かならずよんで ね!

存在論〈対〉唯名論

Ceci n'est pas Doraemon

池田光穂

ルネ・マグリットの絵画「これはパイプではない」 (1929年)の、フーコーによる謎解きである。さて、絵画は、表象=再現=模倣というラインで表現できる。しかし、西洋絵画では、印象派の登場以降、こ んな単純な理解をする者はいなくなる。絵画の作成性、絵画という商品と市場価値、市場の存在と流通過程、そして絵画を所有するプチブルジョア (petitbourgeois)の消費=所蔵者の存在、それらが、絵画(ひいては芸術品)という記号に大きな変化と多様性をもたらした。

表象としての絵画から離陸(takeoff)におお いなる貢献をしたのが、シュールレアリズム運動である。マグリットの絵画も、そのような流れに位置付けられる。マグリットの遊び心は、パイプの絵を大描き して「これはパイプではない」と説明を伏したことだ。この説明の部分は、絵画ないしは絵画の一部だろうか?それとも、説明なのだろか?もし、説明なら「こ れは絵画なんだから、パイプの絵ではない」という常識の確認なのだろうか、いやいや、シュールレアリズムの大家のマグリットのことだから、そんな単純なこ とはないはずだ、我々の想像は広がるばかりである。

フーコーの解釈の、種明かしを先にしておくと、これ は「絵画という表象システム」と「文字による表象システム」の併置があるが、この絵画を訳知り顔で、講釈する人は、この2つの全く異なった、表象システム を、あたかも、表象システムとして同一のカテゴリーとして取り扱い、それらの関係について、みんな好き勝手な議論を始めるということなのだ。したがって、 これは、私に言わせれば世界ではじめて「鑑賞者を巻き込む議論参加型絵画」なのだ。したがって、フーコーの秀逸なエッセー「これはパイプではない」は、マ グリットの絵画にひっぱられた、フーコーの表象システムの講釈であり、マグリットの「意図」などどうでもいいし、マグリットが、この絵画がちょっとした、 センセーショナルを引き起こして、さまざまな美術評論家が彼に質問したり、マグリット自身がそれに応えたり/応えなかったり/はぐらかしたりしても、この 絵画の議論生産は拡大する一方で、絶対に議論に収束はないし、また、収束などあってはならないのだ。なぜなら、この絵画こそが、世界ではじめて「鑑賞者を 巻き込む議論参加型絵画」だからである。

あるいは、私が、(フーコーの議論を受けて)絵画と 言語という2つの表象のシステムが単に併置されており、絵画は、そこに何の関連性を持たしていない。あるいは、関連づけることで、議論が生産される人間 ——ないしは近代人——の性質(さが)を知る「思想のリトマス試験紙」なのだ、と言っても、多くの人は議論をやめないだろう。フーコーの議論について、ア マゾンのブックレビューは、サイコーとサイテーの評価の二極分化しているが、サイコーな評価は、フーコーの(知ってしまえばそれほどではないがそれでもな お)斬新な解釈に賛美し、サイテーの評価を与えている(バカと断定したいが)書評子は「俺はなんでも知っている」という自惚れ屋にすぎないのである。

最初の作品は、たしか 1926 年のものである。一本のパイプが丹念に描かれている。その下 には(整って、几帳面で、もっともらしい書体、小学生の練習帳の上の方に、あるいは物の 名を教える授業の後の黒板に、お手本として見出されるような寄宿女学校風な書体で手書き された)こういう説明がある。「これはパイプではない。」 また別の作品―たぶんシリーズの最後のものだと思われる―は、『対蹠点では夜明け』の中 に見出される。同じパイプ、同じ言葉、同じ書体。だが限定も特定化もされていない無差別 な一空間の中に並列される代りに、文と図像は額縁の内部に置かれている。この額縁は画架 の上に載っており、そして、今度はこの画架も床のはっきり見える破目板の上に載っている。 その上方には、画架の上の絵に描かれているのとまったくそっくりな、だがはるかに大きな パイプが。フーコー(1986)pp.9-10

カリグラムはまず文と図像とをたがいに最も近くまで接近させ、物の形を限っている線を、 継起する文字をつらねた行となんとか一致させ、言表を図像の空間に宿らせ、画が表象して いるものを文をして言わしめる。フーコー(1986)pp.21-22.

