はじめによんでね!

美術学術収集と帝国主義

Art Collecting and Imperialism, Academic Exploration and Imperialism

如来立像(日本國重要文化財)大倉集古館の正面玄関に展示されている中国北魏時代(5世紀~6世紀)の巨大な如来立像。河北省涿県から出土と言われる。裏側の光背部分にも無数の仏像が彫り込まれている。入手経路についての説明はない(出典:https://intojapanwaraku.com/art/36934/)。

池田光穂

日本初の私立美術館
大倉集古館は明治から大正時代にかけて活躍し た実業家・大倉喜八郎(1837〜1928)が大正6年(1917)に設立した日本で最初の財団法人の私立美術館です。 喜八郎が生涯をかけて蒐集した日本・東洋各地域の古美術品と、跡を継いだ嫡子喜七郎(1882~1963)が蒐集した日本の近代絵画などを中心として、国 宝3件、重要文化財13件及び重要美術品44件を含む美術品約2500件を収蔵しています。

大倉集古館の沿革
大倉喜八郎は明治維新以来、産業の振 興、貿易の発展に力を尽くし、育英・慈善事業に多く功績を残しました。一方文化財の海外流出を嘆いてその保護とわが国文化の向上に努め、古美術の蒐集を始 めました。そして明治35年(1902)に赤坂自邸内に大倉美術館を建て、訪問客の観覧に供しました。その後、大正6年(1917)8月、50余年にわ たって蒐集した多数の文化財、土地、建物及び維持基金を寄付し、財団法人大倉集古館が誕生しました。わが国では最初の私立美術館です。 しかし大正12年(1923)の関東大震災により、当初の建物と陳列中の所蔵品を失いました。幸い倉庫は無事であったため、残された作品を基本とし、伊東 忠太博士の設計による耐震耐火の陳列館を建築し、昭和3年(1928)10月再開館し、その後所蔵品も増加して復興の成果を挙げました。 さらに嫡子喜七郎(1882〜1963)が父の遺志を継いで、館の維持経営を支援し、自ら多年蒐集した名品、特に近代絵画多数を寄付することで館蔵品の充 実を図りました。 第二次世界大戦に際しては幸いにも空襲の難を免れました。昭和35年(1960)に財団法人大倉文化財団と改称し、平成23年(2011)には公益財団法 人大倉文化財団として現在に至っております。

大倉集古館と伊東忠太博士
大倉集古館は大正12年(1923)の 関東大震災により当初の建物を焼失した後、新たな展示館の建築設計を東京帝国大学教授・伊東忠太博士に依頼し、昭和2年(1927)に竣工、翌年には再開 館を果たしました。当時は現在の展示館から長い回廊が続き、途中の六角堂を経て外門に至る壮大な造りとなっていました。 幸いにも第二次世界大戦の戦禍を免れ、昭和30年代には隣接するホテルオークラの建設に伴い建物が整理され、同37年(1962)に第一次の大規模な改修 工事を行いました。中国古典様式の名作である展示室は、平成2年(1990)には東京都の歴史的建造物に選定されます。次いで平成9年(1997)には内 壁や展示ケースを中心とした第二次の改修工事を行い、翌年には国の登録有形文化財になりました。さらに平成26年(2014)から約5年半をかけて地下の 増築を含む改修工事を行い、令和元年(2019)9月、The Okura Tokyo とともにリニューアルオープンいたしました。 建築設計を担当した伊東忠太博士(1867~1954)は、日本近代を代表する建築家・建築史家であり、主な作品には平安神宮、兼松講堂、大倉集古館、祇 園閣、靖国神社神門、築地本願寺、湯島聖堂などがあります。日本建築史を開拓、体系化し、一方で国内の神社・仏閣の保存・修理の方向性を定めるなどの業績 を遺しました。近代日本が歩んだ国家的建築事業の象徴的な存在とも位置づけられ、近年になって再評価の気運も高まりつつあります。 自ら建築進化主義と名付けた独創的な歴史観は、有名な「法隆寺建築論」で法隆寺建築の源流をギリシア文明に関連付けるなど、日本建築を国土に固定したもの と限定せず、世界の文明の流れとの関係性の中で理解しようとするものでした。 また、中国、インド、ミャンマー、エジプト、トルコ、欧米を歴遊して建築や文化を調査し、そこから着想を得た建築構成や意匠を自らの設計作品に取り入れま した。特に、故郷山形で幼少期に親しんだ妖怪たちや東西の空想上の動物たちを写したモティーフは、その独特な建築空間に一層不思議な雰囲気を付け加えてい ます。大倉集古館の建物の中にも、屋根の上や展示室2階の斗栱(ときょう)と呼ばれる軒を支える柱の上部に、吻(ふん)とよばれる幻獣、階段親柱には獅 子、2階天井には龍の姿がみられます

