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ウィリアム・フォード・ギブスン

William Ford Gibson, 1948-

解説:池田光穂

ウィリアム・フォード・ギブスン(William Ford Gibson、1948年3月17日 - )は、アメリカ合衆国サウスカロライナ州コンウェイ生まれの小説家、SF作家、随筆家。サイエンス・フィクションのサブジャンルの一つ「サイバーパンク」 の代表的な作家。ブリティッシュコロンビア大学英文科卒業。カナダ在住。1970年代後半に執筆活動を始め、初期の作品は1990年代にインターネットが 普及する以前の情報化時代において、テクノロジー、サイバネティックス、コンピューター・ネットワークが人間に与える影響(「ローライフとハイテクの組み 合わせ」[1])を探求し、図像学の作成に役立つ、ノワールで近未来の物語だった。

ギブスンは1982年の短編小説『クローム襲撃』で「広く行き渡り、相互接続されたディジタル技術」を示す「サイバースペース」という用語を作り出し、そ の後の絶賛された1984年のデビュー長編『ニューロマンサー』でその概念を広めた[2]。これらのギブスンの初期の作品は、1980年代にSF文学を 「革新」したとみなされている。

『ニューロマンサー』のストーリーをさらに2作の小説(1986年の『カウント・ゼロ』と1988年の『モナリザ・オーヴァドライヴ(英語版)』)で拡張 して「電脳」三部作を完成させたのち、ギブスンはブルース・スターリングとサイエンス・フィクションのサブジャンルの一つ、スチームパンクの重要な作品と なる1990年の歴史改変小説『ディファレンス・エンジン(英語版)』を共作した。

1990年代、ギブスンは近未来の都市環境、脱工業化社会、晩期資本主義の社会学的発展を探求した「橋」三部作を執筆した。世紀の変わり目と9/11ので きごとのあとでほぼ現代の世界を舞台にしたより現実主義的な一連の小説(2003年の『パターン・レコグニション(英語版)』、2007年の『スプーク・ カントリー(英語版)』、2010年の Zero History)を発表した。これらの作品によってはじめて主流のベストセラーリストにも載るようになった。より最近の小説 The Peripheral(2014年)と Agency(2020年)ではテクノロジーと認識可能なサイエンス・フィクションのテーマとのより明白な関係に回帰している。

1999年、ガーディアン紙(UK)はギブスンを「おそらく過去20年間で最も重要な小説家」と表現し、シドニー・モーニング・ヘラルド(オーストラリ ア)は彼をサイバーパンクの「ノワール預言者」と呼んだ[3]。ギブスンはそのキャリアを通じて、20作以上の短編小説と10作の絶賛された長編小説(1 作は共著)を書き、いくつかの主要な出版物に記事を寄稿し、パフォーマンス・アーティスト、映画製作者、ミュージシャンと幅広く協力してきた。彼の作品 は、学界、デザイン、映画、文学、音楽、サイバーカルチャー、テクノロジーなど、さまざまな分野に影響を与えていると言われている。

ウィリアム・フォード・ギブスンはサウスカロライナ州の沿岸の都市コン ウェイで生まれ幼少期のほとんどを両親が生まれ育ったアパラチアの小さな町、バージニア州ウィズビルですごした[4][5]。彼の家族は、父親が大きな建 設会社の管理職として勤務していた関係で頻繁に引っ越すことになった[6]。バージニア州ノーフォークでは、ギブスンはパインズ小学校に通学したが、教師 が読書を進めなかったために両親は落胆した[7]。ギブスンがまだ幼かったころ[注釈 1]、パインズ小学校に通い始めて一年余りが過ぎたときに[7]、父親が出張先のレストランで窒息死した[4]。ウィリアムに悪い知らせを伝えることがで きなかった母親は、誰かほかの人物に父親の死を伝えさせた[8]。トム・マドックス(英語版)はギブスンが「アメリカでJ・G・バラードがこれまで夢に見 ていたものと同じぐらい不穏でシュールなものとして育った」と述べている[9]。

損失は、アーティストにとっての奇妙な利点がないわけではありません。私が尊敬するアーティストの経歴では、大きなトラウマ的な休憩はかなり一般的です。
ウィリアム・ギブスン、ニューヨーク・タイムズのインタビュー、2007年8月19日[8]
父親の死の数日後、ギブンスと母親はノーフォークからウィズビルに帰ってきた[5][10]。

