かならずよんで ね!

同志スターリンの粛正について

Enforcement upon Comrade Nikolai Ivanovich Bukharin by Comrade Joseph Stalin

よみひと知らず(垂水源之介)

以下の文章は、私のパソコンのアーカイブに入ってい たものだが、誰の作品かは不明だ。アドナイ・エレから、創世記 22:111あたりからのパロディかと思われる。たぶん、僕が退屈な会議に 出席して、創世記にでも暇にまかせて読み、おお、これ(アブラハム)をスターリン、もうひとりの粛正予定者(ブハーリン)と読み替えるといいんじゃないか と、暇つぶしした可能性がある。つまり、歴史の転換点において、スターリンは血に塗られた独裁者に転落しないポイントがあるのではないか?という妄想であ る。それゆえに、こそ、この ミメティック・パロディの意味は多少なりともあろうと思う。

「これらの事の後、神はスターリンを試みて彼に言わ れた、「スターリンよ」。彼は言った、「ここにおります」。神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子ブハーリンを連れてモリヤの地に行き、わ たしが示す山で彼を粛正としてささげなさい」。スターリンは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子ブハーリンとを連れ、また粛正のた きぎを割り、立って神が示された所に出かけた。三日目に、スターリンは目をあげて、はるかにその場所を見た。そこでスターリンは若者たちに言った、「あな たがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。スターリンは粛正のたきぎを 取って、その子ブハーリンに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。やがてブハーリンは父スターリンに言った、「父よ」。彼は答えた、「子 よ、わたしはここにいます」。ブハーリンは言った、「火とたきぎとはありますが、粛正の小羊はどこにありますか」。スターリンは言った、「子よ、神みずか ら粛正の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。彼らが神の示された場所にきたとき、スターリンはそこに祭壇を築き、たきぎを並 べ、その子ブハーリンを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてスターリンが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼ん で言った、「スターリンよ、スターリンよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「同志を手にかけてはならない。また何も彼にしてはな らない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時スターリンが 目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。スターリンは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに粛正としてささげた。そ れでスターリンはその所の名をアドナイ・エレ(=「マルクスはいらっしゃる」)と呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。主の 使は再び天からスターリンを呼んで、言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しま なかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、 また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。スターリンは同志たちの所に帰り、みな 立って、共にモスクワへ行った。そしてスターリンはモスクワに住んだ」

Comrade Nikolai Ivanovich Bukharin

Comrade Joseph Stalin

「(アウエルバッハ『ミメーシス』上:84からの引 用)「たとえばイサクの生贄のような事件が キリストの受難を予兆するものとして解釈さ れ、したがって、前者において後者が告知され約束され、後者が前 者を充足するならば、時間的にも因果関係のうえからもつながりのない二つの出来事のあいだにひとつの関係が確立されることになる。この関係 は水平的次元では理性によって確立することができない」 (pp.42-43:アンダーソンの頁:1997年邦訳版、p.48)——「メシア的時間について

アウエルバッハの言によると、神(キリスト)は自分の教えを智恵ある人にではなく、身分の低い市 井の人に説いたからだ。新約聖書の破壊力とは、そのような分かりやすい言葉で書かれているファンタジーめいた叙述の中に、おそるべき「至高の真理」が隠さ れているこ とを、【後に】異教の教養人たちが発見したことに由来するというわけだ。我々の大学教育には、その系譜的(genealogical)を受け継 いでいる。つまり、知識による【信念の改宗】を可能にすることが、大学の本来の機能だからだ。だから真のFDとは、学生に分かりやすく説明することが自己 目的となすのではない。そうではなく、知識を身に付けた学生が、自分が学んだことを教授の耳もとで【信仰告白】する際に、それが他ならぬ自分が教えていた ことであり、その真理の崇高さに驚愕するための準備に備えることなのだ。そこでは、知恵者は愚者に、愚者は知恵者であったことが明らかになる。

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