折口信夫
How
1887 2月11日大阪府西成郡木津村(現:大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの四男として生まれる。
1896 大阪市南区竹屋町、育英高等小学校に入学
1899 4月大阪府第五中学校(後の天王寺中学)に入学。中学の同級生には武田祐吉(国文学者)、岩橋小弥太(国史学者)、西田直二郎などがいた
1900 夏に大和の飛鳥坐神社を一人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会う。富岡多惠子によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性。
1901 15歳になったこの年に父親から『万葉集略解』を買ってもらう。『文庫』『新小説』に投稿した短歌一首ずつが入選する。
1902 成績が下がる。暮れに自殺未遂。1903年3月自殺未遂。作歌多し。
1904 3月卒業試験にて、英会話作文・幾何・三 角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同 じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、かたくなに拒み続けたと伝えられる。
1905 天王寺中学校を卒業する。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學の予科に入学する。藤無染と同居する。この頃に約500首の短歌を詠む。
1907 國學院 1907年予科修了、本科国文科に進んだ。この時期國學院大學において国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受ける。また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りした。1910年7月國學院大學国文科を卒業する。卒業論文は「言語情調論」
1911 10月大阪府立今宮中学校の嘱託教員(国漢担当)となる。
1912 8月伊勢、熊野の旅に出た。1913年12月「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。
1914 3月今宮中学校を退職し、上京する。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという。
1916 國學院大學内に郷土研究会を創設する。この時30歳。『万葉集』全二十巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行する
1917 1月私立郁文館中学校教員となる。2月「アララギ」同人となり選歌欄を担当する。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動する。
1919 1月大學臨時代理講師となる。万葉辞典を刊行する。
1921 7~9月柳田國男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行。
1922 1月雑誌「白鳥」を創刊する。4月國學院大學教授となる。
1923 6月慶應義塾大学文学部講師となる。第2回沖縄旅行。
1924 1月亡師三矢重松の「源氏物語全講会」を遺族の勧めで再興する。後慶應義塾大学に移し没年まで続ける。またこの年には「アララギ」を去って北原白秋らと歌誌『日光』を創刊する。
1925 5月処女歌集『海やまのあひだ』を刊行
1927 6月國學院の学生らを伴い能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪う
1928 4月慶應義塾大学文学部教授となり芸能史を開講する。
1932 文学博士。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事
1935 11月大阪木津の折口家から分家。第3回沖縄旅行
1940 國學院大學学部講座に「民俗学」を新設。愛知県三沢の花祭り、長野県新野雪祭りを初めて見る
1941 8月中国へ旅し、北京にて講演。藤井春洋応召
1942 『天地に宣る』
1944 藤井春洋、硫黄島に着任。春洋を養嗣子として入籍
1945 3月大阪の生家が戦災により焼失する。大本営より藤井春洋の居る硫黄島の玉砕発表。8月15日敗戦の詔を聞くと箱根山荘に40日間籠もる。
1948 『古代感愛集』により日本芸術院賞を受賞[5]。12月第一回日本学術会議会員に選出。
1949 7月能登一ノ宮に春洋との父子墓を建立
1950 宮中御歌会選者
1953 7月初め箱根行き、健康すぐれず。8月31日衰弱進み慶應義塾大学病院に入院する。9月3日胃癌により永眠。養子として迎えた春洋(戦死)とともに、気多大社がある石川県羽咋市一ノ宮町に建立した墓に眠る。
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