ギブスンはのちにウィズビルを「近代性がある程度到達していたが、深く不信感を抱いていた場所」と表現し、彼の「生まれながらの文学文化」であるSFとの 関係が始まったことを、その後の突然の追放感の原因としている[4]。12歳の時、ギブスンは「SF作家になること以上のものは何も望んでいなかった」 [11]。ギブスンはジョージ・ウィズ高校でバスケットに打ち込んだものの非生産的な年月を過ごし、主に自室でレコードを聞いたり、本を読んだりして過ご していた[7]。13歳の時、母親が知らないうちに、彼はビート・ジェネレーションの著作のアンソロジーを購入し、そこでアレン・ギンズバーグ、ジャッ ク・ケルアック、ウィリアム・S・バロウズの著作に触れることになった[12][13]。内気で不恰好なティーンエイジャーだったギブスンは、「非常に問 題のある」モノカルチャーの中で育ち[11]、宗教を意識的に拒否し、SFや、バロウズや、ヘンリー・ミラーなどの作家を読み漁っていた[10] [14]。ギブスンの学業成績の悪さに不満を感じた母親は、全寮制の学校に入れると彼を脅し、母親が驚いたことにギブスンは熱心に対応した[7]。夫の死 後もウィズビルに住んでいた当時、「慢性的に不安と憂鬱を抱えていた」母親は、南カリフォルニアの学校を選ぶ余裕がなかったので、ギブスンをツーソンの南 アリゾナ少年学校にギブスンを入学させた[4][5][10]。ギブスンは全寮制私立学校のシステムに憤慨していたが、のちに振り返って社会的に関与する ことを強制されたことに感謝していた[7]。SAT (大学進学適性試験)で150点満点中の148点を獲得したが、数学では150点満点中の5点しかとれず、教師たちの落胆を誘った[7]。

18歳で母親を亡くしたギブスンは[7]、学校を中退してカリフォルニ アやヨーロッパを旅したり、カウンターカルチャーに没頭したりして、長い間孤立した生活を送っていた[5][10][14]。1967年、「ベトナム戦争 の徴兵を避けるために」カナダへの移住を決意した[4][10]。徴兵の聴聞会では、ギブスンは面接官に正直に、自分の人生の意図は、存在する全ての 心を変える物質を試すことにあることを伝えた[16]。ギブスンは「文字通りに徴兵を忌避したわけではない、徴兵されても困りはしなかったから」と述べ [4]、聴聞会のあと帰宅してからトロントへのバスのチケットを購入し、1週間か2週間後に出発した[10]。ギブスンは2000年の伝記ドキュメンタ リー No Maps for These Territories の中で自身の決断は「ヒッピーの女の子と寝たい」とか「ハシシにふけりたい」という願望よりも、良心的兵役拒否によって動機付けられたと述べている [10]。ギブスンは2008年のインタビューで次のように述べている:

私が作家としてスタートしたとき、やってはいけないところで徴兵忌避のための功績を上げていた。 徴兵を回避するという漠然とした考えを持ってカナダにたどり着いたが、その後、私は決して徴兵されなかったので、電話をかける必要はなかった。 もし本当に徴兵されていたらどうしていたかわからない。 当時の僕は、きつく包装されていたわけではなかった。 もし誰かが徴兵されていたら、泣いて帰っていたかもしれない。 もちろん、それは嫌だっただろうけどね。

—ウィリアム・ギブスン、io9 のインタビュー、2008年6月10日[17]
数週間の名ばかりのホームレス生活の後、ギブスンはトロント初のヘッドショップ(英語版)のマネージャーとして雇われた[18]。ギブスンはこの街のアメ リカ人徴兵忌避者の移民グループの臨床的うつ病、自殺、筋金入りの薬物乱用の堪え難さに気が付いた[10]。1967年のサマー・オブ・ラブの最中にトロ ントのヨークビルのヒッピー・サブカルチャーについてのCBSのニュースリールに出演し、500ドル(20週間分の家賃に相当する)の支払いを受け [19]、その後の旅の資金となった[20]。ワシントンD.C.での「短期間の暴動に見舞われた期間」を除けば、ギブスンは1960年代の残りの期間を トロントで過ごし、そこでバンクーバー出身のデボラ・ジーン・トンプソンと出会い[21]、後にヨーロッパへと旅立った[4]。ギブスンは、彼らの旅は ファシスト政権と有利な為替レートのヨーロッパ諸国に集中しており、ギリシャの列島や1970年のイスタンブールでの時間を含めて[22]、彼らは「ハー ドカレンシーのようなものがあるところにはどこも滞在するような余裕がなかった」からだと説明している[23]。