大倉喜八郎(1837~1928)
大倉喜八郎は天保8年(1837)9月 24日、越後国新発田(現新潟県新発田市)の商人の三男として生まれました。 17歳で江戸に上り、初め鰹節問屋に奉公しましたが、やがて独立し、上野(現アメヤ横町付近)で小さな干物店を開きました。慶応3年(1867)には神 田・和泉橋に大倉鉄砲店を開業し、戊辰戦争における軍需品の供給で富を築きました。その際、官軍に鉄砲を商ったことから彰義隊に連行されたものの、商売の 理を説いて九死に一生を得た逸話などを遺しています。 明治維新後は、欧米視察旅行を経て貿易業にも従事し、大倉組商会を設立しました建築業部門(後の大成建設)では、鹿鳴館をはじめ、帝国ホテル、東京電灯 (現東京電力)、歌舞伎座、碓氷トンネルなどの建設を請け負いました。時流に乗り、商機をとらえた商売と日清・日露の両戦争の軍需もあって莫大な利益を得 て、これを元手として、建設・化学・製鉄・繊維・食品の各分野に跨る一大財閥を創り上げ、大倉鉱業、大倉東海紙料(現特種東海製紙)、日本無線、日本製靴 (現リーガルコーポレーション)、日本皮革(現ニッピ)、日清製油(現日清オイリオグループ)、札幌麦酒(現サッポロビール)、大倉海上火災保険(現あい おいニッセイ同和損保)など数多くの事業を興し、日本化学工業、帝国製麻(現帝国繊維)、帝国劇場、帝国ホテルなどの設立も協力しました。晩年は大陸への 事業進出も熱心に行い、日中共同事業の一環として本渓湖煤鉄公司を設立しました。 一方、事業で得た富を教育・文化事業に還元し、大倉商業学校(現東京経済大学)、大阪大倉商業学校(現・関西大倉学園)、韓国善隣商業学校(現善隣インター ネット高等学校)の3校を開校し、多くの教育機関の創立に協力ました。 大正6年(1917)には長年蒐集した美術品と土地・建物を寄付して日本初の私立美術館・財団法人大倉集古館を開館しました。他に、帝国劇場会長として中 国から京劇の梅蘭芳を招聘し、大正8年(1919)と13年(1924)の2度にわたり来日公演を後援しています。 大正4年(1915)に男爵に叙されます。また、満89歳にして南アルプス・赤石岳に大名登山したエピソードはよく知られています。昭和3年(1929) 4月22日に死去しました。
大 倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日(1837年10月23日) - 昭和3年(1928年)4月22日)は、日本の武器商人、実業家。 明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した。中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、 帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。従三位男爵。号は鶴彦。
天保8年(1837年)9月24日、越後国蒲原郡新発田町(現新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として生まれる[1]。幼名は鶴吉。23歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。

大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てる。祖父・ 卯一郎(2代目定七)の時に、薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始める。この頃より藩侯への拝謁を許されるようになる。父・千之助(4 代目定七)は、天保の大飢饉で米倉を開き窮民に施すなどの経緯から、藩主から検断役を命じられるほどの家柄であったという。自叙伝『大倉鶴彦翁』などで は、"大倉家は累代の大名主で、苗字帯刀を許され、また下座御免[2]の格式ある家柄であった"との旨が記されている[3]。史実として、大倉家が新発田 藩の大名主で苗字を名乗れた高い身分であったことは事実とされる[3]。喜八郎は家業を手伝う傍ら、8歳で四書五経を学び、12歳の時から丹羽伯弘の私塾 積善堂で漢籍・習字などを学ぶ。この時に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたといわれる。

