではないかと考えた。さて、ではより「後発」の初期資本主義が発達した、米国ではどうであろうか?  資本家としての取引相手と「誠実」であることを旨としたベンジャミン・フランクリンBenjamin Franklin, 1706-1790)の職業倫理を、次にウェーバーは比較する。しかし、そこには、プロテ スタンティズムの精神というものは全く見受けられず、現在の我々の資本主義社会における人間関係の道徳が説かれているにすぎない。つまり、カルビニストの プロテスタンティズムの倫理は私たちに〈遠い経験〉であり、ベンジャミン・フランクリンの職業倫理は私たちに〈近い経験〉なのである(→「病いの語り」)。では、資本主義の発生と揺籃の時空間はどこか?カル ビニスト派の地域なのか、北米大陸なのか? 今村先生に言えば、どちらでもない。カルビニスト地域で発生した「召命」的な労働観生まれたところに、確かに 資本主義が発生したが、それはすぐに宗教抜きの資本主義の精神として独立して歩みはじめたということだ。したがって、カルビニズムと資本主義の邂逅は、歴 史になかでは「ほんの一瞬」にすぎないということだ。それゆえに、地域のエートスとは無関係に資本主義が作働することを可能した。ベンジャミン・フランク リンの職業倫理は資本主義が生んだエートスなのだ。このように、資本主義の発生に、何らかの精神性を認めることがウェーバーにとって重要なことで、離陸/ 離床した(前者はロストウ後者はポランニーか)資本主義には宗教的エートスなど必要ない。資本主義そのものがエートス=宗教なのだから。ウェーバーのこの ようなアイディアが『経済と社会』における「世界宗教の経済倫理」(1910/1911〜1916年)へと向かわしめたのだ、と。

羽入辰郎(はにゅう・たつろう)氏の『マックス・ ヴェーバーの犯罪:『倫理』論文における資料操作の詐術と『知的誠実性』の 崩壊』ミネルヴァ書房、2002年、はウェーバーにおけるドイツ語聖書の引用ベルーフ(Beruf)の概念がルターのそれからの引用ではなく、英語の訳語 のcalling がOEDの用例からとられたという指摘がおこなわれ、ウェーバーの学術的証明は破綻しているというのがその趣旨である。「おのおの主から分け与えれた分に 応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。……おのおの召されたときの身分にとど まっていなさい」(第1コリント 7:17,20)。羽入辰郎氏の著作はたしかに面白い。これに対して、ウェーバー訓詁学者の折原浩とその一派(眷族)た ちは、羽入に対してさまざまな反論を加えてきた。これを眷族たちの用語法で「羽入—折原論争」という。外野から火事の現場をみる野次馬の視点からみれば正 確な原点解釈を金科玉条とする訓詁学の伝統というコップ(=「ウェーバー産業」というコップ)の中の嵐のようにも思える。

それよりも、上の今村氏のプロ倫の読み方から判断す ると、ウェーバーはきちんとした学術的論証を通して資本主義のエートス起源(これは 明らかにマルクス主義の下部構造決定論に抗するものだろう)を「論証」 することに興味がなく、相互に無関係に思われる歴史的資料の並列とその比較から得られる、現実の人間行動と思念の(単純なマルクス主義的図式よりもはるか に洗練された)弁証法的な関係についての、純学術的な議論に没入していたのだと思われる。折原氏が、まことに学術的乞食だと思われるのは、 自分の思考を ウェーバーと重ねるような学術的修練を行わずウェーバーのテキストを聖書のように扱う一種の(疑似科学としての)神学的抗弁をおこなっているように思われ る点である。それに比べると羽入氏は、最初からウェーバーを疑ってかかる、便所の読書マニアの氏の「女房」からのアドバイスを真に受けて、本当にウェー バーの詐術を見抜いてしまった人のように思える。ただし、羽入氏にそれを可能にしたのは、彼自身が推理小説の探偵のようにウェーバーの手口をウェーバーに 同一化して解明したからにほかならない。それ以上でもそれ以下でもない。ただし、僕(池田)にとっては、ウェーバーは詐術というよりは、まさに書名のとお り、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の歴史上における1点の交錯の歴史を描きたかったという意味で、自分の学術的夢(=フィクションとしての 理論)を論証風に語った(羽入流にいうと「騙った」)のではないかと思われる。