二人は1972年に結婚し、ブリテッシュ・コロンビア州バンクーバーに住み着き、ギブスンが最初の子供の世話をしながら、妻の教師としての給料で生活して いた。1970年代、ギブスンは救世軍の中古品点で低価格の品物を仕入れて専門業者に卸すことで生計を立てていた。[22]。仕事をするよりも、大学でよ い成績を維持して手厚い学資補助を受ける方が簡単であることに気が付いたギブスンは[13]、ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)に入学し、 1977年に「退屈な英語の学士号」を取得した[4]。英文学を学ぶことで、他の方法では読まなかったであろう幅位広いフィクションに接し、ポストモダン 性への認識など、SF文化の中ではアクセスできないアイデアを与えてくれたとギブスンは評価している[24]。UBCではスーザン・ウッド(英語版)が教 えるSFに関する最初のコースに参加し、その最後にギブスンの最初の短編小説「ホログラム薔薇のかけら(英語版)」を書くように勧められた[6]。

ファシスト文学としてのハードSF小説をテーマに修士号の取得を検討し たギブスンは[13]、卒業翌年に執筆を中断し、ある評論家の言葉を借りれば、パンク・レコードのコレクションを増やしたという[25]。この時期、ギブ スンは母校の映画史コースの3年間務めたことなどの様々な仕事についた[6]。バンクーバーで開催された1980年か81年のSFコンヴェンションで見た ものに我慢できなくなり、同じパネリストであり、パンクミュージシャンであり作家でもあるジョン・シャーリーと意気投合した。[26]。二人はすぐに生涯 の友人となった。シャーリーはギブスンに対して、初期の短編を売り、真剣に書くようにと説得した[25][26]。

1977年、初めての子育てに直面し、「キャリア」のようなものに絶対的な情熱を持っていなかった私は、12歳の息子がSFに興味を持っていることに気が ついた。それと同時に、ニューヨークやロンドンから不気味な音が聞こえてきた。私はパンクを、10年前に社会の脇腹の奥深くに埋められていた、ゆっくりと 発射された弾丸の爆発だと考えた。そして、私は書き始めた。
ウィリアム・ギブスン、「1948年から」[4]
シャーリーを通じて、ギブスンはSF作家のブルース・スターリングやルイス・シャイナーと接触し、彼らはギブスンの作品を読んで、スターリングが言うよう にそれが「画期的な素材」であり、「我々の先入観を捨てて、バンクーバーから来たこの男を拾い上げる」必要があり、「これが前に進む道である」ことに気が 付いた[10][27]。 ギブスンは1981年の秋にコロラド州デンバーで開催されたSFコンヴェンションでスターリングと会い、4人の聴衆に向けて最初のサイバースペースの短編 小説「クローム襲撃」を朗読し、後にスターリングは「完全に理解してた」と述べている[10]。

1982年10月、ギブスンはアルマジロコン出席のためにテキサス州オースティンを訪れ、シャーリー、スターリング、シャイナーとともに "Behind the Mirroshades: A Look at Punk SF" (ミラーシェードの向こう側:パンクSF概観)と言うパネルに登壇し、このパネルでシャイナーは「ムーブメントの感覚が固まった」と指摘している [27]。ロックンロール、MTV、日本、ファッション、ドラッグ、政治について話し合った週末を終え、「新しい枢軸ができた」と冗談交じりに宣言し、幹 部たちを残してバンクーバーに向けて出発した[27]。スターリング、シャイナー、シャーリー、ギブスンはルーディ・ラッカーとともに急進的なサイバーパ ンク文学運動の中核を形成していった[28]。

ギブスンの初期の著作はサイバネティックスやサイバースペース(コン ピューター・シミュレートされた現実)技術が人類に与える影響についての近未来的な物語が中心である。ハイテクなスラム街、録音や放送による刺激(のちに 『ニューロマンサー』で大きく取り上げられた”疑験(シムスティム)”パッケージに発展)、そしてテクノロジーと人間性のディストピア的交錯をテーマにし た作品は1977年の夏に Unearth 誌に掲載された初の短編小説「ホログラム薔薇のかけら」ですでに明らかになっている[13][29]。後者のテーマへの執着は、ギブスンの友人であり、作 家仲間でもあるブルース・スターリングによって、ギブスンの短編集『クローム襲撃』の紹介文の中で、「ギブスンのローライフとハイテクの古典的なワン・ ツーの組み合わせ」と表現されている[30]。

1981年初頭[29]、ギブスンの小説は オムニ誌と Univers 11 誌に掲載され、荒涼としたフィルム・ノワールのような雰囲気を醸し出していた。ギブスンは意識的に(『ガーンズバック連続体』で表明されていた「美的な反 発」を感じていた)SFの主流からできる限り距離を起き、「マイナーなカルト的人物で、より小さなバラードのような存在になること」を最高の目標としてい た[13]。スターリングが作品を配布し始めた時、彼は「人々は本当に困惑していた……つまり、人々は文字通り彼の段落を分析することができなかった…… 彼が発明した想像力豊かな比喩は、人々の理解を超えていた」ことを見出した[10]。