嘉永4年(1851年)、丹羽塾同学の白勢三之助の父の行動により、酒屋の営業差止めに追い込まれた事に大変憤慨し、江戸に出ることを決意。同年中に江戸日本橋長谷川町(現日本橋堀留町)の狂歌の師・檜園梅明(ひのきえん・うめあき)を訪ね、檜垣(ひがき)の社中に入る。

鰹節商・乾物商時代
江戸到着後、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝いを経たのち、中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公した。丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになる。安政4年(1857年)には奉公中に貯めた100両を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業。

横浜で黒船を見たことを契機に乾物店を慶応2年(1866年)に廃業し、同年10月に小泉屋鉄砲店に見習いに入る。約4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習い、慶応3年(1867年)に独立し、鉄砲店大倉屋を開業[4]。

鉄砲商時代
神田和泉橋通りに開業した大倉屋は「和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋」と名乗り、小泉屋鉄砲店が出入りする屋敷先とは一切の商売をしないと証文を出した[5]。

店頭には現物を置く資金がなかったため、注文を受けては横浜居留地に出向き百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入した。不良銃を高値で売りつける鉄砲商が 多かったため、良品を得意先へ早いかつ安い納品を心がけていた大倉屋は厚い信用を博した。そののち官軍御用達となり、明治元年(1868年)には新政府軍 の兵器糧食の用達を命じられるまでになった。明治4年(1871年)7月以降は、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受ける。

御用達商人としての活躍
大倉は明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたる。これ以後、明治7年(1874年)の台湾出兵の征討都督府陸軍 用達、明治10年(1877年)の西南戦争で征討軍御用達、明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍御用達として活躍。日露戦争の際は軍用達となり、 朝鮮龍巌浦に大倉組製材所を設立した。

◎実業家として
明治4年(1871年)3月に新橋駅建設工事の一部を請け負う。同じ頃、高島嘉右衛門らとともに横浜水道会社を設立し、建設工事に着工[6]。同年頃、貿 易商社を横浜弁天通に開設し、海外貿易にも携わるようになる。欧米の文物の輸入から服装の一変を予見し、洋服裁縫店を日本橋本町に開設した[7]。

明治5年(1872年)3月には銀座復興建設工事の一部を請け負い、同8年(1875年)に東京会議所の肝煎となる。この時、東京府知事・楠本正隆の要請 で渋沢栄一も肝煎となり、以後50年に及ぶ親交を持つ。明治9年(1876年)には大久保利通とロンドンで会見した折に要請・協議した、被服の製造所であ る内務省所管羅紗製造所(千住製絨所と改称)を設立(払い下げは遅れた)。

明治10年(1877年)の東京商法会議所(現、東京商工会議所)、横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)を皮切りに、様々な方面で新規事業の設立に関与し た。1878年(明治11年)には東京府会議員に選出された[8]。明治14年(1881年)に鹿鳴館建設工事に着工、藤田伝三郎らとともに発起人となっ た大阪紡績会社も設立した。明治15年(1882年)3月には日本初の電力会社・東京電燈を矢島作郎、蜂須賀茂韶とともに設立し、宣伝の一環として銀座大 倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火し、驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけた。明治20年(1887年)には藤田らと共同して日本土木会社、内外用 達会社を設立し、大倉組商会の事業を継承した。同年に帝国ホテルも設立した。この他に東京瓦斯、京都織物会社、日本製茶、東京水道会社などの株主や委員な どにも名を連ねるなど、日本の近代化に尽力した。

明治26年(1893年)に大倉土木組(現・大成建設)を設立し、日本土木会社の事業を継承、大倉組商会と内外用達会社を合併するなど、この頃から大倉財閥の片鱗を窺わせ始める。

日本初の私鉄である東京馬車鉄道をはじめ、九州鉄道、山形鉄道、北陸鉄道、成田鉄道、日本国外では台湾鉄道、京釜鉄道、金城鉄道、京仁鉄道など日本国内外 で数多くの鉄道企業への参加、出資などを行なった。大倉は教育機関の創設にも熱を入れ、明治32年(1899年)、韓国に善隣商業学校(韓国・現善隣イン ターネット高等学校)、明治40年(1907年)9月に大阪大倉商業学校(現・関西大倉中学校・高等学校)を創設した。特に明治33年(1900年)、還 暦銀婚祝賀式の記念事業として私財50万円を投じて大倉商業学校(現・東京経済大学)を創設したことは米国の雑誌『THE NATION』で美挙と報じられた[9]。