羽入氏の業績は、ウェーバー研究の業界の中では、大 い なる嵐であっただろうが、門外漢の僕たちにとっては、単なるコップの中の嵐のエピソードにすぎない。それよりも、プロ倫は、重要なテキストとして歴史の中 に名を遺していることの 意味を考えるほうが、多少なりとも学者のライフとはなにかという意味で示唆的である。

メアリー・ダグラスとバロン・イシャウッドの著作に よる、ウェーバーの解釈では、プロテスタンティズムはカソリシズムとより明確に意識して対比させなければならない(1984:33)

説明のレベル
初期カトリック
後期プロテスタント
社会—経済のレベル
私的蓄積を非難する。個人の利益計算を阻害した 私的蓄積を容認する。個人の利益計算を推奨した
教義のレベル
善行の報いとしてのら来世での祝福をめざす
現世での恵みを行いが正当かされている印とみなす
道徳=エートスのレベル
宗教と聖職が専門化され、俗世間で生計を立てるよりも高級な営みとして 隔離される(→修道院)
聖職と俗世での生計の区分はなく、どんなふうにしてでも、暮らしを立て ていくこと、それ自体が宗教的召命とされた

● プロテスタンティズムの倫 理と資本主義の精神(訳語は、中山元による)

1.問題提起

2.禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理

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1.問題提起(I. Das Problem)

1.1 信仰と社会的な層の分化  RELIGIOUS AFFILIATION AND SOCIAL STRATIFICATION

1.2 資本主義の「精神」 THE SPIRIT OF CAPITALISM

1.3 ルターの天職の概念——研究の課題  LUTHER'S CONCEPTION OF THE CALLING

2.禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理(II. Die Berufsethik des asketischen Protestantismus)

2.1 世俗内的な禁欲の宗教的な基礎 THE RELIGIOUS FOUNDATIONS OF WORLDLY ASCETICISM

2.2 禁欲と資本主義の精神  ASCETICISM AND THE SPIRIT OF CAPITALISM

★では、資本主義の用語はだれが最初に使い始めたか?

資本主義(capitalism)という用語は誰が 使い始めたのか? カール・マルクス(Karl Marx, 1818-1883)か?どうも、マルクスやその盟友フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)ではないようだ。『資本論(Das Capital)』も第1巻は1867年にマルクスの生前に発刊されたが、この書物のもともとのタイトルは『経済学批判(1857-1858; 1858-1859)』であり、その表題は副題として残っている。第2巻は、マルクスの死後2年後の1885年に、第3巻はエンゲルスがなくなる1年前の 1894年に刊行された。実質的に2巻以降は、マルクスとエンゲルスの共著であるといってもよい。第4巻は資本論のタイトルがなく、それをまとめたカー ル・カウツキーらにより『剰余価値学説史』(1905-1910)となって20世紀になってようやく完成をみた。マルクスらが依拠したり、また批判して論 敵とした、 ルイ・ブラン(Louis Blanc, 1811-1882)が資本主義を 「ある者が他者を締め出す事による、資本の占有」の状態を1850年にその ように呼んだようだ。フランス語では資本主義は1753年には商品を所有する人の意味ですでに使われていたそうだ。ピエール・ジョゼフ・プルードン (Pierre Joseph Proudhon, 1809-1865)は、フェルナン・ブローデルの説によると資本主義の体制のもとでは労働する者は資本を持たないと説明している。『資本論』の中では、 資本家のシステムないしは、本家の生産様式などと表現されていて、彼らが批判してやまない制度を資本主義とは呼ばなかったようだ。『資本論』第2巻では、 資本主義はわずか1度だけしかでてこない(ドイツ語のウィキペディアKapitalismusよ り)。日本語のウィキペディアも、資本主義とマルクスらの関係については曖昧なままの説明に終わっている。20世紀になると、ヴェルナー・ゾンバルトが Der moderne Kapitalismus (1902) を、マックス・ウェーバーがDie protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus (1904).を書名のタイトルに採用してから、資本主義は人口に膾炙するようになるとみてもよいので資本論からはほぼ30年ちかくの歳月がかかっている ことになる。

☆クレジット:旧名クレジット:資本主義とキリスト教 →現行名:「資本主義とプロテスタンティズムとヴェーバー 」

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