ラリー・マカフェリーは、これらの初期の短編はギブスンの能力の閃きを見せたとコメントしているが、SF評論家のダーコ・スビンは、このジャンルの「最も 遠い地平」を構成する「間違いなく(サイバーパンクの)最高の作品」であると評価している[26]。ギブスンが物語の中で展開したテーマ、「クローム襲 撃」のスプロールの設定、「記憶屋ジョニー」のモリー・ミリオンズのキャラクターは、最終的に彼の最初の長編小説である『ニューロマンサー』で最高潮に達 した[26]。

『ニューロマンサー』はテリー・カーの依頼でデビュー長編のみを特集し たエース・サイエンス・フィクション・スペシャルの第二弾として刊行された。この作品を完成させるのに1年の猶予を与えられ[31]、ギブスンは、「四、 五年先のこと」だと思っていた実際の小説全体を書かなければならないことへの「盲目の動物の恐怖」を理解した[13]。ギブスンが小説の3分の1を書いた頃に公開された1982年の画期的なサイバーパンク映画『ブ レードランナー』の最初の20分を見た後、彼は「これで(『ニューロマンサー』は)終わりだと思った。誰もが、この驚くほど見栄えの良い映画から自分の視 覚的な質感を得たと思うだろう」と考えた[32]。ギブスンはこの本の最初の3分の2を12回も書き直し、読者の注目を失うことを恐れ、出版後は「永遠に 恥を書くことになる」と確信していたが、新人作家としての想像力の飛躍だった[13]

『ニューロマンサー』の出版はファンファーレでは迎えられなかったが、文化的な神経を刺激し[33]、あっという間にアンダーグラウンドな口コミでヒット した[26]。ネビュラ賞とヒューゴー賞の両方でその年の最優秀小説として、最優秀のペーパーバックオリジナル作品として[34]フィリップ・K・ディッ ク賞のSFの「三冠」を初めて受賞し[13]、最終的に全世界で650万部以上を売り上げた[35]。

ローレンス・パーソンは、1998年に発表した「ポストサイバーパンク 宣言に向けてのノート」の中で、『ニューロマンサー』を「典型的なサイバーパンク作品」と評価し[36]、2005年にはタイム誌の「1923年以降に書 かれた英語小説のベスト100」にも選出され、「(『ニューロマンサー』が)登場した当時、どれほど過激な作品であったかを語ることはできない」と評して いる[37]。文芸評論家のラリー・マカフェリー(英語版)は、『ニューロマンサー』に登場するマトリックスの概念を、「データが人間の意識と踊り……人 間の記憶が文字化され、機械化され、多国籍の情報システムが突然変異し、繁殖し、想像を絶する美しさと複雑さを持つ、神秘的で、何よりも人間ではない、驚 くべき新しい構造体へと変化していく場所」と表現している[13]。ギブスンは後に『ニューロマンサー』の頃の自分自身について、「彼に一杯おごってあげ ようかな、でもお金を貸してあげようかな」とコメントし、この小説を「思春期の本」と表現している[10]。『ニューロマンサー』の成功は、35歳のギブ スンの無名からの脱却に影響を与えることになった[38]

●「電脳」三部作、『ディファレンス・エンジン』、そして「橋」三部作

ギブスンの評価の多くはいまだに『ニューロマンサー』に基づいているが、彼の作品はコンセプト的にも、スタイル的にも進化しつづている[39]。彼は次に The Log of the Mustang Sally と題した無関係なポストモダンなスペースオペラを書こうとしたが、ハードカバーの『カウント・ゼロ』のカバーアートについての不破のあとでアーバーハウス との契約が守られなかった[40]。The Log of the Mustang Sally を断念したギブスンは、代わりにラリー・マカフェリーの言葉を借りればサイバーパンク文学の「灯りを消した」作品である『モナリザ・オーヴァドライヴ』 (1988年)を執筆した[13][26]。これは前の2作と共同の登場人物が登場する同じ宇宙を舞台にした集大成であり、この作品で「電脳」三部作を完 成させた。この3部作はギブスンの名声を確固たるものにし[41]、2作目と3作目もネビュラ賞、ヒューゴー賞、ローカスSF賞にノミネートされた [42][43][44]。

「電脳」三部作に続いてブルース・スターリングと共同執筆した1990年の歴史改変小説『ディファレンス・エンジン』が発表された。テクノロジーが発達し たヴィクトリア朝のイギリスを舞台にしたこの小説は、著者のサイバーパンクのルーツとは一線を画すものであった。この小説は1991年のネビュラ賞 長編小説部門に、1992年にはジョン・W・キャンベル記念賞にノミネートされ、この成功がスチームパンクと言う新しい文学のジャンルに注目を集め、現在 まで最も有名な作品となっている[45][46]。