明治39年(1906年)に麦酒三社合同による大日本麦酒株式会社設立に関係し、翌40年(1907年)には日清豆粕製造(現・日清オイリオグループ)、日本皮革(現・ニッピ)、日本化学工業、帝国製麻(現・帝国繊維)、東海紙料(現・東海パルプ)を設立。

明治42年(1909年)日本ホテル協会会長[10]。

明治44年(1911年)に商事・工業・土木部門を営む株式会社大倉組を設立するも17年に大倉工業株式会社、大倉土木組と分離し、大正7年(1918 年)には大倉商事株式会社と改称し、大倉組のコンツェルン化を行った。昭和2年(1927年)に日清火災海上保険を買収し、大倉火災海上保険(現・あいお いニッセイ同和損害保険)とするなど晩年まで精力的に活動した。同年1月5日に隠居し[11][12]、嗣子・喜七郎が家督を継承した[11]。。
https://bit.ly/3EncbAb)。

大倉喜七郎(1882~1963)
大倉喜七郎は、明治15年(1882) 6月16日に喜八郎の嫡子として生まれました。 明治33年(1900)にイギリス・ケンブリッジ大学に留学。父・喜八郎の死後は大倉財閥の2代目となり、事業を引き継いだほか、ヨーロッパ式の本格的な 観光ホテルの導入を目指し、川奈ホテル、赤倉観光ホテルを設立しました。 第二次大戦後は財閥解体の苦難に直面し、父親に代わり会長・社長を務めていた帝国ホテルを公職追放により離れますが、東京オリンピックを2年後に控えた昭 和37年(1962)に欧米の合理性と日本古来の伝統美を兼ね備えた国際ホテルを基本構想としたホテルオークラを設立し、日本のホテル業におおきな足跡を 残しました。 また、文化・スポーツ面にも広く功績がありました。イギリス留学中には自動車の操縦・修理技術にまで精通し、1907年にはロンドン近郊のブルックラン ズ・サーキットで最初に行われたカーレースで、イタリア製フィアットに乗り2位入賞を果たします。自動車5台とともに帰国し、日本初の自動車輸入会社・日 本自動車を設立するなど、自動車通として知られました。 昭和5(1930)年には横山大観を始めとする日本画家たちを全面支援し、イタリア・ローマで「日本美術展覧会」を開催、同時代の日本画を海外に紹介しま した。この時の出品作品はすべて喜七郎により買い上げられ、大戦後手元に残されていた主な作品は、理事長を務めていた大倉集古館に寄贈されています。そし て、こうした縁から日伊協会の会長を長年にわたり務めました。 大正13年(1924)の日本棋院の設立、昭和6年(1931)の札幌大倉山ジャンプ競技場の建設に際しても、私財を投じて経済的な支援を行っています。 また、屈指の趣味人としても知られ、囲碁、舞踊、ゴルフなどに多彩な才能を発揮し、特に音楽ではオペラ歌手・藤原義江を支援したほか、新邦楽の一種である 大和楽を創設し、尺八とフルートを合わせた新しい楽器「オークラウロ」を開発しましました。 喜七郎は「バロン・オークラ」と呼ばれて親しまれました。昭和38年(1963)2月2日に死去しました。

美術品収集と学術
(大 倉喜八郎の死後)昭和3年(1928年)4月22日大腸癌のため死去[13]、没年92歳。戒名は大倉喜七郎が選定し、大成院殿礼本超邁鶴翁大居士とな る。4月28日に赤坂本邸で葬儀が行われ1,000個に及ぶ花環・弔旗が贈られた。墓所は護国寺。政界からは首相・田中義一を始め若槻禮次郎、浜口雄幸、 床次竹二郎、清浦奎吾、関屋貞三郎など、実業界からは三井高棟(三井財閥)、岩崎小弥太(三菱財閥)、安田善三郎(安田財閥)、馬越恭平、浅野総一郎(浅 野財閥)ら、国外からは張作霖、陳宝琛、段祺瑞、蔣介石などであった。午前9時から行われた告別式では午後3時までに1万1,989名が参列した。朝日新 聞や読売新聞内で渋沢栄一、益田孝、武者小路実篤らが大倉について言及した。