形態の方はどうかといえば、文字と空間との共犯関係のせいでいっときそこから引き下ろさ れていた天空へと再び舞い上る。言説による一切の拘束から自由になって、それはあらため てその生まれながらの沈黙のうちに浮遊することができよう。フーコー(1986)p.26.

第一の原理は、造形的表象=再現(類似を前提する)と言語的対象指示(類似を排除する) との分離を確立する。類似によって人の目に示し、差異を通じて語るというわけだ。その結 果、二つのシステムは交叉することも融合することもあり得ない。何らかの仕方で、従属関 係がなければならないのである。フーコー(1986)pp.47-48.

第二の原理は、似ているという事実と、そこに表象=再現のつながりがあるということの肯 定=断言とのあいだの等価性を定立する。 或る図像が或る物(ないしは何かしら別の図像) に似ているということ、ただもうそれだけで絵画のうちに、「あなたが見ているのは何なに である」という自明で月並な、千度も反復されながらほとんど常に沈黙を守っている言表[…] が忍び込むには十分なのである。フーコー(1986)p.51.

カリグラムは、示すことと名指すこと、象ることと言うこと、再現することと分節すること、 模倣することと意味すること、見ることと読むことといった、われわれのアルファベット文 明の最も古くからある対立を遊戯的に抹消しようとするのである。フーコー(1986)p.23.

※引用は、正置友子(2018)より

さて、先に、絵画と言語という2つの表象のシステム が単に併置されていると書いた。それでは、それらは何を表象しているのだろうか?それは絵画と文字(フランス語だが日本語の翻訳をつけるとわかるはずだ) をみたり、読んだりすればわかるはずである。絵画は、パイプという存在物を、そして、文字は、「〜である/〜ではない」という「〜」という名辞(=名詞と も言う)がさししめす実体に関わることがらである。前者は、視覚を通して、あるものがある(=存在している)と感じ、後者は、これは〜である/〜ではな い、といわれると、その事物につけられた名前が存在物と合致している/していない、という事物に名付けられた事柄について、我々は抽象的に理解しているこ とがわかる。

つまり、哲学の議論では、前者は存在論、後者は、唯 名論という2つの思想を表現している。存在論と聞けば、現在では、マルチン・ハイデガーの議論がよくしられているが、ハイデガーは、事物が存在しているこ と(=存在的)と、存在していることに関する事柄(=存在論的)を区分せよと言った。つまり、Aがある、Bがある、……という議論の流れと、(概念や実体 そのものが)存在している/可能である/不可能であるという議論の流れを峻別しないと、我々はつねに堂々巡りしてしまう。そして、存在論の議論を突き詰め れば(あるいはちょっと真剣に考えてみれば)誰にとって、何の存在が問題(=課題)になっているのか?ということを解明しないかぎり、前に進まないことが わかるはずだ(→マルチン・ハイデ ガー『存在と時間』

さて、唯名論とは、「個物を超越した普遍、本質、形 相といったものではなく個物のみが存在するものであり、普遍は人間の心が個物を抽象して生み出したものであって心に外在する存在ではないという立場」のこ とである(→オッカムのウィリアム)。この議論は、存在に関する議論では、Aがあ る、Bがある、……という議論の流れに属するが、特に重要なのは、それに名辞が与えられていることである。物事の存在の根拠は、具象として名辞があるか ら、確実になるのであり、それは「個物を超越した普遍、本質、形相といったもの」ではない。唯名論的な思想における、重要なことは、言葉を経験的に積み上 げて確固とすることであり、抽象的で高尚なものに言葉を与えることではない。したがって、唯名論の議論の系譜にあたる思想家の多くは経験論者である。

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