ギブスンの2番目のシリーズである「橋」三部作は「ダークでコミカルな都市探偵物語」である[47]、『ヴァーチャル・ライト(英語版)』(1993 年)、『あいどる(英語版)』(1996年)、『フューチャーマチック(英語版)』(1999年)から構成されている。三部作の1作目と3作目は、近未来 のサンフランシスコを舞台にしており、3作ともギブスンが繰り返す技術的、物理的、精神的な超越というテーマを、最初の三部作よりも地に足をつけた、事実 に即したスタイルで探求している[48]。Salon.comのアンドリュー・レナード(英語版)は「橋」三部作では、ギブスンの悪役は「電脳」三部作の 多国籍企業やタブロイドテレビや有名人のカルトといいったものに変化していると指摘している[49]。あるレビュアーによると『ヴァーチャル・ライト』は 「私企業と利益への動機が論理的な結論に至る末期の資本主義を描いている」とのことである[50]。資本主義の自然な進化としてマスメディアに関するこの 議論はシチュエーション主義の代表作『スペクタクルの社会』の冒頭のセリフである。レナードの書評では『あいどる』はギブスンの「形への回帰」と呼ばれ [51]、評論家のスティーヴン・プール(英語版)は『フューチャーマチック』がギブスンの「SFの名手から近未来の気の利いた社会学者への発展」を示し たと主張している[52]。

『フューチャーマチック』の後、ギブスンは「ごく最近の過去のスペキュ レイティヴ・フィクション」という継続的な物語を用いて、より現実的な書き方を採用し始めた[53]。SF評論家のジョン・クルートはこのアプローチを、 伝統的なSFは「一貫した【今】から続く世界では」もはや不可能であるというギブスンの認識と解釈し、「新世紀のSF」として特徴付けている[54]。ギ ブスンの小説『パターン・リコグニション』(2003年)、『スプーク・カントリー』(2007年)、『ゼロ・ヒストリー』(2010年)は、同じ現代の 宇宙を舞台にしており、「多かれ少なかれ我々が今生きているものと同じものであり[55]、ギブスンの作品を初めて主流のベストセラーリストに登場させた [56]。設定だけでなく、これらの小説には、謎のマーケティング会社『ブルー・アント』の従業員であるヒューバータス・ビッグエンドやパメラ・メイン ウェアリングなど、同じ登場人物が登場している。

ギブスンはツイッターでこのシリーズの小説を何と呼ぶべきか(「ビッグエンド・トリロジー?ブルー・アント・サイクル?何?」)と尋ねられたとき、「私は 『本』が好きだ。ビッグエンドの本」と答えた[57]。しかしながら「ビッグエンド」ではなく「ブルー・アント」が標準的な呼び名となっている[58] [59]。後日、ギブスンは自分の三部作に名前を付けず、「人々がなんと呼ぶかを待つ」と明言しており[60]、2016年にはツイートで 「ブルー・アント・ブックス」を使っている[61]。

この時代に特有の現象としては PR-Otaku と Node Magazine という、それぞれ『パターン・レコグニション』と『スプーク・カントリー』に特化した、注釈付きファンサイトが独立して開設されたことである[62]。 これらのウェブサイトはGoogleやウィキペディアのようなオンラインリソースを介して小説の参照や、ストーリーの要素を追跡し、その結果を照合して本 質的に小説のハイパーテキスト版を作成した [63]。 評論家のジョン・サザーランド(英語版)はこの現象を「文学評論が行われている方法を完全に覆す」脅威として特徴付けた [64]。

『パターン・レコグニション』の100ページほどを書いた時に起きた 2001年9月11日の同時多発テロのあと、主人公のバックストーリーが突如不可解なものになってしまったので書き直さなければならなくなり、彼はこのこ とを「これまでに小説を書いてきた中で、もっとも奇妙な経験」と呼んだ[65]。この事件を歴史の結節点であり、「文化の外での経験」であり[66]、 「ある意味では……21世紀の真の始まり」であると考えている[67]。ギブスンはこの襲撃事件を自身の執筆に役立てた最初の小説家の一人として知られて いる[15]。911以降のアメリカにおける文化の変化についての考察は、部族主義の復活や「社会の幼児化」など[68][69]、ギブスンの作品の主要 なテーマとなった[70]。それにも関わらず、彼の著作の焦点は「パラノイアとテクノロジーの交差点にある」ことに変わりはない[71]。