日本企業初の海外進出と3度に渡る欧米渡航
明治5年(1872年)7月4日に民間人としては初の欧米経済事情の視察に出発。サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、パリ、ロンドン、 ローマ、ウィーンなどを訪れた。欧州滞在中に岩倉使節団と交流し、翌年8月頃帰国した。帰国後の10月に大倉組商会を設立し、自らは頭取となる。その後す ぐにロンドンに日本企業初の海外支店・大倉組商会倫敦支店を設置する。日朝修好条規締結後、いち早く朝鮮貿易も始め釜山浦支店も設置。この洋行の通訳とし て雇った手島鍈次郎はのちに大倉組副頭取になった[14][15]。このときの同船者には松平忠礼、橋本綱常、横井佐平太(横井太平兄)らがいた [16]。
明治17年(1884年)5月29日から翌18年(1885年)1月7日までの二回目の欧米旅行では、欧米の他、インドにも訪れ、茶箱輸出の展望を得た。
三度目は明治33年(1900年)5月4日から9月24日の欧米商業視察では妻の徳子、嗣子の喜七郎も同行した。パリ万国博覧会への参加や革命記念祭、ロスチャイルド家からの招待を受けるなどした。
その後上海、天津、ニューヨーク、台北、メルボルン、シドニーなどにも大倉組商会の支店・出張所を設置した。

大倉は狂歌振興の同好会・面白会の結成への参加、「大倉鶴彦」名義で狂歌集を刊行するなど、狂歌の創作に熱心だった。少年の頃より戯れ歌に興味を持った大 倉は、父に連れられ14歳の時に大極園柱の門に入り狂歌を学ぶ。和歌廼門鶴彦(わかのと・つるひこ)を称し、江戸に狂歌を投稿し『狂歌甲乙録』に数葉掲載 された。その後もことある事に狂歌を詠み、没する14日前の感涙会までその活動は続いた。その数は数万首にも及ぶとされるが、関東大震災で大部分は焼失し てしまった。小池藤五郎は「日本文学史上、これほど長期に渡り、作者として立った人物は、他に見当たらない」と、幸田露伴は「まことに心からすきたる水晶 の璧にいつわりなく、あとからつけたる付焼刃の地金あやしき風流にはあらず」と評価した。
美術品収集家としても知られる大倉は明治11年(1878年)ごろから趣味として美術品収集を始め、大正6年(1917年)には邸宅内に日本初の私立美術館大倉集古館開設した。
狂歌以外にも一中節を趣味とした大倉は「都一鶴」という芸名をもち、「感涙会」では歌われないことはなかったとされる。また蒐集した本阿弥光悦を気に入 り、60歳にして本阿弥光悦流の書の手習いを始め、朝4時に起床し7,80枚書くなど練習を重ね、晩年は全国書道大会の委員長を務めた。
大正15年(1926年)8月に秩父宮雍仁親王が立山を踏破したことに感激し、88歳でカゴと背負子に担がれた「大名登山」で南アルプス赤石岳に登頂する[17]など公私共に豪快な日々を送った。

「大倉邸の美術館」 明治を代表する実業家の一人、大倉喜八郎(1837 - 1928 号は鶴彦、家紋は五階菱)は、産業の振興、貿易の発展に尽力した一方で育英、慈善事業、文化財の保護などにも功績を残した。喜八郎は、50余年に渡って多 数の貴重な文化財を蒐集し、当初それらを私邸で知人たちに公開していた。当時の様子は、『風俗画報』(1903年7月10日号)に掲載された、「大倉邸美 術館内の圖」(山本松谷画)などによって知ることができる。大正6年(1917) には、私邸の敷地の一角に日本で最初の私立美術館、財団法人大倉集古館を開館させた。鶴と菱形紋が描かれている。
— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「大倉邸の美術館」より抜粋[18]
https://bit.ly/3EncbAb)。