ギブスンの新しいシリーズの小説の第一弾 The Peripheral が2014年10月28日に出版された[72]。2013年4月19日にニューヨーク公立図書館でのイベントに出演し、この小説について簡単に説明し、 "The Gone Hpatics" と題された第1章からの抜粋を朗読した[73]。物語の舞台は30年ほど先の未来と、さらに先の未来の2つの時代である[74]。

続編の Agency は当初発表されていた2018年12月の出版予定から遅れて、2020年1月21日に出版された[75]。ギブスンはニューヨー誌の記事で、トランプ氏の 当選とケンブリッジ・アナリティカをめぐる論争の両方が文章の再考と修正の原因になったと述べている[76]。

2020年7月17日、ギブスンは「3作目で最終巻の仮タイトル:Jackpot」とツイートした[77]。

2017年、The Peripheral と Agency の間に、ギブスンのコミック/グラフィック・ノベルの Archangel が出版された。Archangel と The Peripheral のどちらにも(ある種の)タイムトラベルを含んでいるが、ギブスンは二つの作品が関連していないことを明らかにしている:「二つは【同じ世界】ではない。 スプリッターとトランスコンテュニアル・バーチャリティは別のメカニズム(プロットのメカニズムも異なる)だ。」[78] この翌年、ダークホースコミックスはジョニー・クリスマスによるギブスンの『エイリアン3』の脚本のコミック化作品を5部に分けて出版を開始し[79]、 2019年にハードカバーのコレクションとして出版した[80]。

ギブスンの散文は多くの学者によって分析されており、その中には 2011年に出版された専門書 William Gibson: A Literary Companion もある[119]。ギブスンは、1999年にガーディアン紙のスティーヴン・プールから「過去20年間で最も重要な小説家」と評された影響力のある作家で あり[52]、デビュー長編『ニューロマンサー』で、初めて評論家の間で評価された。この小説は3つの主要なSF賞(ネビュラ賞、フィリップ・K・ディッ ク賞、ヒューゴー賞)を受賞し、Mail & Guardian紙では「ゴンクール賞、ブッカー賞、ピューリッツァー賞を同じ年に受賞したSF作家の版」と評される前代未聞の快挙を成し遂げた [50]。『ニューロマンサー』は「1980年代後半の生活の喚起」として[120]、SF以外では前代未聞の批評家や人気者の注目を集めたが[13]、 オブザーバー紙は「ニューヨーク・タイムズ紙がこの小説に言及するのに10年もかかった」と指摘している[5]。

ギブスンの作品はローラ・ミラーの言葉を借りれば[121]、「読者は、幻想的で、しばしば完全に偏執的なシナリオの中に、現代生活の驚くほど予言的な反 映を見つけた」というように、SFファンに限らず、国際的に注目されている[6]。この作品はしばしは評論家によって脱工業化主義の文脈の中に位置付けら れ、学者のデヴィッド・ブルンデによれば「既存の大規模なテクノ社会関係の鏡」の構築物であり[122]、ポストモダンの消費文化の物語版であるという [123]。晩期資本主義の描写と[122]、「テクノロジーによって新たに問題化された主観性、人間の意識、行動の書き換え」について、評論家から賞賛 されている[123]。タティアーニ・ラパヅィコウ(Tatiani Rapatzikou)は The Literary Encyclopedia にギブスンを、「北米で最も高く評価されているSF作家の一人」と書いている[6]。

ギ ブスンは初期の短編小説において、当時広く「取るに足らない」と考えられていたSFというジャンルを効果的に「刷新」し、[6] ポストモダン的な美学によってSF研究の新たな視点の発展に影響を与えたと、ラパヅィコウは The Literary Encyclopedia の中で評価している[33]。映像作家のマリアンヌ・トレンチの言葉を借りれば、ギブスンのビジョンは「現実世界に火花を散らす」、「人々の考え方や話し 方を決定づけた」と、SF文学では前例のないほどのものであった[125]。1984年に出版された『ニューロマンサー』は文化的な神経を刺激し [33]、ラリー・マキャフリーはギブスンを「ムーブメント全体を独創的で才能あると思わせる唯一の作家」として[13]、事実上サイバーパンク・ムーブ メントを立ち上げたと称賛している[26][注釈 2]。サイバーパンクやスチームパンク小説での中心的な重要性はさておき、ギブスンの架空の作品は宇宙史家のドウェイン・A・デイ(英語版)によって、宇 宙を舞台にしたSF(または「ソーラーSF」)の最高の例のいくつかとして歓迎されており、「おそらく、単なる逃避主義を超えて真に示唆に富む唯一の作 品」とされている[126]。


ギブスン(左)はサイバーパンクや[124]、『スピーク・カントリー』の執筆中に技術的なアドバイスを受けた[127]コリイ・ドクトロウ(右)などの ポストサイバーパンク作家に影響を与えた[128]。
オブザーバー紙によれば、ギブスンの初期の小説は「一種のロードマップとして、新興のスラッカーおよびハッカー文化世代に受け入れられた」[5]。彼の小 説を通して「サイバースペース」、「ネットサーフィン」、「侵入対抗電子機器(英語版)」、「ジャック・イン」、「神経インプラント(英語版)」などの用 語がネット意識、仮想のやり取りおよび「ザ・マトリックス」などの概念と同様に一般的に使われるようになった[129]。「クローム襲撃」でギブスンはコ ンピューター・ネットワークの「大規模な合意による幻覚」を指す「サイバースペース」という用語を作り出した[注釈 3][130][131]。『ニューロマンサー』での使用を通じて、この用語は1990年代にWorld Wide Webの事実上の用語になるほどの認識を得た[132]。芸術家のダイク・ブレア(英語版)はギブスンの「簡潔で説明的なフレーズはエンジニアリングでは なく、テクノロジーを取り巻くムードを捉えている」とコメントしている[133]。

ギブスンの作品は何組かの人気ミュージシャンに影響を与え、彼のフィクションはスチュアート・ハム[注釈 4]、ビリー・アイドル[注釈 5]、ウォーレン・ジヴォン[注釈 6]、デルトロン3030(英語版)、ストレイライト・ラン(英語版)(このバンド名は『ニューロマンサー』に由来する)[137]、ソニック・ユースら に参照されている。U2のアルバム『ZOOROPA』は『ニューロマンサー』から非常に影響を受けており[41]、ある時、バンドのコンサートツアーで 『ニューロマンサー』の文章をスクロール表示することを計画していたが、最終的には実現しなかった。しかしながら、U2のメンバーは『ニューロマンサー』 のオーディオブックにバックグラウンドミュージックを提供し、ギブスンの伝記ドキュメンタリー No Maps for These Territories にも出演した[138]。ギブスンは2005年にWIRED誌にバンドのヴァーティゴ・ツアーの記事を書いて恩返しした[139]。バンド en:ZeromanceZeromancer は『ニューロマンサー』からバンド名をとっている[140]。

映画『マトリックス』(1999年)は、電脳三部作のタイトル、キャラクター、ストーリー要素からインスピレーションを得ている[141]。『マトリック ス』のネオとトリニティーのキャラクターはボビー・ニューマーク(『カウント・ゼロ』)とモリー(「記憶屋ジョニー」、『ニューロマンサー』)に似ている [94]。ギブスンの『カウント・ゼロ』の主人公であるターナーのように、マトリックスのキャラクターは(それぞれヘリコプターを飛ばし、「カンフーを知 る」ために)指示を頭に直接ダウンロードし、『ニューロマンサー』と『マトリックス』のどちらにも、人間による制御から自分自身を解放しようとする人工知 能が登場する[94]。評論家は、『ニューロマンサー』と映画の撮影技法およびトーンとの間に著しい類似点があることを認めている[142]。ギブスン は、はじめは映画を見ることを避けていたにもかかわらず[10]、後に「間違いなく究極の『サイバーパンク』アーティファクト」と表現した[143]。 2008年にギブスンはサイモンフレイザー大学とコースタル・カロライナ大学から名誉博士号を授与された[144]。同年、彼は親友であり協力者でもある ジャック・ウォマックをプレゼンターとして、サイエンスフィクションの殿堂入りを果たした[145]。



『ニュー ロマンサー』の中で、ギブスンは1970年代のコンピュータネットワークから1980年代初頭に初期のインターネットが形成されてから2年後に視覚化され たインターネットを示すために最初に「マトリックス」という用語を使用した[147][148][149]。ギブスンはそれによってWorld Wide Webの起源の何年も前に世界的な通信ネットワークを想像していたが[39]、関連する概念はそれ以前にもSF作家を含む他の人によって想像されていた [注釈 7][注釈 2]。「クローム襲撃」を書いたとき、ギブスンは「自動車の遍在が物事を変えたのと同じように、[インターネット]が物事を変えるだろうという予感を持っ ていた」[10]。1995年に、ギブスンインターネットの出現、進化、成長を「今世紀で最も魅力的で前例のない人間の業績の1つ」と特定し、これは重要 性の点で、都市の誕生と同等の新しい種類の文明であり[85]、そして2000年にそれが国民国家の死につながるだろうと予測した[10]。