考 古学上の報告書が、遺跡遺物のアンダーグラウンドの商取引の参考資料として利用されることが あ る。例えば東京帝国大学の関野貞は1902年大韓帝国の要請をうけて古建築および古蹟の実地調査に従事し『韓国建築調査報告』(1904)を上梓した。こ の報告書の公刊は、当時朝鮮半島で盗掘したりその売買を斡旋していた商人たちによって、盗掘品の評価や鑑定のための資料として使われるきっかけとなったと 言われている(李 1993:51-54)。当時の同じような資料としては朝鮮総督府編のちに朝鮮古蹟研究会編になる『朝鮮古蹟調査報告』(1916-)がある(→「物神化する文化」)。

評価
大倉の評価は驚くほどに二分される。「世にもまれな商傑」「日本の近世における大偉人」「すべてを超越した人」「木に例えれば三千四千年を経た大樹」などと絶賛される。

一方で、大久保利通や井上馨らとの親交から「政商」、「死の商人」、「グロテスクな鯰」と酷評された。 毎日新聞で連載された木下尚江の反戦小説『火の柱』で大倉をモデルとした悪徳商人が「戦地に送られた牛肉の缶詰に石が詰まっていた事件」の犯人として描か れたことにより、それが事実として大倉の仕業と人々に信じられてしまった。実際は名古屋丸搭載の軍用缶詰に石ころが混入していた事件は、大連湾での積み下 ろしの際に発覚したもので東京の山陽堂の荷物であったという(https://bit.ly/3EncbAb)。

出典 https://www.shukokan.org/outline/
大谷探検隊
大谷探検隊(おおたにたんけんたい)は、20 世紀初頭に日本の浄土真宗本願寺派第22代法主・大谷光瑞が、中央アジアに 派遣した学術探検隊。シルクロード研究上の貴重な業績を挙げた。1902年から1914年(明治35年 - 大正3年)の間に、前後3次にわたって行われたが、戦時中という状況も重なり活動の詳細は不明なところも多い。

第一次探検
第1次(1902年 - 1904年)は、ロンドン留学中の光瑞自身が赴き、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄の4名が同行した。光瑞はカシュガル滞在後インドに向かい、 1903年(明治36年)1月14日に、長らく謎の地の山であった霊鷲山を発見し、また、マガダ国の首都王舎城を特定した。渡辺・堀は分かれてタクラマカ ン砂漠に入り、ホータン・クチャなどを調査した。別に雲南省ルートの探検が野村禮譲、茂野純一によって行なわれ、この途上で建築家伊東忠太と遭遇。これが 光瑞師と伊東博士の交流のきっかけとなり、のち築地本願寺の設計依頼へとつながる。

第二次探検
第2次(1908年 - 1909年)は、橘瑞超、野村栄三郎の2名が派遣され、外モンゴルからタリム盆地に入りトルファンを調査した後コルラで二手に分かれた。野村はカシュガル 方面、橘はロプノール湖跡のある楼蘭方面を調査した。有名な李柏文書はこの時に発見されたと見られる。

第三次探検
第3次(1910年 - 1914年)は、橘瑞超、吉川小一郎の2名が、トルファン・楼蘭などの既調査地の再調査をはじめ、ジュンガリアでも調査を行うほか、敦煌で若干の文書を収 集した。この際収集したミイラなどは当時日本が租借中の中国・大連の旅順博物館に所蔵されて、現在でもそこで公開されている。

報告書類
3度の探検により貴重な古文化財がもた らされたが、その報告書として『西域考古図譜』2帙(1915年)、『新西域記』2巻(1937年)が刊行され、研究報告として『西域文化研究』全6巻 (1958年)がある。現在では、招来された文書の資料集である『大谷文書集成』1(1984年)も公刊されている。

大 谷 光瑞, 1876-1948
大谷 光瑞(おおたに こうずい、1876年(明治9年)12月27日 - 1948年(昭和23年)10月5日, 享年72歳)は、日本の宗教家(僧)、探検家。浄土真宗本願寺派第22世法主、伯爵、国営競馬馬主。 諱は光瑞。法名は鏡如上人。院号は信英院。 弟に真宗木辺派の本山錦織寺第20代法主となる木辺孝慈、大谷光明(浄如)、大谷尊由、妹に九条武子がいる。妻は大正天皇の皇后・九条節子の姉・籌子(か ずこ)。
出典 https://bit.ly/3Kjgv4T

1876-
第21世法主・大谷光尊(明如上人)の長男として誕生する。幼名は峻麿 といった。 1885年(明治18年)、9歳で得度。翌1886年(明治19年)、上京して学習院に入学するが退学。その後、尺振八の開いた共立学舎(当時受験校で知 られていた共立学校とは別)という英学校に入学するもやはり退学。京都に帰り前田慧雲(のち東洋大学学長・龍谷大学学長)に学んだ。 1900年12月3日日本を出発、1902年(明治35年)8月15日ロンドンを出発、教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査 に当たった。1903年(明治36年)1月14日朝、ビハール州ラージギル郊外で長らく位置が判らなかった旭日に照らされた釈迦ゆかりの霊鷲山を発見して いる。同年に父・光尊が死去し、法主を継職するため3月12日帰国したが、探検・調査活動は1904年(明治37年)まで続けられた。これがいわゆる大谷 探検隊(第1次)である。法主継職後も探検を続行させ、1914年(大正3年)まで計3回にわたる発掘調査等が実施された[1]。 法主としては教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣。海外伝道も積極的に進めた。

1908-
1908年(明治38年)、六甲山麓の岡本(現在の神戸市東灘区)に盟 友伊東忠太の設計になる二楽荘を建て、探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための私塾である武庫中学(跡地は現在の甲南大学理学部キャンパス)、 園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。教育・文化活動の拠点とした。 1913年(大正2年)に孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任した。 1914年(大正3年)、大谷家が抱えていた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため法主を辞任し、大連に隠退した。二楽荘と探検収集品もこの時に手 放している。現在、これらのコレクションは散逸し[2]、二楽荘も1932年(昭和7年)に火災で焼失した。 隠退後も文化活動を続け、1919年(大正8年)には光寿会を設立して仏典原典(梵字で記述)の翻訳にあたり、1921年(大正10年)には上海に次代を 担う人材育成のために策進書院を開校した。

1935-
1935 年(昭和10年)2月に、ジャワ島で熱帯農業経営の経験があり、台湾農業発展を協力し、台湾総督府の要請に応え、2週間かかり台湾を視察に行った。内地に 戻り、台湾訪問に基づき、『台湾島の現在』を著述した。当年10月、熱帯産業調査会は台北で総督府に開催され、また台湾に出席に行った。 1939年(昭和14年)、台湾高雄が将来性があると考えそうで、当時まだ郊外であった大港埔で、台湾製糖株式会社から土地を購入、大谷農園を開発し始め た。また茶園や果樹園も投資し、レモン、バナナ、パイナップルも缶詰の加工工場へ運送した。 高雄逍遥園(修復後) 1940年(昭和15年)、台湾高雄大港埔で別荘として建設された逍遥園が落成された。 太平洋戦争中は近衞内閣で内閣参議、小磯内閣の顧問を務めた。しかし1945年(昭和20年)に膀胱癌に倒れ、入院中にソ連軍に抑留された。1947年 (昭和22年)に帰国し、病気療養のため別府に滞在していた。翌年別府にて没した。この間に公職追放となった[3]。 生前は神戸二楽荘の他、中国の旅順(大谷邸)、大連(浴日荘)、上海(無憂園)、台湾の高雄(逍遥園)、インドネシア(環翠山荘、耕雲山荘)、別府鉄輪別 荘などに別荘を設けた。現在の須磨離宮公園はその1つで、1907年(明治40年)に宮内省に買い取られたものでありその代替地として岡本の二楽荘が成っ た。 晩年の地・別府では、当時国際観光都市建設を目指し、政府に特別都市建設法の立法(1950年(昭和25年)に「別府国際観光温泉文化都市建設法」として 制定)を働きかけていた市長・脇鉄一に賛同。助言を与え、自ら私案も立てている(→「観光人類学」)。

出典  https://bit.ly/3Kjgv4T https://bit.ly/32XOj7s
泉屋博古館は住友コレクションをはじめとした 美術品を保存、研究、公開する美術館です。コレクションは中国古代青銅器をはじめ、中国・日本書画、西洋絵画、近代陶磁器、茶道具、文房具、さらには能 面・能装束など幅広い領域にわたります。現在は3,500件(国宝2件、重文19件、重要美術品60件を含む)を超える作品を所蔵し、京都と東京の2都市 でそれぞれに地域の特性も活かしながら展覧会を開催し、住友コレクションの魅力を発信する施設として運営しています。