観測筋はギブスンはインターネットが主流に受け入れられるずっと前に、情報化時代の図像を作成したことで広く知られていることから、Webの開発に対する ギブスンの影響は予測を超えたと主張している[16]。ギブスンは『ニューロマンサー』で「自作自演」の概念を紹介し、バーチャルセックス(英語版)の現 象を(参加型ではなく概念的に)発明したと信じられている[153]。デスクトップ環境のデジタルアートの初期のパイオニアへの彼の影響は認められており [154]、パーソンズ美術大学から名誉博士号を授与されている[155]。スティーブン・プールは「電脳」三部作の執筆において、ギブスンが「ビデオ ゲームとWebにおける仮想環境の爆発的な現実世界の成長のための概念的基盤」を築いたと主張している[52]。2000年の『ニューロマンサー』の再発 行のあとがきで、著者仲間であるジャック・ウォマックは、1984年に『ニューロマンサー』が出版された後、ギブスンのサイバースペースのビジョンがイン ターネット(特にWeb)の発展に影響を与えた可能性があることを示唆し、「それを書き留めるという行為が実際にそれをもたらしたのなら?」と問いかけて いる[156]。

ギブスン研究者のタティアーニ・G・ラパヅィコウは、Gothic Motifs in the Fiction of William Gibson の中でサイバースペースの概念の起源について次のようにコメントしている:

端末イメージの独特の表現によって生成され、サイバースペース・マト リックスの生成で提示されたギブスンのビジョンは、10代の若者がアーケードゲームで遊んでいるのを見たときに思い浮かんだ。彼らの姿勢の肉体的な強さ と、これらのゲームによって投影された端末空間の現実的な解釈(画面の後に実際の空間があるように)は、それ自体の表現による現実の操作を明らかにした [157]。

ギブスンは、自身の「電脳」および「橋」三部作によって、都市の社会構造の概念について情報化時代の前兆を探求した、数少ない 観測者の一人とみなされている[158]。とは言うものの、ギブスンのビジョンに対するすべての反応が肯定的と言うわけではなく、バーチャルリアリティの 先駆者であるマーク・ペシ(英語版)はギブスンの多大な影響と、ハッカーコミュニティの方向性にこれほど雄弁かつ感情的な影響を他にいないことを認めつつ も[159]、「暴力と非実体化の思春期のファンタジーとしてこれらを退けた[160]。『パターン・レコグニション』のプロットは、インターネット上の さまざまな場所に匿名で投稿された映画の断片を中心に展開する。小説の登場人物は、2006年のロンリーガールフィフティーン現象を予想して、いくつかの Webサイトで映画製作者のアイデンティティ、動機、方法、インプイレーションについて推測しているしかしながら、ギブスンは後にロンリーガールフィフ ティーンの製作者たちが自作に影響されたという考え方を否定している[161]。ギブスンが予想するもう1つの現象は、COPSの風刺的な外挿バージョン を特徴とする『ヴァーチャル・ライト』のようなリアリティ番組の台頭である[24][162]。

先見の明のある作家で大丈夫です。預言者というのは真実ではありません。1991年に初めてブルース・スターリングに会ったとき、すぐにブルース・スター リングが好きになった理由の1つです。[原文のまま]私たちは握手をして、彼は「我々は素晴らしい仕事をした。我々は山師になる必要があり、それに対して 報酬が支払われる。我々はこれをたわごとにし、人々はそれを信じている」と言いました。

2008年3月のActuSfとのインタビューでのギブソン[69]

1988年にとあるインタビュワーがギブスンの著作の中のBBSの隠語について訪ねたとき、ギブスンは「『ニューロマンサー』を書いた時にはそれほどPC に触れていなかった」と答えたが、BBSのコミュニティとも重複するサイエンスフィクションのコミュニティには精通しているとも同様に、小説の中には登場 するが、コンピューターゲームで遊んでもいなかった[163]。ギブスンは『ニューロマンサー』を、ギブスンいわく「ヘミングウェイが野外で使用したであ ろう種類」の1927年製でオリーブ・グリーンのエルメス・ポータブル・タイプライターで書いた[50] [163][注釈 8]。1988年までに、ギブスンは執筆にApple IIcとAppleWorksをモデム(「私は本当に何も使っていません」)とともにを使用していたが[163]、通信することで執筆から気をそらされる のを避けたいと言う理由から、1996年になるまでは電子メールアドレスを持っていなかった[85]。ギブスンが初めてWebサイトにアクセスしたのは、 『あいどる』執筆中にWeb開発者がギブスンのためにサイト構築したときだった[164]。2007年に「2005年のPowerBook G4、ギガのメモリー、ワイヤレスルーターを持っている。それだけ。私は一般的にはアーリーアダプターではない。実際、私はコンピューター自体にあまり興 味を持ったことはない。コンピューターを見ないで、人々がその周りでどのように振る舞うのかを見ている。すべてのものが「その周り」にあるので、そうする のはますます難しくなっている」と語っている[55]。



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