住友春翠について - 湧き出づる、美の夢
コレクションの多くは、住友家第15代当主・住友吉左衞門友純すみともきちざえもんともいと(号 : 春翠しゅんすい、1864~1926)によって明治時代中頃から大正時代にかけて集められたものです。現在の住友グループの礎を築いた春翠は、家業の銅山 経営をはじめ、様々な事業の拡大と近代化を推し進める一方で、芸術文化にも高い関心を示し、1900(明治33)年に大阪府へ図書館の建設費用と図書購入 費を寄付するなど、文化的な社会事業にも大きな足跡を残しました。一方で春翠は茶の湯や能楽といった日本の古典芸能を嗜み、邸宅の床の間には四季の移ろい を寿ぐ日本画を飾るなど、財界きっての数寄者(すきしゃ)として風雅に遊びました。また中国文人への憧れから、文房具に囲まれた書斎で煎茶や篆刻(てんこ く)を愉しみました。さらに実兄である西園寺公望(さいおんじきんもち)の影響を受け、積極的に同時代の洋画家たちを支援した春翠は、自身も風光明媚な須 磨の海岸に洋館を建て、当時としては先進的な洋式の暮らしを楽しみました。このように多岐にわたる文化へ関心を寄せた春翠は、古今東西の優れた美術品を収 集しました。春翠が買い求めたこれらの作品は、今日の住友コレクションの母胎となっており、いずれも春翠の典雅で清淡な美意識が流れています。

●青銅器について - コレクションの源泉
住友コレクションの中心は、国内外で高く評価されている青銅器のコレクションです。当館は1960(昭和35)年に住友家より500点を超える青銅器や鏡 鑑(きょうかん)の寄贈を受けて設立しました。これら古銅器類の収集は煎茶趣味をきっかけとしましたが、家業の産銅にちなむこともあって、春翠が最も力を 入れて取り組んだ結果、質と量ともに世界有数の青銅器コレクションとして知られるようになりました。住友の青銅器は、造形的に優れた作品だけではなく、歴 史史料として貴重な作品も多く、体系的かつ学術的にも非常に高い価値をもちます。春翠はこれらのコレクションを秘蔵するのではなく、展覧会をはじめさまざ まな機会に広く公開して青銅器に対する認知度を高めました。さらには『泉屋清賞(せんおくせいしょう)』や『増訂泉屋清賞』といった豪華図録の刊行を通じ て、研究の分野にも大きく寄与しています。

●住友コレクションの多様性 - 博く流れる、美の水脈
春翠以外のコレクションでは、春翠以前から住友家に伝来した調度品があります。その多くは残念ながら散逸していますが、現存する作品は各時代の優品である と同時に、断片的ながらも住友家400年の営みを伝えるものとして、コレクションのなかで確かな位置を占めています。また春翠の長男である寛一(かんい ち)(1896~1956)が大正期に収集したコレクションは、八大山人(はちだいさんじん)や石濤(せきとう)など明末清初を彩る中国絵画の名品や、日 本近代洋画を代表する岸田劉生(きしだりゅうせい)の作品を含むなど、コレクションに新たな地平を開きました。そしてアララギ派の歌人としても知られる 16代当主・友成(ともなり)(1909~93)は、パブロ・ピカソやピエール=オーギュスト・ルノワールなど20世紀を代表する洋画家の作品、そして同 時代の日本人画家の作品を収集し、コレクションに一層の彩りを添えています。ひとつひとつの作品は個々人の審美眼によって選ばれたもので、時代もジャンル も異なりますが、コレクション全体を見渡せば、住友の美意識が水脈になって滔々と流れているように、それぞれが響き合い、清らかで気品に満ちていることに 気がつきます。

●美術館について - 「美の泉」のほとりで
京都の泉屋博古館は春翠が別荘として求めた鹿ヶ谷の地に設立され、東山の穏やかな山容を望む風光明媚な環境の中でコレクションを公開しています。また東京館はビル立ち並ぶ六本木の地にありながらも、静寂で緑が豊かな環境の中に佇んでいます。

https://sen-oku.or.jp/tokyo/collection_t/history_ct/

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